世紀末の詩BBS

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移転しました
投稿日 4月23日(月)17時22分 投稿者 ふみ 削除

「世紀末の詩」BBSは下記アドレスに移転しました。
ここはもう書き込みできませんがこのままにしておきますので、過去ログの参照などに使って下さい。


世紀末の詩って、何度見てもいいですよね♪
投稿日 4月22日(日)03時59分 投稿者 ツヨシ 削除

みなさん、はじめまして。
この頃、再放送でリップスティックがやってたから世紀末の詩が見たくなってビデオを借りてまた見始めました。(^_^)
世紀末の詩は、最初は笑えて最後は泣けるドラマですよね。
今日、一巻を見ました。二話では、あのまま目が見えないままの方が良かったのにって思いました。人間は誰もが欲を持っている。目が見えないままだったら、あの人は純粋に愛せたのに・・・。永遠に愛しあえたのに・・・・。でも、現実を見てしまったからあんな事に・・・。やっぱり、人間って愚かな生き物ですよね・・。
三話では、現実を恨みたくなりました・・。あの子は、ひまわりのビデオを何回も見てた・・。あの子は、ひまわりがうらやましかった・・・。太陽の光がないと生きていけないひまわりが・・・・。
みなさんは、どう思いますか?みなさんの感想も聞きたいです☆


愛について。
投稿日 4月19日(木)02時40分 投稿者 towa 削除

最終回否定派が多いですが、みなさん勘違いしています。
「愛」がなんなのか誰にも分かるはずないんです。野島さんにも・・・
なぜならば、「愛」は存在しないからです。
ヒトが勝手に作り上げた「幻想」だからです。
幻想は目には見えない。
だからその正体が何なのかわからない。
つまり「愛」は存在しないのです。


>ありすさん
投稿日 4月10日(火)19時47分 投稿者 MR.未成年 削除

すみません。完璧に忘れてました。
でも過去ログを見返したら思い出しました。
takiさんとバトっていた方ですね(笑)。
僕とは直接意見を言い合ったことがなかったですから
忘れられているとは思いますが
またこれからよろしくお願いします。

出産、おめでとうございます。
体に気をつけて頑張ってください。


御久し振りです。
投稿日 4月4日(水)14時05分 投稿者 ありす 削除

こんにちわ。かなりの御久し振りです。久し振り過ぎて、
もう覚えてる方が居らっしゃるかどうかも・・・不安。

ありすは先日、長女を出産しました。
子供が生まれると、何だか人生変わります。自分と好きな彼の
血を受け継いだ子が此処に存在して居るという事に、
何だか無性に感動してしまいます。
「愛の結晶」なんて云われたりしますが、正にその通りだなと、
自分が母親に成ってみて、始めて実感しました。

まだ退院して間も無いので、体調も完全ではないのに加え、
慣れない子育てに梃子摺って居るので、何とも落ち着かない
毎日ですが、合間を見つけてまた遊びに来ますので、
その時は宜しくお願いしますー☆


最終巻は...
投稿日 4月3日(火)21時12分 投稿者 櫂 削除

10話と最終回ですね。
最終回は約1時間30分の長丁場なので...
くまさんの言うとおり10話はとても美しい話で、一番スキです。
最終回は僕は否定派ですが...


>パパイヤさん
投稿日 4月3日(火)14時56分 投稿者 くま 削除

最終卷って何話からでしたっけ?
第10話は美しいお話で結構好評ですよ。
最終話は賛否両論ありますが僕は良かったと思います。
ネタバレしそうなので感想はこの辺で・・・
絶対見た方がいいですよ!!


教えてもらいたいです!
投稿日 4月2日(月)16時50分 投稿者 パパイヤ 削除

 世紀末の詩はドラマではなく3話セットのビデオで見ていて、最初に「恋するコッペパン」の入っている3巻を借りました。はまってしまって、一週間巻き返し巻き返し見ました。バイトから帰ってきても一日に起こったニュースも見ずにずっと”愛とは何か”というテーマについて永遠語り合う百瀬夏夫と野亜亘を見ているのがストレス解消というか落ち着いた気持ちにさせてくれました。邪道かもしれませんが私は3巻から見始め、2巻、1巻と借りていきました。3本とも返却時期が近づいてくるとつらくなり、1日ずつ延滞してしまいました。
 最近このHPを見つけて色んな人の恋愛感に触れてほくほくしているのですが、困ったことがあるのです。いやこのHPに問題があるのではなく、私の問題で。最終巻が借りられないのです。結末に背を向けるなど、幼稚だなと自分でも思います。でも完結して欲しくないのです。すごく借りたいけれど借りられないところに問題があるのです。話の中でことごとく愛の形は否定されていますよね、私も自分なりに愛の形とはどんなものだろうと考えたりしていて、どんどん気持ちが高まってしまいました。”愛とは、、”の先は一番知りたいところであってめをつぶりたいところでもあるのです。
皆さんは最終話をみて良かったですか?見ることを恐がっている私は間違っているのでしょうか?


僕の捉え方!?
投稿日 4月2日(月)02時14分 投稿者 くま 削除

謎の男はひとつのものの考え方としてある程度成り立っているのかなと思います.賛同はしないですけどね.基本的に否定的な立場なんですが,この男を否定する際に,この男は愚か者だからとか虚無感にあふれているからだと言うのは男の愛を否定する理由にはならないかなと思います.
正しいことを言っていても愚かだと思われることは世の中ざらにあると思いますから.
だから,自分と違う考えだけれど極力嫌悪感抜きで,考えているつもりです.
そしたら根本的にひっくり返す部分が,あんまりなくなっちゃったのが現状です.
そこで,「哀しみ」を否定する男に嫌悪感を抱く僕は「哀しみ」が必要だと考えているのか?それはなぜ?ってわからなくなってしまったんです.
おそらくこれ自体が男の考えにはまりまくっているんでしょう(笑)

改めて・・・・
虚無感っていうのは偉大ですね(笑)
極端に言うと誰もが生きている本当の理由なんてわからずに,それぞれにとりあえず自分を納得させてますからね.
それを全部デリートしてしまうんですから・・・.
改めて怖いけど強力だなぁと・・・・


ニヒリズム・科学など。
投稿日 3月29日(木)03時48分 投稿者 ころすけ 削除

きょむ 【虚無】
(1)何も存在せず空虚なこと。特に、価値のある本質的・本源的なものの存在しないこと。
(2)はてしない大空。虚空。
(3)「虚無の学」に同じ。


ニヒリズム
[nihilism]
真理・価値・超越的なものの実在やその既成の様態をことごとく否定する思想的立場。
(1)一般に無や空を主張する思想態度。仏教・老荘思想をはじめとして古来から多くの形態がみられる。
(2)特にヨーロッパ近代社会やキリスト教文明の根底に対する否認の思想。一九世紀後半のロシアの文学思潮・革命思想、ニーチェの哲学などに顕著。虚無主義。


えいごう-かいき【永劫回帰】
〔(ドイツ) ewige Wiederkunft〕ニーチェの根本思想。あらゆる存在は意味も目標もなく、永劫に繰り返されるが、この円環運動をあえて生きる決意をする者は生の肯定に転じている。永遠回帰。



ニヒリズムの代名詞とも言える人物にニーチェがいますが、彼はキリスト教を批判しましたが、否定はしていないと思います。ニーチェに関しては、このBBSをさかのぼるとtakiがガイド的な説明をしているので割愛させてもらいます。私が言っている「批判」とは下に書きました「(3)…その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。」です。


ひはん 【批判】
(名)スル
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。




続きまして、科学について。


かがく 【科学】

〔science〕
(1)学問的知識。学。個別の専門分野から成る学問の総称。「分科の学」ないしは「百科の学術」に由来する。
(2)自然や社会など世界の特定領域に関する法則的認識を目指す合理的知識の体系または探究の営み。実験や観察に基づく経験的実証性と論理的推論に基づく体系的整合性をその特徴とする。研究の対象と方法の違いに応じて自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。狭義には自然科学を指す。

じんぶん-かがく 【人文科学】

広く人類の創造した文化を対象として研究する学問。哲学・文学・史学・語学などが入る。文化科学。



私が考察BBSで使いました「科学」というのは「(2)…探究の営み。」というニュアンスから出たものでした。私の個人的な主観ですが、科学というのは常に発展途上であり不完全なものだと思っています。だからこそ科学者たちは探究を続けるのではないかと思います。ニヒリズムが探究のひとつの成果だとするならば、いつか誰かがそれを超えるものだと思っています。と言いますか、真のニヒリストとは、ひたすらに探究を続ける人たち(この一言で言い尽くせるわけがありませんが…)だと思います。もう一つ付け加えると、「発展途上であり不完全なものだ」としても、歴史上の科学者、哲学者、思想家…たちは、皆すごい人たちだと思います。歴史に残るような人たちは、既存の価値や概念、常識などを打ち破ってきた人だからです。

以上、科学についてでした。


上記の語句説明は、すべて『大辞林 第二版』から引用したものです。
HPは
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/jp-top.cgi
です。


http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


音楽会の絵
投稿日 3月26日(月)23時49分 投稿者 nori 削除

2000年3月24日に東京オペラシティコンサートホールで音楽会の絵と題して千住3兄妹のジョイントコンサートが行われました。
組曲「世紀末の詩」世紀末の詩〜ELEGY〜THE LAST SONGが生演奏されました、素晴らしかったです。ちなみに野島伸司さんも花を送っていました。


野島伸司詩集について
投稿日 3月24日(土)01時52分 投稿者 MR.人間失格 削除

僕は最近あの廃盤になったはずの「野島伸司詩集」を手に入れました。
さて、それはどうしてでしょう?
何故かというと、「クロネコヤマトのブックサービスで購入したからです。
インターネットで「クロネコヤマトのブックサービス」を検索したら分かりますよ!!


野島伸司詩集
投稿日 3月23日(金)11時35分 投稿者 おじん 削除

野島伸司詩集の一番最初にでたやつが廃盤になったという噂を聞いたのですが、どっかにありませんか?あれだけ持ってないんで絶対欲しいんです。誰か情報下さい。


ありがとうございます。
投稿日 3月21日(水)14時33分 投稿者 順子 削除

takiさんどうもありがとうございました。
早速探してみますね


本の情報。
投稿日 3月20日(火)11時23分 投稿者 taki 削除

ISDN4−8470−1302−6
このナンバーを本屋さんか、オンラインブックストアで、
注文したら手に入ると思いますよ。>順子

http://alived.com/autism/


教えてください
投稿日 3月20日(火)10時05分 投稿者 順子 削除

世紀末の詩は小説として出ているのですか?
書店では見かけませんがもしやと思って、、。


>教えて下さい
投稿日 3月20日(火)00時31分 投稿者 ふみ 削除

世紀末の詩の音楽は千住明さん作曲で、サントラCD出てますよ。
東芝EMI \2854です。


教えて下さい
投稿日 3月17日(土)00時40分 投稿者 sin 削除

テーマ曲でクラシックぽいのとかありましたよね。できれば全曲おしえていただきたいんですが。お願いします。このホームページはじめてきました。また来たいと思います。それでは。


薔薇
投稿日 3月14日(水)22時00分 投稿者 茶夢姫 削除

第9章
彼は「青いバラに抱かれるためです」「その意味は神の祝福」と言いました。

<薔薇の花の神話>
”花の女神フローラの愛する妖精が死んでしまいました。
 フローラは神々の前に亡がらを運び、その妖精を
 花の女王とも仰がれる不死の花に変えて欲しいと頼んだのです。

 神々は、妖精を薔薇の花に変えることにし、ビーナスが美を
 風の神ゼフィールが雲を吹きとばして光の祝福を
 酒の神バッカスは香りを、他の神々が優雅さや喜びを与え
 フローラは花にさまざまな色を与えたとされています。

 しかしフローラは、青い色だけは与えませんでした。”


再度、レス。
投稿日 3月14日(水)07時51分 投稿者 taki 削除

なにか、同タイミングで書きこんじゃってたみたいですね。
下記の私のレスも見ていただきたいのですが、もちろん新たな書き込みにも更にレスをさせて頂きます。
それに関して、重複して言うことがあるかとは思いますが、そこはご容赦を。

> 「人間は欲求する故に、人間がこのような文明を築いてこれた。欲求こそが全ての感情の根源。」

そうなんですが、「全ての感情の根源」なのかは疑問です。
文明や進歩の根源的要素ではあると思いますが、感情の根源となると、また違った
意味を持ってくるのではないでしょうか。
感情と発展の根源の混同がないでしょうか。

> 「愛」というのも感情の1種であると私は捉えます。違いますか?

これは皆さんにも聞いて見たいですね。
これだけ考察BBS戻りにさせてもらいたいです。
9話に関連することとも思いますので。
でも、あちこち移動してすいません。(笑)

これに関して、私の意見は向こうで書かして頂きます。

> 矛盾がしょうじてきます。何か自問自答しているみたいですが・・・

ですね。それも向こうで。(笑)

> そういった意味で、『愛』はないのでは?と述べたのです。

むー、どういった意味か掴めてませんが。

> そういう意味でも「愛」を証明するのは難しいでしょう。

難しいですね。しかし、その段階的論証は即物的であるような気がします。
個人的な証明部分は、その人個人の人生にあるものなので、概念的なのは至極当然なことと思います。
でなくては、相対的観念であろう愛を、個人単独で思索するに当たって無理が生じてしまうものと思いますので。
(では、個人の中に内在するものは、「自己愛」だ。と話がそちらに流れるのですが、自己愛とは別に考えなくては、
混同、混乱激しく、論点がばらけてしまうので)

元々、世紀末の詩は愛に対し、定義的、概念的アプローチを行っているので、
世紀末の詩における愛になると、その論証方法はしかるべしなのではないでしょうか。

> 私は「愛」があるならば、愛とは母性に近いものだと解します。

母性は源流的なもので、愛情の発露を促す根源的なものですよね。
下記で仰っていますが、それは愛そのものではない。
(当然、世紀末の詩的な愛です)

> 要するに感性が違うんです。そんな2人の間に「愛」などとんでもない。

根源的に他者の受け入れがなされていないと無理な話ですよね。
これは乗り越えられないもの、不可能なレベルの物事とは思いませんが。
別に例でいうと、古来より「近親同志の恋愛」は戯曲、ストーリー化されてきていますよね。
それらは「他人」とは言えない。

しかして、他者は受け入れられないことは、単に過程をこなしていけば可能と言えるものだと思うので、
愛の発生しない原因にはなり得ないのではないでしょうか。

> しかし、「近い」だけです。時の流れがその想いをも変容させる。
> よくマスコミでとりあげられる、子どもの虐待死が代表として上げられるでしょう。
>
これは「虐待」に関しては同一性の錯誤によるものも多いかと思います。
マスコミの記事に頼らず、知人間でも思うのですが、
母親は子どもとの存在的境が曖昧になってしまうことがかなり多い様に感じます。
子どもの意見を聞かず、「私はさせたくない」、「〜させてあげなくてはいけない」。
また、子どもも愛されたいが故に、主体が母親になって行く。
それは成長、発達過程時のサンプリングとして、時期的に正しくもあるのですが、
無論、過程の話なのでそこには変化がその時期時期に発生してきます。
一様に「母性」が子ともとの関連性を言い表せるものではないと思います。

時の流れが変容させることもあるでしょうし、不変である場合もあるでしょう。
それは親子という関係性の獲得と言えるもので、愛の変容の事例にはならないのではないでしょうか。

> 「世紀末の詩」内で、野亜が「愛というのは所詮自己愛に根ざしているのかもしれない」と言いましたよね、

(出ました。もうカンベンしてください。と言いつつ・・・。)
自己愛に関してはここのBBSで散々遣り合いました。
その上で、まだ定義的に曖昧な部分をメルマガ(野島ドラマ考察委員会)の増刊号として準備中です。
それを購読して頂き、ご覧になった上で再度行いませんか?

> この母性ってヤツも自分の痛みと引き換えに生んだとあって、自分をわが子に投影しているだけだと思うんです。

心理学的に「母性は完全なる自己愛」と言われている学説もあるようです。
母性論として、まだなんの感情獲得もしていない幼児に対しては、よき「投影対象」であるとは思います。
しかし、それは時期的なもの。
子どもは成長し、自己を獲得して行く。
それにより、親自身も何らかの補正をされて行くものだと思うのです。
「負うた子に教えられる」のは我が子でなくとも、子どもに接した者には経験があるのではないでしょうか。

> とにかく心の中では自分が1番だと思っているエゴイストの集団なんです。

エゴイズムの弊害としてよく考えなくてはならないのではないでしょうか?
ここで仰ることは「利己的」なことと、捉えさせて頂きますが、
利己的なことから発生する「偽善」は悪でしょうか?
対象の善行をされた者に対し、その質を問うことは無意味ではないかと思います。
かといって、「偽善者陶酔浸り屋さん」はキライなんですが。(笑)
でも、それは個人的に相対する時の人間性としての嗜好ですね。

資本主義的社会は言わずもがな、「営利、利益追求」社会です。
人間がそう言った社会的側面と、個人的人間性の側面を併せ持つのは、
社会性の資質として自然に身に付けなくてはならないものと思います。
仕事にすべて個人的な人間性を反映してやって行くのは無理なことですし、
それが個人的人間性を圧迫させなくてはならないものではないと思います。

心の中でのエゴイストはとても親しい人間関係では弊害になりうると思いますが、
それは気質的、性格的な要素も含みますので、利己的と言うことをすべて戒めることが
愛への弊害を追い払うことにはならないとも思います。
つまり、利己的性格、及び行動が「他者の受け入れ」に関して、
すべからく排除すべきものとは言い切れないと思うんです。
逆に利己的ではない人が親近的感情は得やすいだろうけど、
それらは可能性の大小であって、「得れる要素という資質ではない」のでしょうか。

> そんな私たちに「愛」なんていう超越したものが、芽生えるとおもいますか?私は思いません。

これが「私達」の括りなのでしょうか?
かーなり疑問ですよ。

> 長いレスですみません。あなたの考えもぜひ聞きたいです。

こんなもんでいかがでしょうか。
長くなるかな?これは。(笑)

http://alived.com/autism/


愚かなリアリストのぼやき
投稿日 3月14日(水)05時36分 投稿者 唯人 削除

takiさん
申し訳ない。説明不足でした。「人間は欲求する故に、人間がこのような文明を築いてこれた。欲求こそが全ての感情の根源。」とのべてきました。「愛」というのも感情の1種であると私は捉えます。違いますか?
そう捉えたなら、「求めずともそこにあるもの」ということに矛盾がしょうじてきます。何か自問自答しているみたいですが・・・
そういった意味で、『愛』はないのでは?と述べたのです。
わたしは考察BBSで言ったように「恐ろしいくらいのリアリスト」なのです。「愛」を否定し続けているのもそこからです。しかし、人の意見を聞かないような愚か者ではありません。自分自身が納得できる説明を頂けたら、きっと考えも変わるんでしょうが・・・そもそも「愛」というものは実態がないから、証明することは難しいでしょう。とにかく、概念的過ぎる。野島伸司氏が愛について作品を書き続けるのも「愛」の実態を把握できていないからに他ならないからでしょう。誰もが「愛」を求め続けてきたのでしょうが、スタンダールにせよ、武者小路実篤にせよ主観が入り過ぎているから万人が納得しないのです。そういう意味でも「愛」を証明するのは難しいでしょう。
私は「愛」があるならば、愛とは母性に近いものだと解します。
やはり、恋人や結婚相手は所詮他人なんです。生まれた環境も違えば、育った環境も違う。宗教も違うかもしれない。要するに感性が違うんです。そんな2人の間に「愛」などとんでもない。
逆に、母性は何より強いものです。自分の内部から新しい命が誕生し、耐えがたい痛みと引き換えに産み落とされる。母にとって何よりいとおしい存在でしょう。その経験から、母は子を溺愛するでしょう。しかし、「近い」だけです。時の流れがその想いをも変容させる。よくマスコミでとりあげられる、子どもの虐待死が代表として上げられるでしょう。「世紀末の詩」内で、野亜が「愛というのは所詮自己愛に根ざしているのかもしれない」と言いましたよね、この母性ってヤツも自分の痛みと引き換えに生んだとあって、自分をわが子に投影しているだけだと思うんです。人間なんて醜いもので、自己愛を超越するものなんて存在しない。だから、戦争で平気で人も殺すし、人種差別もするし、障害者に対して冷たかったり、とにかく心の中では自分が1番だと思っているエゴイストの集団なんです。
そんな私たちに「愛」なんていう超越したものが、芽生えるとおもいますか?私は思いません。長いレスですみません。あなたの考えもぜひ聞きたいです。


考察BBSより。唯人さんへ。
投稿日 3月14日(水)05時35分 投稿者 taki 削除

9話と離れて行くので、こちらに書かしていただきます。

> 「愛」とは、私たちが作り上げた想像上の産物にすぎない。
> つまり、「愛」とは、いくら私たちが望んでも手に入れることができないもの。

上記の根拠は一体何処にあるのですか?

