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■9話のゲスト
◆謎の男(大沢たかお)…野亜たちのバラックに突如ピストルを持って侵入。3日以内に自分の名前を当てれば助けてやると言う。男は次々と喜怒哀楽の感情を否定していく。愛とは生まれながらに持っているものであり、それを人間は、喜び、怒り、哀しみ、そして楽しむことで歪め失う、と…。
◆ナオ(坂井真紀)…謎の男に従う共犯者。ミアとそっくりだが乱暴。最近謎の男と出会ったという。
ふみ> ここはとりあえず終了したいと思います…。9話の話題は引き続き世紀末の詩BBSでやりたいと思うので、TOPページから入りなおして下さい。
ゆう> 櫂さんのいう水掛け論ではありませんが、ちょっと他の人が入りにくくなっている感じを受けるのでここでひとつみなさんに質問なのですが・・・1)なぜナオは謎の男になかなか銃を渡さなかったのでしょうか?2)それから謎の男は会話の中で『喜び怒り哀しみをなくすとき、欲望は心から消えうせる』と、自分にはそれらが無いと言います。しかし夜明けに教授が名前が分かったと論じ始めた時『うるさい!!〜』と怒鳴ったのは紛れも無い怒りですよね?それらに対し皆さんはどうお考えですか?
櫂> >>教授は絶対に否定していない。ただ謎の男の愛を偽物と呼んだだけだ。>だんだん議論ではなくなってきましたね。これでは水掛け論です。理屈には理屈で反論してほしい気がしますが、そろそろ退屈になってきました。9話はそろそろやめにしませんか?
ころすけ> 謎の男の虚無感、救いがたい空しさ、憎しみ、そして殺意すらも、教授は絶対に否定していない。ただ謎の男の愛を偽物と呼んだだけだ。ただ生き残るために名前を当てるゲームをしていただけだ。その中で教授はあるひとつの問いを設定してくれた。「愛そのものの存在を否定するもの…」「喜び、怒り、哀しみ、楽しみの彼方にある真実の愛を否定する者」これらはどういう意味があるのか?愛そのものを否定してしまうとはどういうことなのか?「世紀末の詩」第9話を読み解く鍵はここにあると思う。
櫂> 櫂さんの言うようにニヒリズムを無視するというのも現実的には妥当な選択だと思います。ですがこの物語の本質に迫るのならニヒリズムの克服は避けて通れない道だと思います。>>立場的、思想的にはたしかに「無視」なのですが、その思想の基本的な部分はおさえてありますので、議論に支障はないと思います。「ニヒリズム全部を完全に理解していなければ語る資格なし」というのであれば語るのをやめますが...
櫂> 男は虚無感を「時代」にむけて、教授は男の思想そのものに向けていいました。>「虚無感」に満ちているのは時代ではなく、おまえ自身だろという私の気持ちを教授は見事に代弁してくれたと思っています。>>だからやっぱり、そういうことじゃないですか>ころすけさん
櫂> 「意味はあるのか?」とか「何のために?」という問いに答えを見出せない人はたくさんいるのではないでしょうか?それを否定できますか?それを否定したら人そのものを否定することに繋がると思いませんか?そんなことを「世紀末の詩」がすると思いますか?>>なんか話がいつも拡散していきますね。意味はあるのか?とか何の為にに「答えを見出せない」のはかまいませんが、「意味がない」と思うのは全然別の話です。「ニヒリズム」の否定とといったので「思想」全体の否定と誤解されたのかもしれませんが、僕がいいたかったのは「世紀末の詩のテーマは真実の愛を追い求めるのがテーマであり、その過程でニヒリズムを否定した」だけなのです。だから「思想そのもの」というよりも、「愛を追求する過程において」これはいらないと判断されただけ。愛を追求する立場でない人が「ニヒリスト」かどうかはむしろ「どうでもいい」。謎の男が愛を定義するようなことを最後いったのにその思想の根底にながれる「ニヒリズムの部分」を教授たちは否定したように感じましたが?
櫂> 定義を無視してのは「思想的な背景の濃い物語の考察を前提としたBBS」に書きこみは不可能。それとまったく同じ矛盾はかかえていません。
櫂> >9話はどうしても「ニヒリズムの否定」というテーマがあるように僕にはみえます。>テーマをニヒリズムとみているのに、それを無視するというのは、私が定義を無視しようとしたのと同じ矛盾を抱えていると思いませんか?>>思いませんよ?考察するドラマの登場人物の思想が、「自分の思想の中にない」といっているだけですから。それを矛盾といったら、すべての思想に対する興味が自分の中にないと不可能です。思想そのものに対する興味はないが、この登場人物の思想は「〜主義」に感じられる、といったのです。
ころすけ> 櫂さんの言うようにニヒリズムを無視するというのも現実的には妥当な選択だと思います。ですがこの物語の本質に迫るのならニヒリズムの克服は避けて通れない道だと思います。
ころすけ> 男は虚無感を「時代」にむけて、教授は男の思想そのものに向けていいました。>「虚無感」に満ちているのは時代ではなく、おまえ自身だろという私の気持ちを教授は見事に代弁してくれたと思っています。
ころすけ> ニヒリズム的考えは誰の心にも存在しうるものだと思います。謎の男もその一人。「意味はあるのか?」とか「何のために?」という問いに答えを見出せない人はたくさんいるのではないでしょうか?それを否定できますか?それを否定したら人そのものを否定することに繋がると思いませんか?そんなことを「世紀末の詩」がすると思いますか?
ころすけ> 謎の男の思想が「否定される」話という部分は首肯していだだけますよね?>そうは思いません。あくまでこの男に愛はあったのか?が第9話の焦点だと思っています。謎の男がニヒリストだったかという問題ですが私は違うと思います。神の祝福を欲しがったこの男がニヒリストであるわけがありません。
ころすけ> 9話はどうしても「ニヒリズムの否定」というテーマがあるように僕にはみえます。>テーマをニヒリズムとみているのに、それを無視するというのは、私が定義を無視しようとしたのと同じ矛盾を抱えていると思いませんか?
櫂> 櫂さん>私はニヒリズムを擁護するつもりはないんです>>ころすけさん、間違えないでいただきたいのは、僕はニヒリズムを批判しているわけでも否定しているわけでもありません。どちらかというと「無視」です。思想そのものにはまったく興味がない。若いころに熱に浮かされたようにニーチェを読んだ記憶はあるけども、いかんせん、そんな女子高校生的なロマンチックさなどはなくなってしまいましたが。ただ、この9話はどうしても「ニヒリズムの否定」というテーマがあるように僕にはみえます。>謎の男の思想が「否定される」話という部分は首肯していだだけますよね?教授たちの言葉だけではなく、ナオの銃弾、そしてとどめの黄色いバラ、と「完膚なきまでに」否定される男。この男が思想的にニヒリストであったならこの話の目的が「ニヒリズム」の否定といっても、差し支えないでしょう?問題は男がニヒリストかどうかということです。日本語では虚無主義者。長い長い男の演説のなかに一回、その演説に反論する教授のセリフに一回、この9話には2度も「虚無感」という言葉を使用されます。男は虚無感を「時代」にむけて、教授は男の思想そのものに向けていいました。教授は男を「ニヒリスト」であると解釈したのではなかったですか?>ころすけさん
ころすけ> 櫂さん>私はニヒリズムを擁護するつもりはないんです。ニヒリズムは病的な思想でその観点から問う愛は、愛とは呼べないかもしれません。でもニヒリズムは本当に不要なのでしょうか?「愛はあるのか?」と確かめようとしたとき、そこにニヒリズム的考え方が生まれ、人は絶望したりするのではないでしょうか?教授はニヒリストの一面を持った人だと思います。ただ教授は否定のみに終わる人ではなかった。教授は物語の中で「世紀末の詩」という鏡に映った私の愛を否定し、「サービス」と称しながら愛の断片を分かれ道のひとつとして置いていってくれた。教授は問いの選択肢が必ず二つ以上あることを示していてくれたと思います。愛の否定の役割は、己に愛がないことを知れば、任務完了ということを第9話は示しているように思います。ニヒリズムの克服とはその存在を消すことではなく、それを受け入れ、さらに進むための新しいエネルギーを生み出していくことなのかなと私は考えています。そのエネルギーをどこへ向けるのか?それが私自身への問いになります。謎の男はニセモノの愛を掲げ、相手の消滅を謀った。自分を相手にしない者はすべて死ねばいい。男の救いがたい空しさとはこのことではないでしょうか?ニヒリストがすべて人殺しをするわけじゃない。個の確立を目指すニヒリストたちが孤立するのは否めません。ニヒリストを嫌うのも差別するのも、その人の自由だから私は何も言いません。ただ「世紀末の詩」はニヒリズム・ニヒリストを否定するようなことはしていないと私は思います。
櫂> ころすけさん、愛は定義することは不可能かもしれない、それ僕も十分わかっています。でもあなたも気づかれたように、目的は定義ではないと思います。物語が語った「愛」に関して、人の解釈を聞いて、人の意見に反論して、自分の意見をいってまた人に反論されて、愛に対して真剣に考えることを日常的に忘れない、僕はそのためだけにここに来ています。また、愛に関して深く、深くその意味を再度考えるきっかけとなった「世紀末の詩」が、最近さらに愛しく思えてきました。けっして色あせない恋の思い出のように。
櫂> 集団でひとつの議論を話し合って導き出される結論など、多分に多数決に近い妥協の産物ではないかと思います。特にそれぞれが憧れさえ持って胸のうちにある「愛」に関することなのですから、問題はさらにシビアです。愛を語ることがテーマの作品の考察なのですから、議論は「愛」に関することにならざるを得ず、このテーマに関しては、物語本編でさえ結論を出していなかったと僕は思っています。最後には視聴者全員の胸のうちにある「愛」というもの、昨今では堂々と語られることさえカッコ悪いとか恥ずかしいと思われがちな、「愛」というものに関して再度問題意識を持たせることが物語の目的だったのかな?とさえ思っています。ただしこれに関してはどこまでいっても結論は千差万別、十人十色それが当たり前のような気がします。「じゃー議論してもムダなのか?自分の考えを書きこむだけでは、ムダなんじゃないか?」最初は僕もそう思ってましたが、最近は違います。やっぱり、ここに書きこむことによってそれまで真剣に、(特に細部を)考えたこともなかった部分まで人に突っ込まれて考えさせられたし、最初この掲示板に来たころと「愛」に対する考え方が微妙に変化してきたことに気づきました。
櫂> 最初に再確認したいのですが、ここで世紀末の詩の再考察など、なぜおこなっているのか?目的はなんなのか?最後なにが残れば目的は達成されたことになるのか?その事をここに参加する、すべての人が認識しなければならないのではないでしょうか?
