社会の価値
ありとあらゆる価値でもって、われわれはこれまで世界を、
何よりもわれわれ自身のために貴重なものたらしめようと努めてきた
しかしそれらの価値が実は適用できないものであることが証明されたとき、ついにわれわれは、ほかならぬそのことによって
世界を無価値なものにしてしまったのである
(ニーチェ「力への意志」)
( ´~`)ノハーイ
以前書いたように(農耕が造った社会)
この社会とは
価値を追い求めるところに本質があります
(o゜~゜)oホエ?
これだけ豊かになったんだから
少しだけ働いて食べれて平和ならそれで十分じゃない
とはならないのです
(゜~゜)
その証拠に
多くの大人が社会や政治に不満を持っていて
自分たちにもっと価値が欲しい
もっと豊かになりたいと嘆いています
(゜~゜)
しかし社会が追い求める価値とは
社会にとって都合のいい価値であり
各個人の価値などではありません
(o゜~゜)oホエ?
だからこそ社会の構成員は
学校では
社会秩序に従順に生きるように飼い馴らされて
社会に出たら
価値を増幅するためにいいように使われるのです
(゜~゜)
その結果社会が豊かになったとしても
それは本当に
価値のあることなのでしょうか?
(o゜~゜)oホエ?
なぜならそれは
各人の不自由やハードワークや主体性の喪失などの
犠牲の上に成り立っているからです
(゜~゜)
社会視点で見ると
各個人は駒に過ぎません
(´ロ`)
社会は常に
従順に動く駒を求めているので
生まれてから
学校や大人の言うことに素直に従って生きていると
社会に出た時には
立派な駒になっています
(´~`)アハハ
それでも私たちが
駒であることをやめないのは
そうしていれば
価値が手に入るからです
(゜~゜)
そのために
自由を犠牲にし
さまざまな苦労や努力をする私たちは
すなわち価値の奴隷です
(´ロ`)
かといって価値を求めることを
やめてしまうと
生きることの意味や目的がわからなくなります
(´ロ`)
つまり価値とは
人間が抱える根源的な虚しさへの抵抗なのです
(゜~゜)
結局人間は
無目的・無価値な人生に耐えられず
虚無を生きることもできないので
価値を追い求める社会の中で
価値争奪戦を繰り広げるしかないんですね
(´~`)アァー