> その際限なき欲望が科学技術を発展させ、現代の便利な生活を作り上げた。

それが上記の「際限なき欲望」にあるのでしょうか?
全体的に考えると、欲求が元々あった愛を壊す、また知覚できなくなる、と仰ってるんですよね?

さらに知覚できたような時代にはもう戻れないとも。

しかし、現代が平和とは言い切れるんでしょうか?
個人個人に相対的なものであって、
(戦争などや原始的な生活苦にしても安穏とした人々は居たと思いますし)
時代を普遍的に平和と言えても、
それが考察上の「愛を感じることが出来ない定義」として言えることでしょうか?

現代は確かに欲望が肥大した時代です。
それは一般的に難しい時代とは言えても、
それゆえに「感じることができない」とは言い切れないと思うのです。

さらに
> 求めずともそこにあるものそれが「愛」なのではなかろうか?
> そう考えると「愛」など存在しないと考えるのがだとうであろう。

と続く文に矛盾がないでしょうか?
それに妥当でしょうか?ここで仰ることを
論証的に普遍妥当性を見出すことは出来なかったのですが。

前提的に愛はない、と言うことでもご自身は愛を求めてしまっている、
という趣旨だろうと思うのですが、それが現代と前提との関係性が混乱しているように
思うのですがいかがでしょう。


考察BBSの2つめの書きこみついてですが、

> 要は、動物の欲求と人の「欲求」は全く種類の違うものということが言いたいのだ。

人間が現在は欲望が肥大した存在であり、
対比として必要最低限しか求めない動物と引き合いに出されているのですね。

でも言葉のニュアンスとして、欲求は動物的本能的なもの、
人間も欲求を持ち合わせているが、思考により肥大したものは「欲望」と呼ぶ。
と言う感じはいかがでしょうか?

> 次に、平和な時代・激動の時代を問わず「愛」なんてものは、無いといっても過言では無いだろうか。

今度は時代背景は関係ないことを前提にするんですね。
となると、欲求(欲望)からの社会の変化に置いて、人間性をも変化したことから
人は愛を感じることが出来ないのではないか?
という、以前の書きこみはなかったことにして。

> つまりは、「愛」なんてものは無いと考えるべきなのだ。現に、誰も「愛」というものを見たことがない。知らない。
> 人間が存在しだしてもう永い月日が経過したにもかかわらず・・・

愛が知覚できるかどうか?ってのは別問題ですよね。
見えないから本質は否定。とは安易過ぎるのではないでしょうか?
愛に関わらず、人間の絆や友情は目に見えないものではないでしょうか。
何がしかの実力や賞賛にしても同様かと思います。
それに形而上的なことは時間的問題だけで解決はつかないのではないですかね。

もし、実体を表現し得ていても、それが万人に理解できるものでしょうか?
もしかしたら、表現できているものがあるかもしれないし、
また自分自身がその感性のなかで、知覚に近い感覚を得れる表現があるかもしれない。
こういった字などは、そこに至るための個人個人のためのとてもいいヒントになり得ているのではないでしょうか。
それらは相対的であるが故に定義などは出来ないものとは思いますが、
否定することで思考停止に陥ってしまうものではないのでしょうか。

> 聖書に書いてあることが実際に起こったかどうかは誰にもわからないはずなのに、
> それ元にどうこう言うのは非現実的過ぎないか?

これを言い始めると、自分の人生に関わったこと以外はすべて、非現実になってしまいますよね。
そこには「史実」という重みは必要なく、寓話としてでも検証は可能と思います。
しかし、パレスチナ情勢が悪化しているのはまごうことなき「事実」なのですし、
史実的虚実に拘るのは歴史学者や研究者のみでいいのではないでしょうか。

> 私のなかには、ニヒリズム的思想はない。ただ、私は恐ろしいくらいのリアリストなのだ。

また、唯物思想的なリアリズムですが、非常にニヒリスティックといえます。
実存主義とも絡みがあるのですが、ここでは脱線し、手にも余るので割愛しますが、
現代的である現物的思考は、非常にニヒリスティックなものです。
つまりは形而上的な愛、永遠などを否定した主義を指しています。

> もし、ご存知なら哀れな私に「愛」ってヤツを教えてください。よろしくお願いします。

愛は教わるものでしょうか?私には教えることは出来ぬことですが、
9話に関しては、「愛を教えようとした者」が否定されていますよね。

あと、即物的な思考は物事が結論づいていること以外には、要を得ることは出来ないと思います。
失礼ですが、世の中聞いて分かることばかりではないのですから・・・・。

考察に関しても、教えよう、教わろうでは何も掴めないのではないかと思います。
考察は講座形態ではありませんので。

個人個人の方に普遍妥当性を感じれるような書き込みが出来たら、とは思っていますが。

しかしながら・・・・、私自身は「現世利益優先」の人間なので。(笑)

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憎んで愛した「世紀末の詩」
投稿日 3月8日(木)02時50分 投稿者 ころすけ 削除

櫂さん、長いレスありがとうございます。

>情深き人と向き合い、ここに愛がないと否定し続ける。

櫂さんご指摘の通り、ここは絶対に違うなと自分でも思いました。
「愛とは情深き人と向き合いながら鍛え上げていくもの」と今は思っています。
私はなんでもかんでも「世紀末の詩」を愛の否定で言い包めようとしていた感があります。
なぜ、そのようなことをしたか?
たぶん「世紀末の詩」に自分自身の愛を否定されてショックだったからだと思います。

ふりかえってみると、
「世紀末の詩」は私の愛の否定をした憎むべき対象であった(笑)
そして今は
「世紀末の詩」は愛を否定するだけでなく、私に愛を考えさせてくれた愛すべき作品である。
ということです。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


お、なるほど。
投稿日 3月7日(水)00時31分 投稿者 taki 削除

櫂さん。

いえ、仕方ないですよ。(笑)
大仰なものを持ち出したのは私の方ですし、それを説明できないのは無責任だと思いますので。
しかし、あまりにも枠のデカイものを出しすぎたし、
そのドラフトは遠大過ぎるから、知ってて「そう感じる」と書くのと、説明するのとは違いますから苦労はしました。

「うあぁ、説明書けってーのか?!」というのが正直な気持ちでした。(笑)

そんで、頑張って書きましたが、

> 正直いって、ほんのちょっとしか理解できなかったです。

いまいち成果がなかったかも・・…。(^^;;;

> キリスト教的な部分は野島伸司の中に色濃くあって、
>
9話に関してはキリスト教的な愛を否定した話と思っていたんですが。
ノストラダムスはキリスト教圏の愛の定義を持っていたと思いますし。

> これは「無」作為というより「反作為」としたほうがいいのでは?とちょっと思いました。
>
これは老子81章を読んだ感想なんで、うまく纏めれてる言葉なのかは、本人が疑問です。(笑)
あくまで感想でしょうか。じゃないと「老子を語る」になってしまいますしね。

> 「他人の理解を許さない」レベルのものがあることがたまにあると思います。

これは今回持ち出したものが、凄すぎましたね。
しかし、「9話はニヒリズム的」という感想が出てしまっていたので、
そうすると、誤解や混乱が起こりやすいので危険視してました。
なので、良い切っ掛け(?)と思ってやらせていただきました。
つまり、するつもりで書いてもいたんですけど。(笑)
しんどかったのは事実ですが。

> 「共感されることを拒否しているのかなぁ」と思ったこともあります。

あ、それはバレましたか。(笑)
共感されたことは正しいというようなことってネットの世界ではよくあると思うんですよ。
それって本当か?という風に懐疑的であるし、
「本質」はそこに参加している者の多数決なのか?と、
また感情的に訴えるような書きこみは自分として卑怯としています。
(あくまでも自分自身の自戒としてですけど)

> 議論の場ですから、なるべくとっつきやすい表現をお願いできないものかと^^;

あ、今回は事情もあって意図的な部分も実はあったんですが、
これからは留意致しますね。
その分書きこみが長くなるかもです。(笑)

http://alived.com/autism/


ころすけさんへ(長文失礼!)
投稿日 3月6日(火)22時08分 投稿者 櫂 削除

>「世紀末の詩」は愛を追求する姿勢を描いたドラマだと思っています。

「姿勢を描いている」のではなく愛を追求すること自体が目的のドラマだと思
います。「愛」そのものの定義、存在の有無、そういったものがテーマと思い
ます。

>その姿勢は「愛の否定」そのもの。「否定」とは言い換えれば「確認」。
>愛の所在をその時々に確認していく。そして、ここに愛がないと思うこと
>それが世紀末の詩の言う「愛の否定」だと私は思います。

世紀末の詩が「愛はない」と言い切ったことはないと思います。
常にその存在に関しては、教授の言葉で「愛はあるのか?存在するのか?」
という悲痛なまでの問いかけ(叫び)でした。「答え」の出ないもの、答え
を期待するものではないとしても、そこに在るのは、「否定」の形ではなく
「問いかけ」の形をとった切実極まりない「祈り」だと僕は思います。
(もちろん「存在してほしい」という肯定の立場にたった「祈り」だと思い
ます)

>劇中に愛は描かれていたのだろうか?

最終話、教授の死の間際にいたっても、教授自身のセリフで上記の
「問いかけ」が発せられていることでもわかるように、「愛」は劇中
ではついにその姿を見せなかった、と僕は思います。
ただし、「愛とはこういうものだ」という定義づけと、「存在するなら
形があるはずだ」という妙な(?)論理のもとに提示されたのが「冒険」
と「風船」でしたね。
何度もここの掲示板に書いたように僕自身はこの2つに関しては納得がい
っていませんが、この2つに関しては最終話の考察を待ちたいと思います。

>愛ではなく愛を追及する姿勢を描いたのが世紀末の詩だと思っています
>ので、「愛は描かれていなかった」と思っています。

野島氏のインタビューに、「(愛に見えるものを)ひとつひとつ否定し
て、残るものを「愛」だと定義したい。そう思っていたが、現時点で否
定できないものがないので、困っている」という言葉を覚えていらっし
ゃるでしょうか?
「姿勢を追及するのが物語の主旨なので愛が描かれていなかった」ので
はなく、「愛を描くつもりだったのが描けない(否定できないものが無
いから)だから(現時点では)困っている」ということだと思います。

>情深き人と向き合い、ここに愛がないと否定し続ける。「愛の否定」
>はとても険しい道だと思う。亘と教授はその姿勢を貫く選ばれた者たち
>だ。私は彼らから愛を学ぶのではなく、愛を追求する姿

情深い人たちにとっては迷惑この上ない2人だ、ということになります。
その人達の愛を否定して誰が喜ぶのか? 
確認とおっしゃいましたが、確認とは「否定し続ける」作業のことではなく
純粋に「愛があるかないかの確認」作業ということです。
当然、「愛を見つけることを目的としている」はずです。
結果的にそこに愛がなかったら、それを「愛ではない」と否定することもあ
るでしょうが、それが目的ではない、結果のひとつだと思います。
たまたまこのドラマでは結果的に「これが愛だ」といえるものが出てこなか
っただけだと思います。

教授と亘の姿勢といったら、「愛を否定することによって確認していく」
とかそんな複雑なことではなく純粋に、それは「愛なのか?」を確認して
いく作業です。
だって2人は「真実の愛」を追い求めるのが目的の「世紀末の詩人」では
なかったですか?
そして探しあぐねたすえに、どうしてもそれらしきものがみつからない。
そして「愛はあるのか? 存在するのか?」という最終回での教授の問い
かけになっていくわけでしょう?

もっと言ってしまうなら、「探しつづける作業」を根気よくやり続ける、
ということは教授だって、口ではああいう言い方をしてますが「愛の存在
をせつないくらいに信じている」と思います。
だけど一方で科学者であるがゆえに「存在を立証できるもの」または具体的
に「これが愛だ」といって提示できるものが間近にない。
だから「愛は存在する」と断定できない。
だから「その存在を確認するために探し始めた」のではないでしょうか?


まずはtakiさんから
投稿日 3月6日(火)20時34分 投稿者 櫂 削除

takiさん、すごいですね。これを書いた...(・・;)
ちょっとした興味本位で質問してしまったこと、申し訳なく思っております。
また、誠実にレスしていただけたことに感謝の念を...

正直いって、ほんのちょっとしか理解できなかったです。
ニーチェは若いころに読んだことがありますがほとんど内容は忘れておりまし
た^^;(みんなが通る道なのよね、ニーチェとか太宰って)
この謎の男がニヒリズムのメタファーだと僕は思っているのですが、やはり
キリスト教的な部分は野島伸治の中に色濃くあって、(クリスチャンかどうか
はしりませんが...)ニヒリストは敵役なのかなぁ..と漠然と思ったくら
いです。

>それを踏まえ、思想的に「無作為」と表現しました。

これは「無」作為というより「反作為」としたほうがいいのでは?とちょっと
思いました。

>では、「絶望感から虚無主義が成り立っていることは、あながち否定の出来
>ないもの」と書いたのはニーチェのニヒリズムを克服する、価値の病とされ
>る部分を「絶望」というポイントになぞらえ、そこからの脱却という意味で
>なら「あながち否定できない」という意味でした。

あの文章からはここまで論旨を読みきれません。レスいただいておいて恐縮ですが、takiさんの文章はご本人も意識されているかどうかわかりませんが、「他人
の理解を許さない」レベルのものがあることがたまにあると思います。
「共感されることを拒否しているのかなぁ」と思ったこともあります。
議論の場ですから、なるべくとっつきやすい表現をお願いできないものかと^^;
これは批判というより個人的なお願いです
(他の人は理解できているかも判りませんからね)


お2人とも...
投稿日 3月6日(火)07時33分 投稿者 櫂 削除

takiさん、ころすけさんお2人とも、僕へのレスですね...どうもありがとうございます。ちょっと時間がないのでざっくりしか読めませんでしたが、あとで感想を
カキコさせていただきますm(__)m


愛の否定から見る「世紀末の詩」
投稿日 3月6日(火)01時35分 投稿者 ころすけ 削除

「世紀末の詩」は愛を追求する姿勢を描いたドラマだと思っています。その姿勢は「愛の否定」そのもの。「否定」とは言い換えれば「確認」。愛の所在をその時々に確認していく。そして、ここに愛がないと思うこと、それが世紀末の詩の言う「愛の否定」だと私は思います。

劇中に愛は描かれていたのだろうか?それを愛と感じたなら、その視聴者にとってはそこがエンディングに等しいのかもしれない。私は前述したように、愛ではなく愛を追及する姿勢を描いたのが世紀末の詩だと思っていますので、「愛は描かれていなかった」と思っています。

相手の情に深くどこまでも深く入っていくこと。それは「確認」において不可欠なことだと思っている。入ることを止めてしまったら、愛とか言う以前に、その「確認」自体が成り立たなくなるだろう。

情深き人と向き合い、ここに愛がないと否定し続ける。「愛の否定」はとても険しい道だと思う。亘と教授はその姿勢を貫く選ばれた者たちだ。私は彼らから愛を学ぶのではなく、愛を追求する姿勢を学んでいきたいと思っている。

ただ一つ問題が残る。ここに愛があると、どうやって感じるのか?そこまで世紀末の詩は描き切っていたのだろうか?最終話に向けて悩みは尽きない。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


これで許して。(笑)>櫂さん
投稿日 3月5日(月)20時56分 投稿者 taki 削除

えらく大仰なイデオロギーを持ち出してしまった後悔をしつつ(笑)、
恐ろしく、広範囲にわたり、歴史的な背景を踏まえた思想と主義の説明をこなせるかどうか
全然自信がないのですが、とりあえずのところを書かしていただきます。

説明を始めると、他の用語が出てきて、延々と「それって何ですか?」
が続くと、結果的に「古典の哲学と思想、その近代における影響と解釈。」
という論文書くような事になってしまうし、そうすると私もパンクしてしまうので。(笑)
これをレスに変えさせて頂きたいと思います。

先ずは「無為を以て道徳の極致」ですが、
老荘の流れを組む道徳観で、特に「老子」に拠っています。
孔子に比して作られたとも言われている(正確には不明。しかし、くどくどとした事例の
羅列にしかすぎない「論語」に対して、あっさりと何度でも触れられる老子のほうが
好きで、人生経験を重ねる毎に解釈の取り方が良き様になっていくのはあくことのないものと思います)
老子の道徳経と呼ばれる書物の制作年代は紀元前200年頃ではないかとされており、
内容を「道経」と「徳経」との2部になって「道徳経」となっています。
しかし、別に内容に大きな差はなく、人間が在るだけのことを「徳」、
超自然的な「道」の存在を根源として説かれています。

有名なのは「上善如水」で、
生命が善く生きるとは例えば水の有り様に似ている。
水はすべての生命あるものを育んでそれは決して争う事がない。
多くの人が汚いと思うような場所でも水にとっては善も悪も一つだ。
だからそういった水の有り様が道の有り様を教えてくれる。

また、
”未来に至る生命の法則を見失うと、
現在という時の中で人は仁や義を言い出し、
目に見える知識の山を築こうとする。
しかしそこには大きな僞が生じる。
家庭の幸福が失われると、そこに孝や慈が言い出される。
そして国が乱れると、忠臣なる者が現れる。
生命の法則を抱いて生きるなら、それらは無意味なものとなる事を知ろう。”

これらは、名将出ずる時は国家の不安定な時で、親孝行が叫ばれ、尊ばれる時代は
その心をがないからこそことさらに言われるのだ。という事を指しています。

未来に至る生命の法則とは「道」を指しており、
第一章の
”道は人の理解をはるかに超えている。
そして人のことばによってはその存在を説明する事も証明する事もできない。
道は生命の根源。生命そのもの。
道は全てのものを生み出し、
確実にある法則を以て人の生命に働きかけてその全てを握っている。
それ故この道の在る事を信じて生きるなら調和の世界を生き、
人の果てしない欲にまかせて生きるなら混乱と悲惨な世界に生きる事になる。
人は生命の法則によって生まれ、
そして生きているに過ぎない。
しかし道の在る事を知って生きようとあるいは知らずに生きようとそれは同じ事。
全ては闇の又闇。
人にいったい何が知れよう。
人はその自分勝手な知識と欲もままならないではないか。
だから全ては生命の法則としての道に従って生きればよい。
自分には解らない世界があるという事に気づけば、
あなたは既に調和の世界への入り口に立つ。”

これらは自然の元による因果律を説いていると思います。
それを踏まえ、思想的に「無作為」と表現しました。
人間が行う「作為」的なことは、プラスももたらすだろうが、マイナスももたらすことを説く。
しかしながら、老子に拠らず物事の解釈は人の都合によって変わるものですから、
「こんなんでいいのか?笑」としておきました。

あと、「道徳経」を説いた老子ですが、今日の日本で「道徳」とされるものは
そのほとんどが中国儒教であった孔子の「論語」に根ざすもので、
そのほかに仏教の教えが混入しています。
(比して作られたとも言えるものの題名を付けられた形になっているのは皮肉なことです。)


しかし、歴史の思想派生の流れによる解釈によって虚無主義の源流となったのは
「無為思想」ともいえる老子の一部分しかそれを汲んでいない事を念頭に置いておいてください。

意味的に「無為」と「虚無」の繋がっている部分が「虚無主義(ニヒリズム)」となっていったのでしょう。
また、元々輸入語なため、日本の虚無的と呼ばれる感情はあった上に
(平家物語、諸行無常の一節など)それが、虚無的な部分の仏教と結合し、
ニヒリズムの「ニヒル」nihilはラテン語で「無」を意味し、老子の「無為」との混同が発生して
いたのかもしれません。

さて、虚無主義ですがロシア文学のツルゲーネフ「父と子」の主人公バザーロフなる人物の
キャラクターが既成の秩序・価値を否定する存在であったことが
文壇ならびに思想界、また全社会のあらゆる階級にわたって、賛否の論が嵐の如く湧き起こった。
ここからこの思想をニヒリストとして世界的に有名になって行った。