ころすけ> まず補足させてもらいます。下でも言っているように、私は愛は定義できないと思い込んでいました。その一方で今まぎれもなく愛を定義しようと愛を明らかにしようとここに参加しています。大きな矛盾を抱えて私はここにいるわけです。そこで私は「愛は定義できるのか?」という問いを自分に設定してみました。そう考えたとき、目的は定義することじゃないことに気付きました。「愛の定義」も愛へのプロセスの一環として捉えればいいのだなと思いました。愛への道を方向づける「定義」を私は考えていきたいと思います。
櫂> 上手な「嘘」のつき方は、99%の真実のなかに、「1%の嘘」を、そっと紛れ込ませる、そんな方法ですから。
櫂> 同じことってどういうことですか?>に対してですが、櫂さんは謎の男の屁理屈を否定したとする「世紀末の詩」が何を伝えようとしていると考えているのですか?聞かせてくれませんか?>>何度も言うように、男の存在は「否定されるため」に出現した、「ニヒリズムのメタファー」だと思っています。つまり、「男の存在が象徴するニヒリズム」あるいは「その観点から問う愛」を、第一話からずっと「真実の愛」を追い求めてきた2人が力を合わせて「否定する」話。「その愛の定義も間違っている!」と。「間違っていると思われるものを片っ端から否定してゆき、真実の愛を浮き彫りにさせる」のが「世紀末の詩」の真意(テーマ)なのですから、少なくとも「テーマからはずれたこと」を野島伸治はしようとしたわけではないのです。9話の男は、よくよくその演説の真意を読み取れないと、ふと「ひょっとしたら、正しいのかもしれない」と思わせる煽動効果をあえて野島がねらったのかもしれません。9割くらいの部分が「正しい」と思わせるような話の組み立てになっていて結論を導き出す、肝心な論旨の弱いところを隠してしまう...人間は「ヒトラー」なんかもそうですが、「論文」で訴えられるより「演説」で「言葉」として訴えられたほうが10倍も納得してしまうものなのです。(現在の政治家にも「演説」の話し方の為だけの演出家がいたりします)
ころすけ> 同じことってどういうことですか?>に対してですが、櫂さんは謎の男の屁理屈を否定したとする「世紀末の詩」が何を伝えようとしていると考えているのですか?聞かせてくれませんか?
ころすけ> 「世紀末の詩」は愛への道を示していると思っています。その道の途中、愛へのプロセスを様々な形で描いたドラマだというのが私の基本的考え方です。「問い」の設定もそのプロセスの一部として捉えています。
ころすけ> 愛を定義しようとするすべての人のその愛を「世紀末の詩」は否定するでしょう。>というのは書き方が悪かったと思います。愛は定義できないという考えから書かれた文章だったのですが、書いてみて自分の間違いに気づいたので訂正します。今更、自己弁護も見苦しいのですが、「すべての人の愛」ではなく「定義しようとするすべての人のその定義された愛」というニュアンスで書いたつもりです。ただ定義に対する考え方からして変わりましたので、なんの弁護にもなっていないのですが…。お騒がせして申し訳ないです。
ころすけ> 櫂さん>すいません。「ア-プリオリ(先天的)」というのが私の中でまだ消化しきれていません。下にも「望んでいる気がする」と書かせてもらいました。もう少し調べてみますので時間をください。わかっていることは、性善説とは違うということ。櫂さんの言うように「生まれつきそなわっているさま」の意味もありますし、哲学ではア・プリオリを和訳した言葉として先天的と使うみたいなのでそのへんを今、調べている最中です。かなり難解なので時間がかかりそうです。
櫂> かくゆう私も何かを否定しようとするならば、男と同じことをしていると思います。>>同じことってどういうことですか?>ニヒリズムって奴はそこに関わっただけで、そこに簡単に取り込まれてしまう強大なものと実感しています。>>虚無主義にかかわっただけで、「取り込まれてしまう」ってどういうことでしょうか?かかわった人すべてが「ニヒリストかぶれ」にでもなるということでしょうか?
櫂> ゆうさんが筋がとおっていないといったのは...(なぜ男の理論を否定するなら後天的感情すべてを否定する謎の男とやっていることは変わらないと思うのでしょうか?全く筋が通ってないと思いますよ!)という文章で。ころすけさんはこの意見に(「愛の話と関係ありませんが」と書き置きしてあります。すべての人の愛を否定するなんて書いていません。ちゃんと読んでください。)と、レスしてますが意味合いが通じてなくはないですか?僕もゆうさんの意見と同じでまったく筋が通ってないと考えます。
櫂> 謎の男は愛を定義しようとしたのでしょうか?彼が求めていたのは愛ではなく神の祝福であったはず。私は男が愛を定義しようとしていたようには感じませんでした。>>謎の男のどこが、愛を定義してないと思われたのかがわかりません?求めていたのはたしかに愛ではなく神の祝福でしたね。誰か「謎の男」が愛を求めているって発言があったのでしょうか?
櫂> もしも謎の男が愛を定義しようして、その愛を否定されたのなら、愛を定義しようとするすべての人のその愛を「世紀末の詩」は否定するでしょう。>そうですか?「愛の話と関係ありませんが」と書き置きしてあります。すべての人の愛を否定するなんて書いていません。ちゃんと読んでください。>>ころすけさん、ちゃんと読みましたけど、「だしかに書かれています」よ?この部分はどうにも解釈ができなかったので僕は読みとばしたのですが、解説願います。
櫂> 「後天的」の立場でしたよね?違っていたら、ごめんなさい。>もちろん後天的ですよ。僕は「世紀末の詩」の中で繰り返し亘がいう「愛」の論理は基本的に肯定派ですから。すなわち、「愛とは誰もが持てるものではなく、(それを目指せる可能性のある相手と)努力して作り上げていくもの」だと認識してますので。先天的という意味合いは「性善説」を連想させますが、元来それ(愛)を得る素質のある人間でないと「愛」を獲得できないということでしょうか?それとも生まれながらにして、なんの努力もせずに「愛」を携えて生まれてくる人がいるということでしょうか?先天的の意味合いがいまいちハッキリわかりません。
くま> もう一度男の言う「楽しみ」を考えてみました。「与える」ものの質については「他から搾取するものは表面的のものだ」という櫂さんの意見に同感です。しかし、男が「楽しみとは継続しようとする感情」と定義しているので、楽しみが直接結びつくのは「与えるもの」の質よりもむしろ「不足し、さらに要求する」という部分のように思います。「与えるもの」が櫂さんの言うような「形ないもの」であったとしても、さらに要求し続けるのは危険な匂いがするのですがみなさんどうお考えになりますか?
くま> ころすけさん>わざわざ調べて頂いてありがとうございます。先天的、後天的については話の順序としてもう少し後かと思っていたので、そのせいで論点が「楽しみ」からずれたようで申し訳ありません。
ころすけ> 私自身の立場を言えば、「先天的」に愛を捉えていくことを望んでいる気がします。「後天的」に愛を捉える櫂さんと意見が噛み合わないのは仕方のないことかもしれません。「後天的」の立場でしたよね?違っていたら、ごめんなさい。>櫂さん
ころすけ> 「先天的」、「後天的」について調べてみたんですが、これは立場の分かれるところで、どちらが正しいとか言えることではないようです。哲学的に言えば、どちらも対象そのものの説明ではなく、対象を明らかにする方法論のようなものと捉えればいいのかなと感じました。ニヒリズムと同じく、テーマが大きすぎてこれは私の手に余る問題です。御自身で調べてみてはいかがでしょうか?キーワードは、「ア-プリオリ、ア-ポステリオリ、カント」などです。>くまさん
ころすけ> 第9話は愛への過程において、ニヒリズムの克服を促しているのかもしれません。私は凡人なのでその術を知りません。せいぜい無視するくらいしかできません。必ずニヒリズムを通れ!と言っている訳ではないと思いますが、超越という発想は「世紀末の詩」の根底に流れるものだと私は思っています。
ころすけ> 全く筋が通ってないと思いますよ!>そうですか?「愛の話と関係ありませんが」と書き置きしてあります。すべての人の愛を否定するなんて書いていません。ちゃんと読んでください。かくゆう私も何かを否定しようとするならば、男と同じことをしていると思います。ニヒリズムって奴はそこに関わっただけで、そこに簡単に取り込まれてしまう強大なものと実感しています。
ころすけ> 人類の業や善悪、生き方にまで首を突っ込まざるを得ない…>「世紀末の詩」における愛とはそこまで突っ込んで問い続けることなのではないでしょうか?
ころすけ> 謎の男は愛を定義しようとしたのでしょうか?彼が求めていたのは愛ではなく神の祝福であったはず。私は男が愛を定義しようとしていたようには感じませんでした。さらにいえば、愛の定義には関心がありません。できるとしたら、「問い」の設定だと思っています。
ゆう> 巧みな論調や言葉のタイミングによる愛の押し売り>まさに冒頭で教授が謎の男へ言った『なんかのセールス?』・・・そのまんまですよ(笑)納得させられ始めてた野亜と教授もやっと目を覚まして詐欺まがいの必要のない商品を買わずに済みました。
ゆう> 櫂さんの包丁の話(笑)じゃないですけど、私もやはり同じ感を抱きますよ。それに謎の男が否定されれば全ての人の愛も否定されるということは、中身を数学的に言えば・・謎の男≫その他大勢という意味ですよね?なぜ男の理論を否定するなら後天的感情すべてを否定する謎の男とやっていることは変わらないと思うのでしょうか?全く筋が通ってないと思いますよ!
ゆう> もちろん理解できることもたくさんあります。しかし恐らくは、感情の否定などの話になると、『愛』という議題を超えて人類の業や善悪、生き方にまで首を突っ込まざるを得ないので納得する部分があると思います。ただし、愛については下の文章の通りです。
ゆう> ころすけ・・謎の男の理論を否定〜は変わらないと思います。>そうでしょうか?謎の男が定義しようとした愛を肯定するか否定するか以前に、自分が言いたいことへ導くためのレールに、野亜など聴く人達を乗せるために無理やり方向転換(力技)している部分がたくさんあります。言ってしまえば、過程を説明し結果を教えているのではなく、始めから自己決定された結果の元に、無理やりそこへ導く・・・過程というよりはむしろ巧みな論調や言葉のタイミングによる愛の押し売りなのではないでしょうか?
櫂> >愛の話とは関係ありませんが、謎の男の理論を否定するのなら、その様は、後天的感情すべてを否定する謎の男とやっていることは変わらないと思います。>>そうではありません。なぜなら「理論になっていない」といっているからです。謎の男の論理の飛躍の仕方は、「殺人につかられるから、包丁を作ることは悪いことだ」くらいの、ようは屁理屈です。演説調にいえば「屁理屈も理屈めいてくる」というところだと思います。
ころすけ> 謎の男はゲームを始める前に、「愛を教える」と言いました。愛は教えてもらうものじゃないということを私は第九話で確認しました。
ころすけ> 愛の話とは関係ありませんが、謎の男の理論を否定するのなら、その様は、後天的感情すべてを否定する謎の男とやっていることは変わらないと思います。
ころすけ> もしも謎の男が愛を定義しようして、その愛を否定されたのなら、愛を定義しようとするすべての人のその愛を「世紀末の詩」は否定するでしょう。
くま> あと,少し先走るかもしれないですが亘の反撃について.亘の謎の男に対する反撃は基本的に「愛は先天的なものだ」という点のように感じました.謎の男の言う喜怒哀楽については「違うんだ」と言い切ってしまっただけで,崩せていないように感じました.そういうところもなんとなく男の言う言葉に説得力を感じてしまった要因でしょうか・・・.
