※ここは管理人の個人的&勝手な感想・解釈コーナーです。ご意見等がありましたら掲示板の方にどうぞ
私観・高校教師◆まとめ(3/27up) ※個人的な雑感・解釈です
1.初めての左脳&右脳ドラマ
野島ドラマは90年代の”左脳ドラマ”を経て、ここ2年は「S.O.S.」「ゴールデンボウル」と”右脳ドラマ”が続いた。
前者がシリアスな悲劇であったのに対して、後者はかつてのシリアスさは希薄な楽観的な物語であったと思う。
そして今作は初めての左脳&右脳ドラマ。
このドラマは愛と死がテーマであるし、死を間近に控えた男が主人公という設定は容易に「悲劇」を連想させ、90年代の左脳ドラマの流れに位置する作品かと思えた。
だが、実際に放送を見てみると大きな違いがあった。
それはかつての左脳ドラマにあったシリアスさ、衝撃さが抑えられていて、どこか淡々としているように感じること。
物語としてはシリアスな構造なのだが、そこに右脳=感覚的・楽観的なものが混じることで、シリアスさが希薄となったのだろうか。
よって衝撃的なシーンや分かりやすい感動シーンというのが私はあまりなかった。
しかし、ただ淡々としているというだけではなく、このドラマは左脳&右脳の結果として、とても「複雑」であったと思う。言い換えれば「多面的」ということか。
暗くもなく明るくもない(左脳でもなく右脳でもない)その「多様性」「多面性」が、湖賀というキャラクターに顕著に表れていた。
だが複雑であればあるほど、キャラクターには共感しにくくなる。
一貫性がないと「一体何を考えているのか分からない」から。
左脳&右脳の結果、キャラが複雑・多面的になったことで感情移入しにくくなったことは確かだろう。
しかし深くこの物語に入り込むことによって、その「複雑さ」は輝き始める。単純ではない分、深くこの物語を味わえるから。
物語を読み解こうとする者にはこのドラマは懐の深さを持つ。
野島氏の言うように、ある意味でこの作品は野島ドラマの最高深度に到達した。
2.TVドラマのテーゼを破る
TVドラマは「なんとなく」見る人が多数を占めるメディアだと思う。
だから単純に楽しめて、視聴者を惹き付ける要素というのがまず望まれるのだろう。
かつて高視聴率を連発した野島ドラマは強いメッセージ性を放っていたが、それと同時にエンターテイメント性も十分に高かった。
別にテーマを考えなくても見ているだけで面白かった。
しかし今作は、本来は視聴者を惹き付けるべきなのにどこか突き放した印象もある。
今作の「高校教師」ほど、TVドラマとしてのエンターテイメント性を追求していない野島ドラマはなかったと私は思う。
野島氏は『感情移入しながら書いたのでリアルな作品になると思う』と語っている。
よって今作では、多数からの共感を得るよりもパーソナルな想いの投影に専念したのだろう。
それはこの高校教師の前作にあたる「スワンレイク」でも感じた。
スワンレイク執筆直後の作品ということで、スワンレイク(小説執筆)の影響が色濃く残っていると感じる。
追求しているのはTVドラマのような<見ていて単純に楽しめる>エンターテイメントではなく、小説のように<想像を働かせじっくり読み解くことで楽しむ>エンターテイメントなのではないだろうか。
上の方でも書いたようにこのドラマは本当に複雑で分かりにくい。
人によっては単純に楽しめるのかもしれないが、そこに意味を見出そうとするならこの物語に深く潜らなければならない。
今作はTVドラマとしてのエンターテイメント性は低いと感じたが、ただそれはあくまでTVドラマとしてであって、このドラマで野島氏は「TVドラマ」のテーゼを破った。
今作の複雑さ&共感しにくさ、でも物語を読み解こうとする者には開けてくる奥深さというのは、昨今の単純で分かりやすいドラマに対する強烈なアンチテーゼであったと思う。
3.依存
「依存」というこのドラマのテーマは放送前に期待していたより明確ではなかった。
曲解になるかもしれないけれど、このドラマで描かれた依存の結論を考えてみます。
偶然から湖賀が雛に施した実験と観察は、鏡面化を強いるエゴイスティックな依存であった。
百合子は依存には「希望」がないとよく言っていた。
相手が必要でなくなれば、崩れやすい関係であるから。
実際、二人は嘘で繋がっているだけの関係であり、8話で嘘がバレて二人の関係はあっさりと崩壊した。
よってエゴによる依存は否定されたと言える。
だが10話から最終話にかけて、湖賀にかつてあったエゴは消えていた。
これ以上迷惑をかけまいと自ら雛の元を離れ、自分から約束を破り、ラストの土管でもいい人を探して結婚してくれと。
10話ラストから最終話にかけて、湖賀も雛も相手を必要としたが、それはエゴから発生したものではない。
では何かと言えば、自然に溢れ出る感情に根差したものだろうか。
打算や欲望とは関係のない純粋な気持ち。純愛。
そうなると、エゴのない依存と純愛が重なって見えてしまう。その違いが明確ではない。
ではこのドラマの結論としてどこに「依存」が象徴されていたかと言えば、雛が湖賀の死後に想っていく姿勢になるだろうか。
雛は2話で「誰かを好きになったらずっとずっと変わらず好きでいたい」という恋愛観を言っている。
恋の始まりや実験と観察はどうであれ、10話の雛は湖賀に「会いたい」というのが迷った末に素直に溢れ出た感情だった。だから会いたい気持ちだけで別荘に向かった。