その背景と、あまり取り上げられないらしいのですが、ニーチェの後期思想として、ニヒリズムがあります。
これから哲学の部分になるのですが、一説によれば「ニヒリズム」はヤコービがフィヒテの知識学を
非難して用いたのが最初だとされてもいるようです。

ニヒリズムといえば、まずニーチェということになっています。
ニーチェは自らを ヨーロッパの最初の完全なるニヒリストと称した為ですが。
ニヒリズムはしばしば社会から非難される思想であり、解釈に拠っては嫌悪の対象にもなります。

ニーチェ曰く、「ニヒリズム=目標の欠如であり、『なんのため』に対する回答の欠如。
ニヒリズムは何を意味するか―最高の諸価値が無価値化されるということである」と。
ニーチェはキリスト教批判を行っている。
それらはキリスト教圏の世界観を現実的な二元的分裂
(理性と感情、自由と摂理、カオスとコスモス等など)に晒したが、
それを究極の存在である「神」で強引な統一を計っていたため、哲学となり得ず、
立証できない科学として、「愛」を説く宗教で在りつづけるほかなかった。
(神の愛を疑うと、すべてが支離滅裂となり、混沌に帰する以外にないので。)

その哲学と宗教のちょうど中間点に位置するのが老子の「道徳経」だろうか。
哲学で言われるエートスとパトスの融和点なのかもしれない。

ニーチェに戻ると、永遠回帰という提唱概念がある。
一言で言ってはそれをとらえる視点によってその意味は変化してしまうのだが、
永遠回帰とは、世界は始まりも終わりもなく、したがって動機も目的も意味もなく、ただ単に存在しているに過ぎないということ。
それは「死んだらそれきり」と言う考え方が、逆にせめて生きているうちはという人間がその存在意義を確保しようと
努力する余地を残しているのに対し、永遠回帰は「何をやっても一切は決定されている」という観念によって、
人間の「生きる意味」や「生存意思」などをまったく否定してしまう。

しかし、ニーチェは「ニヒリズムの徹底化」をすることによってニヒリズムを克服することを提唱する。
それはニヒリズムは「価値の病」とも言われているからだ。
「極限化されたニヒリズム」である永遠回帰を受け入れることによって人間は新しい「意味」と「価値」の根拠を掴む。
この永遠回帰を受け入れることを運命愛と呼んでいる。

ニヒリズムとは、色んな定義があって一概には言えないが、
「人は絶対的根拠のない生には耐えられない」ことへの反論のような気がする。
それが老荘の「無為」とするものに繋がったのかもしれません。

では、「絶望感から虚無主義が成り立っていることは、あながち否定の出来ないもの」と書いたのは
ニーチェのニヒリズムを克服する、価値の病とされる部分を「絶望」というポイントになぞらえ、
そこからの脱却という意味でなら「あながち否定できない」という意味でした。

http://alived.com/autism/


りよんへ
投稿日 3月4日(日)21時57分 投稿者 ころすけ 削除

私は自分の欲を書いた、振り返るとそう思います。
りよんとの対話に答えを出せなくて、それでもなんとか答えようとして、
苦し紛れの書き込みだったと思います。
考察BBSは自由な書き込みでいいと今は思います。
私の言ったような決まり事は一切ありません。
りよんと対話したい気持ちは変わりません。
予想通りしんどい展開になってきましたが
私は最終話まで考察に参加したいと思っています。


ころすけへのレス
投稿日 3月4日(日)15時04分 投稿者 りよん 削除

「ここは世紀末の詩を考察する場所です。まず念頭に置かなければいけないのは「世紀末の詩」です。その後に自分の考えです。この順序をいつも意識して書き込みして欲しいです」

「世紀末」は自分の中ではテキスト。
もう、答えが出てしまってると私は感じるので、いつでも
その答えに基づいて考えてしまってます。

「この順序をいつも意識して書き込みして欲しいです」の所ですが、
この世紀末BBSでは、そのような意識をしなくてはいけないのですか?

それは、そういう決まりがあるとは、知りませんでした。
なるべく、そのようにします。


否定するドラマ?
投稿日 3月4日(日)07時56分 投稿者 櫂 削除

うーん。僕はやっぱりくまさんの意見に全面的に同感ですね。

というか、野島さんは「愛を否定するドラマ」って言ってないように思うのですが
...すくなくともこのHPの「テーマ」に書いてある製作発表会見の中には、そういう言葉はなく、愛を教えるドラマという言い方をしました。
それが成功したかどうかはいろんな意見もあるでしょうが、僕自身は「冒険」と
「風船」に納得がいかないので「失敗」と解釈しています(詳細は最終回考察の時
にゆずるとして現時点ではこれしか言えませんが)


「この脚本を書こうと思ったきっかけは、そもそも僕自身が本来の愛の形を探したかったからです。だから毎回「この世に愛なんて存在しないよ」というアプローチをしていって、1回づつ「これは愛じゃない」と塗りつぶしていく。で、塗りつぶせなかったものが本物の愛なんだよと教えたいんです。」




>くまさん
投稿日 3月4日(日)01時47分 投稿者 ころすけ 削除

「愛の否定」は第9話においても、重要なテーマだと思っています。
考察BBSに私の考えを書きましたので、よかったらレスお待ちしております。

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「愛を否定するドラマ」
投稿日 3月4日(日)00時53分 投稿者 ころすけ 削除

>くまさん


「愛を否定するドラマ」の解釈ですか?
私のはですね、これは世紀末の詩の解釈にもつながっちゃう気がしてしまうのですが、
くまさんが熱く語ってくれるのです、反応しちゃいます。

世紀末の詩は、野島さんが放映されたあの時点でできる、
「もうこれ以上の愛は書けない!」っていう所まで突き詰めて
愛を描いたドラマだと思うのです。
それこそ、明日のジョーみたいに燃え尽きるほどに(笑)
燃え尽きて、さらに自分に「駄目出し」してみる。
「愛じゃない」と。
その時に何が残るか、野島さん本人が一番知りたかったんじゃないでしょうか?

これは、まさに視聴者を無視した超エゴ作品ですね。
そんな超エゴ作品「世紀末の詩」が私は大好きなのです(笑)


追伸

ふざけた書き方で失礼しました。
私としては大賛辞のつもりで書いたのですが誤解を呼びそうです(汗)


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ころすけさんへ
投稿日 3月4日(日)00時09分 投稿者 くま 削除

野島さんはこのドラマ「愛を否定するドラマ」って言ってたのですか?
僕的にはその言葉次のように解釈しますね.

否定しつづけたとしても,本当にあるものならどこからか滲み出てくる.
そういう期待を込めてドラマでは愛を否定しつづける.

・・と
ころすけさんもおそらくこれは同様でしょう?以前,「愛にたどり着くには愛を否定し続けることだ」と言っていませんでしたか?
確かにドラマで否定していった後,何が残ったのかわかりませんが
逆に考えるとドラマでこれだけ否定しつづけても,亘に共感し,愛の存在を信じる人たちこそが愛の存在の証明になるのかもしれませんね.(キレイすぎる言葉だ・・・)
というか,そうだといいなと思います.


RE:もう一度!!
投稿日 3月3日(土)23時53分 投稿者 ころすけ 削除

はい、わかりました。くまさんと私、そんなにずれてないと私も思います。

>それを客観的(視聴者として)みた時,「これだけの思いなのに愛ではないのか!?」と心震わされるのではないでしょうか?

これ、共感します。
これが愛じゃないなんて、どうしたらいいんだっていう気持ちはいつもあります。
でも「世紀末の詩」は愛の存在をばっさりと否定してくれます。
でも、良く考えてください。ただこの物語には愛がなかっただけなのです。
世紀末の詩がいうところの愛ってやつです。ただそれだけです。
愛以外のものは、全部残ってますよね。
世紀末の詩は愛以外のものを全部肯定するドラマだと思っています。
肯定っていう言い方もなんか変なんですが(汗)
私は登場人物に向けられる野島さんの愛を感じるんですよね。
まあ、登場人物は野島さんの分身だから自己愛って奴かもしれませんがね(笑)
世紀末の詩は愛を否定しながら、同時に人間の愛の存在を信じつづけるドラマだと私は思っています。
ん?どっちが先だ?信じるのが先かな?
だれが文句を言おうが、作者が「愛を否定するドラマ」って言ってるんだから、
愛を否定するドラマだと思いますよ。
変な文章だ(汗)

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おまけ
投稿日 3月3日(土)23時30分 投稿者 くま 削除

長い文を考えながら書いたので,
ころすけさんのレストすれ違ってしまいました.
その辺りはご了承を・・・


もう一度!!
投稿日 3月3日(土)23時27分 投稿者 くま 削除

僕の書き込みの意味がわかっていただけなかったのでしょうか!?
ころすけさんは「今,自分に愛があるとは思っていません」と言う以上,
愛の存在自体に対しては懐疑的なのも含めて,否定はしていないですよね?
それなのに「愛を否定した」と言うと「愛の存在自体を否定した」と思ってしまうのです.
ここでいう「愛の存在自体」とは,個人個人のレベルではなくて,「この世に真実の愛は存在しない」と言う意味です.少なくとも僕が「愛を否定する」という言葉をみた時ははそう思いました.
ころすけさんの「愛を否定した」と言うのは,各話の登場人物の愛を否定した
さらに言うと,登場人物の思いは「愛ではない」としたわけでしょう?
それは「思い自体」「愛自体」を否定しているわけではないので,僕にとっては「愛を否定した」という言葉は理解しがたいのです.
 正確に言うとこのドラマは「愛」も「思い」も否定しているわけではないと思います.
ただ毎回の登場人物の「思い」は「愛ではない」としているだけでしょう!?
それを客観的(視聴者として)みた時,「これだけの思いなのに愛ではないのか!?」と心震わされるのではないでしょうか?
そういう意味で
「元々僕らが愛と思っていた領域は広すぎてその中で偽りの部分を否定した(削っていった)」
なのです.(この「偽り」と言うのはあくまでドラマの中で否定された部分を指しています)


Re:あれれ!?
投稿日 3月3日(土)23時06分 投稿者 ころすけ 削除

ん〜、伝わらなかったかなあ。
私はくまさんの愛に対する考えが違うなんて言ってませんよ。
くまさんのいう世紀末の詩の「否定」が違うって言ったんです。

>「人の愛に対する解釈を狭めていった(本質に向かって限定していった)」

これは世紀末の詩のやり方ではないです。
あってるか間違ってるかではなくて、「世紀末の詩」とは違うと訂正させてもらいます。
愛に対する解釈はどこまで狭めていっても解釈だと私は思います。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


あれれ2
投稿日 3月3日(土)23時01分 投稿者 くま 削除

下の僕のレスの「さらに・・・」以下なんだか変ですね.
ころすけさんも「愛だけを否定した」とおっしゃってますよね.
無視してください.


あれれ!?
投稿日 3月3日(土)22時16分 投稿者 くま 削除

僕は人の思いまで否定しているなんて言ってませんよ。
「愛じゃない」といわれることが、なぜ人の思いの否定なのですか?
僕が否定していると言ったのは、「人の思いの偽りを否定した」のではなくて、
「人の愛に対する解釈を狭めていった(本質に向かって限定していった)」と言う意味ですよ?

さらに
自分の思いが「愛ではない」と言われることは、思いまで否定されていますか?
その思いは愛でなくてはいけないのでしょうか?
僕は愛でなくてもその思いは貴重なものだと思うのですが・・・。


Re:愛の否定
投稿日 3月3日(土)21時57分 投稿者 ころすけ 削除

>くまさん。

>「元々僕らが愛と思っていた領域は広すぎてその中で偽りの部分を否定した(削っていった)」

愛についての話ではなく、世紀末の詩についての話なら、これは絶対に違うと思います。なんで人の思いまで否定してしまうのですか?人の思いの偽りだって否定できないですよ。これじゃ第9話の謎の男と一緒です。人間の感情を否定して、結果愛そのものまで否定してしまう。世紀末の詩はその人の愛の存在を否定するだけです。上の文章がくまさんの愛を追求する上での考えならば、私はそれを否定するつもりは全くありません。世紀末の詩は人の思いまで否定するようなことは絶対にしていません。

世紀末の詩を見ている人は、教授や亘が真実の愛を示してくれると思っている人が多いような気がするのですが、とんでもない甘えだと思います。世紀末の詩は鏡のように視聴者の心を映し出し、”そこに愛は存在するのか”と問い掛けているように私は思います。

正直言いまして、今、自分に愛があるとは思っていません。私は自分の愛を否定します。じゃあ、なんでここにいるのかと言われそうですが、世紀末の詩が描こうとしている愛を知りたいからです。いや、誤解を覚悟で書かせて頂くなら、愛なんてものは描かれなくてもいい、最後まで愛の否定を貫く精神を見せて貰えるなら、それで十分かなとも思っています。これは完全に私感が入っていますので、世紀末の詩はそういうドラマと言っているわけではないです。


http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


愛の否定
投稿日 3月3日(土)20時31分 投稿者 くま 削除

>ころすけさん

どうも表現方法が違うのかな?と勝手に思っているのですが・・・やっぱり内容も違うのでしょうか?

ドラマで否定された部分については、僕はできるだけ「愛」という言葉は使わない方が良いと思うのです。
(僕もボキャブラリーが少ないのでやむを得ず用いる場合はありますが・・・)
否定の真偽は別にして、ドラマでは「愛とは呼べない」といわれていますから、
このページでは便宜上、皆さんできるだけ「偽者の愛」とか「愛じゃない」という風に表現していると思うのです。
そこで、このドラマに関して単に「愛」といった時はいわゆる「真実の愛」、ドラマで追求している「愛」
と受取ってしまうわけです。

教授は「これは愛ではない」という主旨のことを言っていますが、
この言葉は愛を否定しているのではなくて、「この事象は愛には当てはまらない」という意味でしょう?
(確かに教授は真実の愛に対しても懐疑的ではありますが・・・)

ころすけさんは「愛の否定」という表現を用いていらっしゃるので「真実の愛を否定している」という風に受取ってしまうのです。
ころすけさんも言うようにこのドラマの目的は「愛の追求」だと思います。
それならば「愛の否定」というよりも、
「元々僕らが愛と思っていた領域は広すぎてその中で偽りの部分を否定する(削っていく)」
と言う方法を取っていると思います。(このプロセスで、僕も元々考えていた愛を否定されたことはあります)
このような方法(これを皆さん消去法と言っていると思います)で「本当に愛と呼べる領域はこういうものなんだよ」と提示していると思うのです。
たしかに領域を狭めた結果残ったものは、人それぞれで違うとは思うのですが・・・。

ころすけさんと根本的に意見が違うとは思えないのですが、どうでしょうか?
やっぱり意見が違いますか?


第9話「僕の名前を当てて」再考察
投稿日 2月26日(月)17時03分 投稿者 ふみ 削除

9話再考察始まりましたっ。
みなさんご参加下さい。
青い薔薇ですけど、不可能という意味を持つそう?です。
その意味を汲んで9話で用いたかは分からないですけど、、
載ってたページのリンクです▼

http://www.shiseido.co.jp/s9802kor/html/text/kor05116.htm
http://www.chunichi.co.jp/column/20010113/shn1001.shtml

http://alived.com/cgi-bin/bbs/topic.cgi


Re:自己愛
投稿日 2月18日(日)23時49分 投稿者 ころすけ 削除

>のびさん

自己愛については、ここ「世紀末の詩BBS」で少し討論が行われていましたので、ログをさかのぼって読んで見てはいかがでしょうか。
自己愛の解釈は人それぞれで、のびさんの参考になる記述も見つかるかもしれません。
全部読んでみて、感想なんかがあれば、聞いてみたいですね。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


自己愛
投稿日 2月18日(日)17時21分 投稿者 のび 削除

はじめまして。

世紀末の詩はTVで見てました。本は読んでません。
すごく引っかかったセリフが名セリフに載っていたもので、
思い出してしまいました。
こちらに書き込めば、答えがでるかなっと思ったので。
どなたか、すっきりさせてください。

愛の究極がしょせん自己愛に根ざしているという論理には、つまらんモラルでの反論しかできない

というやつなんですけど。
愛=自己愛って思ってる人に、違う!と反論しても負けてしまいと思いました。
という事は、しょせん僕は自己愛論者になってしまいます。
自分では、愛=自己愛ではない、と思っていますが、
ただ自分がわかってないだけ・・・


おひさしぶりです
投稿日 2月17日(土)15時18分 投稿者 櫂 削除

ちょと事情があってインターネットをしばらくしてませんでした。
まだやってたんですね、第8話。ちょっと感動。

僕の場合、この話は嫌悪感が先にきてしまって、あまり(議論することさえも)
すきではないのですが(笑)

考察用BBSにも書きましたが、「影山自身は愛に辿り着いたことはなかった」
と思います。ミスター自己愛ですから(笑)
だから「愛を失う事によって、魂が壊れてしまう」こともなかったと僕は思い
ます。
「愛を失ったからそれによって壊れ、代償に走った」というよりも「無くなった
ので代わりのものを作った。しかも今度は自分に逆らう事の無い性能の良い家
族を」という考えのような気がします。

ごめんなさい主観的に「嫌いなキャラ」なので僕の影山に対する見方は辛いです。
9話が始まったらまたくると思いますが、8話に関してはこれ以上議論するつも
りはないのであしからず。


お、さんきゅ。
投稿日 2月17日(土)02時25分 投稿者 taki 削除

ころすけへ。

感想さんきゅー。
これはメールマガジンに載せますね。
他の方も、ここのBBSか、私にメールで感想を書いて頂ければ
載せますので、よろしく御願いいたします。

http://alived.com/autism/


『第八話』感想。
投稿日 2月16日(金)18時05分 投稿者 ころすけ 削除

くまさんの揺れには共感するものがあります。それを言葉にしてくれたおかげで私の中ではなんとなく霧が晴れてきたような気がしています。で今思ったんですけど、第八話では方向性を問われているのかな、と。

私は第八話で挑戦状を突き付けられたように感じるのです。ある意味、世紀末の詩そのものが挑戦状のようなものですが…。これは誰かが言っていましたね(笑)

景山の中には愛への方向性が、あるいはあったかもしれません。それがあったからこそ、壊れてしまった時、くまさんの言うような「代償に走った」のかもしれません。それは究極であったかもしれないけど、すでに違う方向を向いていたと私は思います。

家庭に限らず人間関係が壊れた時、自分の中の方向性が内に向かうことは誰にでもありえることだと思います。それが悪いと言うのではなくて、むしろ景山のラストのように幸せを掴めるのかもしれません。決して皮肉ではなく。

「そうじゃない方向に行くのか?来るならこい!」と第八話は言っているように私には感じられてくるのです。私なりの結論を申し上げれば「行ってやろうじゃないの!」ということになりますが。喧嘩じゃないのですが、ある種の気合は必要ですね、私にはですけど。

私の感想はこんなところでしょうか。
結論ではなく、皆さんの「第八話」に対する感想も聞きたいですね。
ありがとうございました。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


なるほど。
投稿日 2月15日(木)20時10分 投稿者 taki 削除

桜子さんへ。

> takiさんはメールアドレスがあったのでメールさせて頂こうと思っています。
> すいません、ご迷惑でしょうが・・・。

いえ、全然いいですよ。<メール
サイトやってると、色々頂きますので。
お気軽にどうぞー。

http://alived.com/autism/


期限がせまってます!!
投稿日 2月15日(木)15時32分 投稿者 桜子 削除

takiさん、くまさんレスありがとうございます。
詳細は・・長すぎて説明できないのですが・・。
私には愛している人がいます。心から愛しています。
私が原因で、今離れ離れです。
私は、自分ばかりだった、2人でいてもひとりぼっちにさせてしまっていたんです。

相手の存在を自分の存在と同じぐらい確かに感じれるということ
「自己」・・・・。
そうですか。。貴重なご意見ありがとうございます。
まぁ、色々な形があるので漠然とこのような質問が良くないですね・・。
ちょっと、期限がせまっています。
takiさんはメールアドレスがあったのでメールさせて頂こうと思っています。
すいません、ご迷惑でしょうが・・・。

本当に大切なことなので、「一人で考えるべきだ」とかそういったプライドはいらないと判断しました。
お忙しいでしょうが、宜しくお願いいたします。



とりあえず。
投稿日 2月15日(木)06時53分 投稿者 taki 削除

桜子さんへ。

> ごめんなさい(笑)せっぱつまってます。お願いします

なんででしょうか?(笑)
まあ、私も一意見として、宜しければ。

> 自分対相手・・・人対人が愛し合う上で絶対的なものってなんですか?