くま> 「楽しみ」についてですが,正直この部分は意味不明です(笑).まず「楽しみ」の定義が「継続しようとする感情」??少なくとも僕の感覚からは大きくずれていました.そこに目をつぶったとしても「生き物は全て与えられることだけを甘受すべきである」:少なくとも家族的な集団を形成する動物は他から搾取して分け与えることをしていると思うのですが・・・.なんだか「楽しみ」というよりも「際限なき欲望」の話をしているように感じました.
くま> 櫂さん>「男のいうことを否定できない」とおっしゃる方 ・・・私ですね(笑) 確かに,絞り込んだ部分で男の言うことはなかなか否定できないですが,全体的に考えるとかなりずれているようには思っています.
櫂> 最後亘のいうセリフですが、最後これをいわれる。でも亘にこのセリフをいわせるために野島伸治が用意した男の「理論」であり、存在であったと思われるのです。「否定されるべく表れた存在」僕が最初にそう言ったのはこの亘のセリフからきています。
櫂> でもそれまでの話の中で教授にきたえられ、「愛」に対して真摯に考えるクセがついていた亘はそうではなかった。男の理論の脆弱さに、本能的に気づくわけです。その結果「おまえの言う”愛”はニセモノだ」というセリフになる。
櫂> こうして「定義づけの前提条件」が謎の男の場合、非常に「紋きり形で断定的」なのが細かく読みこむとわかりますよね。でも「演説」のように大衆煽動効果でああ言うふうにまくしたてるように論じられると「正しい」ように聞こえてしまう人もいる。現にここの掲示板でも「男のいうことを否定できない」とおっしゃる方もいましたし。
櫂> >それは結局は他から搾取する物だから・・>男のいう理論の中の力技っていうのはまさにこういうところです。「他から搾取するものだからダメ」。でも愛は違うはずです。愛は与える部分も大きいと思いますが、「他から搾取する」のは表面的な部分だけ(形あるものだけ)。むしろ「形のないところ」に、「愛」はその本質を秘めているはず。
ゆう> ・・・では愛における楽しみについてですが、彼は『楽しみとはすなわち育むこと。絶対的なものは瞬間なものなのに継続しようとする感情。欲望がまた欲望を生む〜』と始めていますが、私がどうしても絶対に肯定できない部分があります。『生き物は全て与えられることだけを甘受すべきであるのに人間は与えようともする〜』と与えようとすることを否定し、それは結局は他から搾取する物だから・・・と説いています。これは絶対に納得がいきません。与えることを否定してそこに愛は残るでしょうか?愛し愛されることが果たして出来ましょうか?
ゆう> だからこそ!!4極にある喜怒哀楽は無くてはならないものでしょうね。感情があり、時の流れと共に頭や心に4つの波が交差する。そうして喜怒哀楽への素晴らしさを感じ・・・そこで初めて愛は何かを考えられるのではないでしょうか?
ゆう> 櫂> そうですよね。人間はある状態にいるときは、その状況下にいることの喜びや幸福感を得られずらいです。そうでなくなったときに、初めてその良さがわかる気が致します。
くま> あっ 反論じゃなくて感想です。なんかいちいちケチつけてるみたいですみません。最近心すさんでるもので・・・
くま> ただ、「命」を大切にすることの意味を学んでいく>ここまで言ってしまうときれいすぎると思いますね。僕が意味をわかってないからかもしれないですけど、命を大切にする理由として「哀しみ」があるという気がしますね。
くま> なるほど、確かに「哀しみ」が「大切なものを守ろうとする気持ち」を促す感情と考えると必要ですね。「哀しみ」がなければ愛には辿り着けないですね。
櫂> >ということは、人間らしく生きていくことの先に愛があるということですね?>>そうです。ひいては「愛」にとってもやはり「哀しみ」は必要で、愛の大切さ、尊さは哀しみがないとわかりずらいかもしれません。
ゆう> 人間が人間らしくいきるために必要な要素>ということは、人間らしく生きていくことの先に愛があるということですね?
ゆう> 孤独であることの寂しさ、「命」を大切にすることの意味などを学んでいく>そうですね。人はひとりで生まれひとりで死んでゆく。始まりと終わりは孤独です。だから初心に返るというか原点に返って自分を見つめ直すには『哀しみ』も必要なのかもしれませんね。
櫂> 喜怒哀楽はが、愛の構成要素と過去にいいましたが、訂正します。人間が人間らしくいきるために必要な要素、であると。
櫂> でも下記は主観的な話で、人類の持つ感情として「哀しみ」がなくなってしまえばいいとはまったく思いませんが。「哀しみ」から孤独であることの寂しさ、「命」を大切にすることの意味などを学んでいくのではないかと思いますので。
櫂> 愛にとって「哀しみ」って必要なの?>必要とは思わないです。「哀しみ」はないほうがいいに決まってますって。
櫂> 謎の男が哀しみは必要ないというのは所詮『人間レベル』ではなく『個人レベル』での次元です>>そう、そうです。つまりは主観でかたられる事柄から、客観で語られるべき「定義」は導き出せないということですよね。
ゆう> 結局、哀しみの意味については議論されていますが、必要性はどうでしょうか?理由付きで皆さんの意見を聞きたいです。
ゆう> 特に感じるのが櫂さんも言われている通り・・・哀しみ→虚無感へというところに疑問を感じるのです。これは無理があるというよりは全く当てはまらないでしょう。謎の男が哀しみは必要ないというのは所詮『人間レベル』ではなく『個人レベル』での次元です!自身が死んだ後、人々に忘れ去られていくことへの不安や孤独ややりきれなさ、その悲壮感が虚無へいくのは人間の感情の変化の普遍というか真理として語れるものではないと思います。
ゆう> 櫂さん・・・論理のすり替え、力技があちこちにあるように見受けられます。>について。これ、実はみなさんが私の質問に答えてくれた後に言おうと思ってた言葉です(笑)そうですよね、謎の男には実に巧妙に愛を説いているように見えていますが、かなり強引な導き方が所々に出ていますよね。
くま> >ころすけさん 僕の捉え方世紀末BBSに書いてみました.
ころすけ> それと私自身も振り返ると、謎の男の話に呑み込まれてしまっているなと思う部分に気付いたので訂正させてもらいます。前に「愛によって哀しみは鎮められるだろう。」と書いてしまいましたが、これこそが男の発想そのもので、じゃあその愛って何だ?と考えると堂々巡りにはまってしまいます。哀しみは自分で立ち直るか、あるいは同じ哀しみを知る人によってしか鎮められないなと考えが変わりました。愛によってではなくて、人によって哀しみは鎮められるのだと思います。そこに愛があるかどうかは別問題のような気がします。この辺の考えは変わっていません。
ころすけ> 私が否定しているのは、この男の説く愛です。仮に喜怒哀楽を否定する人がいたとしても、それはその人の考え方なので、「そうですか。頑張ってください」というくらいにしか考えません。くまさんは、謎の男の説く愛をどのように捉えているのでしょうか?男の言う愛はこういうモノと、まず拾い出してみて、それをニセモノと判断すればいいのではないでしょうか?
くま> それならころすけさんは,喜怒哀楽を否定する男に対して「そんな人はいないじゃないか」って否定しているんですか?「謎の男が否定したところで現実的に喜怒哀楽はなくならないんだから間違っている」と言う意味ですか?確かに現実問題はそうなんですけども,それだったらこの9話は一体・・・
ころすけ> >くまさん。私とは愛に対するアプローチに違いがあると思います。私は、愛に哀しみが必要かという問いはあまり関心がないです。逆に哀しみのない人間に愛が必要なのか?と問い返したいくらいです。哀しみのない人間なんているのでしょうか?いるかもしれませんが、生きていくってことは、なんの哀しみも抱かないほど楽なものなのでしょうか?愛というものは現実離れしたものかもしれません。だからといって現実を無視していいのでしょうか?「哀しみなどいらない」と言ってしまうと、愛と現実をつなぐ糸がぷっつり切れてしまう気がします。
くま> >ころすけさん 本来の男の姿と男の説く愛とごっちゃにしてませんか?僕は今男の言う「哀しみ」について話しているのですが・・・。男の本質的な思想を否定するのはいいと思いますし、共感する部分も多々あります。男の言う喜怒哀楽についても何か違うと思うのですが、ふと愛において「哀しみ」って必要なの?と思ったわけです。必要ですか?
ころすけ> 付け加えます。愛によって哀しみは鎮められるだろう。では哀しみを鎮めることが愛なのか?怒りを鎮めることが愛なのか?答えはNOです。哀しみや怒りを鎮めることは愛への過程だと思っています。
ころすけ> >くまさん。謎の男はニヒリズムという理論を巧みに利用して自分の正当化を試みていたように思います。ニーチェの根本思想に永遠回帰というのがありますが、あらゆる存在に意味も目標もなくなった時、生きる決意をするのか、しないのか、問題はその辺にあるような気がします。愛と生きる意味を結び付けていいものなのか、ちょっと疑問は残ります。それと、この男を叩くとしたら、この男が持つ人類滅亡の思想ではないかと思います。愛によって哀しみは鎮められるだろう。だが相手を殺すことで哀しみを殺すというやり方はニセモノだ。ものすごく単純ですがこれが私の結論です。
ころすけ> >櫂さん。世紀末BBSにレス書きました。
くま> 僕の「謎の男」に対する嫌悪感は喜怒哀楽に対する見解よりもむしろ、「嫌なものなんだからなくなってしまえ」というような発想にあります。だからその辺りをひっくり返していきたいなと思って下のような質問をしました。
くま> ちょっとお出かけしてたので、しばらくここに来れませんでした。話が先に進みかけている時に申し訳ないですが・・・。シンプルに考えて「哀しみ」を望む人は、いないと思うのですが、そこでなぜ「哀しみ」は必要なのでしょうか?「謎の男」の言うことを吟味、否定は皆さんして頂いているのですが、根本的になぜ愛において哀しみが必要なのでしょうか?それとも必要とまでは思われてはいないのでしょうか?これは自分でもよくわからないので皆さんの意見をいただけたらと思います。
櫂> 「キリスト教的愛」を世紀末の詩が否定するということは、世紀末の詩の定義する「愛」はキリスト教のいう愛とは相反する場所にあるのでしょうか?>takiさん
櫂> それは野島伸司の「世紀末の詩」での「愛」の定義方法「様々な形で表出してくる愛」をひとつひとつ吟味し、偽の愛を否定し、本物の愛を見つけだしていきたい、その結果これが愛なんだよ、と見る人に教えたい、という記者会見でのインタビュー通り、この男の定義する愛を最後、亘が嘲り笑ってまさに「否定するから」です。否定される為に出てくる人間は世紀末の詩ではこの男に限りませんが。(誤解の無いように言いますが人間自身を否定するわけではないですよ。あくまでもその人の持っている「愛」または「愛に対する概念」をです。)では、この男によって語られる愛が、「真実の愛」に対して、どこが間違っているか?この男の存在によって、何を野島伸司は具現したのか?僕は「虚無主義」といい、takiさんはそれを「キリスト教的な愛」だといいました。完全に相反する、真逆といっていいくらいの検証結果です。(ニヒリズムはキリスト教を否定する思想ですから)この男の語る愛の思想が「虚無主義的」であるか「キリスト教的」であるか。ということが最終的な議論の中心になるのでしょうか?もうちょっと先(9話の総括)としてやるべき話だったのですが、あまり議論が進まないので、強引に進めてしまいます。みなさんはどう思われますか?
