Name:shinichi
| | 映画版をVHSで見ました(家にDVDデッキがないので・・・)。
確かに、ストーリー設計はドラマに分があるな、と感じましたが(あくまで最大限客観的に見たつもりですが)効果、演出などの映像設計は映画の方が上なんではないか、と感じました。ひょっとしたら、映画の画像はフィルムの仕様も’86年当時の物と同じ材質や製造法の物を使って当時の雰囲気を出したのではないか、と思われます(あんまり詳しくないので、あくまで私の見た感じですが)。
しかし、映画を見て感じた事は、ドラマがものすごく泣ける理由ってのは、ドラマでは亜紀が『誰からも好かれて愛される』女の子だったって事が描かれている事だったり、松本家や廣瀬家の人々、スケちゃんや智世や坊主、そしてその他同級生やタコ焼き屋の親父等、二人を取り巻く人々が事細かく描かれていた(三浦さんや高橋克美さんが仰ってた事)って事なのではないか、と感じます。特に、亜紀と大親友だった智世(谷田部先生と同様、ドラマオリジナルのキャラ)の最終回の葬儀のシーンやグランドで叫ぶシーンや谷田部先生が亜紀の『“絶唱”のテープ』を聴いた時に号泣するシーンはドラマのファンだったら誰もが涙したシーンなのではないか、と私は思うのです。
三媒体を通しての率直な所感としては、こんなところです。
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...2005/05/10(Tue) 06:25 ID:bEqQWQKQ
Re: いまさらながら Name:にわかマニア
| | 映像の件ですが,映画版が「白鳥の歌」になってしまった故・篠田さんにはアカデミー賞の撮影賞が贈られています。ご自身でも監督をされることがある方で,まだまだご活躍頂きたかった方でしたが,早世が惜しまれます。 また,TV版も「80年代」を印象付けるため,エンディングの画像をあえて8ミリで撮ったとのことで,ここにも「こだわり」を感じ取ることができます。
原作が1人称小説のため,登場人物は話者の周辺の人物に絞られ,それも話者との接点となる部分に限って描かれていました。2時間ちょっとの映画は,そんなに寄り道をする時間がないため,サクと亜紀と律子に絞って描いており,そのためもあってか,亜紀は孤高の存在として描かれています。これに対して,持ち時間がたっぷりある連ドラでは,周辺の人物も丁寧に描いています。つまり,どの層にとっても誰かしら感情移入できる登場人物がいるということが,茶の間で家族そろって見るテレビ版として成功した要因の一つではないでしょうか。
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...2005/05/11(Wed) 12:43 ID:9hSU2Tz6
Re: いまさらながら Name:よかったさん
| | ホントいまさらながら今回初めて世界の中心で愛をさけぶ映画版を観ました。 ドラマも原作本も未見です。 唯一映画の予告編はテレビで何度か見てました。 昨年ホントに日本にいたのかと思われる方多いでしょうね(笑)。 予告編で山本未来(最近知りました)が「助けてくださ〜い」と叫ぶシーン、病気の彼女が倒れているから周囲の人に助けを呼んでいるのかと思っていましたが、今回観て神様に対して「助けてください」って叫んでいたんですね。理解した途端に涙が出ました。 この映画を単純に感動したよとか泣けた映画とか、単純な言葉で表現したくない。 今は観てよかったとだけいいたい、そんな気分です。 昨年、取り沙汰された理由が分かりました。
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...2005/05/12(Thu) 17:21 ID:kzFOzVnk
Re: いまさらながら Name:yamabito