「自己」でしょうね。
もとより、自分と他者は相対的な関係なので、そこに通常、絶対は発生しないのがあたりまえですが、
愛とか永遠は形而上のことなので、通常という概念は通用しません。
だからこそ、結論、立証、定義付けができずに、魅惑的な話でもあるわけですが。

確固たる自己と他者の自己の関係性によって、意思である愛が存在する。
なんか、すごく当たり前のことになっちゃってますが、

> それは、ずっと「続けられる」ものらしいんですが・・・。

これは一体何を指しているんでしょうかね??


クロノスさんへ。

> 自分と相手、どちらが先に死ぬことを望むかと言われれば、愛ある人は相手の死をのぞむはず。

???なにか設問が変ですけど、このままで答えると「どちらも望まない」ですよね。
相手の命を奪う選択も、相手に残される悲しみを与えるのも天秤に掛けられるでしょうか?
おそらく、答えを用意した上で作った設問なので、主客転倒していると思われますけど、
それには相手の死という認知概念の部分をないがしろにしてるので答えにくいですよね。
それを踏まえて、言いたしという事を想像して答えることになりますが、
それが聞きたいことへの正しいかどうかの判断はつきかねますけど、
あえて、それらを踏まえて答えるなら、相手には生きていてもらいたい。ですね。

それには生きること、といった意味合いが入ってくるので、愛のあるなしの
規定を超えてしまうと思います。

しかし、愛とは生きること。といったことを考えると、それより先に生きることってなんだ?
ってことをクリアにしてないと何がちゃんと言えることなのか、
ベースが成り立ってないことになりますよね。

くまさんへ。

なんか、久しく。(笑)

前後関係もありますが、この点についてだけ。

> だから、どちらが先に死んでもその時点で二人は死んでしまうと思います。

愛がなくなれば人は生きていけないか?
そんなことはないと思います。
多くの人は愛に辿り着けずに死んでいく。
ならば、愛があったところから喪失しても、生きていけると思います。
それは根本的なことであって、個々の事情に照らし合わせたもの、つまり普遍化して良いものではないと思いますが。
生きていくには色々過酷なプロセスを乗り越えて生きていく。
その中に愛の喪失もあるかと思われます。

あ、あくまで上記の一文に対してのレスなので。
あと、相手の死の認知問題もあるんですよね。これ、厄介なもんだと思うんですが・・・・。


永遠に隆一の恋人さんへ。

> 愛した・・・という事実が 愛なんですね

その通りだとおもいます。
でも、愛それ自体ではないと思います。

> てことは 愛はやっぱり 永遠なんだ

う。それが愛とは別の永遠の証明になるかどうかは、かなり疑問です。
終わりがないことだけが永遠なのか?と形而上的なものを立証できないんじゃないか?と思います。
前提として、愛があるんだ。と言い切れた状態においてのみ使えると思いますが、
そういった状態があると言えるのかな・・・。



話の流れが証明的な存在論になっているようですが、
個人的に感じてるのは相手の為に何か出来る、してあげるというのは、ただの依存でしかないと思います。
相手が望んでもいない事、為にならない事を出来たって、それが愛の証明になるのでしょうか。
そうなると完全に愛という名を借りた、自己陶酔になってしまいますよね。
しかし、そんな勘違いも恋のいいところでもあるんですよね・・・・。
といっても、願望から勝手な話の展開をしてもいい、といことにならないですよね。

http://alived.com/autism/


くまさんへ
投稿日 2月15日(木)00時58分 投稿者 永遠に隆一の恋人 削除

今 かなり感動しました!
なんか うまくいえないけど・・・
どちらかが 先に死んでしまったとしても 肉体は滅びるかもしれないけど、そこで 愛が終わる、とか
愛じゃないとかでは ないんですね
愛した・・・という事実が 愛なんですね

肉体が消えても 精神・・魂は そこにある。と思います。
てことは 愛はやっぱり 永遠なんだ


久しぶりのような気が・・・
投稿日 2月15日(木)00時30分 投稿者 くま 削除

>クロノスさんへ

相手の死か自分の死か・・・
僕はどちらを望んだからといって愛のあるなしに関わるとは思いません。
愛した人が死んだとき、人はどうなるのかということについて、基本的に僕は教授的スタンス(壊れる)なのですが、
自分が死んだら人生は終わってしまう。相手が死んでも人生は終わる。
これは相手も同様で、片方の死は両方の死(肉体的ではなく)であり、
自分の死も相手の死も致命的な精神的欠損であると思います。
亘は「一人残される悲しみ・・・」と言っていますが、
一人取り残された時、「悲しむ」というよりも「壊れる」。
「壊れる」とは「悲しみ」からの結果ではなく自らの精神の根本的な部分を削り取られることによるものだと思うのです。
だから、どちらが先に死んでもその時点で二人は死んでしまうと思います。

ただ、現実的には多くの場合「死」はどちらかに先にやってきます。
そこでどちらを望むのかというのは、愛による決定以前に
その人の考え方、(つまり精神と肉体が共に滅ぶのか、生きたまま精神が滅ぶのか)
による決定だと思うので、どちらを望んだとしても、それは「愛じゃない」とは言えないのではないでしょうか?

ちなみに亘の
>愛とは生きること
というフレーズですが、
前後を無視してこの言葉自体のみを考えた場合「残される悲しみを受ける」というより、
どちらも生きている状態の時「お互いを死なせないために生きる」という解釈が僕の場合しっくりきます。


>桜子さんへ

>人対人が愛し合う上で絶対的なもの
愛自体がある意味絶対的なものであるような気もするのですが、
あえて言うなら
相手の存在を自分の存在と同じぐらい確かに感じれるということ
であるような気がします。
思い込みや勘違いなど色々な抜け道がある言葉ではありますが、
いろいろ考えてもこういう言葉しか浮かびませんでした。


投稿日 2月14日(水)02時40分 投稿者 永遠に隆一の恋人 削除

本当に愛しているなら 一人残される悲しみをも 受け取ること
愛とは生きること

ですよね?


投稿日 2月13日(火)23時28分 投稿者 ぷりん 削除

残された者の悲しみ・苦しみを、愛する者に味わわせずにいられるから?


投稿日 2月13日(火)22時42分 投稿者 クロノス 削除

自分と相手、どちらが先に死ぬことを望むかと言われれば、愛ある人は相手の死をのぞむはず。その理由が分かりますか?


愛することって・・・
投稿日 2月13日(火)10時59分 投稿者 桜子 削除

ここの掲示板、前からロムしていました。
私事で大変申し訳ないのですが、他の人の色々な意見が聞きたかった。
質問です。
自分対相手・・・人対人が愛し合う上で絶対的なものってなんですか?
答えはとってもシンプルみたいなんです。近くて私には見えない・・。
一緒に居る事、思いやって生きていく事・・・それともちょっと違った、もっと
本質的なものなんです。

皆さんは何だと思いますか。いろいろな意見が聞きたいです。
それを探す為にこうしてこの場があるんだろ!といわれてしまうかな・・・。
それは、ずっと「続けられる」ものらしいんですが・・・。

ごめんなさい(笑)せっぱつまってます。お願いします


ビデオにも撮って見てます
投稿日 2月12日(月)16時29分 投稿者 苺 削除

前に撮った世紀末の詩みつけて今見てナス 1つの話に必ず3回は泣いてしまいます 野島伸司さんの作ったお話の中で1番好きです 2番目は人間失格です これからもいっぱい良い話書いてください


あれ?
投稿日 2月11日(日)02時59分 投稿者 taki 削除

あおさんへ。

小概念不当周延の虚偽でしょうか?

三段論法的に言うと、

(前提)夏は暑い。→(展開)8月は夏である。→(結論)よって、8月は世界中どこでも暑い。

それ、ありえないですよ。(笑)
演繹的ではありますが、論旨がすりかわっていますよね?

愛を詩みたいに飾る→曖昧で飾った言葉はいらない→(ここで飾ったを濁すに変換)言葉は濁すと伝わらない

(結論)絶対に届かない。

ですかね?
最終話の教授の長い論を一節も用いず、結論であろうと言う「冒険、風船」のみを振りまわし、
乱暴な論法で単純に展開して見ても、結論であろうことには到達できないんじゃないでしょうか?

でも、最終話の話はまだ出来ません。(笑)
考察まで御待ちを。

といいつつ、ころへ。

>レスできない「立場」なら書くな!と反論ではなく注意をしておきます(笑)>taki

すまんな。(笑)
またやってしまった。(笑)

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世紀末の詩みました。
投稿日 2月9日(金)09時49分 投稿者 あお 削除

友人のすすめで初めて世紀末の詩みました。よかったです。
ただ、最後がきになりました。
愛とは冒険。愛とは風船。
愛、愛、語っているのに、最後に何故愛を詩みたいに飾るのでしょうか。
倉木麻衣も歌の中で、曖昧で飾った言葉はいらないといっています。
このドラマの批評でなく、全てにおいて言葉は濁すと伝わらない。
絶対に届かない。
と思っています。


Re:愛し愛されること
投稿日 2月8日(木)02時28分 投稿者 ころすけ 削除

世紀末の詩の言う愛って、共同作業することで導かれる領域のようなモノに僕には感じられました。
共同作業と言っても、意識して作るものでもなく・・・。

「愛する」ことって言うのも、また奥が深いですね。
相手のことを想うだけでは「愛する」とは言いませんよね。
相手を「愛して」いることを証明しようとすると、またすぐにボロが出てきそうですし、
また証明する必要もないのかもしれませんが。

>僕の場合はここで「愛する」と「愛」が違うものとして存在します。

僕なりにくまさんのイメージに乗っかって、表現しようとするなら、
二つの「愛する」が寄り添った時、「愛」になるのではないかと。
なる、というか、「愛」がそこにあればいいんじゃないかという感じでしょうか?
言っていることは同じかもしれません。
イメージなんで難しいです。
そこには自と他ではなく、個と個が存在する。
ただ視点が違うだけなのですが、愛においては自分を客観視するのは不可能だと思うのです。
ならばもう第三の目に見てもらうしかない。(?)
僕的には、なんとか努力で持っていける可能性を残しているのは「愛する」なんで、「二つの愛する・・・」としてみましたが、どうでしょうか?
そんな可能性などないって言われそうですけど(笑)
わかりにくかったですか?

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愛し愛されること
投稿日 2月7日(水)17時32分 投稿者 くま 削除

第8話の考察に書き込んだのですが、
話が8話からそれていきそうなので、こちらにあらためて書き込ませて頂きます。
以前ここで「他者」と「自己」のぶつかり合いがありましたけど、
それはあくまで、自分の(「愛する」ということの)方向性の問題であって、
「愛」とは「愛し、愛されること」だと思ったんです。
僕の場合はここで「愛する」と「愛」が違うものとして存在します。
ずっと前に、「愛がある」と「愛する」の違いの話が
少しあったような気がするのですが、
最近このように思いました。


愛の前に哲学の勉強しなきゃいけないの?(笑)
投稿日 2月3日(土)22時30分 投稿者 ころすけ 削除

>> でも、野島さんはニヒリズムも否定したはず。
>それ、どこでだった?
>ちょっと記憶がないんだけど、教えてくれ。

すいません。
私の読み込みが甘かったかも。
この件に関しては、9話考察にて理解を深めさせてもらおうと思います。

>私としては無意識にのなかに、愛の原材料(と言えるもの)が
>漂っていて、有意識へと顕在して行く内にその形を変えてしまう。

この考える方法には基本的に賛成と言うか、否定できないと言うか、私の好きな考える方法です。
真実(本質?)を無意識の中に見出すのは、人間の思考の限界だと把握しています。
神や完璧と言う言葉がでましたが、それらはこの方法が編み出される、だいぶ前の段階でやっつけられてしまっています。
思考の限界とは、言い方をかえれば思考のスタート地点とも言えますよね。
言えるのかな?(不安)
で、愛(の領域)はどのへんにあるんだと突っ込もうと思ったんですが、あいにく答えてくれなかったようで・・・。

レスできない「立場」なら書くな!と反論ではなく注意をしておきます(笑)>taki

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うーん。補足。
投稿日 2月3日(土)19時22分 投稿者 taki 削除

でかるとさん。

デカルト的手法はいいんですけど、デカルトの言う論理を使っちゃダメなんじゃないです?
と言いたかったんですよ。

さらに、その完璧を自分が信じてないと、仰る時点で
磐石にしようとした足場を自ら崩壊させてしまっているので、
話の進めようがないな。と。

デカルトの話題自体は興味深かったので、面白かったんですが、
反省はしなくて良いと思いますよ。

ただ、デカルトは自己へ、ここは愛との方向性が違ったことだけですかね。

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お詫びと言い訳
投稿日 2月3日(土)17時11分 投稿者 でかると 削除

くまさん
>正直、ここまで掘り下げて考えるのか〜?と思いつつ・・・

そうかもしれません。ただ、私としては『愛』という名の家を建てる為に強固な地盤を確立しておきたかったんです。
それとデカルトの解説すいません。
本当でしたら私がすべきことですよね。ただ私が書くとひどく脱線した文になってしまうもので・・・。


takiさん
>愛についてデカルト自身はなにも言ってなかったんじゃないですか?

私はデカルトに傾斜してはいません。
完璧を信じていないですから、デカルト理論が完璧などとは思っていません。
『愛』を考える為に彼の論理を私が個人的に利用したんです。


どうも私はちょっとここでの議論と論点がずれたところにいた様で反省しています。
ただ、『愛』を語る為には土台が盤石である必要があると感じたんです。
そのためにデカルト的懐疑を使ってみたんです。


我思う、故に我あり、じゃなく。
投稿日 2月3日(土)15時40分 投稿者 taki 削除

くまさん、やっちゃいましたね。(笑)

> 正直、ここまで掘り下げて考えるのか〜?と思いつつ・・・

デカルトの解説有難う御座います。
よければ、もっとでかるとさん自身にしてほしかったですが、
とてもわかりやすく整理されていたので、感謝します。

それ自体はありかな?とは思ってますが、方向がずれてきていますよね。
それを私は下のわかりにくい(笑)書きこみで、でかるとさん自身だけに
伝わるように書いたつもりですが、もっと平たく書くことにします。

問題はデカルト自身の言うことと、デカルト哲学主義とは違うってことです。
前者は結構賛否両論、そしてただ、完全に論破することが出来ない論理(ロゴス)
なだけで、哲学の父と称される者の考えつづける「学問への姿勢」としてあれば良いと思います。
後者は、物事の本質を探るための一つの方法論として懐疑主義を用いれば良いんじゃないかなと思います。
それは世紀末の詩の姿勢と類似しているものだと思いますので。

しかし、デカルト自身の論を借りてしまうことによって、でかるとさん(う、わかりにくい。笑)
が愛に対し、混乱していたのは確かなようなので、
愛についてデカルト自身はなにも言ってなかったんじゃないですか?
と、お聞きしたんです。
言ってなかったら、神、完璧を用いて考えることはないんですからね。
そうなると、デカルトの言っていることは置いといて、になりますし。


そこで提案&整理をしたいと思います。

デカルトの論である、神、完璧をポイントとするのではなく、
絶対点として、愛をポイントにすればいいんじゃないでしょうか?

我思う、故に我あり、じゃなく、愛はある、とでもいいますか。

そこで、本当にあるのか?ないのか?本質的にはどうなんだ?
と論を展開していくのがいいんじゃないかな?と。

そうすると絶対点と呼べないかもしれないですが、これは懐疑主義的方法の展開。
で良いと思いますが、いかがでしょう?

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愛って完璧!?
投稿日 2月3日(土)12時02分 投稿者 くま 削除

正直、ここまで掘り下げて考えるのか〜?と思いつつ・・・

どうしても神と愛との関係が分かりません。
デカルトの思想に関して例の名言以外は無知で、手元でババッと調べた程度なのですが・・・
デカルトは「疑う自己」と相対化された世界を漂う「精神」の絶対点として「神」を
挙げているんですよね。

ちなみに神の存在証明は次のようなものであるらしいです。
1.不完全な存在である私(人間)は完全な存在である神の観念を持っている。
2.完全なものが不完全なものから生ずることは(無から有が生じないのと同じく)無い。
3.したがって神の観念は神によって私の中に置かれたものであり、神は存在する。
「おいおいなんかムチャやな」と思ってしまいます。
信仰心がベースにあるので、この論理では神以外が絶対点になり得るはずがないだろ と・・・

そして、コギト・エルゴ・スムですが。
これを言っちゃうと、愛もへったくれもないような気がします。
愛を考えるベースとして、現実世界は「ある」という前提が必要だと思います。
そうしないと、愛の対象である「他者」もいなくなってしまいますから。
デカルト的な考え方は好きなんですが、
一方で「これを言っちゃおしまいだよ」っていうのが正直な感想です。

ちなみに
「愛はコミュニケーションの究極形のようなイメージ」という表現は、
「愛は完璧」と言っているのではないですよ。
物事を推し進めて到達したところ(究極点)=完璧 ではないでしょう?
あえて、完璧という言葉を使うなら、
それは「到達論理」であって、「到達点自体の完璧性」ではありません。
よくよく考えるとこの表現も「お互いの想いに関するコミュニケーション」という条件付きですね。
だから「互いの想いに関するコミュニケーションに対して完璧」との解釈ができるのかもしれないですけれど、
デカルトの言うような精神の絶対点としての完璧性とは異なります。

さらに余談ですが
僕も完璧なものなんてないと思います。


「コギト・エルゴ・スム」
投稿日 2月3日(土)06時05分 投稿者 taki 削除

でかるとさんへ。

デカルト的懐疑主義にひっかかってしまいましたね。(笑)

一般的、常識的であるとされている物事をまず、疑って考える方法論は
とても大事だと思うんですが、確固としたエートスがないまま、
パトスに振りまわされるという、よくあるジレンマに陥っちゃったみたいですね。(笑)

そこで、神を絶対点とし、「コギト・エルゴ・スム」と結論づけてしまうのも良いのですが、
でかるとさん自身が、絶対点を拒否して推考しはじめると、そりゃわけわかんなく
なっちゃいますよね。

私自身、デカルトには不案内なのですが、デカルト自身は
愛云々とかは言ってませんでしたよね?

しかし、デカルト的懐疑方法論にて、愛を考えるのは、非常に世紀末の詩とマッチしているように思えます。

でなんですけど、

> ですから私の中では『疑う存在』の『私』は真なんですが、それ以外は疑わしいままなんです。
> 『愛』という概念も疑わしいままで、真ではないんです。

なぜ疑わしいのか?というのがないと、なんとも。


> 宗教の国、例えばアメリカの人に聞けば、彼らは迷わず、愛は先天的なもの、
> 愛はあるんだ、と言うと思います。神が全てを取り計らってくれているからです。
> だから日本人のように『愛』があるのかないのか
> 悩んだりしないのではないでしょうか。

日本は「情」の国ですから。
コミュニティーとしての社会性を重んじる御国柄なので、
「個」として思考することに意義をもっていないことが原因かな?と思います。

ころすけへ。

> でも、野島さんはニヒリズムも否定したはず。

それ、どこでだった?
ちょっと記憶がないんだけど、教えてくれ。

http://alived.com/autism/


ですよね。
投稿日 2月3日(土)02時38分 投稿者 でかると 削除

私を悩ましているのはデカルトの理論なんです。

で、彼の理論の出だしを簡単に説明しますと、彼はこの世の全てのものを疑いました。人間は『自然的欲求と教育』によって育てられた未熟な存在だからです。
目の前に花が咲いていたとしても、それが本当に存在するのか疑ったんです。
ひょっとしたら、悪霊が目の前にない花を花だと思わせているかもしれないと思ったからです。
そうやって色々と疑った結果、『疑う存在』、悪霊に騙される存在があることは真であるとわかりました。『我思う、故に我あり』です。ここまでは私は彼に意見するところに賛同したんです。
そして次の段階で彼は、神=完璧の概念をもってきて、自己の理論を進めていきました。
で私は思ったんです。
ちょっと待った!私は神=完璧なんかないと思ってるよと。

ですから私の中では『疑う存在』の『私』は真なんですが、それ以外は疑わしいままなんです。
『愛』という概念も疑わしいままで、真ではないんです。


ごめんなさい。余計意味不明になったかもしれません。
どんどん突っついてください。私は『愛』を見つけるために冒険していますから。


でも。。。
投稿日 2月3日(土)02時00分 投稿者 櫂 削除

>すいません。なんだか途中部分が思いっきり飛んでいて、いきなり結論に入って>います。全部書くと膨大な量になる気がして・・・。

膨大になるかもわかりませんが、これでは全く意味がわかりませんね。
なぜ
>ちなみに私は神=完璧を信じていません。
>だから『愛』はないという結論が出ました。

こうなるのでしょうか?


