Name:サクたろう
| | 祖父との会話でサクは
「最後のとき、彼女はぼくに会おうとしなかったんだ」 ずっと気にかかっていたいたことを口にした。 「会うことを拒んでいるようだった。どうしてだと思う?」 「どうして彼女は、ぼくが最後までそばにいることを望まなかったんだろう」
アキはなぜそうしたんだろう…サクと同じように僕もアキのこの態度をどう消化していいのか分かりませんでした。 その後に続く祖父の言葉に
「実現したことを、人はすぐに忘れてしまう。ところが実現しなかったことを、わしらはいつまでも大切に胸のなかで育んでいく…」
死を目前にして、アキはこの祖父の言葉のようにサクにいつまでも自分を思い続けてほしい、と思っていたのでしょうか。
みなさんはどう解釈し、アキはどうしてそうしたんだと思いますか?
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...2005/05/22(Sun) 21:50 ID:WMOuWip.
Re: 小説:最後のとき、彼女はぼくに... Name:うてきなぷりぱ
| | 私もこの件については、疑問に思い何度も原作は読み返しましたが、結論には至りませんでした。ただ、映画では渡せなかった最後のテープでこの疑問に新たな解釈を私たちに与えてくれています。 わたしなりの解釈では、朔太郎とウルルに行くことに亜紀なりの生き様を示そうとしたのではないでしょうか。結局夢半ばにして病院に連れ戻されることになりましたがおそらく、亜紀は朔太郎のそばで最後は看取ってほしかったのではないかと思います。ドラマでも、空港のシーンで亜紀がここが天国だと言ってました。たとえが良くないかもしれませんが、私たちが死を迎える場所というのは、事故とかをのぞけば、病院のベットであることが多いのではないでしょうか。亜紀の望む死に場所はきっと病院のベットの上ではなかったんだと思います。
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...2005/05/22(Sun) 22:14 ID:pXygNKx6
Re: 小説:最後のとき、彼女はぼくに... Name:くれい
| | こんばんは。 過去にどなたかが書かれたような気もしますが、 非常に解釈が難しい部分ですよね。 まあその謎は映画やドラマでほとんど答えが出たような気がします。 原作のこの部分だと「変わり果てた姿を見せたくない」という一面もあるのかもしれないですが、 映画・ドラマも全て含めて解釈すると 「あなたのなかで私は生き続ける」ということでしょうか。 ウルル行き失敗の時点で亜紀は朔への別れが終わったのでは? 看取れないということはつらいですが、この場合だとサクが死ぬかもしれないと分かっていてアキを連れ出したわけなので、看取ったら看取ったでサクに 「自分がアキを殺した」という思いが必ず起きると思います。 そう思って欲しくないというアキの想いもあったんじゃないかなあと。
確か原作だとその後に祖父の「形あるものが・・・」と続くような気がしましたが、 アキ自身の「生きたい」という気持ちの強さ から会わなかったのでしょう。 でも確かに残酷です。 現に映画やドラマは看取れなかったことで17年間苦しむことになるわけですから。
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...2005/05/22(Sun) 22:45 ID:if2pCdGA
Re: 小説:最後のとき、彼女はぼくに... Name:かずのり
| | こんばんは。初めて投稿します。ぼくもクレイさんの意見に賛成です。これ以上自分の変わっていく姿を見せたくないというのもあるだろうし亜紀自身が朔に自分のことを早く忘れて幸せになってほしいというのもあったのかなあと思います。結局それが仇になった面もあると思いますが・・・・・・
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...2005/05/23(Mon) 00:29 ID:NJyg674E
Re: 小説:最後のとき、彼女はぼくに... Name:にわかマニア
| | 難しいですね。 と言うのは,結果的に10年以上も届くことがなかったものの,テープを通じて「もう会わない方がいい」と言われた映画,サクもまた倒れているうちに逝ってしまったドラマに対し,唯一,空港で倒れて再び病院に担ぎ込まれた後も直接会話しているのが原作なのですね。 そこで亜紀は,「自分がどこへ行くか判っている」し,「ここからいなくなっても,いつも一緒にいる」と述べ,そういう自分を「また見つけてね」と言っています(160頁)。このセリフは,明らかに,空港へ向かう車中での「わたしがいなくなっても世界はありつづける」し,「この幸せを・・・どこへでも・・・持っていく」というセリフ(154〜155頁)を受けたもので,亜紀のサクに対する遺言のような位置づけになっています。 原作が明示的に描いているのはここまでで,後は解釈で埋めていくしかありません。