| | 私は、原作→ドラマ→映画の順に見ました。 原作を読んだときは、「これが何でベストセラー?」といった印象でした。 そして、映画が公開されたときも見に行こうとは思いませんでした。 ドラマが放映開始されると聞き、流行もの嫌いの私は大して期待もせず「まあ、面白い番組もないし、見てみるかぁ・・・」と第1話を見て、何か普通のドラマと違うものを感じて、惹き付けられ、はまってしまいました。 ドラマ放映中に、あらためて原作を読み返したところ、初読時には見えなかったものが見えて涙がこぼれてきて、原作の素晴らしさを再認識させられました。 さらに公開中の映画版を見に行きました。 描き方が違う良い映画でしたが、ドラマの印象が強くて感動できませんでした。
私の結論としては、ドラマが一番現実的で丁寧な作りで、次が原作、映画版は透明感はありますが、非現実的な印象でした。 ドラマ、映画版ともDVDBOXを買いました。 映画版は一度見たきりですが、ドラマのほうはもう数え切れないほど見ており、何回見ても知らぬ間に涙がこぼれてきます。 やはり山田朔と綾瀬亜紀のカップルが最高です。 生来最高のドラマだと思っています。
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...2005/05/13(Fri) 20:50 ID:l22Q07sY
Re:いまさらながら Name:shinichi
| | 僕としては、にわかマニアさんと基本的に同意見です。サク、亜紀、スケちゃん、智世、坊主etc....と、見る人誰かが必ず一人は感情移入できる。だからドラマでは皆が泣いた、という事なのでしょうね。 でも、“廣瀬真”を演じた三浦友和さんは素晴らしかった。やはり、二十数年前にあの刑事ドラマのあの役をやっていなければあんな風には演じる事が出来なかったのかも知れないし、このドラマの後に控えていたあの名優の人生を綴ったドラマの、その本人の役をやったというのも、何かしら影響があるんでしょうねぇ・・・。 というよりも、三浦さんが“廣瀬真”のモデルにした人ってのは・・・・確か、公式ページのインタビューで『ちょっと古いタイプのお父さんかな。我々の世代の父親・・・』なんて話している所を見ると、ひょっとしてあの方かも・・・。
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...2005/05/16(Mon) 21:54 ID:3zpoDyec
Re: いまさらながら Name:あいこ
| | みなさんの意見を読んでてなるほどなぁという感じでしたが、ただshinichiさんがおっしゃっていた 「ドラマでは亜紀が『誰からも好かれて愛される』女の子だった」 という点だけ、「ん?」という感じでした。 わたしとしてはドラマのアキは、クラスで浮いてるように見えるし女の子からよく攻撃されてるし、 それを単にひがみととらえたとしても、みんなから愛されているとは感じません。 後半ではそんな女子からも心配されたりしてましたが、それは病気になったことでクラスメイトとして心配してただけで、特に友情には見えませんでした。外泊許可の時も冷たかったし...
わたしは映画ファンなんですが、その最大の理由はアキの人間像です。映画でも特に好かれてるって描写はないけど、「舘がくるって!」あたりのシーンでみんなが「あれアキじゃない?」と盛り上がったりしてるあたり人気者っぽい。そうでなくても、とりあえず浮いてる印象はありません。 ジュリエットになったいきさつにも、ドラマと映画ではだいぶ温度差を感じます。
わたしは高校三年生だけど、同じ女の子としてやっぱり映画のアキのほうが自然で魅力的に思えます。ドラマのアキはどうしても、完ぺき主義で憧れられたりはしても友達は少ない、浮いてる人って感じがしちゃいました。
そのへんのとらえ方は人それぞれなので口出しするつもりはなかったんですが、どうしても気になったので言わせてもらいました。 不快でしたらすいません。
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...2005/05/19(Thu) 18:31 ID:uJc81Y8.