湖賀の死後も、雛は湖賀を想い続け、引きずって生きていくのだろう。
それは雛にとって決して迷惑なことではなくて、むしろ引きずりながら生きたいと願うのだ。
そうでなければ生きていけないから。
生きていくための希望として、雛には湖賀が「必要」だと。
肉体がある者への依存から、肉体が滅びた者への依存。
相手を必要とする限り、それも成立しうる。
互いが互いを望む限り、「依存」は愛の形であると。
4.愛と死
個人的には当初、「死」を間近にした男が少女に救いを求めていくという話は、ただ死の恐怖からの現実逃避ではないのか?というところに注目していた。
死という絶望を前にした時に、それを忘れさせ癒してくれる存在を求めようとするのはごく自然なことだから。
そして雛に施した許されない実験と観察、そのきっかけはやはり死からの現実逃避と言える。
だが10話の手紙で明らかになったことだが、7話で雛と一緒に海に向かって「死にたくない」と叫んだ時に、湖賀は本当は「死にたい」と叫びたかったという。
嘘がバレる前に、この幸せのただ中で死にたいと。
湖賀が死んでもいいから愛を失いたくないということなら、雛が唯一の救済であることに気づいて、湖賀にとって雛(愛)が死を凌駕したということだ。
最終話の土管のシーンでも、「僕はついてない人間だと思っていたが、君に出会ったことで救われた」と雛に告げた。
それは言いかえれば、愛によって死の不条理から救われたと。よって死への恐怖は消えた。
それでも女たちは湖賀を生かそうとしたが、オペ後の湖賀の生死はもはやどうでもいいことなのだろう。
湖賀が一人の少女に救われたことに変わりはない。そして愛が永遠になったことも。
8話で湖賀が雛のために解いていた難解な計算は、肉体が消滅しチリになった二人が宇宙で再開するというものだった。
肉体が消滅すれば記憶も意志も何もなくなるので非科学的な変な計算だなと思ったけれど、「永遠の愛」であれば肉体の死という限界すら超えるということなのか。
そう考えると、雛が湖賀の子供を宿して育てていくという安易な結末は全くありえなかったことになる。
肉体の消滅は死を意味するが、永遠の愛はそれを超えるのだと。一人の少女に救われた湖賀にとって、肉体の死はもはや不幸なことではないと…。
これは、愛によって死の不条理から開放されたい、という野島氏の理想論なのかもしれないが…。
そんな肉体の死を超越する永遠の愛は「奇跡」だから「信じたい」し、信じることに意義があるのかもしれないが、やはり非現実的ではある。
その愛の感覚は、死後の世界に愛のコミューンを認めたスワンレイクに近いと思う。
要するに究極的ではあるが、同時に理想的でもある。
行くところまで行ってしまったというか、ここまで来ると現実を超越した形而上学的な「愛」になってしまっているように思うけれど、今後も野島さんは「愛」を突き詰めていくのでしょうか…?だとしたらどういうアプローチで…?
次回作が楽しみです。
5.最後に…思ったこと
感想が抜け落ちていたので…。
藤村がたまに発する、諦めと希望の葛藤の中で愛を求めるセリフが良かった。
悠次は「虚無」に根差したキャラだと思っていたが、ただの臆病者だった(?)というのは少し残念。
好きなのは5・2・8話。イマイチだったのが6・11話。
8話から感情移入しやすくなったのとテーマが純愛になって前作に近づいたと思うので、どうせなら1〜7話の淡々とした展開のまま、異色のドラマで終わっても良かった気がする。
ですが一昨年〜昨年の「S.O.S.」「ゴールデンボウル」の右脳ドラマの流れは個人的にあまり好きではなかったけれど、最近の「スワンレイク」「高校教師」の難解さは好きです。
たとえば前作の焼き直しで「教師と生徒との禁断の愛」を無難に描き直すより、この挑戦的な悪魔的プロットの今作の方がよほど良かった。
今作は野島ドラマの最低視聴率になってしまいましたが、新境地に挑んで新たな野島ワールドを展開してみせた野島さんを支持したい気持ちです。
私観・高校教師◆最終話(3/27up) 最終話セリフ解釈 (>>最終話名セリフを開く) [11-1]
恋愛をゲームだと捉えれば、自分は傷つかなくて済むだろう。
たとえば裏切られた時に、本気になっていればそれだけ傷も大きくなる。だがゲーム感覚で表面的に対処していれば傷つかない。
悠次のゲーム感覚というのは傷つきたくないが故の、そして(10話で藤村が指摘していた)臆病者であったが故の、自己防衛手段であったと。
よっていつも本気に、そして真剣になることができない。
そして、
>> 愛する人は愛さない人に負けない
愛する人は強い。なぜなら、傷つくことを恐れずに真剣に愛すことができるから。
[11-2]
結末の解釈は上のまとめの「3.依存」と「4.愛と死」のところに書きました。
私観・高校教師◆第10話(3/18up) 10話セリフ解釈 (>>10話名セリフを開く) [10-1]
湖賀はいつしか、死よりも雛との関係が終わることを恐れていたと。
死の恐怖を超越した愛。
ここに、この物語が描いてきた愛の形を見た気がします。
言ってみればこの物語は、迫り来る死の恐怖から逃れようとした弱い男の話です。
