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世紀末の詩 感想集


当サイト掲示板に投稿されたものから抜粋しました

2001/04 追加分

こんなドラマは初めてでした。色々考えました。考えるあまり、涙さえ出ました。
このドラマが放送されていた時、僕は中学生でした。
欠落しかけていた僕の感情を取り戻してくれたのが、このドラマでした。
新しい高校生活に慣れて、頭の中が溶ける程に堕落した毎日の中で、レンタルショップでサントラを見つけました。
そして、サントラが僕の中にまた感情を呼び戻してくれました。
ドラマに救われる、そんなことを望んで見たドラマでした。
このドラマを見てると、つい今までの恋愛を思い出してしまいますよね。
そしてしみじみと納得したり、逆に混乱したり。
でもやっぱり「愛」は難しい。
私はついELTの歌を思い出して、キスをしたり抱き合ったり多分それでいいんだー!と、考えることから逃げたくなってしまいます。
それほど深くて本質的なことが描かれている魅力的なドラマだと思います。
「世紀末の詩」毎週、感動しながら見てます。
ただ視聴率を取るためだけに作ってはすぐ次といった、消費されるだけの最近のドラマと違い、ものすごく突き詰めてつくっていると思う。
これを見てて太宰治の「走れメロス」に似てるなあ思った。
現実にうちにめされて友情なんてないと言い切る暴君と、いや友情はあると信じる若々しいメロス。 これは共に太宰の中にある自分自身だったと思う。
現実に生きる自分と理想の自分。
この自己の葛藤と融合を太宰はあの作品に残した。
「世紀末の詩」も野島さんの中の自己の葛藤と融合の話なんだと思う。
亘と百瀬は両方とも野島伸司なんだと思った。
ずっと野島作品は好きだったけど「世紀末の詩」はずば抜けていて、ドラマの域を超えていると思います。
今更ですが「世紀末の詩」、レンタルビデオで一気に観ました。面白かったです。
山崎努さんってすごいなあ。
しかし、主題は”愛”となると、”人類”という連綿とした流れの根源は”愛”ということなんでしょうか。
亘が里美さんを迎えにいかなかったの、分かるような気がします。
トイレで百瀬の遺骸を抱き締めながら泣叫んだ時、亘サン、自分の中でも何かが終わったことを悟ったのではないのでしょうか。
実際百瀬は死に、百瀬の娘たちとも別れ、自分の死(ミア)とすらも別れた。
バラックで繰り広げられた世界は一気に死んでしまった。
でも亘は”愛のかたち”を知っていて百瀬の遺志を知っている。
百瀬は潜水艦を作ることで”海を拓き”、野亜はその潜水艦で”海へ出た”。
この物語の”世紀末”とはさしずめ”始まりの終わり”といったところでしょうか。
世紀末の詩の第4話「星の王子様」は野島作品の中で一番好きな作品です。
ストーリー重視というよりも、谷啓さん、真柄加奈子さんの演技にこころ打たれた作品といったほうが早いかもしれません。
本放送中、涙だ止まらず終了後もしばし呆然としていたのを思い出します。
演出的に昔の建築物設定(学校やアパート)は少し無理があったかも知れませんが、それよりも親子の「愛」を時の流れにたとえ、引きはがされる時に痛みを伴うなんてこと、一度も考えて事がなく(そう言う状況におかれた事もなく、ヌクヌクと育った自分なので)ものすごく考えさせられ、個人的に将来のことまで飛躍して考えてしまいました。
真柄加奈子さん(羽夢君)の涙の演技には自分の失いかけて無垢な心を呼び覚まされそうです。


再考察用 3話感想
ヒロインの愛美。この存在が僕は一番興味深い。

日の光と相容れないという、生きることに大きく制限がある状態で、愛をそばに感じ生きたかった愛美。
それは悲しくも愛し愛されたかった願望のみの所業だっただろう。
しかし、それはあくまで願望だ。中身を知らない。

そして、愛美は自殺願望者ではない。
彼女は日の下に出れず、そのため暗闇から1つの真実を知っていた。
それは「存在の虚しさ、空虚さ」だろう。
そして自分の存在にさえ執着していなかった。
なんの希望も持てない存在であったから、絶望、失望さえもなかった。
そんな者が自殺という衝動があるだろうか?