今わの際の病室で,これだけのやりとりをしておきながら,後日の祖父との会話の中で「最後に会おうとしなかった」と言っているのは,心電図の波形が平坦になる瞬間に枕元にいなかったということを指しているのでしょうが,既に最後のメッセージは直接本人から受け取っていることとの関連で,どう考えるかです。 亜紀としては,上記の会話で「伝えるべきことは全て伝えた」と思っていたでしょうし,くれいさんのおっしゃることも大きいと思います。その上で,物語全体のテーマとの関連で言うならば,亜紀のメッセージを受け取ったサクが「点在」から「遍在」に遷移した亜紀の存在を実際にどう感じるようになったかを表現するため,あえて臨終の枕元には立ち会わなかった設定にしているのではないでしょうか。 なお,この問題に関しては,「謎解き」スレの15番から50番あたりに,車中での会話や「点在と遍在」の解釈も含めて,かなり詰めた議論が展開されていますのでご参照頂ければと思います。本当はダイジェスト的に要点をご紹介できればいいのですが,いろんな方たちがいろいろな角度から考察しておいでですので,とても数行ではまとめきれないということでご容赦ください。
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...2005/05/23(Mon) 02:46 ID:CCsypI.2
Re: 小説:最後のとき、彼女はぼくに... Name:にわかマニア
| | 最近,スクロールして投稿内容が読める掲載件数が30件から15件に減り,50件たまったら過去ログ送りだったのも30件程度で過去ログ送りになってきているので,カラ投稿で落ちるのを食い止めておきます。 このテーマは結構奥が深いような感じがしています。皆さん,議論の続行を。
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...2005/06/01(Wed) 23:28 ID:BnVTc8T6
Re: 小説:最後のとき、彼女はぼくに... Name:サクたろう
| | みなさんのさまざまな解釈を拝見しました。 それでも僕はやっぱりうまく消化できませんでした。 変な話、片山氏の作り上げた世界なんだからと言ってしまえばそれまでなのですが、現実の行動として考えたときに、やっぱりアキになにか思うところがあったはずですよね。
小説を通して、アキはサクにぞっこんではなかったような感じがします。その辺りに解釈を求めてもいいものでしょうか。
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...2005/06/02(Thu) 00:53 ID:.7UQAyfo
Re: 小説:最後のとき、彼女はぼくに... Name:うてきなぷりぱ
| | 亜紀が朔太郎にぞっこんではなかったような感じがしたのは、私も同感です。原作はおしゃるとおりに、片山氏が作り上げた世界(朔太郎の世界)だったと思います。 原題が「恋するソクラテス」というぐらいですから。 亜紀の心情は、朔太郎の感じたことでしか、読者は掴み取ることができません。まさに想像のお任せしますといったところでしょうか。むしろ、たとえ亜紀がぞっこんでなくても、朔太郎の心情を描くことに主題においているなら別に問題にしなくてもよいことなのかもしれません。ドラマと違って、朔太郎は勢いで、ウルル行きを敢行したような感があります。表題の件は、もしかしたら後悔とまではいかないまでも、思わず後ろを振り返って自分の置かれている現実に直面したのではないでしょうか。
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...2005/06/04(Sat) 12:44 ID:J/Z7XZhU
Re: 小説:最後のとき、彼女はぼくに... Name:にわかマニア
| | 他のスレでも何度か触れましたが,一人称小説というのは,主役と対をなす相手役(この場合は亜紀)ですら,視点人物(ここではサク)の目や耳や口を通じてしか読者には提示されないのですね。そういう意味では,全編これ「サクにとっての世界」なのですね。実際にどうであったかにはかかわりなく・・・ 原作のウルル行きは「勢いで」という面が確かにあります。どんな病気であれ,病室に閉じ込められていると気が滅入るものですが,外に出たいという話がどんどん膨らんで,「ここから連れ出す」になり,それを具体的な方向に誘導するため,とっさの思いつきでオーストラリアを持ち出した面が強いのですね。このあたり,謎解き本では,彼氏という特別の立場を利用して亜紀が運命を受容する過程に干渉し,残り少ない時間を弄んだと,にべもありません。 ただ,ここを念頭に置いてドラマの最終回を見ると,サクを縁側から庭に突き落とした時の父のお説教の意味もよく見えてきます。
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...2005/06/07(Tue) 06:50 ID:wrtuYlYc