ころすけ> それと9話に関係することで櫂さんに聞きたいことがあるのですが、この考察の当初、「この男は虚無感のメタファーなので、「最初から否定されるべく野島信司が生み出したもの」ですから。ですから、登場時点から最終的に「否定」されることを目的としたキャラなのです。」とおっしゃっていましたが、なぜこのように思われるのでしょうか?もしも考えが変わっていないのでしたら、話していただけませんか?
ころすけ> >櫂さん。私の言いたいことはおおむね「否定しません」と答えていただいたので、あとは科学と虚無・虚無主義・ニヒリズムについての話になりますね。ちなみに「虚無感」という言葉は辞書調べても載っていなかったので、私は「虚無感」をニヒリズムとして捉えて話をしたいと思っています。ただ、この話は9話から脱線するので世紀末BBSの方で書きます。
櫂> >>どういうことでしょうか?喜怒哀楽を通らずに虚無そのものに辿りつけるということでしょうか?>>それはどうかわかりませんが、少なくとも「謎の男」にあまり感情を感じず、話していることは、教授も言うように、虚無感に満ち満ちている、ということです。>>虚無主義は一つの理論であり、まだまだ進化の余地のある科学だと思います。>>思想でしょ?科学じゃなくて。何かを客観的なデータなどで証明していく学問が科学ではないですか?○○主義と言われるものが科学とは?>>虚無に完結する謎の男と、それを打ち破ろうとする教授と野亜、その違いを明らかにするのが第9話の狙いではないでしょうか?>>それは否定しません。>>>>謎の男は虚無主義で自身を覆い、感情を隠そうとしていたのだと思います。その臆病な心を見透かされないように。>>これも否定しません。そうなのかもしれません。だから「虚無感」以外感じられなかった、といったのです>(ここで最初の問題に戻りますね^^;)
ころすけ> 「虚無感」以外感じられませんでした。>どういうことでしょうか?喜怒哀楽を通らずに虚無そのものに辿りつけるということでしょうか?虚無主義は一つの理論であり、まだまだ進化の余地のある科学だと思います。虚無に完結する謎の男と、それを打ち破ろうとする教授と野亜、その違いを明らかにするのが第9話の狙いではないでしょうか?謎の男は虚無主義で自身を覆い、感情を隠そうとしていたのだと思います。その臆病な心を見透かされないように。
MIZUKI> 人間の心は様々ってことでしょう。心の悲しみ・憎しみ・寂しさ、どれも同じような感情でも同じでは決してない。人間の価値観が違うように、心のなかでの感じ方・感情も違う。あるいは何にも感じていないのかもしれないし、考えていないのかもしれない。無意識・本能・抑えられない感情なのかもしれない。それが人間の心の孤独になり、行動を起こさせる。
櫂> 「虚しさ」が発生するときに、必ずしも「哀しみ」を経緯するわけではないでしょう?「哀しみ」の果てに必ずしも「虚しさ」を感じるわけではないでしょう?みなさん、どう思いますか?
櫂> >悲しみとは虚しさを生むものです>謎の男はいいます。でもここで論理のすり替えが行われているような気がします。哀しみがむなしさを生むから、哀しみという感情はいらない...本来哀しみを原因として虚しさが生まれるとは、僕は思いません。謎の男のセリフの中には、こういった論理のすり替え、力技があちこちにあるように見受けられます。
櫂> >教授や野亜の哀しみと、謎の男の哀しみは>喜怒哀楽を否定しているこの男にも「哀しみ」はあると?僕には「虚無感」以外感じられませんでした。
櫂> >ゆうさん>怖さの意味はおじんさんが言っていることにほぼ等しいと思われます
櫂> 謎の男は、哀しみは死ななければいけないことから発生していると説きました。自分が死んだ後に人々に忘れ去られる...だから哀しみは虚無的なのだと...事実、人々の記憶に残り、忘れ去られずにいることが、この男にとってとても重要なことのようです。「愚かな」と教授に評された「予言」を生む動機(背景)のひとつになっているのでしょう。
ころすけ> 哀しみとは相手と共に格闘していくべきものだと思います。謎の男のように「相手の哀しみを奪う」とか簡単に言葉にはできますが、その実際は、時には血を流すような苦痛を伴う闘いであると私は思っています。人間の哀しみというエネルギーを鎮め心の平穏に導くには、それと同等のエネルギーが必要だと思います。はたして謎の男に、教授や野亜たちに並ぶエネルギーがあったのか?結果は出ていますけどね。教授や野亜の哀しみと、謎の男の哀しみは、その質と量が全然違うのではないかと思っています。
おじん> こんにちは。僕は、野島ドラマの大ファンで、特に世紀末の詩が大好きで、最近パソコンを買ってここに来て見ました。ゆうさんの言う死においての恐怖の質問ですが、自分が思うには、死後の世界とはあれやこれやと言われていますが、実際に体験した人はこの世にはいないはずです。だから死後自分がどうなるかわからない。だから怖いのではないでしょうか?
ゆう> MR.未成年> 『愛における哀しみ』・・・男は人間の業そのもの。そしてやがて死にゆく運命から派生するものだといっています。正直言って死ぬことは怖いです。恐らくたいていの方はそう思うと思います。ではなぜ怖いと思うのでしょうか?人間にとって愛における哀しみが必要であるかどうかはこの質問の答えが出ると導きやすくなると思います。みなさんどう思われますか?なぜ恐れるのでしょう?
ころすけ> >くうやさん。私が知りたいのは教授と野亜です。見たいのもそうです。私は世紀末の詩に愛を教わろうとは思っていません。くうやさんは愛を教わりたいと思って世紀末の詩を見ているのですか?「教えて!」というのはそういう意味ととっていいのでしょうか?簡単に教えられるものを、世紀末の詩は偽者の愛と呼んでいるのではないでしょうか?
MR.未成年> 話を進めて良いのかわかんないんですけど、愛における哀しみについてはどうですか。みなさんの考察を見たいんですが。あれ?進行はふみさんの仕事なんですかね。そうだったらごめんなさい。
MR.未成年> 「愛は感情のひとつではない」と言う話なんですが、僕は感情ではあると思うんですが、櫂さんの言うようにすごく特別なものの気がします。喜びを超越したような感じなのかなぁなんて思っています。
MR.未成年> >それはお断りします。takiさんおもしろいです(笑)。
taki> ミアの死神説についてですが、あんまり悪いイメージをもっていないのですね。元々、死神とは神に仕える農夫で、寿命の来た命を刈り取って天国に導くのが仕事とされているそうです。つまり、死神に見取られるということは、幸運なことでもあるそうです。また結構、慈悲深い神と言われているそうです。元々キリスト教のような「一神教」にその土地の土着の神が「死神」とか扱われる場合が多いらしいです。例えばワルキューレとか、別名ヴァルキリーもそうだと思います。とりあえず、悪魔のような「魔」ではなく、神であり、邪神ではないのだから、理不尽な存在でも,、おかしな行為をするわけはないだろうと思ってみていました。<ミア
taki> 哲学ですか・・・・・・。私はそれほど明るくはないのですが、御望みとあれば、いくらでもお受けしますが?>くうや
taki> 愛を知覚するのですか????それは恋愛経験に拠ってしまうので、貴方がどうでしょうとか問えないのですがいかがでしょう???>くうや
taki> 愛をここのBBSで見たいのですか?そして、ここでそれは主体で、つまり私と愛を持ちたいと言ってるにほかならないですよね????それはお断りします。(爆笑)
くうや> なにかひらめいたはずだけど、↓これは違うね。ごめんね。
くうや> コロスケ<待たせた。そこにはミアもいる
くうや> 本当にそれなの?
くうや> それよりも本題だ。知りたいのは?見たいのは?
くうや> takiも昔の哲学を勉強するのもいい。とてもいい!!いや、むしろもっと。
くうや> どうしたら見れたと思えると思う?
くうや> >takiさんにかかわらずみなさん、「愛」を見たことがありますか?「愛」を知っていますか。もし、ご存知なら哀れな私に「愛」ってヤツを教えてください。よろしくお願いします。<その気持ち善くわかる。 見せてやりたいよ
ころすけ> あと、ナオの存在ってどういう風に解釈していますか?私はゲームの審判のような役割に感じます。皆さんはどう考えますか?
ころすけ> 「包括」ですか。「過程」と「包括」、なんとなく接点はあるような気がします。どういう違いがあるのか?今後を楽しみにしたいですね。>櫂さん
櫂> 最近忙しくてここが見れませんでしたが、あまり議論が進んでなくてちょっと安心(~_~;)愛が喜怒哀楽と同じ感情なのか?ですが、ちょっと前にここで僕は「愛とは感情のひとつではない」といいました。実体のすべてはまだつかめていませんが、おそらく喜怒哀楽のすべてがその中に包括される...特別なもののような気がします。そして人間誰でもが持てるものではない...そう亘は言っていましたね。ころすけさんのいうように「過程」というよりは....喜怒哀楽は構成要素のひとつにすぎない...漠然としか、言えないなぁ、今は。
ころすけ> 教授は「喜び、怒り、哀しみ、楽しみの彼方にある真実の愛」という表現を使っています。この「彼方」という言葉が時間的なものを意味しているのか、空間的なものを意味しているのかは特定できませんが、喜怒哀楽はその過程にあるものと私は受け取りました。過程である喜怒哀楽を拒むということは、何も生まれず、何も変わらず、何も忘れず、何も育まないということ。それを拒むのなら、いつか辿りつけるかもしれない愛を何処かであきらめてしまっているのではないか?と世紀末の詩に指摘された気がします。「逃げ」という言い方が正しいかはわかりませんが、喜怒哀楽の否定とは、愛に対して背を向けるのに等しい行為だと世紀末の詩は批判しているのではないでしょうか。謎の男には、求める者、挑戦する者に対する嫉妬があったのではないかと私は感じました。
taki> 9話に関して、謎の男が言うには「喜怒哀楽」は愛を脅かすもの。との見方が出来ると思います。では、愛は「喜怒哀楽」と同じ感情なのか?それだから、男の言う愛は否定されたのか?皆さん、いかが思うでしょうか?