みなさんレス、どうもです。
投稿日 2月3日(土)01時42分 投稿者 でかると 削除

私は愛はあるのかの証明方法として『愛は先天的であるのか、後天的であるのか』という疑問をもちました。
みなさんの意見をうかがったところ、『愛』というのはどうもどちらかに断定しずらいものであるようです。
と同時にみなさんの心の中には『愛』は後天的だと思うが、ひょっとしたらは先天的なものであるかもしれないという考えが見受けられました。
で、思ったんですけどこれが宗教の国、例えばアメリカの人に聞けば、彼らは迷わず、愛は先天的なもの、愛はあるんだ、と言うと思います。神が全てを取り計らってくれているからです。だから日本人のように『愛』があるのかないのか悩んだりしないのではないでしょうか。

私は『愛』を見つけるカギは神=完璧を認めるか認めないかに委ねられると考えます。
ちなみに私は神=完璧を信じていません。
だから『愛』はないという結論が出ました。


すいません。なんだか途中部分が思いっきり飛んでいて、いきなり結論に入っています。全部書くと膨大な量になる気がして・・・。





先天的か?後天的か?それを探る意図はなんですか?>でかるとさん
投稿日 2月2日(金)04時33分 投稿者 ころすけ 削除

相手がいてこその愛なのだから、後天的のような気がします。
ただ自分が思い描く愛に疑いを抱くのなら、愛と言うのはコミュニケーションを起こす動機的なモノであるようにも見えます。
深く潜っていくのなら、先天的なのかなと感じます。

>私としては無意識にのなかに、愛の原材料(と言えるもの)が
>漂っていて、有意識へと顕在して行く内にその形を変えてしまう。

世紀末の詩を見終えたときの最初の結論は私もこんな感じでした。
でも、野島さんはニヒリズムも否定したはず。
ニヒリズムを僕には否定できないが、あえて言うなら「愛に限らず概念と言うものはそういうものだろ」といったところか。
なら愛じゃなくてもいいんじゃないかと。
ここはもう僕の能力を超えたレベルです。

愛が相手を伴う実践であるならば、愛は後天的だと僕は思います。



追伸

でもこれは逃げかもしれない。
先天的であることを認めてしまったら、ショックで立ち直れないかもしれないので。

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さて、後攻。
投稿日 2月2日(金)01時03分 投稿者 taki 削除

でかるとさんへ。

先天的ですか。

野島氏は、

> 「人間の本質の中には愛はないんだ」

ですし、
私も得るには、愛を知っていること。と書きました。

さーて、先天的と思ったら、どうにも説明のしようがないですね。
元々は直感と今までの経験上からの二者択一として、
「先天的」と答えました。

しかし、攻められるとひとたまりもないな。(笑)

もう1歩踏みこんで考えて見ると、「愛の本質は何処から来る?」でしょうか。

私としては無意識にのなかに、愛の原材料(と言えるもの)が
漂っていて、有意識へと顕在して行く内にその形を変えてしまう。

あ・・・・、今持ってる「愛の概念」を全部喋っちゃまずいな。(笑)

なのでこのへんで。(汚いかな?笑)

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愛は...
投稿日 2月2日(金)00時02分 投稿者 櫂 削除

僕は後天的かな...
くまさんに近い意見なのと、偶然愛にたどり着ける相手に出会わなければ
ほとんどの人がたどりつくことができない。
「まして生まれつきもっているものなんかじゃない」っていう9話の亘の
セリフが頭にあるからです。
愛をはぐくむために必要な性格的な要素は、先天的に「ある人とない人」
の差があるのかな?とも思いますが、このへんはよくわかりません。


愛・・・
投稿日 2月1日(木)20時49分 投稿者 でかると 削除

くまさんレスどうも。

>大まかに言うと、愛はコミュニケーションの究極形みたいなイメージがあるので後天的なものと考えています。

コミュニケーションの形と言うのは何だか良いですね。
ただ私は『完璧』はないと思っているので、コミュニケーションの究極形はないと思うんです。例えば、私がある人を愛したとします。しかし、私がこれまでにあった人間は一体何人なんでしょうか。千人、一万、それとも百万人?駅や交差点ですれ違った人は沢山いましたが愛を感じるまでに触れ合った人などたかが知れています。地球の人口が60億人であると考えると、たまたま偶然に出合った二人が愛に目覚めて、それが完璧なものだとは思えないんです。

何か粗さがしみたいになってごめんなさい。


でかるとさん 遅れ馳せながらレスします
投稿日 2月1日(木)14時15分 投稿者 くま 削除

大まかに言うと、愛はコミュニケーションの究極形みたいなイメージがあるので
後天的なものと考えています。
一人で生まれてくる時に持っているものではなく、
人と人が出会ってこそ生まれるものが愛だと思います。

もし、先天的なものだとすると「愛にたどり着く」というのは
自分の中に眠っていた愛が「目覚める」という感覚なのでしょうか?


投稿日 2月1日(木)13時32分 投稿者 でかると 削除

takiさんへ

>愛は先天的と思います。

そうですか。やっぱりそう思いますよね。私もそう考えていました。
ただ、何が愛が先天的であるかということを実証する具体的な事例がなかなかないんですよね。

人間は『自然的欲求と教育』によって育てられたものです。私達が愛だと言っているものも本当に真であるのか疑わしいのではないかと思うんです。

ちょっと皆さんの書き込みを読みきれていないので(量が多くて・・・)、学校の試験も終わったことなので、読まさしてもらってからまた書き込みます。


世紀末の詩が鏡と言うのは、ほんとにうまいこと言ったものだ。うんうん。
投稿日 2月1日(木)10時38分 投稿者 ころすけ 削除

なるほど、それじゃ死ぬまで続けても答えはでそうにないな(笑)
まさに、死闘だな。エンドレス・バトル・・・

今の私にとって言えることは、愛は闘いってことだな。

例え僅かであっても部分的に自分を肯定できること、それがぶっ壊れないための最後の砦なのだろうけど、そこまで行ってもなお愛には届かないのかもしれない。
体が持たないな(笑)
愛の挑戦者はきついですね。

というかちゃんと仕事しろ!>自分
愛と仕事の両立が、まず第一の私の課題だな(笑)


taki。

深夜に書き始めて、気付けば朝か(爆笑)
先に死ぬのは、たぶんそっちだな。
その間、俺寝てたし…(笑)

死闘に参加したいという愚か者(笑)は他にいないかね?

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


深夜に。
投稿日 2月1日(木)05時31分 投稿者 taki 削除

MR.未成年さんへ。

レスありがとうございます。

> >愛じゃないと、なぜいけない?
> 「愛」じゃなきゃいけないというよりは
> 「愛」と呼べるほどの関係を誰かと築きたいです

枯渇からの欲求ですね。
そこに切実さも加わってくると思います。
願望から発生したものが欲求へ繋がっている。と。

しかし、愛については一概に言えないですよね。
寂しさが消えたら、又考える。ということで。


ころすけへ。

> 「この世に愛なんてないんだ」と「残るものが愛なんだ」。
> 愛はないのに、なぜ愛は残る?

では、わかったみたいだけど、再度引用で。
(つーか、ここの世紀末の詩の「テーマ」のところを見ろよ。笑)

> 「人間の本質の中には愛はないんだ」という気持ちが僕のベースとしてあります。 僕たちが普段、"愛"と呼んだ
> り思ったりしてるもの、それは本当に愛なのか? ただ思い込んでいるだけじゃないのか? と問いかけたくてこの
> 脚本を書いています。
> 亘は愛を信じ続け、夏夫はそれをシニカルに否定し続ける。
> 僕は11話を通して、生物学、社会学、遺伝学などさまざまざなロジックで「やっぱり愛はないじゃないか」と、そ
> の存在を否定し続けていきます。
> それでも否定し切れずに残ってしまったものがあるとしたら、それを"愛"と呼ぶことにしようと思っていますが、今
> 現在、否定できないものは何もないので、結末をどうしようかと迷っているところです。


> 彼の毒舌は彼特有の照れ隠しだと思います。

余計なこと言わない。(笑)

ひらめいたみたいだけど、ほんのちょいとだけ補足。

> 自分の愛を否定し、愛を肯定すればいいんだ…。

よりも、

> 「今の」自分の愛を否定し、愛「自体を」を肯定すればいいんだ…。

じゃないか?

今の自分を全肯定、または全否定することは良くないと思いますね。
全否定によって、現状ある良き状態の部分もなくしてしまうし、
全肯定すれば、なにも見つからない。

では、突き詰めて何が良くて、何が悪いんだ?とすると、
個人個人にすべきことがみつかってくると思います。

しかし、考えることを、個人的、主観的、感情的にしてしまえば、
他者との意見交換が上手く行かないし、
定義的、また概念的にしていけば、
そこから得たものを、個人個人の事象にふりかえり
あてはめて行くことが出来ると思います。

ここでは「自己愛の否定」がありました。
しかし、それも全否定ではない。
(解決したのかな?)
自己愛が愛に悪影響及ぼす部分についてのみ、
言及すれば良いのだと思います。

もともと自己愛は、それに含まれる意識、感情、行動は広範囲すぎて
なかなか規定の出来ないもので、さらに個人的事情を加味すれば
「すべてが自己愛」と言えなくはないですが、
当然、それは本質ではない。

その対比として、上手く捉え切れておらず、字や表現し尽くせない愛と
比べることから混乱が生じていた。

くまさんの書きこみからありすさんへ思ったことですが。

愛は幸せになるための道具じゃないと。
それだけで確固とした意識なんだと思います。
愛という冠や証明があれば、さらに幸せになれるなんて、欲張りすぎているとおもいませんか?

幸せと言うのは、あくまで「状態」のことだ。
安楽で満足している状態を指しているとおもいます。
そこからなにかに対して、枯渇して求め様とは思わない。
だからこそ、幸せだった人々は愛を追求せずに死んで行ったのではないだろうか?
そう、幸せに。

言い方キツイかなー。他意はないのでご容赦ください。

あー、もう朝だなー。(笑)

http://alived.com/autism/


あっ・・・。
投稿日 2月1日(木)02時04分 投稿者 ころすけ 削除

自分の愛を否定し、愛を肯定すればいいんだ…。
簡単なことだった。
自分の愛を肯定するには、今の自分を変えるしかないかな。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


悔しいぃ〜!!!
投稿日 2月1日(木)00時09分 投稿者 ころすけ 削除

taki。

また、俺、自分でこけたのか?(笑)
いいさ、何度でもぶつかってやる。
私は、こうすること以外に自己の殻を破っていく方法を知らないから。
自分が未熟と思えば、このくらい大した事ではない。

> ペースにあるのは「この世に愛なんてないんだ」という気持ち。 生物学、心理学、物理学、
> いろんな方向から愛を否定してみて、最後に残るものが愛なんだと、そういう感じですね。

そうか、世紀末の詩は愛はないと言ってきたのか。
愛の否定のドラマ・・・。
もう一度、出直してきます。


でも、愛を否定して、どうして最後に愛が残るのか、訳がわからない。
だれもここに疑問を抱かないの?
「この世に愛なんてないんだ」と「残るものが愛なんだ」。
愛はないのに、なぜ愛は残る?
頭が壊れそうです。
何を否定して、何を肯定すればいいんですか?



くまさん。

彼の毒舌は彼特有の照れ隠しだと思います。
直接会って話してみるのが一番ですが、彼に興味があるのならメールでも出して個人的に話してみてはいかがですか?
彼が一睡も出来ない程メールを出してもらって、彼が寝不足でぶっ倒れてくれることを期待します(爆)

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


なぜ・・・
投稿日 1月31日(水)23時30分 投稿者 MR.未成年 削除

>愛じゃないと、なぜいけない?

やっぱり寂しいからですね
この寂しさがなくなるほど
他人と分かり合い思い合えたら
その人との間にあるものを「愛」と呼ぶんじゃないかなぁと

「愛」じゃなきゃいけないというよりは
「愛」と呼べるほどの関係を誰かと築きたいです



あ。(笑)
投稿日 1月31日(水)23時24分 投稿者 taki 削除

くまさんへ

> でも、少し毒舌が・・・

(笑)すいません。
奴との掛け合いは、ここでは過度かも?です。
しかし、絡んできたのは奴なので、受けて立っちゃいました。
これから、過度の部分はメールにしましょう。

が、

> ころすけさんとそういう口調で言い合える仲なのかもしれないですけど

家のPCは、元々ころすけのPCを買いうけたものなんですけども、
元の持ち主が虐待(笑)してたらしく、メールを送ろうとすれば、
フリーズし、BBSでレスを書けば毒舌になる。(これは嘘ですが。笑)

> ちょっと怖いです(笑)

それは、人に私の風貌見ても言われます。(笑)
個人HPに写真もありますが。

しかし、

> 多くの人は愛を手に入れられなかった結果、幸せでない人生を送ったのでしょうか?

は、なるほどです。

そこで思ったんですけど、幸せは快適で、愛は快楽なのかも?
幸せは安楽で安穏とし、愛は刺激的で留まってはいけない(本当か?笑)
とも思います。

その2つの相性は悪そうですね。
特に長い時間は。

ちなみに私は快楽派です。(笑)

> それはこのBBSの範疇を超えてしまう気がするので「幸せ」についてはこのあたりで・・・。

あ、すいません。(笑)ついつい。
確かに範疇は超えてしまいますよね。
とゆーか、論点バラバラになってしまいます。

では、ころすけではないですが、HPの宣伝。(笑)
                 ↓

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


すごいカキコ量ですね
投稿日 1月31日(水)17時08分 投稿者 くま 削除

MR.未成年さんへ

名もなき詩の歌詞の引用、勢いで「ただ」って入れちゃいました。
「気がつけば そこにあるもの」ですね。何度もすいません。

少し前(2日ほど?)のカキコですが
>えらそうですみません
全然偉そうじゃないですよ。訂正とご意見頂いてありがたいです。
僕もそういうのを考えた事がありますが
このBBSの人たちはきちんと受け止めてくれるので
ガンガン主張して行きましょう。ガンガンでいきましょう。


ありすさんへ

感情的な表現が多くて突っ込みにくかったのですが、
ちょっと懺悔的に聞こえます。

それと
>幸せに成る為に、愛も必要だと思って居ります。
というありすさんとは根本的なスタンスが違うと思うのですが、
必要ですか?
どういう質の愛かはわからないですけれど、
世紀末で論じているような愛を指しておられるのならば
多くの人は愛を手に入れられなかった結果、幸せでない人生を送ったのでしょうかでしょうか?
また、愛を手に入れた人はそれまで(愛をまだ手に入れていない時の)の人生を幸せでなかったと感じるのでしょうか?
愛を手に入れて幸せを感じるでしょうけど、それまでの人生にもそれなりの幸せを感じると思うのですが・・・。

あるドラマで言ってたんですけど
チーズケーキ(ここでは愛)はおいしいけれど(幸せになる)、
おいしいケーキはたくさんある
(僕は引用ヘタクソなくせに引用好き)

ありすさんが究極の精神的幸せを求めているならば、おそらくまだまだ議論の余地があるでしょうけれど、
それはこのBBSの範疇を超えてしまう気がするので「幸せ」についてはこのあたりで・・・。

>そして、あたしが欲しいのは、愛よりも幸せです。
これは僕のスタンスでも気持ちわかるんですよ。
人間が社会で生きていく上で愛は特には実用的ではないと思います。
(むしろ、世紀末で語られる愛は社会性を壊しているようにも感じられます。死を認知しないこととか疑わないことなど)
僕は愛がなくても幸せになれるとは思いますし、その時点で自分にとって最上の価値を
持つものを求めればいいと思います。
でもその上の文章で、

>それを「愛ではない」と呼んで居ては、何もできないと思うから。

というのが、よくわからないです。
何をするためにそれを「愛と呼ぶ」んですか?
「これは愛だ」って思うのはいいと思いますが、
幸せを感じるために「この愛は本物」って言い聞かせてるのなら悲しいです。
「愛より幸せ」といいつつも、愛という『言葉』にこだわっているのではないでしょうか?

ありすさんの愛が「本物じゃない」とは言うわけじゃないですけれども、
もし、愛じゃないなら愛じゃないでいいのではないでしょうか?
「これが愛かどうかなんてどっちでもいい」と思うんならそれもアリだと思います。
「愛じゃないからその人への思い自体を不純(ニセモノ)だ」なんて思わないですよ。

(takiさんもよく似たことを言っていると思うのですが)
ホントに愛にたどり着こうと思ったら何度人生を送り直さないといけないか・・・

相手を大事に思う気持ちがあれば、それだけですばらしいことだと思います。


takiさんへ

いつも「いいところ」ついてくれますし、
最近(ここ2,3日か?)の書き込みも、同感です。
でも、少し毒舌が・・・
ころすけさんとそういう口調で言い合える仲なのかもしれないですけど
ちょっと怖いです(笑)


昼休み。
投稿日 1月31日(水)12時43分 投稿者 taki 削除

> お望み通り、ぶっ倒してあげよう♪

まだ甘いな。(笑)

> 否定しないことがなぜに肯定になるんだ?
> そもそも、愛の否定ってなんだ?
> それは「愛はない」ってことだろ。

そんでは、野島氏のインタビューの引用。

> ペースにあるのは「この世に愛なんてないんだ」という気持ち。 生物学、心理学、物理学、
> いろんな方向から愛を否定してみて、最後に残るものが愛なんだと、そういう感じですね。


> >世紀末の詩はニセモノの愛、正しくは本物ではない愛を否定してきた。
> 「ニセモノのアイのヒテイ?」
> なんだそりゃ?
> ニセモノの愛は「ない」ってことですか?(笑)

おいおい、「正しくは」と書いてないかな?
んで、ニセモノの愛はあると??

> 俺が下の書き込みで言いたかったのは、ニセモノを肯定しなきゃ決して愛に辿り着けないってこと。

??????
ニセモノの肯定??
は?これこそわからんけど?

上記を踏まえると、ニセモノの愛はあり、それを自分は肯定していく。になるけど、それでいいんだな。(笑)

> 俺、やっと気がついたんだけど、否定ばかりしていたら、いつまで経っても辿り着くことはできないってこと。

そいつぁ、正論だなあ。
それだからって、ニセモノまで肯定するのかな?
それじゃ、本末転倒しないかね?

とゆーより、あんた誰?(笑)

> たぶんですけど、世紀末の詩はそこに愛はないと、愛を否定する話ではないと思うのです。

上記の野島氏の引用はどう説明する?(笑)

> だからホンモノをイメージするためにはニセモノは不可欠なのです。

では、これからニセモノ肯定を頑張ってください。(笑)

> 否定って言葉は恐ろしいぞ。

上記。(笑)
脚本家の方針だ。

空中分解おつかれさま。(笑)


かいさん。

あー、もーせっかく罠はってて、笑うほど見事にひっかかってくれたのに。(笑)

> この発言に関してですが、野島氏の製作発表時インタビューに起因する
> 内容なのでは?

そうです。
ころすけが、世紀末の詩の起点を自分の主観によって忘れてるので。

> そう、否定することによって模索する。ころすけさんの言っていること
> も正しいと思います。

いや、否定は僕なんですけども。(笑)
彼はこれから、ニセモノまで肯定行くそうなので。(笑)


> こんなの身もふたもない。

そこがいいんですけどね。ドラマから習うのではなく、自身で考えること。

> 基本的には愛を追い求める話だったのだから、そのドラマのファン
> だった人たちが愛にこだわるのは不思議ではないでしょう?