雛に施した実験と観察は、湖賀の弱さの象徴だった。何事もなく死を迎え入れられる強い人間はそんなことしないでしょう。
死というのは生命が必ず背負っている宿命。
その絶望に飲み込まれると、1話の湖賀のように虚無感に陥る。
それを救うものは何か?と言った時に、野島氏としては「愛」になるのでしょう。
湖賀にとって愛が唯一の救済であるから、死よりも愛を失う方が怖い。
愛を失ったらもはや生きていけない。
[10-2]
雛は湖賀の気持ちを代弁してるのだけど、それは弱い人間の願い・希望ですね。
早く忘れて他に誰かいい人を探してくれというのは強がりで、本音はずっと忘れないで欲しい。
ずっと自分だけを想い続けて欲しい。
忘れるのは愛じゃないから、どうか忘れないでと祈るような気持ち。
このようなセリフから感じるのは、この物語は愛とは何か?依存とは何か?を問うというより、弱い人間の立場からこうであって欲しいという理想を描いたという感じがします。
私観・高校教師◆第9話(3/9up) 9話セリフ解釈 (>>9話名セリフを開く) [9-1][ラストのナレーション]
心を優先させるか、肉体を優先させるか。
この藤村のつぶやきはラストの湖賀のナレーションに繋がっていると思います↓
> あの時、心はもう、死んでしまったのだから
雛が去ったことで心が死んで、生きる気力を失った湖賀。
湖賀も藤村も肉体より「心」が満たされていたいのでしょう。 [9-2]
真剣に愛を求めてしまうが故に、相手を失うのが怖い。その不安に耐えられない。
だったら初めから好きではない相手と結婚すればいい…という哀しいジレンマ。 [9-3]
郁巳が養子だったという新事実はこのセリフに繋がるのでしょう。
ずっとひとりぼっちだった湖賀がかわいそうだと思い、同情で看取ろうとした雛だが、遺体を見て自分にはできないと感じた。「同情」では無理だと。
では「愛情」は?といえば、その後に雛が電話で突き放したようなことを言ったように、「本当に好きだったのかどうか」分からなくなってしまった。
嘘がバレる前の湖賀への感情が「依存」なのか「愛情」なのか分からなくなったと。だから突き放すようなことを言ってしまったのでしょう。
雛は今後、どういう感情で湖賀の死に向き合っていくのでしょうか…。
今回、事故遺体を見たことで「同情」である意味客観的に湖賀を看取るという選択肢は消えた気がします。
では今後、「愛情」で湖賀に接していくとしたら、雛は愛する者の死に耐えられるのだろうか?
湖賀が雛のことをすべてだと言っていたように、雛も湖賀のことがすべてだといったような以前の感情に戻ったとしたら、果たして…。
今までは湖賀の心理が複雑だったわけだけど、湖賀が単純になった分、今回は雛の方が少し複雑でした。
私観・高校教師◆第8話(3/2up) 8話セリフ解釈 (>>8話名セリフを開く) [8-1]
この現実をゲーム感覚にもてあそぶことで自分の存在が仮想現実化し、悩みや痛みがない代わりに生の実感もない。
自分というものが何なのかよく分からない…。 [8-2]
自分にとって雛の存在がすべてであり、雛がいることですべてが解決されるといったような愛。
依存的・閉鎖的ではあるが極限的でもあって、湖賀はいつしか雛の存在がすべてになっていたと…。
この雛に対する感情が本物であれば、雛を失った湖賀はもはや希望を持って生きていくことはできないだろう。
ちなみにこのセリフとほぼ同じ言葉は詩集や絵本(コオロギJr.)にもありました。 [8-3]
嘘をつかれていたということは、今までの先生から自分への愛情もすべて偽物だったと思うでしょう。利用されていたと。
そして、その嘘をも受け入れて湖賀を許すというような慈愛は今の雛にはない。
今までの湖賀に対する雛の愛情が、百合子の言うように依存に近かったということなのか、まったく信じることのできない相手を愛することなんてできないということなのか…。
どちらにしろもはや嘘では繋がれなくなったので、今後は互いの「本当の」愛情が問われるでしょう。 [ラストのナレーション]
> あの時僕は、一体何を期待していたのだろうか。
> 予定通り、彼女への、実験と観察が終わったに過ぎないのに。
> 僕は一体何を失ったというのだろう……
当初、勘違いから偶然始まったこの実験は、自分と同じ苦悩を持つ相手を「観察すること」だけで癒されていた。
嘘がバレて実験対象を失ったものの、本来そんなにショックを受けるものではないハズだと。
元の状況に戻っただけで、依存は百合子に対してもできるから…。
だが、そんな「実験と観察」のつもりが、いつしか「期待」に変わっていたと。この自分を救って欲しいという。
さらに前回では甥の正太に嫉妬し、観察ではなく雛を愛した。
そして雛の存在が自分の生きる希望であり「すべて」になっていた…から、ただ実験が終わっただけだと冷静に受け止めることはもはや不可能でしょう。
私観・高校教師◆第7話(2/23up) 7話セリフ解釈 (>>7話名セリフを開く) [7-1]
鋼鉄の仮面がヒビ割れていくということは、仮面を被った偽りの自分から、本来の自分に戻りつつあると。
かつての自分=愛されることを求める自分、なのでしょう。
でも元の自分にではなく、原子レベルにまで戻りたいということの真意はよく分からないです。
悩みも苦しみもないレベルというのは、悠次の快楽主義に近くなってしまうのでは?
