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わたしの野島ドラマ観
当サイトBBSの投稿から”野島ドラマ観”について参考になる意見をいくつか抜粋しました。 ▼2001/04/22追加分 初期の頃の野島作品は劇画チックというか、わかりやすすぎな感じで饒舌だったけれど、だんだん、心象世界を描く方へシフトしているような気がする。 台詞等が練れてきたというか。深みがでてきたというか。 読者というか視聴者が、行間を読みとって、想像をふくらませることのできる作品としての奥行きができてきたなぁって感じがします。 それが、逆に視聴率とは反比例するのだとしたら虚しいことだけど。 野島ドラマに出会って全てが壊れた…。 考え方や価値観は勿論、生き方までも変わったと言っても決して言い過ぎではないと思う。 ドラマの可能性を感じ、長い時間をかけられるからこそ、映画などでは伝えられないものがドラマでは伝えられると思った。 野島さん以上に、社会派的なものや深いテーマを書ける人は世の中にたくさんいると思う。 だけどどんなに素晴らしいテーマのある作品でも、感動できなければそのテーマを深く考えたりはしないものです。 僕が愛や夢や社会について深く考えるようになったのも、野島ドラマが面白くて感動できるから。 こんなに凄いドラマたちに出会えて僕は幸せだなと思います。 TVドラマを見て泣いたこと、今までで2回ある。 どちらも山崎努氏が出演しているものだ。 ひとつは山田太一脚本の「早春スケッチブック」。 もうひとつが「世紀末の詩」である。 それは悲しいというより、自分の理解者がここにいるということが解るから。 そして誰でもそうなのかもしれないが、ドラマの中にも自分自身を見つけ、大切な人を見出すからなのだろう。 生きていく糧になる砂金のようなドラマだと思います。 見ていて笑える娯楽ものや感動を誘う人間ドラマなど、良いドラマにはいろいろあります。 良い作品とは一般的に構成や演出が優れたものを指しますが、野島さんの作品のすばらしさは単なる技術的なことを超えたところにあると思います。 野島ドラマにはジャンルがいろいろありますが、そのどれにも共通して言えることは、そこに野島さん自身がいるということです。 野島さんは人を感動させようとしてドラマを作っているのではなく、ただ自分自身の表現のためにのみ創作に打ち込んでいるように感じられます。 うまくいえませんが、よく、確かに感動的ではあるがそこに人を感動させようという意図が見え透いていて、感動している観客を想像して自分はしめしめといった風にほくそ笑んでいる作者の姿が想像できてしまうドラマがすごく多い気がします。 でも野島さんは極端に言えば、たとえ観客が誰も感動しなかったとしても、野島さん自身の世界を描き続けるでしょう。それが彼にとって生きるための必然だからです。 野島ドラマは作品全体としては時として矛盾があったり、極端に走りすぎていたりいますが、それを吹き飛ばしてしまうほどに野島さん自身の世界、すなわち思想が表現されているのです。 全体的な評価としては野島作品より優れた作品はたくさんあるでしょう。でも野島作品を超える感動を与えてくれる作品に出会ったことは一度もありません。 野島ドラマが感動と生きる力を与えてくれるのは、それは単なるドラマという創作ではなく、野島さん自身の分身だからなのかもしれません。 ▼2000/11/01追加分 私はあまりドラマは見ないほうなので、後で「これって、野島伸司のドラマだったのーっ!」ってな事になって再放送で見るハメになるのが最近の傾向…。 あと、過去に見てすごく大好きだったドラマが、実は野島伸司のドラマだったりして…。 とにかく、すごい人ですよね…。人間のなんたるかを知ってる人です。 上っ面じゃなく、お腹の底から感動が湧き上がるって感じです。 めちゃくちゃ笑えるドラマからめちゃくちゃ重いドラマまで…。 彼の頭の構造はどうなってるんでしょうね? 「世紀末の詩」めちゃめちゃハマってます。 