Re: いまさらながら Name:うてきなぷりぱ
| | ドラマは時間に余裕がある分、亜紀の性格や人間性が丁寧に描かれています。もちろん長所も短所も。だからこそ感情移入もしますし、好き嫌いもはっきり出ると思います。私は、映画も原作も好きですが、亜紀の人間性を丁寧に描いている点に関してはドラマは一歩ぬきんでていると思います。ドラマでの亜紀は、決して特別な存在ではなく、どこにでもいそうな普通の女性だと思います。だからこそ、多くの方の支持を得てるのではないでしょうか。
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...2005/05/19(Thu) 21:42 ID:3Sn.xT8o
Re: いまさらながら Name:あいこ
| | ドラマのほうが人間性の描写がていねいなので、意見が分かれるというのは本当にその通りだと思います。 これはわたし的勝手な見解なんですが、セカチューファンは男性はドラマ派、女性は原作か映画派が多くはないですか? もちろん違う人もいっぱいいると思いますが。 わたしの周りではそんな傾向が強い気がします。 特に山田孝之さんを支持するのは男性のが圧倒的に多いです。
でもほんとに原作、ドラマ、映画は別物ですよね。
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...2005/05/19(Thu) 23:22 ID:uJc81Y8.
Re: いまさらながら Name:say
| | どちら派かどうかは誰を見ていたか、誰に感情移入したかどうかでしょうね。 多分若い男性で役者の好みで反応した人なら映画、おじさんで高校時代淡い恋の思い出が強く、それを思い起こした人ならドラマを気に入った確率が高そうに思います。 それぞれの理由は長くなるので省きます。
原作支持に女性が多いだろう事は好きになっていく課程が他より細かく描かれている事や付き合ってからの二人の様子についてもドラマ以上に判る事、そして朔のキャラクタに対する抵抗感が少ないだろう事が理由でしょうね。
このドラマで山田さん支持に男性が多いのはよく分かります。ここで描かれているキャラクタは女性にとって魅力的に感じる点は多くないと思いますから。 またそのキャラクタを嫌いに思う点がある故に映画のほうがドラマより好きという女性が多いようにも思います。
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...2005/05/21(Sat) 11:39 ID:9rZREjoY
Re: いまさらながら Name:にわかマニア
| | この議論が難しいのは,映画もドラマもそれが単独に存在するのではなく,原作を受けて作られているということです。つまり,映画単体として,あるいはドラマ単体として評価した場合の「それぞれの良さ」とは別に,意識的にせよ,無意識のうちにせよ,それぞれの作品を原作との距離という「もう一本のモノサシ」で評価している部分があるということですね。 これは何も,一事が万事,原作のとおりに再現すべきだと言っているのではありません。それぞれの脚色の仕方はあって当然なのですが,原作の提起したテーマの根幹に関わる部分の変更がどこまで許容できるかということです。 その意味で言えば,サクは亜紀を亡くした後,亜紀の存在をどう感じるようになったか,それとの関連において,題名ともなっている「世界の中心」をどのようにとらえたか,それを映像的に表現している散骨シーンとも関連しますが,映画の解釈には原作との間にかなりの距離を感じてしまうのです。 まあ,映画にせよドラマにせよ,「お気に入りの俳優が出ているから」とか「単にそれ独自のストーリー展開がどうだったか」を基準に判断するならば,それぞれの「良さ」がまた別の角度から語られることになるのでしょうが・・・
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...2005/05/21(Sat) 13:37 ID:J2nyTBTU
Re: いまさらながら Name:うてきなぷりぱ
| | 最初に原作があって、映画が作られ、ドラマが作られました。原作本は今では片隅に追いやられたとはいえ大型書店ではまだ、平積みされているのを見かけます。映画とドラマがなければ、ここまで原作も売れなかっただろうし、すばらしい原作があったからこそ、映画もドラマもヒットしたと思います。私は、原作、ドラマ、映画は三位一体だと考えています。セカチューを語る上で、どれ一つとして欠くことはできません。お互いが足らない部分を補い合って、相乗効果を生み、2004年の社会現象にもなりました。私は必ず近い将来、第4のセカチュー、(リメイク版、全く新しい解釈の物語etc) が必ず出てくると信じています。