その拘り方が不思議だったんですよ。
でも、私はファンといえるかどうかわからないですし、
少なくとも通常のファン心理ではないことは認めますね。

> むしろtakiさんのスタンスの方が独特なわけで。

せめて、ユニークと。(笑)
とりあえず、ここでは願望と主観からの肯定は反論していきたいな、と。
証明できないからって、否定をしないことは可能性の拡大につながりますが、
僕のスタンスとしては、「多くの人が愛にたどり着けるわけではない、
ほとんどの人がたどり着けずに死んで行く」でしょうか。
もしそうなら、それを受けいれよう。
そして、そこから見えるものが愛に近づけるもの。という、感覚を貫き、
これが僕のスタートラインにしています。

そうじゃないと、恋を愛と規定してしまうのも簡単ですから。
そして、「愛じゃないと、なぜいけない?」とも、問いかけて行きたいと思っています。

でも、自己愛願望主義者さんが(ころすけです。笑)大抵抗するとおもうけど。(笑)

再度、否定。
願望と認識の歪曲からは、愛にたどり着けない、と思いますね。


ありすさん。

> 「愛」という言葉を使うと感覚が違ってきます。

いや、ここのBBSで、この言葉を使わずにして・・・・。(笑)

> 誰しもがエゴイストだと、そう思う。

反論。これは自分の主観を元にしすぎてませんか?
エゴかどうか論ずるとそのうちに、生きていくことを否定するようなもので、
反論するものが分裂してしまうので、否定し切れないだけではないでしょうか?
つまり、生きていること自体がエゴだと言われてしまえば、終わっちゃうじゃないですか。(笑)

ここは厳密に言わないと。

誰しもがエゴイストだと言い、そのあとに、だれしもが利己的であるとする枕詞にするのでは、
何事にも延々と平行線をたどってしまう。

それこそ、身も蓋ないですね。(笑)

それから、自分の自己愛を肯定していくとあがらう余地などない。
つまり、この意見こそが「自己愛で悪い?」と開き直りに近いと思いませんか?

ちょいとなんでも、かんでも普遍化しすぎですよね。

> 恋でも、其れが愛としても、「自分が大事」と云う思いは
> 消えないんだと思います。

ここの櫂さんの意見とは違いますね。
では、自己犠牲はどうなるんだ?と。
それさえもエゴなのか?と。

僕としては、個人の主観的な感覚なので否定はしきれない。と言う感想です。
本当にそうでしょうかね?

> 自分を大事に思う事も、あたしは愛と呼べると思う。

これも反論。
これを自己愛と呼ぶのなら、愛に自己愛は含まれない、との主張を
このBBSでしてきたので。

呼び名が愛と同じなだけで、特に世紀末の言う愛と自己愛は別。と思います。

> 愛では無いと否定するのは、現実に在るものから目をそらして
> 居るだけのような気もします。あたしは愛をもって生きたいと
> 思う。そしたら、エゴですらも受け入れなくてはならない。
> だから、「都合がいい」と云うのはその通りです。

自己完結しちゃってますね。
本当にそうなのか?と考えないのなら。

> それを「愛ではない」と呼んで居ては、何もできないと思うから。

うーん、世紀末の詩の姿勢が違ってきますねー。
これからなにかするしないではなく、現時点でどうするか?
ではないでしょうか。

その部分での論議ですよね。
そこに未来の可能性を含めば、現状言えることが希望論によって全否定も可能ですよね。

> そして、あたしが欲しいのは、愛よりも幸せです。
> 幸せに成る為に、愛も必要だと思って居ります。

「女性は誰でも良いから、愛と幸福をくれる者を愛する。」
でしょうか。

幸せですかー。すいません、あんまり興味ないです。(笑)

とりあえず、一応満足している状態で突き詰めて考える気はないんじゃないかな?
と思いました。

主観からなんでもかんでも、普遍化しすぎかもしれないですね。
他者の観点と自身の主観は別、この点はありすさんに関して
ゆるぎないのではないかな?と思いますが、いかがでしょう?

http://alived.com/autism/


朝カキコ
投稿日 1月31日(水)10時55分 投稿者 ありす 削除

お早う御座居ます。
takiさん>誰もが自分を愛せるか?
「愛」という言葉を使うと感覚が違ってきます。「自分が嫌い」と
云う人も多くいらっしゃると思いますし。
でも、結局はどんな行動をとろうとも、自分の意志によるものだと
思うのです。誰しもがエゴイストだと、そう思う。
決してそれが悪いとかじゃ無いですよ。
恋愛においても、お互いのエゴが其処にはあるわけで。
恋でも、其れが愛としても、「自分が大事」と云う思いは
消えないんだと思います。自分を大事に思う事も、あたしは
愛と呼べると思う。自分に愛を向けられないと、自分以外に
愛を向ける事も出来ない気がする。
何か、相変らずうまく云えないんですけど(><)只、あたしは
「誰かの為に」って、した事無いんです。もし人の喜ぶ事をしても
「あたしがその人に喜んで欲しい」という想いの下です。
つまりは自分の為。人の為、でも、其処には自分の為という
動力が在る。それは、自分の事が好きとか嫌いとか、
そういう事に関係なく在るものだと思います。
あたしは自己愛を肯定します。いや、肯定というと違うかな。
そういうモノが在る事を受け入れます。エゴでも何でも、
其処に在るモノから目を背けたくは無いですし。
自己愛を愛にしてしまうのが都合の良い事と、takiさんは
おっしゃってましたが、
愛では無いと否定するのは、現実に在るものから目をそらして
居るだけのような気もします。あたしは愛をもって生きたいと
思う。そしたら、エゴですらも受け入れなくてはならない。
だから、「都合がいい」と云うのはその通りです。
それを「愛ではない」と呼んで居ては、何もできないと思うから。

そして、あたしが欲しいのは、愛よりも幸せです。
幸せに成る為に、愛も必要だと思って居ります。
だから、純粋に愛を求めて居るだけでは無いので、ちょっと
歪んで居たりもすると思います。(愛に対してね)
自分や自分の好きと思う人が幸せである事が何よりです。
恋よりも愛を求めるのは、愛の方が幸せに近いと
あたしは思ったからです。

幸せならば恋でも構わない、そう思って居ました。
世紀末の詩を見て、何かが変わりました。愛が欲しい、と。
あたしが愛にしがみつくのは、そういう処です。

あと、世の中には「自分」と「自分以外」の2つが存在する
と大きくわけました。細かくするとキリないし。
そう分けた上で、「他人」に重点を置くと・・・と。
実に短絡的な感じもしますが(^^;

今回はこの辺で。またご意見聞かせて下さいね。
反論でも何でも刺激的で有難いです。
実は余り頑固でもないので、反論されて、
「うん、そうだな」と思ったらあっさり変わってしまうかも
知れませんが・・・。自分の意見が全てじゃ無いですからね。
色んな方の意見や考えを聞いて、参考にさせて頂いて居ります。

ではまた。ピース。


takiさんへ>恋について
投稿日 1月31日(水)07時41分 投稿者 櫂 削除

>以前から言っているのですが・・・・・。
>何故、恋だとだめなんですか?
>消えるものだというイメージがあるから??

>皆、愛という言葉にしがみつきすぎるなぁ、と。
>これは前々から不思議なんですけども。


「世紀末の詩」が恋に対して否定的な言葉ばっかりだったからですよ。

>恋を繰り返し、魂を汚し、自己愛に帰結する

とかね。

>恋というと聞こえはいいがな
>性的な吸引に過ぎない

こんなの身もふたもない。

もちろん、「恋」を完全否定しているわけではない。
>愛とは恋する人と出会い長い時間をかけて魂が寄り添うことなんだ
というセリフの示すと降り、「愛」にたどりつく為の必然でもあるわ
けですけど。

でも「愛」を探すのが物語の主題だったのだから、比較論として
「それは愛ではなく恋にすぎない」といった表現が多かった。
基本的には愛を追い求める話だったのだから、そのドラマのファン
だった人たちが愛にこだわるのは不思議ではないでしょう?
むしろtakiさんのスタンスの方が独特なわけで。


べつに弁護するつもりではありませんが
投稿日 1月31日(水)07時22分 投稿者 削除

>世紀末の詩はニセモノの愛、正しくは本物ではない愛を否定してきた。

この発言に関してですが、野島氏の製作発表時インタビューに起因する
内容なのでは?

>僕は11話を通して、生物学、社会学、遺伝学などさまざまざなロジックで「や>っぱり愛はないじゃないか」と、その存在を否定し続けていきます。
>それでも否定し切れずに残ってしまったものがあるとしたら、それを"愛"と呼ぶ>ことにしようと思っていますが、今現在、否定できないものは何もないので、結>末をどうしようかと迷っているところです。

つまり、「愛」を定義するために、にせもの(本物の愛らしく見えるもの?)
と本物(と思われるもの)全てをひっくるめて、毎回そのひとつひとつを
「これは愛ではない」と吟味し否定していく。

>これがなにを否定しているのか、教えて欲しい。
>俺には教授が愛を模索する言葉にしか聞こえない。

そう、否定することによって模索する。ころすけさんの言っていること
も正しいと思います。


スキあり!!!
投稿日 1月31日(水)04時27分 投稿者 ころすけ 削除

taki。

弱ってるな(笑)
お望み通り、ぶっ倒してあげよう♪


>これでは自分で否定さえしなければ、なんでも愛になってしまうぞ?

否定しないことがなぜに肯定になるんだ?
そもそも、愛の否定ってなんだ?
それは「愛はない」ってことだろ。
愛を自分から否定しないこと、これがスタートラインじゃないのか?
人は迷い悩むものだから、愛が確実にあるとは言いきれない。
だけど、「ない」と言ってしまえばそこで終わり。
いや正確に言えば、心の底から愛(のようなモノ)を「ない」と言いきれる人もいないのかもしれない。
亘は「愛はあります」と言いきった。
これこそが愛し愛される資格の最低条件ではないのか?



>世紀末の詩はニセモノの愛、正しくは本物ではない愛を否定してきた。

寝不足地獄の末に遂に空中分解か?
「ニセモノのアイのヒテイ?」
なんだそりゃ?
ニセモノの愛は「ない」ってことですか?(笑)
お話になりません。

俺が下の書き込みで言いたかったのは、ニセモノを肯定しなきゃ決して愛に辿り着けないってこと。
俺、やっと気がついたんだけど、否定ばかりしていたら、いつまで経っても辿り着くことはできないってこと。

たぶんですけど、世紀末の詩はそこに愛はないと、愛を否定する話ではないと思うのです。
世紀末の詩っていうのは、何かが欠けた不完全なニセモノの愛をこうだって定義して、「足りないものはなんですか?」って視聴者に問うお話だと思うのです。
だからホンモノをイメージするためにはニセモノは不可欠なのです。

>それは愛ではない、愛と言えないと。

これがなにを否定しているのか、教えて欲しい。
俺には教授が愛を模索する言葉にしか聞こえない。

否定って言葉は恐ろしいぞ。
その先に待つのはただひとつ。
第9話が楽しみだ。
それまでに、体勢を立て直すことだね♪(ニヤリ)

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


あ、早いっすねー。
投稿日 1月31日(水)03時50分 投稿者 taki 削除

ありすさん。

> また書き込んでしまいました・・・

良いんじゃないですか?ここはモラルハラスメント(爆)
の場ではなく、意見交換の場ですから。
しかし、反論もありありでいきましょう。


> あたしは、共感を求めて居るわけでは無いので、別に考えを
> 変えたりとかは有りませんが。

確かに、感情的な書き込みですね。
でも、正誤を問うているわけではありませんよ。

> 罪悪感を他人に擦り付けようとは思ってません。
> あくまでも、自分の中での問題です。

ふむ。共感を求めていない、ということで納得です。

> 自己愛が強い、と云うのは、その通りだと思います。

あ、ストレートに申し訳ない。

> あたしには愛がない。自分の気持ちの問題とはいえ、
> そう云われるとやっぱり良い気分では有りません。

そうですね、自己愛的といわれたので、それが愛と言えるなら、私の間違いでしょう。
主張として、自己愛は愛とは別質のものだ。と論じていたばかりなので。

> (別にtakiさんが「間違ってる。改めよ」と
> おっしゃって居るわけじゃないですけどね。悪しからず)

神様じゃないんで、それは言いません。(笑)

> 只、愛するのは相手の為だけではないこの状況に、
> 一瞬戸惑うのです。此れは、単なる恋ではないのか?と。
> それでも、愛を求めずには居られません。

以前から言っているのですが・・・・・。
何故、恋だとだめなんですか?
消えるものだというイメージがあるから??

皆、愛という言葉にしがみつきすぎるなぁ、と。
これは前々から不思議なんですけども。

> あたしは、人間なんて、誰しも強い自己愛を持って居ると
> 思います。やっぱり自分が大事だし。

それどうでしょうかね?
この意見は完全に懐疑的です。
自己を愛せない人間はいないと??

> 他人に重点をおいちゃう方が、よっぽど一方的な気もします。

かといって、他人に重きを置いてしまうのも。
2つに一つしかないのでしょうか?

そこら辺、レス期待してますよー。

http://alived.com/autism/


また書き込んでしまいました・・・
投稿日 1月31日(水)02時22分 投稿者 ありす 削除

takiさん>えっと、まず判りにく過ぎて御免なさい。
後、takiさんのカキコを読ませて頂き、「なるほど」
と思いました。
あたしは、共感を求めて居るわけでは無いので、別に考えを
変えたりとかは有りませんが。
罪悪感を他人に擦り付けようとは思ってません。あくまでも、
自分の中での問題です。何を罪に感じるか、具体的に
表記しなかったのは、そこまで書いちゃうとただの「悩み相談」
みたいに成ってしまう感じがしたので、あえて伏せました。
自己愛が強い、と云うのは、その通りだと思います。
外から見てどう思われるかは、また違うかも知れませんが、
あたしは自分にも愛と呼べるものを向けたいと思います。
あたしには愛がない。自分の気持ちの問題とはいえ、
そう云われるとやっぱり良い気分では有りません。
正しいか否かは別として、例え其れは愛とは呼べないと
云われても、あたしはあたしなりの愛をもっていきようと思います。
(別にtakiさんが「間違ってる。改めよ」と
おっしゃって居るわけじゃないですけどね。悪しからず)
誰かを愛しく想う、あたしの場合、主に旦那ですが、それが
今、一方的だとも思いません。彼からもあたしは愛を感じますから。
想いをやみくもにぶつけたりはしません。想うが故に、
想いを抑えたりします。あたしがどうすればこの人は幸せだろう?
と、常に思って居ます。そう思う事が自ら幸せでもあります。
手段を誤って擦れ違う事ももちろんあります。けど、其れを
繰り返して、成長していってると思います。
只、愛するのは相手の為だけではないこの状況に、
一瞬戸惑うのです。此れは、単なる恋ではないのか?と。
それでも、愛を求めずには居られません。

あたしは、人間なんて、誰しも強い自己愛を持って居ると
思います。やっぱり自分が大事だし。他人に重点をおいちゃう方が、
よっぽど一方的な気もします。
そして、宗教とかあたしは良くわからないし(バカ・・・)
難しい事を云いたいわけでは有りません。
出来る限り、誇れる自分に成りたいだけです。その為に、
日々反省の繰り返し。それだけです。

それにしても、とらえ方は十人十色だと改めて感じました。
だからこそ楽しいんだな、と。
文章力の至らない処が多くて申し訳ないのですが、また
色んなご意見聞かせて下さいね。
取り敢えず今日は退散。ではまた。ピース。


デカルトかあ。
投稿日 1月31日(水)01時24分 投稿者 taki 削除

でかるとさん。

愛は先天的と思います。
こちらも他の方の意見を聞きたいので、これだけで。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


最近はレスばかりだか・・・。
投稿日 1月31日(水)01時19分 投稿者 taki 削除

くまさんへ。

> 読んで納得してしまうのですが、本来的にはちがうのではないでしょうか?

あ、訂正します。

> 最近、「ネットで使われている」自己満足について思うのは、評価されない、されたくない事柄に対して
> 使っているような気がする。
> 彼らの指すものは社会的義務以外の範疇で、人に評価されない事柄は
> すべて、自己満足に含んでしまう。

でしたね。すいません。

> 「人に評価される事柄」は自己と共に他者をも満足させるので、
> 他者側に評価の視点を置いてしまう(他者に評価されることで、その事柄に対して
> 別の満足を得たことで、自己満足とは意識しなくなる)結果なのではないでしょうか?

共感と思ってしまうんですね。同感です。

> 他者側に評価の視点を置いてしまう(他者に評価されることで、その事柄に対して
> 自己満足の解釈として「自己だけが満足する」と「少なくとも自己は満足する」
> の違いで、多くの場合、前者で「自己満足」という言葉と使っているからでは?

それは正しいと思いますが、他者の満足と言うか、共感を
得れたなら、それは自己満足ではなくなると思います。

実は満足してないからこそ、他者に共感、賛同を求めるのでしょう。
なのに自己満足と言い切る。この点がおかしいなと。
そのもの自身に集中して、その事柄だけに満足が得たいのではなく、
他者からのそのことに対する評価が怖いからこそ、そう思いこむのでしょう。

つまり、「自己満です」(批判しないで)と言えば、
「そんなことないですよ」との言葉待ちとしているだけかなー。と。
あまりにつまらない、「予定調和」なので
先の展開が見えるとおもしろくないなー。と(笑)

ありすさん。

とりあえず、自己愛の強い方と御見受けしました。
レス文はなにかよくわかりません。
なにか宗教的でもあり、また自意識が強いと思います。

> 悪意が無かったとしても、何らかの罪が生まれて仕舞って
> 居ます。其れを後悔や反省する時も有ります。
> けれど、そうしない事も多い。きっと、自分では気付かない処でも
> 罪を働いて居るのだと思います。

これ、切りないんじゃないでしょうか?
キリスト教の原罪論を思い出しますが。
人にも自分にも罪悪感をわざわざ擦り付けたくないので、これには共感できません。

> 完全に美しい人間に成ろうとは思いません。汚い処もあってこその
> 人間だろうから。あたしはあたしが犯した罪を認めます。

でも、具体的ではないんですね。

> 誰かを愛しく想う事で、あたしのココロは浄化されるのです。

自分の為にでしょうか。
相手は一方的とは感じないでしょうか。

ころすけへ。

> 自己満足じゃ決して愛には届かない。
> 愛は一人では辿り着けないはずだから。
>
同感。
ここでびったし意見があったのは初めてか?
最後にならぬように願う。(笑)

> おかしいのはそっちじゃないのか?
> takiがそう思っているとは思わなかった。
>
おっとっと。では、まとめて。

> 教授は愛に厳しかったけど、愛の否定は一度もしていないと思う。

これは俺が悪かった。
いや、あまりに中身のないレスするから。(笑)
得意の予定調和で、自己分裂起こさないように。

言い換えよう。はっきりと。(笑)
アリスさん自体に愛はないと俺は思った。
それで、本人にレスをして、そのレスがかえってきたが、感想は変わらん。
問題はこのポイント。

> 誰が否定するのでしょうか?
> 否定できるのは自分だけではないかと思います。

これでは自分で否定さえしなければ、なんでも愛になってしまうぞ?
重ねて、自己愛の肯定にも繋がることに思えた。
そいつは都合よすぎ、と思ってな。

が、レスするポイントは間違えていた。すまん。

世紀末の詩はニセモノの愛、正しくは本物ではない愛を否定してきた。
それは愛ではない、愛と言えないと。
セリフにはなかったかもしれないが、(今度、何度目にかに渡る読み返しをして見よう)
その姿勢には間違いがないだろう。

世紀末の詩は最終的に愛の形を求めた物語だったと思う。

> 第9話だけだったように思うけどな。←あ、9話はまだですか?(笑)

お気遣い、すまん。(笑)

> ちゃんと寝たほうがいいんじゃないの?(笑)

かさねて、お気使い・・・・、、、大きな御世話じゃ、ばかものー。(笑)
しかし、レスと書きこみが散漫になってるのは否めん。

今なら、倒せるかもよ。(笑)
激務もあと、11日。タイムリミットはそんぐらいかな?(笑)

K-1さん。

> あなたにとって愛とは何ですか?
> 皆様の幾千もの形を聞いてみたいのです

BBS&考察見ててください。(笑)
そんな漠然と聞かれても答え様がないですよー。
意見もそうなんですけど、自分自身にとっての誰かを見つけた方が早いと思いますが、
まあ、とりあえず。

形は無数。出会った人により変わります。

以上。(笑)

http://alived.com/autism/


我思う、故に我あり
投稿日 1月30日(火)23時56分 投稿者 でかると 削除

すいません、ちょっと質問なんですけど。

愛とは先天的なものである。
いや後天的なものなんだ。

どちらだと思いますか。
私は前まで愛はあるものだと思っていたんですけど、
最近色々と考えてもしかしたらないんではないかと
思い始めたんです。
それもこれも学校の試験に出てきたデカルトのせいです。
デカルトの馬鹿!


