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野島伸司が語る「聖者の行進」の背景


TVガイド誌(98年1月23日号)掲載記事

今回の企画の発端はTVのニュースです。 ニュースを見て「ひどい話もあるものだな」と…。 その時は、別にドラマにしようとは思わなかったんですけど、毎日新聞の記者にいろいろ聞いてみると、単純に善悪で片づけられない、根が深いものがあるというか…。

これを言っていいのかわからないんですけど、工場に子供を預けている親の方も、どこか厄介払い…というと言葉は悪いですけど、そういう部分もあって。 アカス事件(※)の場合だと、あんな事件があったにもかかわらず、工場の存続の方を優先に考えてる親もいたり…。 たまたま工場に極悪人がいて、そこに証言能力のない知的障害者がいて、その構図の中で善悪を判断するわけにもいかないんだな、と思ったんです。

実際に書き始めたのは、被害者自身は(事件)をどう思っているか、という風に考えた時です。 取材を通して感じたのは、普段彼らは、漠然とでもいいから社会とつながっていたい、と思ってること。 あるいは、親が自分を供養するのを、大変だと思っているのを感じているということなんです。 彼ら自身、自分たちが他の人と違うと認識しているようなんですが、ただ、それがコンプレックスであるというよりは、むしろその分愛されたいと思っているというか、自分が良い子でいたいという、マイナスではなくてプラスの方向になっている感じが凄くしたんです。

僕が「人間・失格」というドラマをやった時、前半の物凄いイジメのシーンの時に、明らかに視聴者がチャンネルを意識的に変えたというデータがありますけど、彼らが明るくてポジティブだという事実が、ドラマ化しても悲壮感だけを漂わせないで済みそうだと膨らんでいったんです。

実際の事件には、とてもじゃないけどドラマには出来ない部分もたくさんあるんです。 だから、事件の周辺の人たちからすると、甘いと感じるかもしれない。 テレビの限界というのもあるし…。 ただ、一般視聴者にはそれで十分というか、相当の抗議や中傷も覚悟のうえでやっていることではありますけど…。

「人間・失格」の時も散々言われましたけど、それは真似するんじゃないかという批判ですよね。 そういう抗議が全体の95%くらいだと思うんです。 「神戸の事件のようなことがまた起きたらどう責任取るんだ」というような抗議が大半なんじゃないですか。

本当は、このドラマを企画する前に準備してたのは、宗教団体から脱会する親子の話なんです。 その時にアカス事件を知って企画を変えたというか…。 ただ、企画は全般的に変わりましたけど、「宗教」の時から残している僕自身の精神的テーマというのは、人間は基本的に弱いんだということなんです。

人間は強くなりたいと願うものですけど、人間は基本的に強くなる必要がないというのが僕の考えです。 精神を強くするのではなくて、感じなくする…人の痛みとか悲しみというのは、絶対的に自分自身がベースになるわけですから、鈍感になってしまうと、相手に対する痛みとか悲しみというものも感じなくなってしまう。 自分の弱さが嫌で、何か強いものにすがることで強くなろうとする、あるいは強くなったと錯覚する瞬間に、人間は相手の痛みを喪失する。 その部分で、何かとんでもない事件が起こったりすると思うんです。

僕は、強さという鈍感な盾を造るよりは、弱い心を情緒で薄く何枚も包むような生き方の方がいいんじゃないのか、と思います。 それをどこかで見せたいですね。

※アカス事件
茨城県水戸市のダンボール加工会社・水戸パッケージ(旧・アカス紙器)で起きた、知的障害を持つ従業員に対する暴行及び、助成金不正受給事件のこと。 傷害や詐欺などの罪に問われた同社の元社長は、'97年3月28日、水戸地裁で懲役3年執行猶予4年の判決を受けた。 が、性的虐待については起訴されず、知的障害者の証言能力についての論争も起きた。 その後、同様の事件が大阪、広島などでも発覚。 社会の関心が高まるとともに、福祉・行政の在り方が問われている。


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