taki> あとですね、「求めずともそこにあるものそれが「愛」なのではなかろうか?」と書かれているのに、すぐにそのあと「そう考えると「愛」など存在しないと考えるのがだとうであろう。」とされているんですが、これ矛盾してないですか?その他は9話と離れて行くので、世紀末BBSのほうにレスを書かせていただきます。>唯人
taki> とりあえずですね・・・。唯人さん、9話にほとんど関係なくなっちゃってますね・・・。
唯人> 失礼。2行目の「意外」は「以外」の、17行目「それ元に」は「それを元に」の誤り。
唯人> 先ず、動物も欲求を持っている。しかし、その欲求は本能から直接繋がっている。つまりは、彼らが生きていく上での必要最低限のもの意外は望まない。腹がすけば獲物を狩り、それを食す。他の動物を殺すことに対し罪悪感のかけらも無い。逆に、自分自身もいつ殺されるかわからない。しかし、人間は違う。罪悪感を感じ相手の痛みに同情することができるのに、自分の利益の為に殺す。確かに、私の表現方法が悪かった。要は、動物の欲求と人の「欲求」は全く種類の違うものということが言いたいのだ。私が言わんとしたのは、「欲求」のことだ。次に、平和な時代・激動の時代を問わず「愛」なんてものは、無いといっても過言では無いだろうか。激動の時代においては「愛」なんてものを考える余裕なんて無い。平和な時代においては、退屈すぎて「愛」なんてものを考えるが、しかし、一方で自分たちに欲がせまりその欲から逃げることができず、口では「愛」についてアレコレ言うが結局実態を表し得ない。つまりは、「愛」なんてものは無いと考えるべきなのだ。現に、誰も「愛」というものを見たことがない。知らない。人間が存在しだしてもう永い月日が経過したにもかかわらず・・・だから、私たちは「愛」についてアレコレ言及しているのではないだろうか。 あるキリスト教の教会の前でこんな標語を目にした。『神は愛である』 そもそも、神というのは何?愛は前述したように存在しないものだと解している。では、『』は何を言わんとしているのか。無宗教の人が見れば、意味のわからない落書きと変わらない。『世紀末の詩』では、聖書に描かれた寓話に出てくる人物の名が使われていたり、聖書の世界観が存分に描かれているが、聖書に書いてあることが実際に起こったかどうかは誰にもわからないはずなのに、それ元にどうこう言うのは非現実的過ぎないか?それを根拠に「愛」を語られても果たして誰が納得できるだろうか?私のなかには、ニヒリズム的思想はない。ただ、私は恐ろしいくらいのリアリストなのだ。 takiさんにかかわらずみなさん、「愛」を見たことがありますか?「愛」を知っていますか。もし、ご存知なら哀れな私に「愛」ってヤツを教えてください。よろしくお願いします。
taki> 神の祝福は幸福であり、「愛」ではなかったことを指しているのではないか?神のドグマは幸福になるためのもの。唯一無二の愛は神しかもち得ていないということでしょうか。それが、謎の男の言う愛だったのかも。
taki> ニヒリズムにしても、ニーチェはキリスト教の批判を行っています。それはキリスト教圏が持つ世界観の否定でしたが。
taki> 世紀末の詩における、キリスト教的世界観は百瀬(モーゼ)、野亜亘(ノアの箱舟)舞台となる街は河南市(カナン。聖書におけるパレスチナの称)、そしてこの9話での預言者の登場です。その世界はまさに旧約聖書の世界でしょう。余談ですが、世紀末の詩11話中の10話はモーゼの十戒に準じているそうです。(検証して見たわけではないのですが)そして、新約聖書、「愛」を説く宗教であるキリスト教。その説く愛の否定だったのではないでしょうか。
taki> しかし、謎の男は自分の名前を知らなかったのではあるまいか?最初のシーンで、謎の男に何かが憑依したような場面を踏まえてもそういった推測も出来ると思います。
taki> 私自身は、謎の男は真実の愛を知っている者だからこそ、青い薔薇を抱き、神の祝福にふさわしい存在になりうる為に、このゲームを始めた。真意はその証明だったのでしょう。
taki> ゲームの真意についてですが、謎の男は最初に教授から「なんかのセールス?金なんかないよ」といい、「ある意味ではそうかもしれません」と言っているので愛を買ってくださいと言うのは、やり取り上発生したセリフと思います。やはり、愛を説くことと、名前を当てるのが目的でしょう。しかし、この2つになんの関連性があったのでしょう?
taki> 青い薔薇は元々「不可能の代名詞」なのですが、9話では「その意味は、神の祝福」と謎の男のセリフがあるので、それを元に考えませんか?>ゆう
櫂> 蒼い薔薇についての解釈ですが、野島伸ニはこの男の登場によって何を象徴としたのか?否定される為に出てきたことは容易に推測できますし、その「否定」のされ方として、「黄色い薔薇」というものが象徴的に使われハッキリと拒絶されたことを意味しています。否定されたのはゆうさんの言うように「男の定義する愛」であり、否定したのは「神」なのでしょう。
櫂> >その理由として私達の愛がプラトニック的要素が強かったのかもしれないと思いました。>ここが一番よくわからないのは「プラトニック的な要素の強い愛」はいいとして、それが「原因」で「目に見えないもの」に怒りが向いた...というところです。シビアで個人的な話ではあるので、レスはこれ以上もとめません>ゆう
櫂> >『愛が生理的嫌悪に打ち勝つ』ことになっていませんよね。勝ったのではなく敵が居なくなるのを影でひっそり待つ事と一緒ですよね?>なるほど、記憶が「忘れる」ことを待っていたのでは愛が勝つことにはならない...ということですか...レイプという出来事は2人にとっては「決して」消し去ることができない忘れ去ることができないこととして、それを受け入れて尚且つ相手を愛して生きること。それが本当の愛だということですね?>ゆう
櫂> 良し悪し問わず受け入れられるのが愛ですから>そう?「善し悪し」って、「嫌悪感の引き金となった出来事まで受け入れるということですか?決して忘れずに...そんなことができるのかなぁ?
ころすけ> これは、takiの問に対するレスであると同時に、たいぶ前に聞きっ放しになってしまっていたりよんへのレスでもあります。遅くなって申し訳ないです。
ころすけ> 「僕の名前を当てて」は神ではなく人間と向き合いたいという気持ちの現れだったのではないでしょうか?それは彼自身も気付いていたかわからない彼の本心だったように思えます。ただこれがゲームの真意だったのかはわからないです。
ころすけ> ゲームの目的になっている「神の祝福」ですが、謎の男は目の前にいる野亜や教授たちではなく、神のみを見ようとしていたように感じます。「直接手を下さない」とはこういう意味も込められているのではないでしょうか。最後に彼が殺されたのは、神ではなく人間と真剣に向き合ったという事実に対するけじめだったと思います。
ころすけ> 「真実の愛の意味を教えてあげるんだ」と謎の男は言います。愛は教えてもらうものなのでしょうか?謎の男の愛は、ここから否定されているような気がします。
ゆう> taki>う〜ん。私が考えるには、青は永遠の象徴。だからもしも男の語る愛が真実の愛ならば男は死なずに(ノストラダムスは永遠の命が欲しかったから)青い薔薇に抱かれ神に祝福される。つまり永遠を手に入れられる!!しかし男の語る愛は真実でなかったから殺された後に咲いた薔薇は黄色。青ではなかった。真実でなかったから永遠の青を見ることが出来なかった。ゲームの真意はそんなところだと思います。
ゆう> それから、それはどこに向けられたものだったのですか?>についてですが、下にも書いた通り、感情を認識したときには過去になりますから私の場合怒りがあったなら時間あるいは見えないものに対してであったと思います。その理由として私達の愛がプラトニック的要素が強かったのかもしれないと思いました。・・・なかなかうまく表現できないですねぇ。どうでしょうか?出来ればこれについて更にレスお願いします櫂さん。
taki> 9話に関して気になるのは、男は「愛を教えるから、名前を当てて」という。そして当てられなければ、「青い薔薇」に抱かれ神に祝福される存在になるという。しかし、名前を当てられて男は殺され、愛は否定された。このゲームの真意は?
ゆう> 補足ですが『なぜ受け入れられるのが・・・』について。もし拒絶して忘れることでも愛になるのなら、それって先ほどにテーマになっていた『愛が生理的嫌悪に打ち勝つ』ことになっていませんよね。勝ったのではなく敵が居なくなるのを影でひっそり待つ事と一緒ですよね?
ゆう> 櫂>ゆうさんのケースでは生理的嫌悪感が生じなかったということですか・・・えぇ、これについてですが、シンプルに申しますと・・生じませんでした。それ以外の恋人や友人、そして新聞で読む他人の事件にも生理的嫌悪は感じていると思うのですが、このときは何も感じませんでした。ある種不思議な感覚を感じていました。
taki> 誤解?ですか。それを解かなくてもいいんですか?残念にしても何が残念なのでしょうか?話をぼやかされただけのような気がしないでもないんですけど…。>くうや
ゆう> 櫂> 時の流れが生理的嫌悪の要因を受け入れるのかもしれませんね。但し、決して時間が嫌悪感を忘れさせていくからではありません>忘れさせるのではなく「受け入れていく」っていうのはどういう意味なのでしょう?・・・についてですが、良し悪し問わず受け入れられるのが愛ですから、もし時がそれを忘れさせるようであれば愛ではないという事です。結局のところ存在しているもの(嫌悪感)を消えゆく(正確には気にならない程度の記憶になる)まで拒絶し、その後その人を想ったところで愛にはなり得ないと。受け入れられないものがあるのだから。
くうや> 一つは誤解。他は残念な話。>taki
taki> 唯人さん、なにか手本のようなニヒリズム「的」意見ですね。突込みどころ満載なんですが、とりあえず「動物と人間との違いは、考えることである。それは、つまりは欲求すること。」ですか?動物には欲求がないのですか?「平和な現代に生きている私たちに「愛」など手に入れられるわけが無い。」??平和な現代に生きている人は皆、平和に生きていて、激動や動乱のある時代の方が愛を得やすいのですか?ここのところの関連性がわからないんですが。>唯人
taki> 「自分の無力感に対して。だから 生理的嫌悪感とか関係ないんじゃない」自分の無力感と行き所のない怒りが、生理的嫌悪となって、それが彼女に向けられてしまう。これが論点であって、その前提を無視して「生理的嫌悪感を感じるようになる恋愛は最初から「愛」じゃない。」んー、言い切るのは簡単ですけど「愛」という括弧の中が、先に申し上げたブラックボックス化してないですか?その愛はなんなんだろう?と考察してるのですが。>くうや
taki> それに、考察BBSという言葉のやり取りで、「感覚的なものなので明確な根拠を書けません。」と言われれば、考察にならないんですけど・・・・。>くうや
taki> ???私の「1のように思えるなら愛だろうね」の根拠はなんなんですか?」という問いかけに対し、「 「おまえが無事なら良いから黙って×××てろ」なんて言うのは論外として、)愛していると思える程大好きな彼女にこんな風に言えるのを愛じゃないとは思えないのです。」???くうやさんは自分で「1のように思えるなら愛だろうね」と書いてるのに、「こんな風に言えるのを愛じゃない」ですか?1番は「1.「おまえが無事なら良いから黙って・・・・」ですけど?設問云々以前に、矛盾しちゃってますよね。>くうや
ころすけ> 愛が不変のものならば、自分が変わればいい。変われない自分が「愛は壊れる」と言い訳をする。愛が壊れないから、人が壊れてしまうのではないだろうか?それを求めるならば…
唯人> 喜び、怒り、哀しみ、喜びという人間の4大情緒が全て「愛」を壊すもの。確かに彼が言う様に、人間はいろんな欲望の中で喜怒哀楽を生み、いろんな喜怒哀楽の中からまた欲望を生み出し、その過程の中で、唯一不変的なものである「愛」を変容させてしまう。ここで矛盾が生じる。百瀬やノアが言うように、「愛」が不変的な、唯一のものならば、喜怒哀楽あらゆる感情の中で「愛」が変容し得ることは無いはずだというそれだ。「愛」とは、私たちが作り上げた想像上の産物にすぎない。私たち人間は、いつでも自分に無いものを欲しがる。その際限なき欲望が科学技術を発展させ、現代の便利な生活を作り上げた。そして、また、私たちは以前の生活には戻れない。つまり、「愛」とは、いくら私たちが望んでも手に入れることができないもの。故に、わたしたちはそれを過剰欲求し、空論ばかりをならべる。動物と人間との違いは、考えることである。それは、つまりは欲求すること。人間が「愛」を欲求する限り真実の「愛」など見つかるはずも無い。この便利なけだるい、平和な現代に生きている私たちに「愛」など手に入れられるわけが無い。求めずともそこにあるものそれが「愛」なのではなかろうか?そう考えると「愛」など存在しないと考えるのがだとうであろう。「愛」は、純粋無垢なものならば、人間には見えない。いつも何かを欲しがる人間には。あぁ、なんて愚か・・・それでもまだ「愛」を求めている。
ころすけ> 時間の流れの中で、ある一部分の行動を批判して、愛の有無を問うのはどうでしょう?愛の永遠性とはなんの努力もなしに得られるものなのでしょうか?「愛さえあれば」、「愛ならば」という仮定は、なんか愛だけが一人歩きしていませんか?