彼女はドラマの最後、魂の牢獄のような状態から脱皮するように
自ら「儀式」をとりおこない旅立っていった。

穴蔵のような場所で一生を終えることを、日の下に生きる者からみれば
不憫だろうが、本人にとっては当然のことだ。
教授が最後に憤慨してカーテンを破り捨てたのは、
その、なにも望みを持てない状態で、なにも感じていなかった彼女に
誰も何もあたえることなど出来ない、消え行くことしかできない
存在のはかなさに憤ったのではないか。

ただ、彼女は愛に依って「生まれ変わりたかった」のだと思う。

彼女はそれを叶える為に「再生の儀式」を選んだ。
ひまわりのビデオは来世、または再生後の自分を思い描くために見ていたのだろう。

しかし、ここで問題は愛美の存在の特異さである。
それを考えずに、心情を理解するのは難しい。
生の執着が強ければ強い者ほど、死への恐怖は強い。
執着が強い者から、執着しない者の心は決して見えないだろう。
誰もが「生きていたい」と当然のように感じるだろうと思うのは間違いではないか?
そして誰かが引きとめようと、自己の存在が希薄にしか感じれない者に
「強く生きろ」と言うことはちゃんちゃらおかしく、滑稽である
そんなことは言葉を発した者が、自分に向けて言ってるだけのことだろう。

野亜は母性から生じる愛を求めていた。
愛美の「相手を見ていない愛」は野亜を息苦しくさせていくだけで、
彼は愛美をうとましくとしか感じなかった。

そして、愛美は愛し方を知らなかった。
だからこそ、盲目の愛で野亜を愛した。
いや、野亜じゃなくても、だれでもよかったのだろう。
自分が誰かを愛してると感じれる状態があれば。
当然、愛美は野亜のことなど見ていない。
興味もないだろう。
「誰かを愛する自分」が彼女に必要だっただけだ。

しかし、男として盲目に愛されることは心地良い。
だが、それが女にとって男など誰でもよかったと知るまでのことだが。

ただ愛を体感したかった。そして、自分の存在を今の状態から変わることを強く望んでいた。
そこには生死の執着はなく、1歩を踏み出す「ねがいごと」が必要だった。

そして、命を滅ぼし、相手の記憶に留まることで相手の愛を獲得し、愛を実現できると思った。

完全に幻とは知らずに。

また、悲しく、みじめだと思っている自分の運命を呪い、それに終止符を打つべく、愛を利用したのかもしれない。
ある意味で脱出、再生、羽化のためへのモチベーション。とも思う。

そして、生きることに執着しない、いや執着出来なかった愛美を僕は好きだ。
「もしも君が、それを、愛と呼ぶなら」…
野亜はそう言う。

彼が泣きながら走ったのは、彼女を止めるためだったのか。
それは、最後まで、彼の中でも整理が着かないことだったと思う。
まるで神々しく輝く絹の繭のような白い布を脱ぎ棄て、走り出す彼女を見るまでは。

「死んで欲しくない」と望むことを咎められはしない。
だが、「生きる」ということは、ただ「死なないこと」=生命を永らえること、ではない。
「父」である彼には、最後まで、それが判らなかったのかもしれない。

朝も昼も夜もない世界では、過去は一瞬に過ぎず、未来は永劫に続くだろう。
人と触れあうことのない世界では、思考も論理も、自分だけのものにすぎず、
やがてはそれがすべてになっていく。

彼はそうして、彼女を守っているつもりの砦の中で、
彼女に、自分の現状への恨みと、外界への憧れだけを植えつけてしまった。
今の自分を肯定し、そのままで生きる事への模索を、させなかった…。
そこには、「生への渇望」がなかったと同時に、「死への願望」もなかっただろう。
手首の躊躇い傷は、おそらくは、
自分をこの世に送り出した両親への抗議行動だったにしろ…

