[ 一覧に戻る ]

過去ログNo1
サクのいない世界で私はずっと待ってたのよ  Name:じん
最近DVDを買って見ました。このドラマはいろんなことを考えさせてくれます。質問があります。『サクのいない世界で私はずっと待ってたのよ』というシーンが第1話と第10話でありますが、1話では亜紀の表情が辛そうなのに対して、10話では微笑みを浮かべています。何故変えたのか、製作の意図を知っている人、解釈を教えてください。もう議論済みのことと思いますが、、、
...2006/01/15(Sun) 18:13 ID:Zz1zpTE.    

             Re: サクのいない世界で私はずっと待...  Name:にわかマニア
 このドラマの特徴の一つに,物語の最終盤のシーンを回想シーンとして,いきなり冒頭に持ってくるという点がありますね。問題のシーンも,冒頭,亜紀を撒こうとして撒けないサクが絶叫する場面に回想の中のそのまた回想として登場するものでしたね。

 1話と10話の違いについて,可能性としては,最初の段階では台本が仕上がっていなかったためとか,役づくりをする間もなく,いきなり事実上のラストから撮り始めたためといったことも考えられなくはありません。しかし,細部の描き方でその後の微調整があったとしても,骨格は決まっていたでしょうし,プロの俳優と監督ならピッタリの絵になるまで撮り直すはずですから,こちらの線は薄いでしょう。
 とすると,何らかの意図があって,両者を使い分けていると考えた方がよさそうです。

 そこで参考になるのが,本編と回想の違いでよく指摘される「山田君絶叫シーン」です。本編では桐の箱から取り出す遺灰が回想シーンでは既に瓶に入った状態なのですね。これについては,第1話の方は,サクの夢の中あるいは心象風景であり,亜紀を撒けないままでいる状態を表現したものという解釈が定着しています。
 さて,標題の亜紀のセリフの部分ですが,第1話に登場するのは,サクの回想の中でです。つまり,「亜紀にとって」とか「客観的に」どうだったかではなく,「サクにとって」というフィルターを通した映像という点がポイントになるものと考えられます。では,この時点でのサクはどういう状態かと言えば,亜紀を撒けない,亜紀を引きずっている状態です。もっと言えば,本人に望まれたとはいえ自分が亜紀の寿命を縮めてしまった,亜紀をボロボロにしたのは自分だと責め続けている訳です。
 そういう状態のサクに,既に運命を受け容れ,「おまえの脚はあの子の脚だ」という境地に達し,「死に方に夢を持つ」ことで「自分らしく生きる」ことを全うしようとしている亜紀の悟りきった表情(第10話の表情)がそのまま映るでしょうか。数時間後には力尽きて倒れてしまう息も絶え絶えの重篤患者の苦しさだけが強調されて見えたのではないでしょうか。
 つまり,桐の箱と瓶の違いと同様,第1話で描かれているのは,そういうサクの眼に映った姿なのではないでしょうか。
...2006/01/17(Tue) 02:29 ID:UEOtlrkM    

  [ 一覧に戻る ]