くうや> >櫂>心情的には「打ち勝てる」と断定形ではないにせよ「打ち勝ってほしい」と思います。なにぶんにも僕には経験がないので、なんとも想像しがたい部分ではあるのですが... とても同感します。そんなことに負けない他人や自分がいて欲しいですね。
くうや> 生理的嫌悪感をから愛が形を変えるのでは無く。生理的嫌悪感を感じるようになる恋愛は最初から「愛」じゃない。
くうや> そして、「怒り」。前述した「なんとかしよう」ができなかったから怒りを感じたとして、それは自分の無力感に対して。だから生理的嫌悪感とか関係ないんじゃない>謎の男
くうや> >それは設定に無理がありますね。 そう?>問題は「その後の怒り」で、生理的嫌悪を抱いてしまうことから、愛の形が変わってしまうのではないか?なのでしょう?それで、「彼女のことを考えず相手を殺すことを考えた主人公。あれは違うと思う」というのは、本当にそう思いますか? そう思う。愛があるならあーいう怒り方はないよ。「迷惑なヤツだからなんとかしよう。」って思うと思う。
くうや> まず、気を悪くされたのなら誤ります。 >書きこみの表現のデリカシーのなさ、プラス論点がずれていることと こんな風に思われたのにレス。ありがとう。>1のように思えるなら愛だろうね」の根拠はなんなんですか? 感覚的なものなので明確な根拠を書けません。が、(もちろん友達として好きぐらいで「おまえが無事なら良いから黙って×××てろ」なんて言うのは論外として、)愛していると思える程大好きな彼女にこんな風に言えるのを愛じゃないとは思えないのです。
ころすけ> いつか愛に辿りつき、それが想い出に変わるときに、「生理的嫌悪」も名脇役として語られる、そんな気がします。困難はそれが大きければ大きいほど、それを乗り越えた人の中で、よりかけがえのない存在になるのではないでしょうか?
ころすけ> 謎の男の怒りの話において「生理的嫌悪」は向き合う相手から逃げ出そうとする引き金になると仮定されていると思うのですが、それでも向き合おうとする気持ちはどこから来ると思いますか?嫌悪に相反する生理的なものなのでしょうか?それとも生理的嫌悪をも吸収するもっと大きなものなのでしょうか?ここでは嫌悪が引き合いに出されましたが、あらゆる生理的欲求が愛における障害になり得ることを提示している気がしています。
櫂> その時の私の中にあった感情が『怒り』というものならば、加害者へのものでも恋人へのものでもありませんでした>それはどこに向けられたものだったのですか?
櫂> なので生理的嫌悪、すなわち本能的な拒絶という物との葛藤は無かったので>ゆうさんのケースでは生理的嫌悪感が生じなかったということですか?(いろいろ根掘り葉掘り申し訳ありませんが、ゆうさんも少なくても議論の中にご自分の体験談を加えてもいいと思ってお話いただいたんだと思い、この際いろいろ参考にさせてください)
櫂> 時の流れが生理的嫌悪の要因を受け入れるのかもしれませんね。但し、決して時間が嫌悪感を忘れさせていくからではありません>忘れさせるのではなく「受け入れていく」っていうのはどういう意味なのでしょう?>ゆう
櫂> 「レイプ」による「怒り」から生じた「生理的嫌悪感」には「愛」は打ち勝てると思いますか?>これは少し前に書いていますが...心情的には「打ち勝てる」と断定形ではないにせよ「打ち勝ってほしい」と思います。なにぶんにも僕には経験がないので、なんとも想像しがたい部分ではあるのですが...
櫂> >「キリスト教的な愛」はあとにしましょうか、と言ってたのに櫂さんまで、レスってるし>そうなんです。僕もそれは思ったんですが、あまり話の腰をおるのもどうか?と思いレスってしまいました。でもゆうさんも「喜怒哀楽のあとにゆっくり話しましょう」といっているのであとにまわしてもよろしいとおもいます。>taki
櫂> >その前の例えは「生理的嫌悪」のみを浮き彫りにするためだけの事例としてしか、使っていないつもりでした。事実、誰もレスはないですよね。でも、「自分自身の「プライド」」ってなんのことですか?>ううん。そうでしたか。それはちょっと僕も認識ちがっていたかも。でもtakiさんの風俗に対する書き込みには真剣にちょっと「?」と思いましたのでそれが根強く残ったままだったかもしれません。プライドというのは、これもイヤな話ではあるのですが「職業的な貴賎」に根ざした差別からの嫌悪なのではという意味です。詳しくかかなかったのは、論点にあまり関係ないし、新たな嫌悪感が発生したので。
taki> 「なぜこのドラマに限ってはそういった作りをしていったのだと思いますか?」なんですけど、「他の野島ドラマ」をあんまり良く知らないので・・・。(^^;;;それに9話とずれちゃうし、「キリスト教的な愛」はあとにしましょうか、と言ってたのに櫂さんまで、レスってるし。(笑)でも、ぼちぼちやっても良いですかね??そこら辺はお任せいたします。>ゆう
taki> 結局、生理的嫌悪も一緒に彼女を受け入れ、葛藤をして行くことを覚悟して、相手とちゃんと向き合って行くことから始まるんじゃないでしょうか?それがありきで、打ち勝つ、自身で自分の感情を消化するのはその先のことだと思います。
taki> ゆうさんの仰る「「レイプ」による「怒り」から生じた「生理的嫌悪感」には「愛」は打ち勝てる?」なのですが、これはデリケート且つ個々の事例にも拠ると思いますが、男側が持ってしまった生理的嫌悪に対し、悩み、苦しみ苦しみ、酷い葛藤を起こしてしまうでしょう。自分の中でそのことを消化できないことに対して、自分自身をも責め、謎の男の言う「その時に君は内心ホッとするんです」に繋がるのでしょう。また、「プラトニック的な要素の強い」というのも、生理的嫌悪から付き合いが変化してしまったことかもしれません。(これは一般論で、ゆうさんの付き合いを指しているわけではありません)
taki> 以前の「風俗」云々の例えに関しては、論点を浮き彫りにするための例として出しただけです。その後すぐに「しかし、ここでは「怒り」です。」と論点を定義していますよね。その前の例えは「生理的嫌悪」のみを浮き彫りにするためだけの事例としてしか、使っていないつもりでした。事実、誰もレスはないですよね。でも、「自分自身の「プライド」」ってなんのことですか?>櫂
taki> さらに付け加えて言うと、奇麗事云々ではなく「比喩表現の下品さ」は考察に必要なく、「怒り」に関してプライオリティ(優先度)を問うことがなんの意味合いを持つのですか?その上で、被害者の立場に「もう少し抵抗できるんじゃない?」と言った言い様は、勘違いもはなはだしく、ゆうさんも言うように生理的嫌悪からの責任転嫁としか思えないし、また、そう行った勘違いを起こさないようにと私が既に書きこんでいたことでもあります。それなのに、おかしな設問は頂けないですね。
taki> 一つ申し上げておきます。こういったレイプなどのデリケートな話題に、書きこみの表現のデリカシーのなさ、プラス論点がずれていることと、その前の書きこみで、櫂さんと私が論点をしぼる書きこみしている上での認識違いだったので、ああいった書きこみをさせていただきました。>くうや
ゆう> 櫂さんは「レイプ」による「怒り」から生じた「生理的嫌悪感」には「愛」は打ち勝てると思いますか?
ゆう> 言葉にすると、なんだか違うようにも思えるので正しく表現出来るかどうかわかりませんが、感情というものは時の流れにある以上全て認識したときには過去になります。だから私の場合怒りがあったのなら時間か見えないものに対してであったと思います。私達はプラトニック的な要素の強い愛だったのかもしれません。また、櫂さんの言う、あるいはドラマに照らし合わせた愛を考えると、生理的嫌悪に愛が打ち勝つことがもし可能ならば、いつだったか教授が言っていた『愛とは時の流れに関係するのだろう』という言葉通り、時の流れが生理的嫌悪の要因を受け入れるのかもしれませんね。但し、決して時間が嫌悪感を忘れさせていくからではありません。それでは愛の形が変わってしまったままですから。
ゆう> その時の私の中にあった感情が『怒り』というものならば、加害者へのものでも恋人へのものでもありませんでした。なので生理的嫌悪、すなわち本能的な拒絶という物との葛藤は無かったのでクリアーという言葉が正しいかはわかりません。
ゆう> それから・・・ゆうさんのご経験では「愛」がこれらの問題をクリアーできたということでしょうか?・・・についてですが、櫂さんの言うクリアーではあったと思います。しかし・・・
ゆう> 櫂> >生でドラマを見ていた当時ずぅっとキリスト教と愛を照らし合わせながら否定して>いく、いわば『遊び』のようなものを感じていました。>たとえば、どんなところですか?>・・・についてですが、少しずれちゃうんで私もキリスト教とのつながりについては喜怒哀楽の後にゆっくり話したいと思います。いいでしょうか?
櫂> 僕が最初に書き込んだ「恋人への理不尽な怒り」というのをあえてわざわざ訂正して「謎の男」に対する怒りですよね」と書き直した理由は、そこにどうしようもない嫌悪感を自分で感じてしまったからです。「そういう気持ちが生じる可能性が高い」と自分でも感じていても、やっぱり「そんなの可哀想だろう?」って気持ちが先にたってしまった。でも冷静に謎の男の言葉を読み返してみると、明らかに「怒り」とは「恋人に対する怒り」を指しているってことが今ではわかります。(怒りが愛を憎しみに変えるとまで言ってますからね)ではそこに嫌悪感や理不尽な怒りが生じるということを前提にして考えを進めたほうがいいのかもしれません。ならば「レイプ」による「怒り」から生じた「生理的嫌悪感」には「愛」は打ち勝てないのか?「憎しみ」とは本当の意味での「憎しみ」を指すのか?>ゆうさんのご経験では「愛」がこれらの問題をクリアーできたということでしょうか?