「聖者の行進」で、作者の迷いみたいなものを感じて、野島伸司もそろそろかな…、と思ったのですが、「世紀末の詩」はいいですね、なんか吹っ切れてます。 物語はディテールだという風潮ですが、その点、野島作品はまるで逆行するみたいに潔く細かい部分をばっさり切り捨ててる感があって、そのぶんストレートに主張が突き刺さってきて、いつもやられたっ、て気にさせられます。 個人的には「未成年」の後半、「真夜中の逃亡者」でのダイナミックな展開にシビレました。 美しい物ばかり見て暮すなんて不可能だよね…。 テレビだからって、故意に綺麗なものしか見せないなんていうのも何だか不自然な気もするし…。 私が、野島伸司の作品に惹かれるのは、そう言う人間のみにくい部分をこれでもかっ!ってな具合に見せつけられるからなんだと思うんです。 「わあ〜っ!私の中にも、そう言う醜い部分あるなあ〜」ってね…。 極限状態の中で人間はどう戦うか?そんな事を考えさせられる気がするんですよね。 野島伸司氏の作品に人はなぜ魅了されるのか? 僕が考えるに、野島氏は自分の内面に深く潜っていくことで、その果てにあるものを探そうとする。 その過程を見せつけられ、人はそれを自分に照らしあわせることで様々な新しい発見に気付く。 それはある種の快感ではないかと思う。 その快感を好むか拒むかは人によるだろう。 僕自身で言えば、ちょうど真ん中ぐらいで、だぶん好む気持ちがちょっとだけ勝っているような気がします。 でも、やり返したい気持ちも爆発寸前で待機しているようです。 野島ドラマを嫌悪する人ってそれなりに多いですよね。 でも、例えばひとつ屋根の下(1)の最終回近くで小梅がレイプされて、裁判するかどうかって展開になっていきますよね。 自分もチイ兄ちゃん達と同じ気持ちで「裁判なんて起こさないでそっとしておいてあげた方がいいのに!」って思いながら見てました。 でも達也だけは問題をそのまま見過ごさないで、「誕生日が来る度にお祝いしてあげたい…。今のままじゃ誕生日が来る度に思い出してしまうから…」って言って…。 なんかすごく納得できたのを覚えています。 とてもつらいことだけど、見過ごしていてはいけないんですよね。 いじめ、虐待、障害者など、世の中にはどうしようもない部分というのがあって、汚い物には蓋をしろ、というか、そういう姿勢の人は野島ドラマを嫌ってしまうのかなぁと思います。 野島ドラマは他のドラマに較べて、かなり「痛い、つらい」表現が多いですよね。 直接的な暴力シーンや設定(知的障害者の描き方とか)は当然としても、例えば「未成年」での甲子園を逃すエラーとか、「聖者の行進」で永遠とありすが遊園地で会うシーンとか、別にそんなに奇抜ではない、フィクションとしてはよくありそうな展開なんですけど、それに至るまでの過程からその後までも含めて、容赦なく、時には極端なぐらい痛く、つらく描かれてると思います。 正直私もなにもそこまで、と思うときがたまに.. いえ、必ずあるんですけど、その後で示されるそれに対する考え(解答ではないと思う)を見るとやっぱり必要だったんだなと私には思えます。 もちろんその「考え」には納得する時もあれば「違うじゃん!」と思うときもあります。なにが言いたいのか全然わかんない時もある。 そうゆうところが野島ドラマの魅力だとは思いますが、反面ではいつも釈然としないものが残る、見てて疲れるから嫌ってゆうのもあるんだろうなと思います。 本や映画などでは大丈夫でも「TVドラマ」では嫌だ!TVは気楽に見たいんだ!というような考えもあるだろうし、そういう意見はもちろん否定できないですしね。 野島氏のドラマというのは、弱者へ贈る応援歌のような気がする。 それは解決法を示しているわけでもなく、参考書でもない。 ドラマというのは、あくまでフィクションだ。 彼はそう割り切り、自らをあえて汚していこうとしているように見える。 自分が汚れるかわりに、作品を見る人は、そのフィクションを利用して、慰められ、励まされ、元気づけられることを許される。 見る者に罪はない、罪は僕にある、とでも、考えてるんじゃないのかな。 でもちょっと照れ屋さんだから「頑張れ」とは言わない。 