それとも最小単位で繋がれる愛というのはすごく単純なもので、悩みも苦しみもない、とか? [7-2][7-2]
7話は心理的な展開で、湖賀の想いは複雑でした。
最初、抱かれたいと願う雛を湖賀は拒絶したのは、自分の死後に思いを引きづらせたくないという湖賀の優しさなのか。2話でかおりに別れを告げたのと同様に。
でも病院で百合子との会話の後にやはり雛の元に向かい結ばれたのは、表面的には雛は自分との繋がりがなければ生きていけないと感じたから。
でも実際のところは、雛というのは自分の苦悩を投影したものだから、そんな自分の分身が繋がりが得られず困窮している状態を、見過ごすことができなかった。
それを見過ごして拒否するということは、まるで自分が見過ごされ拒否されているようだから。
それでも、湖賀は今までは同じ苦悩を抱える雛を観察することだけで癒されていたのだけど、
「雛を必要とする気持ち」が大きくなっていたからか、観察だけでは満足できずに嫉妬という感情が自然に湧き上がってきた。
二人は依存し、繋がることで何とか生きていける、というのが7話で明確になったように思います。
もちろん雛を救いたければ真実を告げればいいのだが、湖賀は意識的にそこから目を背け、同じ苦悩を持つ人間だという錯覚が強くなっている。
それはある意味で湖賀が暴走し始めたというか、弱さやエゴが剥き出しになってきた感じです。
でももう、湖賀も雛も互いに繋がりがなければ生きていけないと言えるから、相手との繋がりを求めようとするのは生きようとする懸命 の力なのかもしれない。
セックスもその「生きていくための繋がり」としての延長であって、快楽的なものではないと。
でもそんな二人もかりそめの繋がりでしかない…。
私観・高校教師◆第6話(2/16up) 6話セリフ解釈 (>>6話名セリフを開く) [6-1]
5話の夜の校舎で悠次たちの側に行かずに留まれたのは、雛の存在が生きる希望としてあったから。
世界で一番大切な人…それは聞こえはいいが、鏡のようなもう一人の自分だからこそ、でもある。
雛が鏡ではなくなった時にも、果たして湖賀はそう思えるのか? [6-2]
このドラマは「依存」がテーマだと言っても、依存という言葉自体が少し漠然としている。
「相手を”必要”だという気持ちは依存であって、愛情ではない」という、この物語の依存の定義がこのシーンにあった気がします(現時点では)。
必要だというのは…この2人とにっては死への恐怖・孤独を癒すために、また絶望の中で生きていくための希望として相手が必要、ということになるでしょう。
そして今後は、相手を”必要”とする「依存」が、でも本当は愛と呼べるのではないか?それともやっぱり愛ではないのか?という展開じゃないかと。
[6-3]
> 僕は、愛されてはいけない人間なんです
と言っているから、甥の正太を紹介したり素直に雛からの愛情を受け取ろうとしないのは、自分の死を相手に哀しませたり引きずらせたくないから…なんでしょう。
雛からの愛情を受け取らなくても、鏡のようなもう一人の自分がいて、その苦悩を共有することで、癒しにはなっていると…。 [6-4]
藤村がロッカーを開けるシーンでは、テープが93年分までだったので、93年の相沢直子を最後にもうレイプ事件は起こしてないのでしょう。
今作の2話で「諦めと怠惰の中で…」って言っているから、相沢直子の一件の後、もう誰も自分を本当に愛してくれる人はいないと絶望して、諦めていたのか。
『君もやっぱりそうだった…僕のことを本当には愛してはくれなかった……今までもずっとそうだった…これからも……』(93年版10話)
これは藤村の5話のセリフ、メンタリティや情緒の深度が似ている相手に惹かれる――に繋がる気がします。 [6-5]
このプールのシーンでは雛の強い愛情が描かれていた。
雛の湖賀に対するこの強い感情(愛情)はどこから生まれるのだろう?