生がないところには、死もまた、存在しない。
だから、彼女のあの行動は、自殺ではないのではないだろうか。

「愛したかった」と彼女は言う。
だが、愛とは、誰かに認めてもらわなければ、受け止めてもらわなければ、
虚しく霧散するものなのかもしれない。
だから、彼女は「肉体の死へ身を投げ出すこと」を選んだ。
「生きたい」と願う人々にとっては、「死をも厭わない」彼女のその行動は、
おそらく、「すべて」を賭けて野亜を愛した証明になるだろうから。

あの瞬間、彼女が美しかったのは、初めて、「生きた」からだろう。
「死」を意識した行動は、「生」をくっきりと浮き上がらせた。
「消極的な死」の中から抜け出し、軽やかに「生」へと飛翔したのだ。
だから、彼女のあの行動は、「自殺」ではありえないだろう。

第3話は世紀末の詩である意味では憧れに対して強く思う内容だったのような気もしました。
「太陽とひまわり」の関係を主に中心として...。
特に印象深かったのは里美先生が夕焼けを見つめてるシーンに対して愛美が星の輝く夜空で海に愛を誓うシーンなどは特にそう思いました。  里美は小学校の時から活発に動いたり、学級員を任されたり、野亜からの想いなど自分(マナミ)の求めている物を全て持っている彼女に対しての憧れがありありと出ていたと思います。
いつも太陽の方を見るひまわりのように…。
ラストのシーンのひまわりはそれをもっと強くしているような気がしてなりません。

また、欲しいものがあっても自分には決して手に入れられない物があった場合にそれに近い物で代用とさせようとした父親の行為(擬似恋愛)に対して里美が「お母さんが生きてらしたらきっと...。同じ女として...。」
という言葉とっても残酷なように思えてなりません。
もし、母親がいたらいったいどういった行動をとっていたのでしょうか?


再考察用 2話感想
「そんなことはない!愛はあると言えっ!」
野亜は叫んだ。
胸に刺さる言葉だった。その後に「願望」が入っていたとわかっても。

愛は見えない。ならば、目の見えない者に愛は見えるのか?
そして、鏡子は目が見えるようになり、愛が見えなくなった。
いや、欲望によって感じる心を失ってしまったのだろうか?

しかし、鏡子はなぜ一番最初に自分の貌を見たがったのか?
コンプレックスがあったから。だけで片づけられるだろうか?

愛を論じるにはお互いの心の傷のつつきあいが必要なのかもしれない。
教授と野亜もそうだった。愛を問うことはまるで、人間の価値、生まれてきた価値を問われている様なものなのかもしれない。
下手をすると傷つけ合うだけになってしまう。
だが、僕は傷つけ合うことに快感は覚えないのであしからず。(笑)

けど、看護婦のナンパシーンを見て、
あ、野島さん、ナンパ下手だな。(くすっ)
と思いました。(冗談ですよ〜。笑)

本放送の時にもパンドラの箱(もしくは壺)の解釈は出ていましたが、愛ではないことはあたりまえだろう。
なにしろ最後に残ったのは最大の厄災だったと言われていたのだから。

(引用:◆パンドラの箱(←Pandora's box)〔外来語最新事典〕
《ギリシャ神話》ゼウスがパンドラに与えた箱。これを開くと,なかから人間の 罪悪のすべてが飛び出していって,あとには希望(未来の予知能力。予兆ともいわれる。) しか残っていなかったという。「予知不可能な困難を蔵したもの」の意に使われる。)

美人は男を理解する。
なるほど。冷静に対象をみれるからだろう。
恋愛は「狂気」なので冷静さが重要なのだろう。

目の見えなかった者には物の形の美醜はわからないはず。
主題は鏡子の心変わりなのだろうが、感想としては「自分のためについた嘘」が醜く反感を買ったのではないだろうか?
みんなが自分の為だけに行動することを抑制していることに対して素直に行動した鏡子に嫌悪感を抱いただけでないだろうか。