櫂> 「どちらを優先する?」というのは表現悪かったかも。ようは「生理的嫌悪感」に愛が打ち勝てるかどうか、って意味合いでしょうか。
櫂> あいかわらず、きついですねtakiさん(笑)たしかに論点は、男の設問とは、ずれていますね。でもくうやさんがいいたかったのはプライオリティの問題なのでしょう?避けては通れない(恋人がレイプされた場合の)嫌悪感。恋人への愛、と並べて、どちらを優先とする?例えばtakiさんが過去にこんな例題を出されてました。「例えは変わりますが、それでは「風俗」もしくは「ソープランド」に務めてる女性を愛せるか?となればどうでしょうか?これは「自ら」や「仕事として」という意味合いが入ってくるので、ニュアンスが異なってしまうのですが、「生理的嫌悪」としての例えではそれを男側が乗り越えられるのか?と言えば、どうなんでしょうかね?」この設問に近い意味合いととらえたのですけど。レイプは恋人にとって「不測の事態」であるのに対し、「風俗」に勤めている場合は確信を持っているわけですよね?生理的嫌悪感は「風俗」とは比べ物にならなくはないですか?でもtakiさんはあえて比較例とされた。くうやさんの例題は私にとっては同レベルと見受けましたが。(嫌悪感の中に自分自身の「プライド」というものも含まれた結果のような気もします)
櫂> >生でドラマを見ていた当時ずぅっとキリスト教と愛を照らし合わせながら否定して>いく、いわば『遊び』のようなものを感じていました。>たとえば、どんなところですか?>ゆうさん
ゆう> では、なぜこのドラマに限ってはそういった作りをしていったのだと思いますか?<taki
ゆう> taki>9話は「キリスト教的な愛」を野島氏は「世紀末」と言うドラマの上では、否定に走ったと捉えているんですけど・・・これなんですが、生でドラマを見ていた当時ずぅっとキリスト教と愛を照らし合わせながら否定していく、いわば『遊び』のようなものを感じていました。他の野島ドラマでは、どちらかというとキリスト的考えを肯定していた感がありましたが、『世紀末』に関しては逆が多かったので、そこも興味のひかれるところでした。
ゆう> くうや>疑問点の構造を理解するのに例題を作り出して洗っていくのは私も好きで良くやることですので面白いと思います。しかしここでの考察に限らず、ドラマの中で『怒』について謎の男が演説し理解してもらおうとしていることとは論点が違うと思います。結局どれも愛ではなく、責任転嫁であり目前の事実に目を反らしているか、あるいは結果取った行動から愛など無いと言えるのではないでしょうか?
taki> それは設定に無理がありますね。問題は「その後の怒り」で、生理的嫌悪を抱いてしまうことから、愛の形が変わってしまうのではないか?なのでしょう?それで、「彼女のことを考えず相手を殺すことを考えた主人公。あれは違うと思う」というのは、本当にそう思いますか?その「行為」のみを憎むべきなのに、怒りのベクトルが「生理的嫌悪」によって彼女に対して向いてしまう。そのことが「愛の形」を変える。という設問ですよ?そして、「1のように思えるなら愛だろうね」の根拠はなんなんですか?「1.「おまえが無事なら良いから黙ってやられてろ」???それが愛を持っている証拠なんですか???123のどれでもないからこそ、「(やりどころのない)理不尽な怒り」を持ち、それが生理的嫌悪にと変化してしまい、そのベクトルが彼女へと向いてしまう構造ですよ??それは設問自体が、問題の取り違えをしているとしか思えませんが。ここでは「感情の流れと結果」とそれが愛の形を変えてしまうことがポイントであって、愛があれば設問の何番を選ぶ、ということではないし、その設問では「愛」自体がブラックボックス化してますよね。そうなると、その設問自体に意味はないし、その後の「怒りのベクトル」についてであって、その後の「愛における怒り」を論点としてるんですよ?恋人がレイプされた時に、自分はどの思いを抱くか?ではなく、「怒り」を持ってしまったら愛はどうなる?ってことで、「里美先生あの状況ならもう少し抵抗できるんじゃない?」と言うこと自体、もはや「生理的嫌悪」の元になってるんじゃないですか?論点がズレていると言わざるをおえませんが。>くうや
櫂> >くうやさん。面白い意見ですね。僕も同感です。1ならば愛っていうか1を選ぶしかないかも。(3が無理ならばですけど)こういうのって(究極の選択)自分の中にあるヒエラルキーがはっきりと出る形となります。恋人の命が何より大切ならば1になると思うし。亘の里美先生に対する気持ちは「恋」だと思うのでくうやさんが違うと思ったのは正しいかも。
くうや> 「やれれ」→「やられ」 です。失礼。
くうや> こう考える。世紀末の詩のレイプ(未遂)シーンから想像すると里美先生あの状況ならもう少し抵抗できるんじゃない?って思えるから彼女に嫌悪感を持つのでは?それよりも、自分自身は(彼女)どうして欲しいのか?が重要だと思う。1.「おまえが無事なら良いから黙ってやれれてろ」と思うのか、2.「やれれるくらいなら死ね」と思うのか、3.「今俺がなんとかしてやる」って思うのか。本当に思えるなら、1のように思えるなら愛だろうね2なら最初から愛じゃなかったんだよ。3なら愛かどうかは分からないけど、自分が壊れるかもね。そして彼女のことを考えず相手を殺すことを考えた主人公。あれは違うと思うのだけど?いかがでしょうか?
くうや> ここは初めて書きます。こんにちは、よろしく。恋人がレイプされた時に誰に嫌悪感を抱くか?恋人に(理不尽な?)嫌悪感を持つ。なるほど言われてみれば、と思って考えて。1.大好きな彼女と食べ物をいっぱい持った嫌なヤツと無人島で3人きり。僕ら恋人同士は食べ物を持っていません。ハラペコです。で、嫌なヤツは言うわけ。「やらせてくれたら飯やるよ。」あるいは、無理やりやってご飯をよこしたり。「ほら恋人の分もやるよ。」あるいは、彼女は言います。「犯して下さい。その代わりパンを下さい。」2.二人で歩いている時に後ろから殴られ二人とも気絶。僕が気づくと二人とも身動きできないように縛られています。以下略。3.悪人(例えばヤクザ)「おまえがしゃぶらないと、おまえの男にヒドイことしてやる。」いろいろ考えてみて。そんなことにならないようにしよう!それでももしそうなったら、自分自身に対して嫌悪感を感じるようになれ!。と考えました。がいかがでしょうか?奇麗事だと思いますか?
櫂> ゆうさん>私も経験しているんです、この出来事。そしてまた職業柄、このような事件に合った人のケアもしているものですから>なるほど、そうだったんでか...世紀末BBSへのカキコお待ちしています。
ゆう> つまり、本当の愛であったならば許せるはずです。相手の悪い部分や醜い部分に目をつぶってやることが愛ではなく、認めて受け入れるのが愛ですから。これによって形が変わってしまうなら、まさしくそれは怒りの矛先が加害者ではなく・・・彼女に向いていたからでしょう。ある意味男のことはどうでも良い!殺そうという気持ちも一定の時だけ。惨めな自分を慰めようと、彼女の行動、服装、しぐさ、に対する嫌悪感を持つことで自分の基準の中の地位を守ろうとする。
ゆう> 私も経験しているんです、この出来事。そしてまた職業柄、このような事件に合った人のケアもしているものですから、他の3つの感情よりも手に取るようにわかります。彼女を個として捉えられていたのなら愛の形は変わらないでしょう。
ゆう> 櫂> シンプルに言えば・・・彼女に対する愛の形が変化するのは加害者に対する怒りという感情が原因の中心ではなく、その行為を知った後に自分の中に芽生える(増殖する)独占欲、私物欲みたいのが太くあると思うんです。
ゆう> 櫂>怒りが愛の形を変えるのではなく・・・怒りの後に覚える様々な欲(帝王学などによる独占欲や・・・)についてですが、詳しくはBBSの方に載せようと思います。
ころすけ> >くまさん。だから謎の男の話が嘘だと言うつもりはないです。私が「謎の男は愛を知らない」と言ったのは、謎の男が愛を得たいと思うあまり、惹かれ合う二人の仲を裂くようにレイプしようとしたからです。謎の男は亘が自分へ怒りを向けることを望んでいたのではないでしょうか?
taki> ニヒリズムは取り合えずとしても、キリスト教的な愛は苦手ですね・・・。元々旧約聖書は物語として面白いんですけど、新約聖書は説教くさいというか、押しつけがましいというか。(笑)(単なる感想です。笑)>くま
櫂> もう一度整理する意味で「怒り」に関する男のセリフを読み返してみました。「愛」+「怒り」→<変質>→「生理的嫌悪」→「憎しみ」となるから「怒り」は必要ないんだ、というのが謎の男の論理。「怒りが加わらなければ、愛は愛のまま永遠なのに」とも言っています。「愛」至上主義ともいえますね。この発想。「愛」をおびやかす物(事柄)を、その根本的な存在の部分から「否定」するのが男の論理の基本です。
櫂> >くまさん>この辺takiさんのほうが詳しいので説明はお任せします(笑)>そうですね、やっぱり順序として「ニヒリズム」と「キリスト教」を9話の総括としたほうがいいでしょう。「怒り」をしばらく進めていきましょうか>taki
くま> takiさん、櫂さん>「キリスト教的な愛」「ニヒリズム」あまりよくわからないので、この辺りの考察までに世紀末BBSに説明頂けないでしょうか?
くま> ころすけさん>「男の話を愛を知らない者の話」これはいいんですけど、「だからこの男の言うことは嘘」というのは逆じゃないですか? 「男の話は嘘」→「この男は愛を知らない」となるのでは?
くま> 櫂さん>「これってひとつの手ではないでしょうか?」そうなんですけども・・・。感覚的に嫌悪感はあるんですけども、やっぱり否定できないものは仕方ないかなと・・・。ただ「〜だから喜怒哀楽は要らないんだ」と言う結論にはつながらないですけどね。男の言うことを真っ向から全部否定しなくても、喜怒哀楽は肯定できると思っているので・・・。
taki> やっぱり、あまり納得の行った書き込みではなかったんですね。やはり「打ち消し切れない怒り」はその彼女に向いてしまうと思うんですよ。しかし、これは持論の正当化を行うための詭弁だと捉えています。はたして「怒り」によって壊れてしまう可能性があっても、それだから、「愛における怒り」がすべて必要ない。なんて極論過ぎるし、それはほかの事例を持ち出すまでもないんじゃないか?と思います。>櫂
taki> んーどうでしょう?あとでやった方が良いですかね?やっぱり混乱するかな。ニヒリズムはとにかく、キリスト教的な部分は苦手なんで、あとにしましょうか。>櫂
櫂> >いや、しかし怒りの方向は「されてしまった彼女」に向いてしまうと思います。>やっぱりそう思いますか...なんとなくそう考える気がする自分に嫌悪感を覚え、それを打ち消すように「やっぱり怒りの矛先は謎の男ですよね」というレスをしてしまいました...このtakiさんの意見は僕の中でも(まったくの肯定ではないけども)そういう形になるかもしれないなぁ...というくらいのレベルで存在していますね。
櫂> >この「怒り」とは別に平行して話したいんですけど>ニヒリズムとキリスト教の話は、この9話の総括ででてくると思っていたので、とりあえず「喜怒哀楽」から順番にやっていこうと思ってました。議論の主題が複数になるのは混乱をきたすかと思いまして。>takiさん
櫂> >9話は「キリスト教的な愛」を野島氏は「世紀末」と言うドラマの上では、否定に>走ったと捉えているんですけど、いかがでしょう?そうだとすると教授のセリフで「こいつの思想に全般的に満ちているのは虚無感だ救いがたい虚しさに満ちている」とありますが、これはどう思いますか?僕はどちらかというと真逆の意見で、ニヒリズムの否定と見ているんですが...
