逆説のニヒリズム
個々の人生にしても、また人類全体の生存にしても、
いっとき何物か something ではあるといえるだろう(これをLとする)
だが、それも無 nothing から生じ無へと帰す、というのがわれわれの帰結であった
この、「いっとき何物かであったものが、結局は無に帰す」
という事態を数学的に書き表すとすれば、L × 0 = 0 となるであろう
このニヒリズムが恐ろしいのは、この場合掛けられるもの(L)が何であれ、結局みんなゼロになるのだから、どのみち同じである、という点にある
つまり、掛けられるものの相違は究極的には全く問題にならない、ということである
だから優劣を差異づけることが無駄であるだけでなく、
それらにプラスとマイナスの区別をつけること(善悪の対比)自体にも意味はない、ということになる
一生を平社員で過ごした人の人生も、社長まで出世した人の人生も、結局はゼロとなって同じであるし、
人類の幸福に貢献した人の人生も、人を千人虐殺した極悪犯人の人生の価値も、結局はゼロだから同じなのだ
なにしろ<何をやるのも許されているが、何をやっても無駄>
というのが、宇宙論的ニヒリズムからの論理的帰結だったからである
(渋谷治美「逆説のニヒリズム」)
( ´~`)ノハーイ
この本はAmazonでレビューが一件もついてないので
マイナーな本だと思われますが
非常に根本的なことが問われていて
ふみっこの琴線にふれた一冊です
(o゜~゜)oホエ?
その問いとは単純なことで
自分はそのうち死んで
人類もいずれは絶滅し
50億年後に地球は太陽にぶつかって消滅し
宇宙もいずれは消滅する
という科学的事実を前にした時
人間に生きる意味はあるのか?
という問いです
(゜~゜)
無から生じたこの宇宙
そして私たち人間が
いずれはまたすべて無に帰して
この宇宙や人類が存在したことを知る者はいなくなるというのは
とても不思議なことです
(゜~゜)
そんな刹那的な宇宙の中で
たまたま存在した人間の一生に
何らかの意義があるのでしょうか?
(゜~゜)
自分の存在だけではなく
人類が築いた様々な文明、人類そのもの
地球だけではなく宇宙そのものが
無に帰するという
壮大な虚無を前にした時
人類がニヒリズムに陥るのは
至極当然のことだとふみっこは思います
(´ロ`)
しかし驚くべきことに
日常会話とか
テレビや本などで
そういったことがまったく語られないのです
(゜ロ゜)ギョエ!!
そしてどうでもいいようなことで
みんな一喜一憂しているみたいです
(´ロ`)わいわい
それはこの宇宙的な虚無には
人間は対処しようがないので
考えないことにしたのでしょう
(´ロ`)ポケー
しかしこの壮大な虚無に
ごまかさずに向き合ったならば
日常生活の多くの事柄や
社会的な常識や規範などが
どうでもいいことに
ならざるをえないのです
(゜~゜)
なぜならどうせ無に帰するのだから
意味のあること
価値のあること
重要なこと
立派なこと
こうであるべきこと
やらねばならないこと
やってはならないこと
そんなものはないからです
(´ロ`)
そうしていろいろなことがどうでもよくなった時
人は無意味の中に放り出されて
何をやっても無に帰するので無駄だけど
何をやるのも無に帰するので許されるという
虚無ゆえの自由を手にします
(*^~^*)ノハーイ
「逆説のニヒリズム」名言集
人生には悩みが多い
ともすれば生きることそのものに懐疑を抱くこともある
それに対して、世には多くのソフトな慰めの言葉、あるいは様々な決然とした鼓舞激励の言葉が用意されている
それらに接してなお釈然としないもの、腑に落ちないものを感じる人々に、この本を贈りたい
(p.5)
この宇宙のスタート直後の「量子のゆらぎ」の偶然性が
約180億年後の(この地球上における)人類の誕生を決定的に支配しているのである
この点からもわれわれは偶然の産物であるといえる
(p.45)
われわれが得た3つのテーゼを再確認してみよう
第一に、人間とは「いても不思議ではないが、いなくても構わない存在」であった
第二に、人間は「宇宙の孤児であって、しかも身元保証人すらいない存在」であった
そして第三に、人間は「何をするのも許されているが、何をやっても無駄な存在」であった
結局以上のことを個人の立場から総括して言い表せば、
「人はそれぞれ根拠なく生まれ、意義なく死んでいく」のである
(p.68)
人生は無、という深淵がわれわれに向かって否応なくその蓋を開けるが、そのとき人々は自ずと
「なぜ人は生きねばならないのか」
「人生の意味はどこにあるのか」と問いを発するであろう
ところがこの問いには解答が見当たらない
深淵の深淵たるゆえんである
どこまでいっても底がない、という事態は無限ということである
しかも人類は早期からその無限の謎に自前で解答を与えることができた、観念としての解答を
それが「無限者」「絶対者」「超越者」としての「神」である
これは一つの壮大な自問自答である、といえる
というのも、「人はなんのために生きるのか」と問うのが人間であるのは当然として、
「それは神を信じきるところに見いだされる」と答えるのも同じ人間自身だからである
この事情はどんな宗教にも共通して指摘することができる
(p.99-100)
ヨーロッパ人によく知られた次のような言葉がある
「たとえ明日世界が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える」
これはルターの言葉といい伝えられている
この言葉は人生の意味の虚無を前にして、<にもかかわらず>生きるという態度を、ほとんど気負いなく恬淡と語っている
(p.119)
つまり、人生に遠慮や気兼ねはいらないのだ
何しろ結局は<何をやっても無駄>なのだから
つまり、「だから生きる」という人生態度によって人は、
人類発祥以来の既存のノモス(社会規範、道徳、法)から精神的に自由な境地に立つことができ、
その分現実的にも自由な人生を送ることができるだろう
すると、社会から半強制された人生コースから脱落するまいとして神経症に陥るなどという、それこそ無意味中の無意味な苦悩は避けることができるだろう
(渋谷治美「ニヒリズムからの出発」p.43)
引用・関連文献
・渋谷治美「逆説のニヒリズム」(1994)
・渋谷治美「逆説のニヒリズム」新装版 (2007)
・共著「ニヒリズムからの出発」(2001) ※2章に同著者による「逆説のニヒリズム」の要約版掲載