巨乳のはるみちゃんが気になる・・・。
うーむ。今日のところはズリセンこいて寝ますか。(笑)
野亜の、「ひどいじゃないですか」というセリフに惑わされ、
ともすれば「鏡子の裏切り行為」に目を奪われそうになるが、
この回の命題は、そこにはないような気がする。

私はそれよりも、
「人間はとても眩しい瞬間に、とても大事なものを喪う」
という教授のセリフの方に気を惹かれていた。

障害を持つ故に受けてきた被害…
それは、鏡子が美しかったにもかかわらず、
いや、それゆえに殊更、彼女を傷つけるものだったに違いない。

そうして、悲観と諦念の中に埋没し、
「人」を信じられなくなっていった彼女を救ったのが、
興梠の切々たる真情であったのだろう。

だから、鏡子に視力がなかった時、彼女が信じていたものは、
ただ、興梠の真情のみ…すなわち、目に見えない強い想いだった。
そこにある価値基準は、「自己」に主眼を置いたものではない。
「他(すなわち周囲)」が健常であり基準である、という前提がある。
(自分は普通ではないのだから、ここまで親切にしてくれるなど普通ではできない…という前提)

しかし、鏡子が視力を得た時…
そこにコペルニクス的転回が起きた。
価値基準が「他」から「自己」へと、180度転回したのだ。

その時、すべては反転した。
自分は若く美しい…そしてすでに、障害者ではない。
哀れまれるべき弱者ではないのだ。
だとすれば、ただひとつ、注がれる真情のみにすがる必要もない。

そうして彼女は、「とても大事なもの」
…目には見えないが、ただ信じるに足るただひとつの真実…
「興梠の真情を信じる自分」を喪ったのだと思う。

「とても眩しい瞬間」…その時人は、「見えている」のだろうか?
目を眩まされて、なにも見えていないのではないのか?

眩しい光を感じて(他よりも自己を見つめすぎて)、
すべてが見えていると錯覚し(すべて手に入れていると錯覚し)、
実は(自己以外の)すべてを喪っているのではないのか?

だとすれば、暗闇の中、差し出された手にすがり、
自己よりも他を思いやった時、そこに愛は交流する
(とても大事なものを得る)のではないのか…?

私は、興梠と鏡子の姿に、そんな感想を持った。
とめどなく流れる涙。そして自分に問いかけた。
大切なものを見失わないでいられるだろうか、と・・・
いや、失いたくないと強く感じた。

教授が亘に話す「サービス」
自分より小さな人間を貪欲に探し、人間の価値を
表面で判断しようとする心の貧しい人間。
ふと気付くと見え隠れする卑しい心。

教授のセリフは、毎回ドキッとさせられる。

パンドラの箱に残ったものは希望。
「なぜ愛ではなかったのか、この世に愛などないのか!」
そんなことなど考えたこともなかった私の心に
強烈に響いてきた。
いや、きっとある!
希望・・・希望があれば人間は生きていける。
前へ進んでいける。
愛はある、そう信じたい!いつしか亘の思いに重なっていく。

コオロギさんの心を殺した哀しみのパントマイム・・・
それにかぶさっていくエンディングの二人の出逢いの映像の美しいこと!
演出も素晴らしかった。

余談だが、野島さんのコオロギというキャラクターへの思いも感じた。
詩集に「コオロギ」シリーズがある。
醜い自分が嫌われるのを恐れて、彼女の前から姿を消すコオロギJr.
それを知って治った目に硫酸をかける彼女・・・