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...2005/05/21(Sat) 17:32 ID:oIZBEuUo
Re: いまさらながら Name:ダメ人間
| | 私の知り合いに二人、親友を白血病で亡くした人がいます。 その人たちからすると、原作と映画は共に、他の「視聴率、又は話題性のために白血病をお涙頂戴モノとして扱う、実際にそういう体験をした人の気持ちを考えてないモノ」と同じだそうです。 映画はまだしも原作は特にそうだそうです。 それだけにドラマの周囲の人たちの心境、特に亜紀の両親の描写などは実体験を持つ人たちの心境を見事に描いていて、原作、映画との差が明確だそうです。
杉本哲太と三浦友和の差は歴然ですよね。 杉本哲太は特にいなくても・・・じゃないですか? あの年代の女の子が病気になって同性の母親が全く出てこないのも私には思い切り不自然。 でも、原作や映画が好きな人は寧ろそれが良いらしいですねぇ・・
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...2005/05/22(Sun) 03:15 ID:l3Wjeb5Y
Re: いまさらながら Name:say
| | 映画で母親が出てきたことに気づいていない人は多いですね。 私の周りにも何人かいました。
一度だけですが、出ています。 朔が病室を覗いて頭を剃った亜紀を初めて見たシーンに「お母さん、今日はもう帰って寝なよ」と亜紀が言うシーンがあります。
多分映画は両親については敢えてそれぞれ1つずつの登場に抑えているように思います。 まったく登場しなければ違和感バリバリですが、少ない登場で両親を描くには最適な描写に見えます。
もちろん実体験のある人から見れば親が疎かに扱われている描写に見えるでしょうが、絵と同じで何もかもを詰め込むと特徴も場合によって主張さえも見えなくなってしまいます。 時間的制約の厳しい映画では両親を描きすぎると朔と亜紀の描写や律子の描写を削るかになってしまいます。 原作については亜紀と両親についての会話がないのと両親が朔に見せているのとは違う顔についてあるのかないのかも含めて描かれていない為に不満に思う事は判りますが、原作はあくまでも朔が見た世界のみですから仕方ありません。
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...2005/05/22(Sun) 03:49 ID:HYQH1RaM
Re: いまさらながら Name:朔五郎
| | 原作が、映画やドラマと大きく異なっているのは、むしろサクの描き方だと思います。 これは、にわかマニアさんも発言されているのですが、主眼(テーマ)といったものが全く違うと思われます。 原作のサクは、シャイで「いいヤツ」といったイメージではなく、ちょっとキモいと思われるくらい、アキの「肉体」というものに執着するわけです。 しかし、やがてアキが白血病になり「見かけの美しさ」を失っていき、最後に肉体そのものが消滅してしまっても、アキの存在感は消えることはなかった。生命とか愛とかの本質というものをそういう形で描写している物語だと思うのです。 つまり、極めて乱暴な言い方をすれば、これはナマ臭いエロガキが、一人の女性を本当に愛することができる一人前の男になるまでの成長の軌跡の物語であり、アキの死というものはその設定のひとつに過ぎないのだと思うのです。もちろん、これはある意味、不謹慎だとは思うのですけど。 それに比べて、映画やドラマでは、アキの生き様、そして死というほうに主眼を置いています。主人公はどう見てもアキのほうでしょうね。特に映画では。 ただ、映画で母親の存在が疎かに扱われているということはないと思いますよ。確かに出番はわずかだし顔も見えない。 しかし、アキと母の会話 「今日はもう帰って寝なよ。そうでなかったら、お母さん病気になっちゃうよ」 「わかっているわよ」 「わかってないよ」 この短いやりとりで、寝食を忘れて献身的に看病をする母親の存在を、朔五郎は充分に想像することができます。
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...2005/05/22(Sun) 05:39 ID:AUZ51T2M