あなたにとって愛とは何ですか?
投稿日 1月30日(火)23時02分 投稿者 k−1 削除

人には色々な考えがあり、それぞれの形がある
だから聞いてみたいのですが、
あなたにとって愛とは何ですか?
今の僕にはモヤモヤとして無形なので
皆様の幾千もの形を聞いてみたいのです


あ、追加。
投稿日 1月30日(火)23時02分 投稿者 ころすけ 削除

だからって、突き詰めなくていいということにはなりませんね。
それは間違ってました。

スイマセン。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


ちゃんと寝たほうがいいんじゃないの?(笑)
投稿日 1月30日(火)22時31分 投稿者 ころすけ 削除

taki。

>突き詰めるここと、疑わないことは違う意味のことでしょう?

はい、そう思います。
説明が足りなかったかもしれないけど、ありすさんは突き詰めた結果、自己満足に至ってしまったと書かれていた。
ということは、どこかで愛を疑っていたんじゃないかと僕は思いました。
自己満足じゃ決して愛には届かない。
愛は一人では辿り着けないはずだから。

教授は「愛ってのはただ・・・疑わないことだ」(第五話ラスト)と言ったけど、僕も疑っちゃ駄目なんだって思う。
疑ってしまったら、そこで終わり。
愛が辿り着けるものだとしたら、ただそこに愛があることを疑ってはいけないと思います。

>教授はドラマでは愛の否定をしてこなかったと?

おかしいのはそっちじゃないのか?
takiがそう思っているとは思わなかった。

教授は愛に厳しかったけど、愛の否定は一度もしていないと思う。
小説本を読み返してみたけど、そんな台詞はなかった僕は思う。
各話に描かれた、愛に届かなかった人、愛を見失った人を見て、「愛とは・・・」と語るシーンはあったけど、彼ら彼女らを否定するような台詞は言っていなかったと思う。
届かない、見失うが否定というなら話は別だが・・・。
僕が思うに愛が見えていない主役(ゲスト)を痛烈に否定したのは第9話だけだったように思うけどな。←あ、9話はまだですか?(笑)


ありすさん。


>醜い自分は発展途上だと。

その言葉がすべてを語っていますね。
発展途上、いいですね。
僕もそうありたいです。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


レス有難う御座居ましたー。
投稿日 1月30日(火)20時52分 投稿者 ありす 削除

今晩和ー。
takiさん>あたしの罪はほんの些細な事も有り、大きな事でも
有ります。悪意が無かったとしても、何らかの罪が生まれて仕舞って
居ます。其れを後悔や反省する時も有ります。
けれど、そうしない事も多い。きっと、自分では気付かない処でも
罪を働いて居るのだと思います。そんな事を償わなくてはならないと謂う
事を誰に云われた訳でもないですが。
完全に美しい人間に成ろうとは思いません。汚い処もあってこその
人間だろうから。あたしはあたしが犯した罪を認めます。
誰かを愛しく想う事で、あたしのココロは浄化されるのです。

ころすけさん>突き詰めるのは、意図的にでは有りません。
只、人間の性なのか、辿り付かないとは気付きながらも、
より完璧に成りたいと求めてしまうのです。
答えを知りたいと求めてしまうのです。
突き詰めて考えて仕舞う事によって、自分の醜さに気付いて
どう仕様も無い嫌悪感に襲われたりもします。
最近は、突き詰めて仕舞うのは向上心故にと思って居ります。
醜い自分は発展途上だと。完全な自分、完璧な愛に辿り付けなくとも、
明日の自分は、今日よりも良く有りたい。そう願います。

補足として。あたしが云った突き詰めると自己満足、
というものは。
人を愛せる自分、というのに嬉しく感じたりするんですよ。
「愛」を求めたり、捧げたかったり、侭成らないとしても、
愛について何かを感じられる自分に安心する時があるのです。
人を愛して居る時、あたしはあたしを愛せるのです。
だから、ふと、結局は「自分」でしか無いのかな、と思ったり。
「自己満足」という言葉の選び方がちょっとおかしかったかな(−−)

あと、ミスチルの話が出てますねー。あたし、ミスチル
大好きなんです。桜井氏の唄う愛の世界には、毎回動揺させられます。
良くも悪くも、ココロ動きます。
では、また来ますね。ピース。


毎日が「世紀末」!?
投稿日 1月30日(火)19時15分 投稿者 くま 削除

MR.未成年さんへ
>ミスチルの歌
愛の成り立ちについて唄った歌なのですね。
「奪ったり、与えたり」を意識することでは愛にはたどり着くことはできないと。
なるほど。
ちなみに、正確な歌詞は「(略)・・・でもなくて気がつけばただそこにあるもの」です。
僕もミスチルの歌好きですよ(他にesなんかも)。ふと口ずさんだりしてしまいます。

takiさんへ
>社会的義務以外の範疇で、人に評価されない事柄は
>すべて、自己満足に含んでしまう。

読んで納得してしまうのですが、本来的にはちがうのではないでしょうか?
「人に評価される事柄」は自己と共に他者をも満足させるので、
他者側に評価の視点を置いてしまう(他者に評価されることで、その事柄に対して
別の満足を得たことで、自己満足とは意識しなくなる)結果なのではないでしょうか?
自己満足の解釈として「自己だけが満足する」と「少なくとも自己は満足する」
の違いで、多くの場合、前者で「自己満足」という言葉と使っているからでは?
本来的には後者だと思います。


くまさんへ
投稿日 1月30日(火)16時09分 投稿者 MR.未成年 削除

>ミスチルの歌のように「ただそこにあるもの」とは思えないです。

それって「名もなき詩」ですよね
正確には愛は奪ったり与えたりするものではなく
気がつけばあるものだと歌っています
「ただ」あるものということは言ってないと思います
これは「愛している」という気持ちは
意識してもつのは偽者で
本物は無意識から発生するものだということを
言いたいんだと思います

えらそうですみません
僕は野島伸司ファンでありミスチルファンなんです
どちらも哲学的で大好きです
似たようなことを言っている気もします


???変だぞ???
投稿日 1月30日(火)12時04分 投稿者 taki 削除

ころすけ。

なんか書きこみを冷静に見たら、おかしくないか??

> 突き詰めなくてもいいと思いますよ。
> 愛は疑わないことって、ドラマの中でも言ってたし。

突き詰めるここと、疑わないことは違う意味のことでしょう?
それに、ドラマでは「疑うことですらないのかもしれん」でしたよね?
まあ、なんでもかんでも、ドラマではこーだったってのも
子どもじみてますが、意味の取り違えになるのは本意ではないはず。

> 誰が否定するのでしょうか?
> 否定できるのは自分だけではないかと思います。

んんん???
教授はドラマでは愛の否定をしてこなかったと?

おかしいな。世紀末の詩を見ていた。というここのBBSの前提が
おかしくなってきてるんじゃないか?

愛に至るには自己満足や、願望はムダな贅肉と捉えてるんだけども。
最近、自己満足について思うのは、評価されない、されたくない事柄に対して
使っているような気がする。

つまり、「批判しないで」と感じる。

社会的義務以外の範疇で、人に評価されない事柄は
すべて、自己満足に含んでしまう。

そんな気がしております。

http://alived.com/autism/


世紀始めなのに・・・。←確かに(笑)
投稿日 1月30日(火)03時25分 投稿者 ころすけ 削除

りいさん。

>「俺の屍を超えていけ」とか、「受け継がれる意志」とかも
>そういう「意味」に含まれるかもしれませんね。

それは未来への期待という意味でしょうか?
それもあるのですが、私は生まれる以前のコトとか地球の外のコトとかもっと広い意味でとらえています。
自分の知る世界だけにしか意味を見出せないなんて、面白くないですよ。
実際の生活ではついつい視野が狭くなりがちなのですが、意味がないとだけは思いたくないですね。

>愛は筋肉のようなものだと思います。

愛を筋肉に例えた話、大変興味深く読ませてもらいました。
うまいこと言うなあと思ってしまった。
私にはその愛が絆のように感じました。




ありすさん。

>好きな人の為に生きる事。生きる事、と云うと、ちょっと
>語弊が有ります。死ぬ事さえも、その人の為なら構わない。
>でも其れは、突き詰めると自己満足なのだとも思います。

突き詰めなくてもいいと思いますよ。
愛は疑わないことって、ドラマの中でも言ってたし。

>そして愛を与えて、与えて、ひたすら与えて。

愛は与えたりするものではない気がします。
与えられるとしたら、それは情ではないか。
愛情という言葉もあります。
愛情から情がとれたら、愛に届くかな。
ふとこんなことを考えました。

>人其々に異なる形の愛が有って、誰もそれを否定する事は出来ない
>のでしょう。完全な形なんて無いんだから。

誰が否定するのでしょうか?
否定できるのは自分だけではないかと思います。
愛に完全などありえない。
愛はとどまることではないというのが世紀末の詩ですから。

なんだかリアルな言葉で書かれていたので思わず反応してしまいました。
またの登場お待ちしています。



くまさん。

>>ふむふむ、てことは愛は自分とも無関係なのですか?
>関係あると思います。

関係ないって言ってしまったら、そこで終わりですからね。
たとえまだ影も見えないとしても、「ただそこにある」と思うことが大切なんじゃないかと私は思います。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


では、とことん。
投稿日 1月30日(火)02時31分 投稿者 taki 削除

はじめまして。ありすさん。

> あたしの思う愛は、非常に単純なモノです。

それを定義付けようとすると、寝不足地獄行きです。(笑)

> でも其れは、突き詰めると自己満足なのだとも思います。

と、とと、それはどうですかね。

> 自分の罪を受け入れよう。

????これって何のことですか???

> もう少しでも、あたしに文章のセンスがあれば、

こちらもないですよー。


櫂さん。

> まだもうすこしやりたいです「自己愛」

あい、ほんじゃ気の済むまで行きましょうかー。

> (そうでなくても、もううんざりしてますか?)

いや、こーゆーのはけっこータフなんで。

> ほかのどんな主張を譲っても「自己愛と愛」がまったくの
> 別物という主張、この一点のみに論点を絞りたいと思います。

了解しました。

でも、教授のしかも最終回のセリフですかー・・・・。
考察あるから、出来ないって・・・・。(笑)

> >人間よ、自分と他人との区別をやめよ
(中略)
> という一文の意味が想像できます

連続した文章の解釈はわかりました。(笑)
講義さんきゅです。(笑)
って、わかっとりますわいな、じゃないと、ここのレス文もっとむちゃくちゃになってるでしょうに。
それより、まだ考察やってない部分に関して、言いずらいんですよー。
残しておかないと、メールマガジン発行できなくなってしまうし。
そこらへん、理解していただけてますでしょうか?

まあ、その部分に関しては、教授は人類愛について話してたと思いますが。
しかし、ビデオやノベライズも再度調べずに言ってるので、確証なしです。(笑)

と、最終回の教授のセリフは、今までの総括で、全般に渡って論をまとめたもの
なので、ドラマで定義されていた愛について以外にも述べていると思います。

> でも、野島ドラマってこのキリスト教的な要素があちこちに見え隠れしていて...

たしかに、ありますね。


> ここだけ気になりました。どんどん糊塗したというのは僕のことをいっておられ
> るのでしょうか?

いいえ、直接レスを書いてるのに、ややこしい当てこすりなんかしませんよ。(笑)

んー、今日は自分の意見がなかったな・・・・。

http://alived.com/autism/


世紀始めなのにどんどん世紀末のにのめり込んで行く・・・
投稿日 1月30日(火)01時35分 投稿者 くま 削除

ころすけさんへ

>ふむふむ、てことは愛は自分とも無関係なのですか?
関係あると思います。以前、質問の形で
>それならば自分にとって「愛すること」はなんの意味が
>あるのでしょう?
と書いたことがあるのですが、
僕は「愛することは自分にとって何らかの意味を持つものである」と思っています。
ミスチルの歌のように「ただそこにあるもの」とは思えないです。(歌は好きなんですけど)
自己との関係性の到達点というか象徴する言葉が、
ドラマ後半で使われていた、「愛によって人は救われる」ではないでしょうか。
あまりピンとこない言葉ではありますけれど。

>「愛に育む」って感じが世紀末の詩っぽい気がするのですがどうでしょう?
「恋を愛に育んでいく」という意味ですごく感じが出てるいい表現だと思います。
ただ最終話の「愛が停滞してしまう」っていう言葉がどうも引っかかります。
「停滞する」っていうことは、本来何らかの方向性を持ったものだと思うので、
「愛を育む」という点も世紀末では語られていると思います。

takiさんへ

>自己愛は変容して、自虐を行うものと思います。
ほんとですね。よくよく考えてみると同感です。
いいかげんな記述でした。


りいさんへ
投稿日 1月29日(月)22時36分 投稿者 削除

>ふと思ったんですが、櫂さんは愛は「論」、例えば何らかの原則に
>従うと理性的なものと思ってらっしゃる?で、その原則を見出して、
>理解したいと?

つまり、「愛とはこういうものだ」ってやつですね。理解したいと思
いますが、教授でもだめだったのに、僕なんかじゃ。。。無理でしょ
うね。


もうすこし。。
投稿日 1月29日(月)22時31分 投稿者 削除

takiさん

まだやるのか、といわれつつ、まだくいさがったり
して。まだもうすこしやりたいです「自己愛」

いろいろ誤解を生んでしまっているようですが、
こまかく反論していてもtakiさんも疲れるでしょうし
僕も書くのが面倒です。
(そうでなくても、もううんざりしてますか?)
ほかのどんな主張を譲っても「自己愛と愛」がまったくの
別物という主張、この一点のみに論点を絞りたいと思います。

>人間よ、自分と他人との区別をやめよ
この一文だけでは主旨がつかめない。なにを区別するなといっているか。
でもそれにつづく一文で想像できます。
>わがままな子供を叱るのに、自分の子供も他人の子供も関係ない
これは言い換えると「自分の子供も、他人の子供も同じように愛せ」
といっているのではないでしょうか?
愛情を持たなければ叱ることなどできません。
この一文がそういう意味だとすると、その前にくる「自分と他人の区別をやめよ」
という一文の意味が想像できます
「自分とおなじように他人も愛せ」だと思います。
ここで、このセリフそっくりな、ある有名すぎる言葉を思い出しました。
「汝を愛するように、汝の隣人を愛せよ」
宗教的な内容をもってくることはためらいました。キリスト教主義って、僕はあ
まり得意ではないし...もっと詳しい方もたくさんいらっしゃるでしょうし。
でも、野島ドラマってこのキリスト教的な要素があちこちに見え隠れしていて...これを無視して論ずるのは不可能な気がします。
(かといって、キリスト教に詳しい人がこれを読んでいたりして、そういった人の
薀蓄講義は聞きたく(よみたく)はないですけど)

>しかし、他人の意見を、いかにも自分の意見だと、内容をどんどん糊塗していくのは
>大嫌いなので、意見が変わったら言ってくだされば良いと思います。

ここだけ気になりました。どんどん糊塗したというのは僕のことをいっておられ
るのでしょうか?


はじめまして。
投稿日 1月29日(月)16時16分 投稿者 ありす 削除

初めてカキコいたします。
あたしの思う愛は、非常に単純なモノです。
好きな人の為に生きる事。生きる事、と云うと、ちょっと
語弊が有ります。死ぬ事さえも、その人の為なら構わない。
でも其れは、突き詰めると自己満足なのだとも思います。
その人を想って居ないと、あたしは生きて居る価値を
見失ってしまう。
相手を想う事が、あたしのアイデンティティなのです。
そして愛を与えて、与えて、ひたすら与えて。
其処に不満は無い。けど、きっとあたしの心の何処かでは
「愛して欲しい」という欲望が大きく在って。
幸いあたしは、好きな相手に好かれる事が出来ました。
でも、其れは何時か壊れてしまうものかもわかりません。
だとしても、あたしは彼を想う事しか出来ません。
とても単純で、幼稚な感情と思われるかも知れない。
けれど、あたしはあたしなりの愛を持って、自分の罪を
受け入れよう。誰かを愛する事で、自分を愛せるように成るから。
今までは、否定されるのが怖かった。
けれど、世紀末の詩を見て、そうじゃないと思いました。
人其々に異なる形の愛が有って、誰もそれを否定する事は出来ない
のでしょう。完全な形なんて無いんだから。(それも推定に過ぎませんが)
皆様の発言を拝見させて頂いて、色んな愛の形や種類が在るんだなと
思いました。こう云う風に「アイって」と
考えられう場所がある事って、素晴らしいなと思いました。
もう少しでも、あたしに文章のセンスがあれば、もっといい事云える
のですが・・・稚拙で申し訳有りません(><)
また御邪魔すると思いますが、宜しくお願いします。


ころすけさんへ&櫂さんへ
投稿日 1月29日(月)11時38分 投稿者 りい 削除

>>「私のいない世界が、私にとって意味があるのか?」

>あると思いますよ。
>理由は簡単、ないって思ってしまったら、つまんないから。
>自分のいない時間も空間も、何らかの形で確かに自分に関係している。
>それは間違いない。
>その意味を考えると面白い。
>意味はあります。

れすありがとうございます。
「俺の屍を超えていけ」とか、「受け継がれる意志」とかも
そういう「意味」に含まれるかもしれませんね。


櫂さんへ

>>「私のいない世界が、私にとって意味があるのか?」

>このセリフ。これを言った人にとっては自分がいない世界は意味が
>ないでしょうね。
>「自分にとってどうなのか?」しか常に考えてないまさに「自己愛」
>の人だからです。
>「自己愛的な人」の発言は上記のように主観論になってしまいます。
>このセリフは、だからあまり意味がない。
>普遍的表現でなければ「論」にはならないからです。

れすありがとうございます。

「普遍的表現」=>「論」
というのはそうだなあと思います。
ふと思ったんですが、櫂さんは愛は「論」、例えば何らかの原則に
従うと理性的なものと思ってらっしゃる?で、その原則を見出して、
理解したいと?
ここでいう原則と言うのは「行動の方針」くらいの意味なんですが。
どうでしょう?

もうひとつ。
>本当の愛を手に入れた場合に、その人の場合「自己愛」が「愛」を
>上回ることが、一生なくなるのだと解釈しています。
>以前自己愛を超えなければ本当の愛ではないといいました。
>自己愛を超えていない愛のレベルでは減少の果てに、「なくなる」
>こともありえると思います。

これは少し違うと思います。
以前に書いたこともありますが、愛は筋肉のようなものだと思います。
行動の背後にある動機みたいなものかな。見えにくい潜在的な力でしょう。

 だから、愛を実際に行動で示すことによってあるレベルまで鍛えていけ
ば、愛が強くなっていくのは速くなるだろうし、衰えていくのが遅くなる
ことはあると思います。
 ただ、愛をより強いものにしていこうという努力を辞めてしまえば、そ
の瞬間から愛は少しづつ衰えていくと思います。


まだやるのか?自己愛。(笑)
投稿日 1月29日(月)01時16分 投稿者 taki 削除

といいながら、自己愛と愛は別物で、別質の物とのスタンスは最初からのものです。
(頑固なわけではなくって。笑)

自己愛は過度、減少、変容してしまうことにより、自己に害を及ぼすもので、
必ず、自分に帰属するものです。
その形を変え、自己を尊大にさせ、性格に悪影響を及ぼし、いたずらに自己を傷つけ、
他者との交流の弊害となる。

それが愛と同質のもの?!それが他者との愛に変容する???
ありえないと思います。

と延々と主張してきたのですが。


くまさん。

> ここで使っている「無関係」とは「自己愛の増減が愛の減増に関わらない」と言う意味です。

これは同感です。
続きは櫂さんへのレスへ。

> >>親元から巣立っていくような感じでしょうか? について

ここで、私の言った母性愛的な側面とリンクしていますね。
このBBSで対象にされている自己愛のポジティブな面は同様な感想のようですね。

> 極論ですが自己愛とは・・(中略)・・自身のすべてに対して働くという発想があります。

これはどうでしょうか?
私としては、Side by side といった感じを持っています。
自分でありながら、影のような。

> 主観的に見た場合、自己愛の反対は自虐ですね。

いや、自己愛は変容して、自虐を行うものと思います。

> つまり、人間のあらゆる面が自己愛的側面を持っているということです。

これ、ごーいんですよー。
人間の行動すべてを、自己愛のせいだと、言いくるめてしまうことは出来ても、
それは詭弁に近いし、自己愛がすべての帰結するところになるというのは
とても認められない意見ですね。

> このような論理は本当に極端なものだとは思います。

あ、そうですね。失礼。(笑)

なんでも、自己愛のせいにしてしまうことこそ、「御手軽」だと思いますね。


櫂さんへ。

> やっぱりいわれたか

あたりまえですがな。(笑)

> > >自分を愛し過ぎると他人を愛さない?
> この亘の言葉に教授は否定しなかった。だから教授は暗黙の了解と思います。

いえ、私は「あたらずとも遠からず、まだ説明がいる」との間と思いました。

> つまり自己愛が増えると他人を愛さなくなってくると普通解釈しませんか?