私の”その時”までの希望を失いたくないからか。
[6-2]の百合子のセリフに従って考えると、雛もまた相手が「必要」だという気持ちが根底にはあって、ストレートな愛情とは言えず、必要と愛情を混同している、もしくは必要を愛情だと錯覚している、ということになるのでしょう(百合子的には)。
ただ私は、相手が自分にとって唯一の存在であり、自分が生きていくために相手が必要である…という状態は、否定的に依存とも言えるけど、愛情の深度もより深く強固なので、(この時の雛の感情は)愛情と言えるのではと思います。
私観・高校教師◆第5話(2/8up) 5話セリフ解釈 (>>5話名セリフを開く) [5-1]
4話ラストで湖賀が自殺を図ったことが明らかになったけど、またここでもその事実が語られています。
その絶望に絶えられない弱さから、前向きに「生」に向き合うことができなかったと。
そして、謎だった橘百合子の過去も少し明らかに。
湖賀に対して、亡くした夫の面影を感じている? [5-2]
ここのシーンは「依存」と「片思い」が一緒に語られてる感じがします。
「依存する」というのは、自分が生きていく(恋愛する)上で相手を必要とする・支えとすること。
「片思い」は、一方通行的な想い。
いくら自分が相手に依存しても、相手が自分を想い返してくれなければそれは片思いだと。
ただここではもっと複雑で、病気という要素が絡んでくる。
相手が病気であると本音での恋愛は難しいと。
「かわいそう」だから、という理由が先行すれば、それは同情に過ぎないから。
もちろん湖賀と雛の立場は実は正反対なので、ここでの百合子の言葉は湖賀に対するものだと捉えるのが正しいかもしれない。
嘘がバレて雛が湖賀の病気を知ってしまった時には、雛からの愛情が同情に変わり得ると。 [5-3]
夜の校舎のシーン私はとても良かったですが、この悠次のセリフや集団での計画的犯行など、「スワンレイク」を彷彿とさせるものがあります。
ここで言っていることは「モラルや常識に縛られずに何でもやってみろ!」ということで、その言葉自体はある意味では私も共感するけど、自分が楽しむために人を傷つけるのは明らかに問題でしょう。
でも”悪いことをしてはいけない”と思うのもしょせんモラルに過ぎないから、悠次たちにとってはそんなモラルも”くだらない”ものなのだろう。
彼らは一応、完全犯罪者というか、法に触れないように行動してるみたいですし。
こういう極端なキャラクター設定は野島ドラマの醍醐味ですね。
4話までの悠次はパッとしなかったけど、この5話でようやく本性を表してくれました。今後、悠次を使って野島氏が何を描いてくるのかとても楽しみです。
[冒頭のナレーション] [ラストのナレーション]
> 一番の僕との違いは、その屈託のない明るさだっただろうか
> この僕の心はいつも、現実からの逃避を模索していたというのに
--
> 一瞬、彼らの向こう側に誘惑されかかったのかもしれない
> それでも、微かに踏みとどまっていられたのは
> 彼女という希望だっただろうか
> もしかしたら、いつか……
> いつかこの僕を、救ってくれると
湖賀には未来がないから「生」に向き合うことができない。(5-1)
死を前にして生きる意味を見出せないから、悠次や江沢真美の言葉には共鳴できるのだろう。
この絶望・苦悩から逃げ出して、できることなら楽に生きたいと。
それでも踏み止まれたのは、「死」に直面しても明るく振る舞う、健気な雛を思い出したからか。
湖賀は虚無的・快楽的な生に陥らずに、まだ「愛」に救いを求められる、という終わり方だったと思います。
今後、悠次たちの快楽的な生との違いは、「愛」によってその差異が明確となるのでは?
悠次たちはおそらく、退屈な日常やくだらない社会に対して満足できない虚無感があって、そこからの救いとして「快楽的な生」を求めた。
湖賀も同じく「死」に直面して虚無感に陥ったわけだけど、湖賀の場合はそこからの救いとして「愛」を求めたと。
私観・高校教師◆第4話(2/2up) 4話セリフ解釈 (>>4話名セリフを開く) [4-1]
鉄の鎖=モラルや規則、常識、安定などでしょうね。
そういったものを投げ打って生きることができないから、自分には勝てないと?
悠次と対決することになるであろう藤村に対しての、キーワードになっているような。
[4-2]
江沢真美はこういうキャラクターなんですね。
快楽主義者であり、このドラマのテーマのアンチテーゼとなる存在?
刹那というのは空虚というか、すべては快楽に従うままに刹那的に過ぎ去っていき、残るものは何もない。
そんなイメージがします。
さらに反論するならば、その快楽はすべて本能に根付くものであり、理性的・人間的感情ではない。
苦しみ・悲しみ・悩むことができるのは人間らしい感情であり、そこから快楽(本能)に惑わされない人間らしい生が送れる、とか。
[4-3]
死ぬ時も自分の意志じゃいけないんだ!というセリフはすごくいいですね。
ラストシーンで映された自殺を試みたのであろう手首の傷のシーンを含めて考えれば、このセリフは今まで自分に対しても言ってきたのでしょう。
たとえ一日でも…というのは、たとえ明日死ぬと分かっていても精一杯生きるべきだと。
その生きる意味を与えてくれるのが、湖賀にとっては雛であり、雛にとっては湖賀。
[ラストのナレーション]
絶望から自殺を試みていたのだろう湖賀だが、これからは雛を守ることが生きる意味となって、湖賀に生きる力が戻ってきた…という終わり方でした。
でも依然として、嘘で繋がる危うい関係であることには変わりはないです。
私観・高校教師◆悪魔的なプロット (1/30up) これは掲示板に投稿したものですが、少し書き直してここにも載せておきます。 以下は雑誌「BRIO」3月号の野島氏インタビューから、「高校教師」について語られた部分を抜粋
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『今回、物語は(前作とは)まったく別なんです。
ただ、それを教師と生徒という関係にするのがいちばん自然だったので、じゃあタイトルも同じでいいじゃない、というように決めました。
教師役の藤木直人さんが脳腫瘍におかされているんですが、彼は上戸彩さんが演じる女子生徒に「君が脳腫瘍だ」と嘘をついて信じ込ませ、彼女の苦悩や絶望を見て癒されていく。
そんなストーリーなんです。
かなり強い、悪魔的なプロットを、いかにフラットに見せていくかが勝負だと思っています』
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放送はまだ3話までなのと、この文章だけではその真意はよく分からないけど、勝手な解釈で考えてみます。
私はこれを見て1〜3話の不可解だった部分がある程度納得できました。
後半は分からないけど、今のところ湖賀はやはり悪魔的なキャラなんですね。
許されない嘘を雛に対してつく。それは自分を癒すためだけに。
その湖賀の悪意というか悪魔性が剥き出しになると残酷過ぎるから、なるべく抑えてフラットに(淡々と)見せる。
そう考えた場合、3話のラストの台詞「君は一人じゃない…」って、感動するところではないんですね。
君は病気じゃないと真実を告げることをせずに、自分を癒すために嘘をついた。
一人じゃない…と雛の唯一の味方を装ってはいるが、それはあくまで自分のために言っているだけ。
一般的なモラル観からしたら、この設定はやはり悪魔的なんだと思う。
前作の高校教師は教師と生徒の禁断の愛を中心に、近親相姦、レイプなどのインモラルな設定を散りばめながら純愛や人間の本質さを描いたわけだけど、 今作のインモラル設定というのはやはりこの湖賀の実験と観察自体のことになるのかな?