Re: いまさらながら Name:にわかマニア
| | 既に述べたことと一部重複しますが,原作は1人称小説のため,主人公以外の人物は,主人公との会話や主人公の回想の中にしか登場しません。亜紀ですら,読者にはサクの目や耳を通じた「アキ(あえてカナ表記にします)像」が提示されるだけです。 さすがに,映像化するとなると,画面の横に作中人物とは別に「語り手・松本アナウンサー」が登場する訳にはいきません(せいぜい「陰の声」どまりです)から,その分,登場人物を膨らませたり,原作が省略した人物を登場させて描くことになります。そして,その場合,作品の「持ち時間」という制約条件の中で,映像作家として描いている主役級の登場人物のキャラクターとの兼ね合いの中で,最も効果的な描き方を工夫しているのではないでしょうか。 映画とドラマに即して言うならば,確かに,周辺人物やそれぞれの家庭まで時間をかけて描いている分,ドラマの亜紀の父親には説教癖がついて回ります。でも,その「説教癖」は,病気の娘が最も必要としているのは親以外の人物だったというところに根ざしていますから,主人公たちの絆の強さを裏から描いたものとも言えます。むしろ,「何もしてやれない(映画・父)」とか「俺にできるのは入院費を稼ぐことくらい(ドラマ・父)」というところに「親の側の目線」の本質がきちんと描かれており,持ち時間の少ない映画は,父親の心情をこの1シーンに凝縮して表現しています。 母親についても,映画では,「帰って寝ないと母さんが病気に」という1シーンの中に,献身的に看病する親の姿と,親に対する娘の気遣いが凝縮されているのを読み取ることができますし,ドラマでは「体積無限大のスポンジ」的な「聞き役」としての「母親」が見事に表現されていると言えるでしょう。
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...2005/05/22(Sun) 06:56 ID:Fe396cWw
Re: いまさらながら Name:say
| | (笑) ここのところ全体的に書き込みが減ってきたように感じていたところに私も含めこのように書き込みが連なるところを見ていると、妙に可笑しくなってしまいました。 まるで水を得た魚だなと。(^^;
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...2005/05/22(Sun) 08:30 ID:WqDzF75E
Re: いまさらながら Name:shinichi
| | 僕が『誰からも好かれる』と表現したのは、大親友の智世だったり、スケちゃん、坊主etc....それとか某無理矢理キスった奴とか(笑)、そういった亜紀に関わる全ての人達の事を勘案しての事です。僕としてはクラスの智世以外の女子云々という所はあんまり見てはいなかったので。 それとか、映画で現代の竜之介(宮藤官九郎さん)が「おまえは何しに行ったんだ、廣瀬亜紀との想い出探しにいったんじゃないだろう!」なんて言うシーンは正直嫌悪感です。 あとね、例の「舘」のシーンですが、あのシーンの時、他の女子は亜紀に対して嫉妬のこもった目線を送っていたように見えたのは僕だけでしょうか?(見方が浅いのかなぁ、俺・・・)。
そう言えば、その件の舘ひろし氏は、前述の某刑事ドラマで三浦さんの相棒の役をやってました(笑)。三浦さんがいよいよ、って時に男泣きに泣いています。プライベートでも仲が良いそうで・・・(ヨコシマだなぁ、俺(^^;)。
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...2005/05/22(Sun) 09:56 ID:AUZ51T2M
Re: いまさらながら Name:ダメ人間
| | そっか、映画に母親のシーンあったんですね。 全く記憶に無かった。
うーん、でもそのシーンと、杉本哲太のあの感じで 病気を持つ娘に対する両親の描写がなされたとは言えない気が私はします。 実体験を持つ人も同じ感想だそうです。 例え時間的制約があろうがなかろうがです。 映画や原作はそこじゃない部分がテーマなんだから と言われればそうなんでしょうけど 実体験をした人からすれば、そこを省くから白血病をお涙頂戴アイテムに使われると感じるんでしょう。 特に原作に関しては、朔五郎さん仰るところの >アキの死というものはその設定のひとつに過ぎないのだと思うのです。もちろん、これはある意味、不謹慎だとは思うのですけど。
