Name:サクサクッ
| | 17年ぶりに故郷に帰った朔の気持ちは、 「亜紀の死を受け入れて、きちんと送ろう」というものだったのでしょうか? それとも、「もう辛くてムリだから手放そう」と死を受け入れることへの現実逃避だったのでしょうか?
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...2005/12/24(Sat) 00:35 ID:r1F7BJjs
Re: 17年ぶりの故郷 Name:しお
...2005/12/29(Thu) 01:45 ID:.wldgJhY
Re: 17年ぶりの故郷 Name:にわかマニア
| | 全11話のドラマですが,1987年編が高2の半年間を描いているのに対し,2004年編は第5話と第6話の間の「テープを繰り返し聴いた何日間」かを除き,ほとんど時間が進行しません。ですから,第4話のラストで恩師にこぼした「もう無理だと思った」というセリフが参考になると思います。
放映開始冒頭近くのナレーションで,何も考えなくて済む分,忙しいのはありがたいと語っていますが,その際,一般論としてだけではなく,「特に7月2日は何も考えたくない」ということを強調しています。つまり,亜紀の誕生日なるがゆえに,意識的に何も考えないようにしないと,亜紀を思い出してしまうということを裏から語っている訳です。 しかし,実際には,ラジオで読まれたハガキに反応してしまい,「あるはずのない現実に期待して」サテライトスタジオに向かい,そこで亜紀の幻影を見て,17年前を思い出してしまいます。「忘れなければいけないと思った」というナレーションとともに,サクがヨロヨロとどこかに(おろらくは郷里に向かう列車の出る駅に)向かう第1話のラストは,これを受けてのものです。 とすると,亜紀のことを意識しないように,「意識的」に「無意識状態」を作っている(忙しくしている)状態というのは,明らかに「現実逃避」なのですが,その「現実逃避」に疲れてしまって,「逃避」からすらも「逃避」しようとしているのが故郷に向かった時点のサクの状況ということになります。
では,そこに「亜紀の死を受け入れて、きちんと送ろう」という要素がどこまで入っていたのでしょうか。「忘れなければいけないと思った」(第1話)とか,「本当は17年前にしなければいけなかった」(第2話)と語っているところから見て,「ゼロ」ではないことは確かです。 ただ,問題は,そう「思って」も,気持ちがついていかないということなのですね。原作の亜紀の両親と亜紀を撒きに行く場面で,「ひんやりとした白っぽい粉」が「なんであるのか」,「頭では理解できても,感情がその理解を拒んだ。受け入れると(自分自身が:引用者注)壊れてしまいそうだった」(191頁)という表現がありますが,ドラマの大人サクも頭と感情が乖離した状態にある訳です。
これらを総合すると, @亜紀の死を受け容れられず, A現実逃避の日々を送っていたが, B「逃げ続ける」ことに疲れ果ててしまった。 C頭では,「きちんと送らなければ」と思いつつも, D「ありもしない現実」に期待する「もう一人の自分」がおり, E気持ちが頭に追いついていくには,なお時間が必要だった。 といったところでしょうか。
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...2005/12/29(Thu) 10:52 ID:xaoTDHzE