(今作は、教師と生徒の恋愛は許されるのか?という意味でのテーマ性は今のところ皆無ですし)
モラル観が確立されていない中高生ならこの設定も別に違和感がないのかもしれないし、3話のラストも素直に感動できるのかもしれない。
3話のラストに感動しても違和感を持って見ても、別にどちらの楽しみ方でもいいんだろうけど、
だけど良識的な大人にはこの設定は反感を買いかねないでしょう。
なんて残酷なことをするんだ!と。
だが果たして、死を目前にした人間に「それはいけないことだ」という一般的モラルが通用するのだろうか?
もうすぐ死ぬと分かっている人間に対して、本来あるべき他人を思いやりましょう的なモラルが実効力を持つのかという疑問。
この絶望から救われたい、癒されたい、理解者が欲しい…という気持ちを、モラルはもはや抑圧できないのではないか?
そう考えると、湖賀の行為というのはその弱さ・残酷さも含めて本質的な人間像なのかもしれないです。
湖賀は余命僅かという極限状態に置かれているせいで、モラルが希薄となり弱さや残酷さが露呈する。
一番下にも書いたけど、野島ドラマは人を極限状態に置くことで人間の本質さや純粋な愛情を描くことが多いので。
スワンレイク的に言えば”キャトル”が剥き出しになって、それを本来抑えるべき”アン”が崩壊しているということですね。
だからといってそれが許されるのかどうかはまた別問題で、湖賀の行為の是非も今後語られていくんでしょうけど。
注目したいのは、その悪魔的な設定が「愛」にどう絡んで、何を描いてくるのかということですね。
ちなみに、悪魔的なプロットというのは世間のモラル観からしたら悪魔的なだけで、野島さんとしては湖賀に対してリアルな想いを込めている部分もあると思うんだけど、3話までではまだまだわからないです。
私観・高校教師◆第3話 (1/25up) 3話は二人が依存する過程なんだろうけど、事前に出ていた情報でテーマを知っていたから分かりやすかったというか、2話ほどよくなかった。
2話の雰囲気がすごくいいと思ったんだけど、3話ではなんかそれが希薄になっていたような気が。
でも本当に淡々と、衝撃シーンも感動シーンも(私の感覚では)ほとんどなく進んでいきます。
今のところ、前作の高校教師も含めて90年代のシリアスドラマとは一線を画す内容・展開でしょうね。
今回初めて左脳と右脳を合流させて書いたということですし、完全に新境地だと思って見た方がいいのかも。
それで新境地である今作の特徴としては、シリアスさもなく、分かりやすい感動もなく、せつない恋愛関係もなく、どことなく抽象的。
これはやはり意図的なものなんだろうと思うしかないんだけど…どうなんでしょう。
というのも今の設定・展開でもシリアスさやせつなさを高めようと思えばいくらでもできそうな気がするのに、それを敢えて封印しているような。
今までの手法を踏襲しないことで、新たな表現を模索しているような気もします。
単にもう前作から10年も経って、書きたいものが変わってきたというのもあるんでしょうけれど。
あと前作であった、女子高生や女子高を意識させるようなテーマ・描写がなかったり、社会や世間のしがらみという問題もなかったり、雛の家庭背景を映像として出さなかったり、あまり”ドロドロとした現実感”がないですね。
それってシュールレアリスムというか、がっちりとした世界観の構築やリアリティの追求よりも、超現実的に個々人の内面の描写にこだわってるのかなとか思った。
そういう意味では昨年12月に出た小説「スワンレイク」のトーンを受け継いでるところがあるような。
よって展開に無理があると違和感を感じてしまうのは、この物語にリアリティを求めすぎているからか?