taki> 人間は生まれながらに「エデンの園」を追放された罪深き者。それを悔い改め、神の慈悲を請わなければ、祝福を得れることはなく、生きている限り救われることはない。といった考え方は受け入れがたいものがありますね。
taki> この「怒り」とは別に平行して話したいんですけど、9話は「キリスト教的な愛」を野島氏は「世紀末」と言うドラマの上では、否定に走ったと捉えているんですけど、いかがでしょう?
taki> あ、「それは彼女が持ってしまった」です。↓
taki> そこで愛があれば、それを見失ってしまわないか?といえば「希望的観測」としてしか物事を見れないんじゃないか?と思います。それは彼女持ってしまった「罪悪感」にも拠るでしょう。
taki> 何故なら、愛憎は「表裏一体」であるからと思います。故に、恨む。その起きた事柄を「だけを」憎むべきなのに、それを忘れて、「表裏一体」である「憎しみ」を彼女に向けてしまう。
taki> しかし、ここでは「怒り」です。彼女をそんな目に会わせた人間を恨み、憎まないか?と言ったら、確実に「愛するがゆえに」憎むでしょう。これはそういった事を行った人間も、その彼女もです。
taki> 私としてはそれは関係ないと思います。出会ったときにそうであれば、その状態も含めて愛するのが当然だと思うので。
taki> 例えは変わりますが、それでは「風俗」もしくは「ソープランド」に務めてる女性を愛せるか?となればどうでしょうか?これは「自ら」や「仕事として」という意味合いが入ってくるので、ニュアンスが異なってしまうのですが、「生理的嫌悪」としての例えではそれを男側が乗り越えられるのか?と言えば、どうなんでしょうかね?
taki> いや、しかし怒りの方向は「されてしまった彼女」に向いてしまうと思います。そんな状況になると「スキがあったんじゃないか?」とか「そんな格好で歩いているからだ」とは、そう言うことがあった「彼女」を男の側が受け入れられないことは事実と思います。それは「生理的嫌悪」を受け入れられない男側の問題でしょう。しかし、かなりこういった事情は付き合いの中で消化するのが難しい物事と思いますね。
taki> いえいえ、櫂さん。僕らが教授にかないっこないし、ほじくり返すなんて、そんな悪趣味な。(笑)
櫂> この考察BBSのように「根掘り葉掘り」ほじくり返すのが趣味!,,みたいな輩が相手だと、「謎の男」もやりにくいかもしれません(笑)
櫂> >男の言うことはそんなに間違っていないと思います.おそらく僕が男の言うことを>否定できないからだと思います.これってひとつの手ではないでしょうか?どうしても否定できなさそうな事柄を並べ立てて最終的な結論に誘導し、「ほら、だからこの結論は間違ってないでしょう?」という。亘は散々教授に鍛えられたところだったため、うっかりとその手に乗らなかったけども、もっともらしく話す男のセリフには、もしかしたらそれなりの場所で、それなりの相手ならば信じる人もいるでしょうね。
櫂> 怒りの矛先の件ですが、やっぱり複雑に考えすぎずに「謎の男」に対するものだと思ったほうがいいみたいですね>ころすけさん>ちょっと疑心暗鬼、深読みしずぎだったかなとも思います。くまさんも、すみません。
ころすけ> >櫂さん。怒りの矛先についてですが、この場合、怒りは謎の男に向けられていたと私は考えています。謎の男は亘を挑発し怒りを自分に向けさせたくて、レイプする振りをしたのではないでしょうか?誰もが愛し続けられるわけではないという考えには同感です。
りよん> (私事ですが、「怒り」についてはROMさせていただきます。興味深くみてます。全然、関係ないレスですみません。)
ころすけ> >くまさん。私は男の話を愛を知らない者の話として捉えています。
くま> 櫂さん>恋人に対する「理不尽な怒り」と言うのはおもしろいアプローチですね.(バカにしているのではないですよ)そういう発想は考えていませんでした.(それなのに偉そうに言ってころすけさんゴメンナサイ)
くま> ころすけさん>全面的にバックアップするきにはなりませんが思考過程のひとつとして,男の言うことはそんなに間違っていないと思います.おそらく僕が男の言うことを否定できないからだと思います.
櫂> ただし、ひとつ疑問なのは愛を変化させるとして「怒り」によっての変化なのか?本当にくまさんのいうように「怒り、とはレイプした犯人への「怒り」なのか???僕はなぜか...レイプされた恋人に対する「理不尽な怒り」のように感じます」
櫂> 僕は思ったのは、「愛」そのものの本質を試されるくらいの重要な事件だと思うのです(レイプ)その結果、、まがい物の愛はふるいにかけられ、最終的には真実の愛(があるとして)を持った恋人同士しか残らない。しかし、以前とまったく同じ「愛し方」ではない姿に形を変える...そう思います。
櫂> ドラマでもいろんな確執があり、最終的には主人公ともとのサヤにおさまります。やはり「怒りが形を変えた」のかどうかはわかりませんが「以前と同じように」愛せなくなり、その結果、愛(だと思っていたもの?)が終わりを告げる、ことが現実にもかなりな高確率みたいですね。
櫂> 恋人がレイプされて、その恋人との精神的葛藤、それを最終話まで描いたドラマでした。そのドラマの中で主人公の恋人の女性が、暴行を受けた精神的な治療を受けるシーンがあります。そこで、今だに覚えているのが、「レイプされた被害者の女性は、(ほとんどの場合?)恋人と別れてしまう」ということです。
櫂> たしかに、教授の「怒りが形を変える」というのは、「以前と同じようには愛せないが」違った形で愛せるだろう。という意味にも取れないことはないです。ひとつ思い出したのですが、全然違うドラマですが織田雄二主演「真昼の月」をご存知でしょうか?僕はこの「怒り」のたとえ話を聞くと、どうしてもこのドラマが頭に思い浮かびます。
ころすけ> 質問なんですが、謎の男と教授は同じことを言ったのでしょうか?教授は謎の男の愛を最後に偽者だと言いましたよね。謎の男の論理はわからないこともないのですが、教授が言っていることは違う気がするのです。「以前と同じように愛せますか?」という問いに「…きっと無理だな」「怒りが形を変える」と答えています。私はこの文章を、「答えてやろう、サービスだ。同じようには無理だが、違う形で愛せるだろうな」くらいの気持ちでいたのではないかと思うんです。なんせ教授は謎の男の名前を考え中だったのですから。
ころすけ> >くまさん。対象は確かにそうなんですが、その前に「愛をも生理的嫌悪に変えてしまう」って言うのがわからないです。その言葉を信じているんですか?
くま> ころすけさん>いえいえ,ここでのお話の,怒りの対象は「愛する人に暴行した人物」ですよ.その結果,愛する人への愛をも生理的嫌悪に変えてしまう.それならば,愛において怒りの感情はないほうがよいのではないですか?(別に謎の男の味方するわけではないですが・・・)
ころすけ> 櫂さん、「愛の否定」について、現時点で考えられることを書いてみました。壊されることを覚悟しつつ…。そのために参加しているとも言えるわけで。
ころすけ> 怒りによって嫌悪を浮き彫りにできるのなら、逆に怒りは不可欠だって気もしてきます。嫌悪は隠すものではないと思っていますので。
ふみ> 櫂さんの「最終的には打ち破れるものであると(心情的には)信じたいです。」というのに同感です。怒りでぶつかりあってもそれを超えていくのが愛じゃないかと…。
ころすけ> ころすけ> 怒りが愛の形を変えるかどうかはわかりませんが、怒りが愛への大きな壁になることは容易に想像できます。>櫂さん
taki> 世紀末BBSの方にレスしました。どうぞご覧下さいー。>櫂
くま> あくまでレイプと言うたとえに関してですが、性的暴行などはその被害者の人格などを変質させてしまうと思うのでので、たとえその被害者を愛していたとしても愛が怒りによって変えられたのかどうかはわからないです。男の話を聞く限りでは納得してしまう部分もあるんですが、もう少し色々な例について考える必要があるのかな?と考えます。
櫂> ただ、真の愛ならば、そんなわだかりみたいなものを、最終的には打ち破れるものであると(心情的には)信じたいです。
櫂> 僕は「愛の形が変わる」というより、「2人の間に忘れることのできない傷」のように(あえてこの言葉使わせてくださいねtakiさん)トラウマのように拭い去れないわだかまりみたいなものが残るのは確かかもしれない。と思いますが、経験がないのでなんとも言えません。ううむ、考えれば考えるほど、教授のいう言葉が正しく感じ始めました。,,,このドラマのセリフの深さったら!
櫂> ころすけさん>わかりました。そういった場合は別の議題に参加してください。ころすけさんは教授のいう「怒りが愛の形を変える。以前のようには(レイプされた)相手を愛せなくなる」という意見、どう思われますか?
櫂> ゆうさん>怒りの後に覚える様々な欲(帝王学などによる独占欲や・・・>よろしければこのへん、もうすこし具体的に伺いたいのですが...ここの解釈、正直教授の考えにも、僕はとまどっている部分なのです。
ころすけ> >櫂さん。「愛の否定」についてです。私は「愛の否定」という言葉にとりつかれていたようです。何の疑いもなくただ闇雲に信じていました。混乱してて今は答えられませんが、もう少し頭を整理して最終話までに私なりのこの解釈を探したいと思います。今言えることは今までの自分の解釈に疑問を持ち始めたということです。
りよん> ころすけ>ちょっと、レスの内容がここのBBSとずれるので、世紀末BBSにかきます。
りよん> 私も、私的には、この部分の所、自分ではもう引っかかりはないと思うのですが、何かありましたら、世紀末BBSのほうに書きます!
りよん> takiさん>私事で申し訳ないのですがメール読みましたので、「私はそういう感情を絶望とはよばないからです。」の部分訂正します。takiさんの「絶望」理解しました。きっと、人生最悪の時期の事を「絶望」だというのでしょうか・・・。詳しくは私もメール書いたので見てください。(私事でしつれいします)
ゆう> 確かに私も納得がいかないところもあれば、理解できるところもある部分です。恐らくは、怒りが愛の形を変えるのではなく・・・怒りの後に覚える様々な欲(帝王学などによる独占欲や・・・)が愛の形を変えるのではと思います。
ゆう> 櫂>わたしもだいぶ前からここでの『喜』の考察は過ぎていて、個人的なトークになっているように思っていたので少し離れていました。そろそろみなさん『怒』にテーマを移しましょう。
櫂> りよんさんところすけさんの「ひっかかり」の部分は世紀末の詩BBSのほうで続きをやって、こちらでは「怒り」に入りたいのですが、よろしいでしょうか?
櫂> 怒りが愛の形をかえる>教授も肯定したこの論理。この9話で納得がいかない部分のひとつです。理屈では「そういうこともあるかもしれないな」とも思えるのですが...みなさんはどうお考えですか?
櫂> 愛は感情から生まれ、構成要素として感情をもちろん含んでいるが「感情」のひとつではないと僕は考えます。>ふみ
櫂> ころすけさん>「愛の否定」って単純に言葉の意味だけをとらえると「愛は存在しない」ってことを示しているのですか?