人間の持つコンプレックスからくる相手を信じ切れない思い。
表面ではなく、内面で見てくれる人を求めたいという思い。
見えるものと見えないもの・・・何が大事なのか・・・
そんなこだわりを感じさせられる。
このシリーズはまだ続いている。
考察チャット後の2話感想(まとめ?)です。
2話は鏡子の心変わりが責められがちだと思うんですが…
保護する側と保護される側という関係で、実は対等に愛し合えていなかった二人。
盲目の私に優しくしてくれるコオロギを星の王子様だと思っていた鏡子、
見合いを断られ続ける中で鏡子だけは自分を慕ってくれ、美しい心の持ち主だと思っていたコオロギ。
しかしお互いが対等な関係になったら、それらはあっけなく幻想に終わってしまった。
鏡子が純粋に、手術後もコオロギの内面に愛情を抱くことができれば良かったんだろうが…
愛などなかった、いや、愛ではなかった以上、もうお互いに別々の道を前向きに歩むしかない。
むしろ、手術しないままお互い幻の愛に生きるよりは、この方が良かったんじゃないだろうか…
そんな”愛”の厳しさが2話から感じられました。
ラブバードのように、愛に生き愛に死んだコオロギさん。彼の姿は美しいけど哀しい…


再考察用 1話感想
「寓話」ということでいきなり非現実的な幽霊を出してきましたが、それは「死を越えた永遠の愛」というものが存在するのか?という問いかけのためなんだろうと思います。
例え自分が死んでしまっても、愛され続けたい…人はそう願うが、この話では残酷にも相手の男はすみれのことなど忘れてしまっていた。それが現実というものなのかもしれないが…。
そしてまた、愛に否定的な夏夫もすみれを見ることができない。
純粋さを持っていた野亜の、すみれに対する優しさとラストのセリフは心に響きました。
そしてこの厳しい野亜の愛の定義が、世紀末の詩の愛の根底に流れるものかな、と…。
家事をしながら、横目で観ていた第1話(笑)ってことで、感想になるかどうか…

今観なおしてみると、状況説明をバックボーンに流しつつ、
これだけのストーリーを作れるというのがすごいなぁと感嘆します。
人物関係が、はっきりと把握できる。
1回ごとの構成が、ここですでに提示されている。
第1話でここまでやってあるからこそ、
このあとのオムニバス形式の無理がない。

亘が、自分だったら「百万回くり返してもたどりつけない」愛を
知っているすみれに殺されてもいいと思った…
(殺される、というのは違うような気がするけれど)
それは、どこか寂しい。

だって、そんな「真実の愛」を知っていてなお、
彼女は寂しかったのだから。
真実の愛は、ただ一人、自分だけが抱いていても、
幸せにはなれないものなのでしょうか?

でも、すみれが、なぜ野亜を連れて行かなかったのか…
私には判るような気がする。

野亜は、すみれの愛をほんものと言ってくれた。
幽霊という…ゲンジツに生きる生身の人間には触れ得ない…
認識し得ない存在が語る「愛」を…

すみれは、愛を唄っていた。
しかしそれは、誰にも聞こえず、届かなかった。
それを野亜は聴き、認めてくれたのだ。

その瞬間、すみれの愛は、実存在になった…
その野亜を連れて行けば、すみれの愛は
再び、認識し得ず、証明し得ないものになる。

すみれは、野亜を遺していくことで、
自分の愛を遺していったのではないだろうか…

…あと、関係ないけど、私がこの回で一番好きなのは、教授の
「先生…人間は、なぜ瞬きをするのか、知っていますか?
時には人の過ちに、目をつぶってやるためです」
というセリフでした(^^;)
正直に感想は難しい。ドラマのあったことの羅列になりそうで。
とりあえず、世紀末の詩って番組の最初は軽く、
ときどき重い展開になりつつも軽いギャグを挟んでいく。
これがまたリアル感やまた重い話に入っていく演出なのでしょうね。
喜怒哀楽を揺さぶって、人の心のより深いところへ語り掛ける。
というか。
コメディアンの方が演技がうまいってのも納得できるんですよ。
喜怒哀楽で笑いが一番難しいんじゃないかな、と思っているので。

で、1話ですが。(笑)
冒頭、2人の自殺のシーンではじまる。これは日常を逸脱して
生活や人間関係のしがらみをいっさい捨てたところで
愛、及び生きることに直面していこうとの流れの始まり。
むかし、BBSで世紀末の詩のテーマは本当に「愛」なのか?
って意見がありましたが、同感なんですよ。
「愛と生」ではなかったかと。
いや、人は愛なくしては生きてゆけない。だから問うのだ。
かもしれません。