でも後半は湖賀がぶっ壊れるということだし、まだその後半への”ため”の段階なのか、それともずっとこんなトーンで進んでいくのか、今後どういうドラマになっていくのかまだよく分からないです。
3話セリフ解釈 名セリフを載せるのは「引用」ということにして、こっちに勝手な解釈を載せていきます。名セリフと2窓開いて見て下さい。 [3-1][3-2][3-3][ラストのナレーション]
ごまかさないのなら、死はどうしたって怖いものだ。
死が怖くないというのは、何らかの方法でごまかしているか、強がっているか。
湖賀も以前に速いか遅いか程度の違いだと納得を試みたようだが、それができなかった。
だから日々、孤独と恐怖に脅えている。
自分は余命僅かだと勘違いした雛が当初、湖賀の前で強がって死は怖くないと言ったのは、鬱陶しいと嫌われたくなかったから。
雛は唯一、自分の秘密を知る湖賀に精神的に寄り掛りたかった(依存したかった)が、嫌われるのを恐れてそれができないでいた。
だが最後に、雛が本当は孤独と恐怖に震えていることを深夜の電話で察知したは湖賀は、そこに”もう一人の自分”を見て、雛の孤独を受け入れた。
君は一人じゃない、僕がいるからと…。
この時の雛は湖賀にとってはあくまで鏡のようなもので、言い換えれば、”僕は一人じゃない、君がいるから…”と言っているのと同じことだ。
鏡に向かって”かわいそうに…”と呟いていたように、湖賀にとって雛への慰めの言葉というのは、そのまま自分への呟き・慰めでもある。まだ今のところは。
どちらにしろ孤独の中で秘密を共有した二人…それは互いに絶望的な孤独・恐怖を癒してくれる相手であるから、その絆を深めることになった。
[夜は優しい]
夜中に一人でいるというのは孤独感が増して寂しくなるもの。
昼間は高校に行き、人に囲まれてやらなければならない仕事をしていると気も紛れて無駄に考えなくて済む。
だが夜の静けさや暗闇は、どこか迫り来る死をイメージさせて、孤独と恐怖に襲われる。
昼間はぶっきらぼうだった湖賀だが、夜には雛に対して自然に優しくなれた。誰かに救いを求めるように…。
私観・高校教師◆第2話 (1/18up) 2話は1話よりも断然良かった。
1話がイマイチで納得できない部分が多かったから余計そう感じるのかもしれないけれど。
1話と2話でだいぶ雰囲気も違うと思うけど、1話って一体何だったんだ?と思う。これは演出のせい?
それで物語は相変わらず淡々と進んでいくんだけど、独特の雰囲気が出てました。
でも見ていて分かりやすい爽快感も癒しもなかったから、敷居が高いかも?
2回見なければよくわからない部分もあるし。
私としてはどことなく抽象的な展開・雰囲気が逆に新鮮で良かったと思う。
見ていて強烈な一撃というのはないんだけど、ジリジリと太陽に照らされているような。
あと1話を見た時は10代向けって思ったんだけど、そうでもないのかな。2話は女子高や女子高生を強調するようなシーンもなかったし。
全編に、今後どうなるのかよく分からない「危うさ」が漂っているような。
あと2話で感じたのは「儚さ」。夕陽のシーンとか。前作は切なさだったけど。
ストーリー的には、2話は湖賀の視点から「理解されること」がテーマだったんだと思います。
2話セリフ解釈 名セリフを載せるのは「引用」ということにして、こっちに勝手な解釈を載せていきます。名セリフと2窓開いて見て下さい。 [2-1]
前作の設定に従うなら、藤村は自己愛人間。
前作では愛を得ることに失敗している。
もう誰も自分を愛してはくれないという絶望と、女性に対する失望。
そうしていつしか愛を得ることを諦め、自己の中にある愛への欲求を抑圧している?
[2-2]
湖賀と恋人のかおりとのやり取りで湖賀が言っていたことはすべて嘘で、単にかおりに負担を与えないように自ら嫌われ役を買って出たのかもしれない。
ただそんな単純ではないとして深読みして考えてみると、
湖賀は本当はかおりに病気のことを話したかった。
そして慰めて欲しかった。それで孤独が癒されるならば。
だがそれができなかったのは表面的にはかおりに心理的負担を与えないためなのだろうけど、
それよりも話して慰められたところで、どうせ自分の苦しみは理解されないという気持ちが強かったのではないか?
かおりは自分の愛情を押し付けようとするが、湖賀はそれは愛ではないと言い、自分のステータスに対する執着だと見抜く。
湖賀にとって愛とは理解力であり、今は愛されるよりも、自分の苦悩を理解して欲しかった。
湖賀が価値観が違うと言ったのは、決して嫌われるための、別れるための嘘だけではないと。
[2-3]
雛の恋愛観。
そのままだけど、永続的・不変的な関係を望んでおり、雛に限らず野島作品の恋愛観に共通すると言える。
そう望むのはおそらく誰でもそうなのだろうが、「ずっと変わらずに好きでいる」というのは遥かに難しいことだ。
[ラストのナレーション]
> あの時、僕は研究や恋人を失い、失意と諦めのただ中にあった。
> しかし、その事が一体どんな言い訳になるのだろうか。
> それでも僕は偶然にも、生きる望みを手に入れたと言えるのだろう。
> 誰でもよかった。そう、他の誰でも。
> この僕の悲しみや苦しみを完璧に理解しうる誰かを
2-2で書いたことの繰り返しになるけど、湖賀の心境としては、誰も自分の苦しみや孤独を理解してはくれないと絶望していたのだろう。
おそらく病気のことは担当医(百合子)しか知らないのだろうけど、恋人のかおりなどの他の誰かに話しても同じこと。
死の淵にいる者といない者、圧倒的に立場が違うから誰かに慰めの言葉をかけられても、それはあくまで表面的な同情であり、慰めにはならない。
だが同じ立場に陥った者であれば、自分のこの苦しみを理解されうる。
そうすることでこの絶望的な孤独を癒せるかもしれない。
そしてそれは別に誰でもいい…。
自分が沈む孤独の淵に下りてきれてくれる、誰かであれば。
よってまだ湖賀には、雛への特別な感情はない。
今後、二人はどこに向かうのか?