汚い自分しか見せない。ひねくれ者だけど、案外いい人…かもしれない。 ちょっと褒め過ぎかな(笑)。でも本当のところは誰にも判らない。 汚い表現っていうか、他のドラマではふせてしまうようなトコ、野島ドラマの魅力だと思います。 ホントはそういうトコが一番人間くさいトコなのに。 「人間・失格」の時もたくさん苦情が来たりしたらしいけど、そういう人ってきっとあんまりにも現実味ありすぎて嫌だったんだろうけど、まぁ中には中身も見ずにちらっと見て苦情を言った人もいたんでしょうね。 そういう人に言いたい「ちゃんと見ろ」って、「単なるいじめだけの話じゃないんだ」ってね。そういうのをわかってほしいですね。 私は個人的に「未成年」が一番好きです(自分も未成年だからかな?)。 その作品は私たちが社会に訴えたいことを代弁してくれたような存在だと思います。 そこには、ドラマを見て終わったときの余韻があります。そしてしばしの呆然... 私は野島さんの作品にはとても共感するところがたくさんあります。 そして野島さんの強烈なメッセージを繰り返し思い出しては考えます。 考えれば考える程、空しさも伴ってきます。 それが私たちにどうしようもないことならば、絶望したり困惑したり絶叫したり... でもそんな迷いは大切なことを気付かせてくれました。 作品の中からのメッセージから感じること、考えることが大切なのだと思います。 これからも、その感じられる自分というのも大切にしていきたいです。 きっと彼が言いたいことは嘆きじゃないでしょうか。 胸に何かを秘め相手を傷つけないことだけが正義じゃない。 いえ だからこそ自分は正義じゃなくてもいいのではないか。 僕は彼の作品を見てそう感じました。 僕らティーンエジャーを中心に何も言えない世代なのかもしれない。 何かを言えば中傷され疎外され孤立してしまう。 お互いを監視しお互いを威嚇し最後には自分を傷つけてしまう。 だから彼はその変わりにドラマを通して嘆きとして伝えているのではないだろうか。 みなさんの意見はやはりさまざまですね。 彼の言いたいことはそれぞれ自分の心を通して変化し理解される。 だからこそ共感 反感 否定 肯定があるんですね。 彼もそのことを分かったうえで色々な社会問題をテーマに作っているのかもしれません。 野島伸司が描きたいのは”純粋さ”なのではないだろうか。 そのために何にも染まっていないティーンを主に描くのだろう。 ”純粋に生きることが悪いのか”それとも”純粋さを容認できない社会が悪いのか” そんなことを訴えている気がしてならない。 人は大人になってもどこかで純粋であることに憧れているから、心の琴線に触れられてしまうのかな? 私が野島ドラマによって受ける影響力はとても大きいです。良い意味で。 たとえば「未成年」での一節。 「頭のデキや体のデキで簡単に測ろうとする社会があるなら、その社会を拒絶しろ!」 今の社会まさにそうですよね。自分はそうじゃないとは言いません。 だからこそ、考えていくべきだと思っています。 >このドラマ(世紀末の詩)の欠点は野島自身が自分のために書いていて、それがおしつけがましいこと。 上記の投稿は何だか気になった。 多くの芸術は魂の飢えから生まれているのだと思う。 才能を世に示した者の多くは、そういう生き方ができた人間ではなく、そういう生き方しかできなかった人なのだと思う。 野島氏が自分の居場所を得るために、自分の迷いに答えを出すためにドラマを造る。 そのドラマは血の通った衝動から生まれているからこそ、人を惹きつける何かを持っているのではないだろうか。 もし、何らかの売れ線のコンセプトでドラマを作ったとしても、今までほど人を惹きつける力を持つとは思えない。 しかし、なりふり構わずに答えを出そうとする行為、それを人に伝えようとする事が、人を傷付ける事は往々にしてあり、特に野島ドラマにはその危険性を感じずにはいられない。 しかし、野島氏が「もののけ姫」の宮崎駿がやるような「大人の演出、大人の答えを出す事」ができるようなると、野島氏の魅力は半減してしまうのかも知れない。 |