すみれが死んでも恋人を待ち続けたように、
生きていくのは愛なんだ。と感じます。
(こう書くとワケわからんな。/笑)
愛のために生きる、だが亘がすみれの為に死を覚悟したのは
愛に傷ついたすみれに必死でなにかをすることで
自らを癒そうとしたことにほかならないだろう。
でも、それは「愛ではない」
その行為は美しくとも。
それに「同情」は最初のレベルで、のち触れに合う時間をかさね、
感情が育つ内に徐々に形を変えてしまうものだと思います。
愛は育むもの。それだけではないが、それは確実に言えることである。

それに亘は優しい男であるが、その行為は、「やさしさ」
だけみて終わらせてはいけない。
そこには求める姿勢があるから。

純粋性の喪失。
すみれが見えないことで、里美はショックを受けた。
「もう自分は純粋ではない」
だが、純粋な心には多く危険性が残っている。
つまり純粋がいい物とは思えない。
概念で言えば基本の形であり特性がない事になるのではないか?
それは「役たたず」だ。(ごーいんか?/笑)
また、危険なものに簡単に染まってしまう可能性がある。

女性の心はより純粋である。それは白いキャンバスや白い服のように。
しかし、少しでも汚れると、ひどく醜く目立つ。
それを拭い取ろうとしていくうちにまた、別のところが汚れていく。
そして、取れなければ隠そうとする。
それを重ねる毎に、どんどん女の心は汚れていく。
簡単なことで、そのうち汚れるものだと思えばたいした汚れじゃなく
終わるのに隠すことで、醜さを増してしまう。
隠された汚れを見た時に、人はさらに汚いと感じてしまうから。
とても不思議な世界に入り込んでしまった、という印象でした。
実は初めは、適当に見ていました。(笑)
でも亘の「世の中には偽者が多すぎる!」に反応し、
「終わらないのが愛だって、変わらないのが愛だって」
と叫んでいるところにいつしか引き込まれている自分がいて・・・

そしてエンディングでは自然に涙が・・・
再度ビデオをまわし、じっくり見てしまいました。
幽霊のすみれの思いに共感してしまった亘。
悲しみの心が合わさってしまったのでしょう。
すみれの恋人に会いに行ったときのショックと言ったら!
死んでもなお恋人を思うすみれなのに、忘れてしまっているなんて・・・
さらには「悪い想い出」という意識・・・現実はあまりにも悲しすぎました。
亘は又自分を重ねていきます。
一度も振り返らずに好きな人の元に走り去っていった婚約者の姿を・・・

せめて少しでも救われたかったという気持ち。
でもそれはあまりにも残酷に打ちのめされていったのです。
教授のシビアな発言でも、現実を見せつけられていきます。
哀しいくらいに・・・

もう、黄泉の国に連れられてもかまわない。
愛と勘違いをしていた情けない自分だから・・・
自分のために泣いてくれたすみれのためならば・・・
すみれの思いに、終わらない、いや終われない愛というものを
少しでも見た気がしたから・・・
それでもなお、愛を求めたい強い心。
これが亘にはあったのです。すみれもそれを感じた。
だから連れてはいけなかった。

「君もそうならついておいで」
はい、ついていきます。
そんな気にさせられてしまいました。
本物って何だろうか、そんなことを思いながら・・・
「お前(自分)には、感じることはできるのか!」

まるで、強烈なエネルギーのようなものが、
溢れ出す溶岩のように、俺の中から噴き出してきました。

第一話・・・

この話がなかったら、たぶんこんなにも、
この作品にのめり込むことはなかったでしょう。
そして、これほどまでに、
無防備なこころで、見つづけたのも、
初めてでした。

決して投げやりや同情ではない、覚悟の亘。
最初で最後の号泣とも叫びともとれる、ミヤの涙。
あることが機に、開放されて行く百瀬。

同じように、その時、
私も始まっていたのでしょう。
そう、痺れるほどに・・・


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