私観・高校教師◆第1話 (1/11up) 1話見ました。
前作と比較してあれこれ言いたい気持ちはあまりないので、”新作野島ドラマ”としての感想を。
まず、スポットCMや前日の番宣を見て想像してた雰囲気とちょっと違ったような。
まだあまり”暗さ”がないのと、演出(見せ方)が思ったより普通というか。
これは嵐の前の静けさなのか、気楽に見たい視聴者を初回で敬遠させないためなのか?
だから独特の世界観が思ったほど感じられない。
展開も無難ではあったと思うけど、説明的というか。
まぁ私がマニアックなのを求めすぎなんだろうけど(笑)
1話を見る限りでは、大人の世界・異質な世界に憧れる雛の視点を中心に描かれているから、やはり中高生とか10代の視聴者を意識しているのかなぁと。
でも2話で重要な要素が出揃う(→テーマ参照)ということだから、3話以降で自由に動かしてくる感じなのかな。
だからまだウォーミングアップと考えた方がいいんでしょう。
そうだとしてもとりあえず1話には、私は強く引き込まれるようなものはなかったです。
冒頭の校舎が溶ける変なCGが気になったのと、最後の草むらから変質者の手が出るとこなんて安っぽいホラー映画みたいだし、前作と比べて演出が研ぎ澄まされてないのが結構気になる。。
出演者ではやっぱり藤村の存在感が良かったのかなぁ。
人間・失格→聖者の行進の斉藤洋介みたいに、いい人化しそうな予感が。まぁ前作の藤村も単純な悪役ではなかったのだけど。
あと番宣を見た限りではホストの悠次が、リップスティックの牧村のような狂気キャラみたいなので期待してるんだけど、1話ではまだ狂気を発してなかったので今後に期待したいです。
それで1話で主に描かれていたのは、平凡な自分が嫌でそこから抜け出したい雛の姿でした。
自分を変えたくて冒険をしたい雛と、絶望的な孤独を癒したい湖賀との出会い。
1話のラストの雛のセリフって何か含みがあるというか、今後の複線になってるんじゃないかなぁと。
1話セリフ解釈 名セリフを載せるのは「引用」ということにして、こっちに勝手な解釈を載せていきます。名セリフと2窓開いて見て下さい。 [1-1]
安定はしてそうだが平凡に過ぎ去りそうな自分の人生に疑問が生じて、そんな自分を変えたいと願う雛。
ということは安定第一とかの特定の価値観に縛られていなくて柔軟性があるから、異質な存在・価値観(湖賀)への適応力もあるということです。
[1-2]
相手を忘れることが幸福だということに納得できない湖賀。
決して忘れることのできない「永遠」を求めているのだろうか。
それは「死」をも超越するようなものなのか?
[1-3]
間近に迫った「死」という圧倒的不幸に直面したことで、虚無感に陥った湖賀。
何をしてもすべては無に帰するならば、生に意味はあるのか。
逆らうことのできない運命への苛立ちを抑えるには、穏やかな諦めに至るしかないのか。
[1-4]
平凡な自分に戻ってもいいから「秘密」が欲しいとはどういうことなのか?
今後に起こる展開をどこか暗示させます。
私観・高校教師◆はじめに (1/9up) このコーナーでは”私観・高校教師”と題して、私(ふみ)が感じたことを主観的・独断的に書いていこうと思います。
このサイトは昔から番組データや名セリフなどの客観的情報が多かったので、主観的な内容も少しは入れた方がいいんじゃないか?と。
だからここでは実験的に、できるだけ私の主観(言い換えれば趣味・嗜好)にこだわって書いてみたいです。
でも考察的なことも書きたいので、そういう部分はなるべく普遍的にしたいとは思いますが。
では、まだ放送前なので、前作のおさらいを少し。
「高校教師」その構造とは何だったのか。
簡単に言えば、堅実な生き方や社会的モラル観にしがみつき、自分の研究にしか興味ないような一人の男が、婚約を破棄し、研究室を追い出され、一人の女生徒に溺れ、その女生徒が抱える近親相姦という苦悩に直面し、最後はその父親を刺し、犯罪者にまで至る。そうしてすべてを失った時に初めて、自己の根源的欲求――ただ愛し愛されたかっただけ――に気づいた、という物語でした。
羽村隆夫の社会的地位や価値観をどんどん崩していくことで、表面的なもの・余分なものを取り除いて、本質的な人間像や剥き出しの愛を描いたわけですね。
野島ドラマはそういう風に、人を極限状態に置くことで人間の本質さや純粋な愛情を描くことが多いから、普通に考えれば今作は、主人公が間近に迫った「死」という圧倒的不幸に直面することで、その圧倒的不幸を癒してくれる、もしくは超越してくれる「愛」や、何が人間にとって本当に大切なものなのか?などを描いていくというのが、思いつきやすい予想です。
ただ、「死」という圧倒的不幸・孤独・恐怖を前にした時、それを忘れさせ、癒してくれる存在が欲しいと思うのは普通だろうから、一歩間違えば”愛という物語”への現実逃避になってしまうような気もするけど、まぁそんな単純ではないでしょう。
というわけで、”余命間近”というのは今までに野島ドラマでこういう設定がありそうでなかったのが不思議だけど、まさに”極限”ですね。
「死」に直面して、人間はどう生きるのか?という深遠なるテーマ。
基本的には「愛」を描くための手段として「死」という障害を置くんだろうけど、野島さんがどういう死生観を描くのかというのも楽しみです。
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