これです。まさにこれみたいですよ。 これがために、実体験をした人の一人は 「原作は読む価値の無いクソ本」 まで言ってました。 某あいくるしい脚本家が身体障害者を扱うのと同じだと。 それがドラマになると、所謂「セカ厨」と化してます。
・・ちょっと実体験のある人の感想を書き過ぎたかな? もともと小説も映画もドラマもフィクションだと言われればそうですからね。 ま、ただ物語冒頭で亜紀も 「本当の病気の人が聞いたらどう思う?」って意味の事言ってますし・・
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...2005/05/22(Sun) 10:30 ID:l3Wjeb5Y
Re: いまさらながら Name:say
| | 全然某になってませんよ(^^;
自分が強く懐いている物事に対して、それを薄く扱われると拒否したくなると言うのは当然の反応ですからね。 理解できます。
人は自分を基準に相対的にしか物事を測れませんから、そこが限界なのでしょうね。
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...2005/05/22(Sun) 12:05 ID:WqDzF75E
Re: いまさらながら Name:にわかマニア
| | ヒロインの両親の描き方に関しては,13番目の朔五郎さんの書き込みの最後の方にも「この短いやりとりで(中略)想像することができます」とあるように,映画が100%描ききれていると断言できる人はいないでしょう。つまり,わずか1カットの瞬間的な映像が提供しているヒントから想像力を働かせて映像作家の言いたかったことを復元すると「このようなことが読み取れる」という趣旨なのですが,それが「独りよがりの深読み」なのか,別の見方もできるのか等については,皆さんのご批判を仰ぐしかありません。
むしろ,より本質的な問題は,実体験を持つ人(家族も含めて)が見た場合の「病気の扱い方」の方でしょう。 確かに,この物語は喪失感の克服と再生がテーマですから,大切な人が亡くならないことには物語が成立しないのです。つまり,「病気も設定の一つ」という面はあるでしょう。 これは別の意味での極論ですが,病気の取り上げ方で議論になるのを避けるなら,サトさんのようにヒロインは写真の形でしか登場しないことにして,いきなりヒロインの葬儀のシーンから始めるというのも一つの手かもしれません。しかし,そうなると,2人が過ごした「満ち足りた日々」を描くことなしに主人公の傷の深さを描けるのかという別の問題が生じてしまうのです。 そしてまた,2人にとっての「満ち足りた日々」を描く以上,それがどう「暗転」していくかも「丁寧に」描いていかないと,「軽く扱われた」という感じも出てくるし,その批判の対象が「表現」に対してだけでなく,物語の根本の「設定」,ひいては物語「そのもの」に向けられることにもなりかねないというのが,これまでの議論の意味するところでしょう。
その意味で言えば,純粋に医学の専門的立場から見ると不十分な点もあるのでしょうが,少なくとも,前触れを含めて病状がどう進行していくかの「カルテ」に合わせて各話のエピソードを割り振っていったドラマが,患者だけでなく家族や友人も含めて一番丁寧な描き方をしていると言えるでしょう。 特に,原作については,骨髄バンク設立以降に年代を設定しておきながら,ドナー探しが描かれていない(マンガ版には「不適合だった」との記述がありますが)というのは,解釈で隙間を埋めることはできたとしても,配慮不足だったような気がします。 また,映画も,闘病・散骨まで含めた全体としてヒロインを「風のように走り去る存在」として描くあまり,闘病の描き方が軽く映った面があるのかもしれません。
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...2005/05/22(Sun) 19:10 ID:Fe396cWw
Re: いまさらながら Name:A
| | 個人的にはドラマ版の亜紀は気に入っているけど ありゃ男にはウケても 女にはあんまウケんだろうなって感じはする。 男が描く女性の理想像とでもいうか。 レディコミに出てくる美形の男みたいな感じで。 こんな女いねーよってね。 ドラマ版亜紀を不自然と思う人がいるのは しょうがないかも。
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...2005/05/29(Sun) 00:43 ID:uQ9XGWM6