普通?それによって、暗黙の理解を促す言い方は好きではありませんが。
まあ、それはさておき。

私は自己愛の増大は(増強、というか膨張といったほうがいいでしょうか)
他の意識に悪い干渉を起こし、愛どころか、他者の認識を霞めてしまう。
それで、鏡といったのではないか、と思っていますが。

> セリフをあまり分断して考えすぎちゃうと結論が違ってくるような気がしますよ。

分断して引用したのは櫂さんじゃないですか。(笑)

> 最終回の教授の、長い長いセリフは、あれひとつでひとつの論になっているので

最終回に関しては考察担当やってるので、あんまりやりとりできないのが本音です。

> そのあとのtakiさんの書き込みを見る限り、教授のセリフに対する否定
> 部分はここだけみたいですね。
>
教授の論については、反論はないですね。
ただ、櫂さんとの解釈の違いから、表題に「認識のズレが」
と冠したつもりだったんですが。


> フツー他人のそんなに古いセリフまでチェックしませんよ(笑)

いや、ほんの5日ぐらい前の話ですがな。(笑)
しかし、私自身は論理の一貫性、自己の同一性に対し、拘りが強い方なので、
また、書きこむ方の以前の意見を合わせて、カラーとして見ているので、
それが変色してしまうのは「お?お?」と思ったのです。
でも、私やここに書きこむ方が、他者の意見をまったく取り入れず、と言うわけではなく、
やり取りによって、変容して行くのは良いことだと思います。

しかし、他人の意見を、いかにも自分の意見だと、内容をどんどん糊塗していくのは
大嫌いなので、意見が変わったら言ってくだされば良いと思います。
ここは意見交換において、互いを影響し合う場所なのですから。

> 人間愛と愛か。それこそ「対象が一人に対するものか、他者にも
> もたらせるものか」の違いだけだと思っているのですが、takiさんの
> 考えではそうではない?

はい、違いますね。
世紀末の詩の言う愛は、「原初の愛」だと思いますね。
男女が出会う、新しい種の派生の始まりの愛。

それに、愛がもはや相手を選ぶことで、矮小なものと思ってしまいます。

仲間意識のようなニュアンスや、生命エネルギーのような人間愛、人類愛とでもいいますか、
その感覚とは異なるものと捉えています。
(しかしながら、付け加えるとその質感は似ています。けど、決定的に存在自体が
違うと思うんですよ)


> 「相手の利」か「自分の利」か、「どちらを優先するか」

優先・・・・。そこに迷いはないですかね?
微妙なラインが発生しませんか?
それはまだ比べるレベルのもののような気がしますが。

世紀末の詩の定義としては、もっと絶対的なものと思いますが。

> >しかし、意識を一定量と規定するには、かなーり無理があると。
> そう、僕もそう思い過去に、「ただし経験やら環境やらでたえず増減は
> 繰り返します」と書きました。

異質なもの同士の干渉による影響はあっても、同様の質が為、
その分量が増減するという論には承服しかねます。
それは一体なんの根拠を持っているのでしょうか?


ころすけ。

> 櫂さんも気付いてくれたみたいですから、もうこの話はいいでしょ。

おっけー。

> ここでの伝達手段は文字だけしかないのだから、言葉選びには細心の注意を払いたい。
> 最近そう思うようになったので。

んで、ほのぼのか?個人的にはかゆいので、ちょっとイヤ。(笑)
なーんか、その言葉に、醜いもの隠してるイメージもってるしなー。

> 仮面だなんて、めっそうもございません(笑)

え?(爆)

> くまさん(…というとレオナルド熊を思い出すのは私だけでしょうか?)

年です。

> で、あえて答えようとするならどっちだと思いますか?
> 関係してる?関係してない?

横槍。(笑)
昔はあったかもなー。でも、愛は記憶じゃない。
それを10話・・・あわわ、あとは考察にて。

> あらゆる面が自己愛的側面…いい感じですね。
> 私的にはこの表現好きです。

いや、俺は否定的。(笑)
そう言う意見を初めから待ってたって気がするけど?
まあ、横槍はこのへんで。(笑)

> お恥ずかしい話、あの9項目に、ほとんど「No!」とは言えない私です。

おれは9番だけ当てはまるかなー。(笑)

> 「愛に育む」って感じが世紀末の詩っぽい気がするのですがどうでしょう?

これは答えても良いんですか?(笑)

と茶化すのはやめて。
あるかなー?今ぱっと思いつくのは、4話は育んできたんだろうなー。
あ、ころだと、てきとーにこたえてるかも?(笑)

http://alived.com/autism/


脱却!!!(…できているのだろうか?)
投稿日 1月28日(日)17時40分 投稿者 ころすけ 削除

まずtakiに…

>いいじゃないかなー。
>横入りありでしょー。論点がボケるなら問題だけど、多数参加のディベートでしょ?

横入りするなとは言ってない。
きつく書いたけど、疑問と質問を使い分けた意図を汲んでくれればそれで良かったんです。
櫂さんも気付いてくれたみたいですから、もうこの話はいいでしょ。

ここでの伝達手段は文字だけしかないのだから、言葉選びには細心の注意を払いたい。
最近そう思うようになったので。

だいだい、あれぐらいの事でカキコミ止めるような人じゃないでしょ、櫂さんは。
止めろって言ったつもりもないけどね。
あ、話題に取り上げちゃって、スイマセン。>櫂さん
基本的には、ほのぼの路線です、はい。
仮面だなんて、めっそうもございません(笑)


くまさん(…というとレオナルド熊を思い出すのは私だけでしょうか?)

>>ふむふむ、てことは愛は自分とも無関係なのですか?
>という ころすけさん の言葉が心に響きます。
>無責任ですが本当にわからないです。愛の影すら見えないです・・・。

で、あえて答えようとするならどっちだと思いますか?
関係してる?関係してない?
私は関係してると思います。
どっち?

で、自己愛について。

>つまり、人間のあらゆる面が自己愛的側面を持っているということです。

それでいいんじゃないでしょうか?
あらゆる面が自己愛的側面…いい感じですね。
私的にはこの表現好きです。
そこまで、わかっているのなら自己愛はもういいんじゃないかと思いますがね。

今の私は自己愛ってモノをぐっと飲み込みまして、腹の底でそれが熟成されるのを待っている感じなんです。←ワカリニクイ
モノすごく消化が悪そうです。

ん〜、他の言い方をするなら、

愛に向かう途中の、道端にデーンと転がっている岩石。
結構硬いですね。
人によってはかなり重かったり、でかかったりするかもしれませんね。

私がここで使っている自己愛とは、takiが1月27日(土)02時35分に引用した「自己愛性人格障害」を参考にしています。
お恥ずかしい話、あの9項目に、ほとんど「No!」とは言えない私です。
でもですね、これが病気だとするのなら、病気なら治せるって期待が持てるじゃないですか。

もちろん自己愛には病的側面以外にも違った側面があると思いますので、そのあたりについてはまた違った付き合い方をしていくことになるでしょう。
それは旅の必需品であったり、いっぱいある持ち物の中の一個にすぎなかったりするかもしれません。
だって「側面」ですから。

で、もう一回、

>「愛を育む」

「愛に育む」って感じが世紀末の詩っぽい気がするのですがどうでしょう?


うー、またモノスゴクわかりにくい書き方をしてしまった。
「関係してるか?してないか?」それだけはレスくださいね。
オネガイシマス。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


その言葉で十分ですよ
投稿日 1月28日(日)15時09分 投稿者 くま 削除

櫂さんへ
いえいえ ごめんなさいなんて 滅相もない。でもその言葉でホッとしました。

>「愛」と「自己愛」を分けて考えるというより、そもそも愛そのものの否
>定にもなりかねませんが...
それは、重々承知しております。
ただ、教授の自己愛云々は、ここまでのレベルと思ってドラマを見ていました。
だから、感覚的に「愛はある!」と言いきる亘に対して、
考えれば考えるほど「愛はあるのか?」となってしまう教授。
最終話で「愛は冒険」とひとつの言葉を、探り当てた後でさえも(’冒険’の賛否については別にして)
>「あるよな?亘、愛はきっとあるよな」
と言う教授の苦悩と願いのようなものが、とても印象的で感動を呼びました。


その2
投稿日 1月28日(日)10時34分 投稿者 櫂 削除

くまさんへ>

ちょっといいすぎたかもしれません。ごめんなさい。

>つまり、人間のあらゆる面が自己愛的側面を持っているということです。
>このような論理は本当に極端なものだとは思います。

たしかに個人の行動原理のほとんどが欲望に起因するものですからこの
意見も的外れではないと思います。
ただ、自分の利を超えたところまで自己愛に原因を求めた場合、行動原理
のすべてが「自己愛」の為ということになりませんか?
「愛」と「自己愛」を分けて考えるというより、そもそも愛そのものの否
定にもなりかねませんが...

takiさん
>しかし、冷静に見ると、ヒューマニストですねー。
これの意味がよく?


やっぱりいわれたか
投稿日 1月28日(日)09時26分 投稿者 櫂 削除

ころすけさん>
>ところで、この話題に関係することで、櫂さんに一言。
>人の質問に勝手に割り込んで来ないでください。

了解しました。ちょっと軽率だったかな、ごめんなさい。

takiさん>

>自分を愛していたら、他人を愛する枠や、スペースがもうない、という
>イメージを受けそうですが、そうではないと思います。

そうでしょうか。セリフの順番のせいもあるかもしれません。

> >自己愛を増幅するからだ>この教授のセリフのあと
その意志を確かめるように亘が
> >自分を愛し過ぎると他人を愛さない?

この亘の言葉に教授は否定しなかった。だから教授は暗黙の了解と思います。
つまり自己愛が増えると他人を愛さなくなってくると普通解釈しませんか?
セリフをあまり分断して考えすぎちゃうと結論が違ってくるような気がしますよ。
最終回の教授の、長い長いセリフは、あれひとつでひとつの論になっているので
パーツパーツで分析することはできないのでは?
そのあとのtakiさんの書き込みを見る限り、教授のセリフに対する否定
部分はここだけみたいですね。

>1月23日(火)01時10分の書きこみからいつの間に変化したんでしょうか?
>なんか最近、おかしいな?と思っていたんですけど・・・。

そう、ここは誰かに言われると思ってました。
「違うもの」ってのはいいすぎだったな、と思い「対象が違う」っていう
ふうに言い直したつもりだったのですが...フツー他人のそんなに古いセリフ
までチェックしませんよ(笑)古い書き込みのほうは忘れてください。


>自己犠牲とかが、自己愛や、世紀末の詩の言う愛ではなく、
>人間愛みたいな感覚なんですねぇ。

人間愛と愛か。それこそ「対象が一人に対するものか、他者にも
もたらせるものか」の違いだけだと思っているのですが、takiさんの
考えではそうではない?

>見かえりを期待しない規制、抑制は出来るでしょう。
>しかし、あくまで「ガマン」してるだけのこと。

真実の愛ならば、抑制ではなく「心がそれを求めない」
というレベルまで行くのだと解釈しています。

>利の行き先によって、愛の質を決められるんでしょうか?

利の行き先によって、ではなく「どちらを優先するか」によって
です。「相手の利」か「自分の利」か、「どちらを優先するか」
と書きました。

>しかし、意識を一定量と規定するには、かなーり無理があると。
そう、僕もそう思い過去に、「ただし経験やら環境やらでたえず増減は
繰り返します」と書きました。

>なにか、どーしても自己犠牲を愛と結びつけたがってませんか?
愛イコール自己犠牲ではないんですがね。
愛に含むということで。

長くなるのでレスその1を終わります。








例も表現も悪すぎた・・・
投稿日 1月28日(日)07時36分 投稿者 くま 削除

え〜とですねぇ。いろいろなご意見いただいて非常にうれしいです。
ただ、とても悔しいのがその多くが僕の表現や例の未熟さに起因しているところです。
そんな事を思いつつ頑張って説明してみます。

>無関係…ふむふむ、てことは愛は自分とも無関係なのですか?
>関係って言うのをどう言う感じで使っているのかが影響してくると思うんだけど、前にも書きました、↓
ここで使っている「無関係」とは「自己愛の増減が愛の減増に関わらない」と言う意味です。

>>親元から巣立っていくような感じでしょうか? について
自己愛的な側面を持つ恋によって、やがて愛が形成されます。(あくまで愛にとどりついた場合の話です)
でも、その愛は自己愛から独立したものだって言いたかったんです。

んで、なぜそういう風に考えたのか

ってなわけで自己愛についてです。

>しかし、これはポリシーでは?
そう受取ってくれていいと思います。
(そう書こうかと思ったんですけど、ポリシーの認識もあいまいだったもんで・・・)
極論ですが自己愛とは自分の肉体、精神、信念(=ポリシー?)など、
あらゆる物に対して働くものだと思うのです。
自己愛は判断や信念、思想、行動など、自分が「よい」「こうすべきだ」と選別したものや
性格的、無意識的にしてしまうことなど、自身のすべてに対して
はたらくという発想があります。
例えば、人のために何かをしたい人は、自分がそれをしたいと考えているからであって、
そういう自身の考えに準じて行動することは、自分の考えに利する行動をとるという意味で自己愛だと・・・
逆に、自分に準じた行動をとらなければ体に(心に?)悪いです。(笑)

つまり、自分を肯定する要素として自己愛と言うものが存在し、
自身に対して自己愛がはたらかないと人間はきっと生きていけないのでしょう。
主観的に見た場合、自己愛の反対は自虐ですね。
つまり、人間のあらゆる面が自己愛的側面を持っているということです。
このような論理は本当に極端なものだとは思います。
(「自分がそうしたいんでしょ?」って言っちゃえばおしまいですから)

ただ、これを論理的に崩せなかったとしたら・・・
教授の言うようにモラルでしか反論できなかったら・・・
「愛」は「自己愛」とまったく切り離して考えるしかなかったのです。

その「愛」がどういう風に存在し得るのかは分からない。でも切り離して考えないと
自己愛の範疇に入ってしまう。範疇に入ってしまえば恋であり、
それでも愛だというのなら、それは「割と簡単に手に入る」お手軽なものになってしまう。

まだ表現不足かもしれませんが、とりあえずこの路線で愛を考えていくと・・・
>ふむふむ、てことは愛は自分とも無関係なのですか?
という ころすけさん の言葉が心に響きます。
無責任ですが本当にわからないです。愛の影すら見えないです・・・。

・・・・・・き、気を取り直して

とまぁ、このような感じで自己愛を語ってみました。
一応言っておきますが、僕はノストラダムスではありません。(なんか 言いそうな自己愛論だから・・・)

できるだけ、いろいろな角度から物事を見てみたいと思っており、
「こういう考え方はどうですか?」という感じで提案してみたつもりです。
皆さんは、こういう自己愛に対してどう考えられますか?

今日の反省点(何個目なんでしょう・・・)
>>恐ろしく後悔の嵐が吹き荒れることでしょう。
この例が悪すぎました!強調したい部分が大きくすりかわってしまいました。


あ、書き忘れ。
投稿日 1月28日(日)05時01分 投稿者 taki 削除

どうどうと横入り。(笑)

くまさんへ

> 自己犠牲的な人が、自己犠牲を行なわなかったら恐ろしく後悔の嵐が吹き荒れることでしょう。

これは、罪悪感を抱いてしまうってことですよね。
つまり、可能性としては救えるかもしれなかったのに・・・・。ってことですよね。

> それに対する恐怖と考えるなら、それは自己愛では?

なきにしもあらずと。しかし、問題視される自己愛の部分ではなく、
自分への戒めに近いんじゃないでしょうか?

> ここで言う「自己犠牲的な人」というのは「他者に利すること」をしたいと思っている人、
> もしくは無意識のうちにやっている人のことで、そういう自分を突き通すこと自体が、
> 自己愛とも考えられます。

とは、基本的に賛成です。
しかし、これはポリシーでは?

もし、知人で自殺した、事故に遭って死んでしまった人がいたら、
あの時になにか連絡をとっておけば・・・・・。
との後悔は発生すると思うんです。
それをここで自己愛と規定するとしたら、言えないこともないと。
しかし、自己愛からの自虐的戒めは消えないでしょうね。
それをワザともてあそんで、痛みの快感を楽しむ人もいますが。

ともあれ、これは親しい人を亡くした痛みを癒す自己愛でしょうか。
ここらへんは、カタルシス(あ、ここのサイト名も)に属するものと思いますね。


かいさんへ。

> それはありえんでしょう? こういうのは「理屈のための理屈」だと思います。
> 「机上で考えた空論」です。

かいさん、いいすぎ。(笑)

けどまあ、同感かなー。
単一に「その人は罪悪感を抱きたくなくて、そんなことするんだ。」ととればね。

> ただ世の中にはそんな変な人もいる可能性はありますが、そんな特殊な例まで
> は普遍的に考えなければならない「定義」の中にいれる必要はないと思いますよ。

ただ、心を分解するをそう行った部分は少々はあると思います。
しかし、ホンのすこーしのことであり、しなかった、又は出来なかった時の
結果論だとはおもいますね。

しかし、冷静に見ると、ヒューマニストですねー。


しかしねぇ、ここでこういうこというのは反則ですが、
自己犠牲は自己愛か否か?
と話してて、震災の時を思い出します。

体験上、鮮烈でうまく字にはできないんですが、
自己犠牲とかが、自己愛や、世紀末の詩の言う愛ではなく、
人間愛みたいな感覚なんですねぇ。

http://alived.com/autism/


くま殿。
投稿日 1月28日(日)01時28分 投稿者 taki 削除

> 僕も「愛にたどり着けないから淋しい」とは思いません。

いや、そうじゃなくて、そんな簡単じゃないのになー。と。
もっとキツくいうと、他人同士から、愛なんて稀有なものを感じたいなんて甘すぎるなーと。
一体、愛の貴重さをなんだと思ってんだろ?という感じです。

> 誰かと共にすごして幸せを感じるなら、それが愛であろうがなかろうが
> あまり意味をなさなくなってしまう。
> 本物でも偽者でもいいから「とにかく一緒にいたいんだ!」って・・・。

実感をわざわざ言葉にしなくっても良いと思いますしね。
その実感が大事だと思うんですよ。

> このドラマの危険なところは、ドラマ自体に飲み込まれ過ぎると
> 自分の相手を(愛があるかどうか)試してしまう可能性がある点だと思うんです。
> (試す疑点で愛ではないのかな? 疑ってるから・・・)

ですから、再考察の御誘いに「勇気のある方、御待ちしております(笑)」
と書いております。(笑)

> だから、ある種の恐怖感を抱きながらこのページに入ることも事実なんですけど、

あ、あ、ある種の恐怖感?!(爆笑)
一体、何者なんでしょうか?それは??(笑)

でも、世紀末の詩というドラマは甘くはないですよ。

http://alived.com/autism/


うーん、認識のずれが。
投稿日 1月28日(日)00時56分 投稿者 taki 削除

櫂殿。

> >自己愛は過度ではない限り、健全で健康に大事なものであり、自己の防衛規制と
> >しても存在する物です。
> 自己愛が種の防衛本能に根ざしている

ここは自己の防衛規制として働くもので、防衛本能ではないんですね。
規制と言うのは、社会的に習得した「ルール」のようなもので、
一機能的に存在するものですね。
もちろん、一機能ですから自己愛が持つ特有のものではなく、他の意識の中にも存在します。

防衛規制と言うのは、平たく言うと「あぶないことをしてはいけない」でしょうか。
防衛本能は、身を守る闘争心とかも含みますよね。

前者は保守的で、後者は守護者でもありうるでしょう。

と、対教授はきつい。(笑)

> >鏡は愛の敵といえるだろう

ここは同感です。

> >自己愛を増幅するからだ

愛とは別物と思ってるから、こういう言い方になってるのでは?

> >自分を好きな人間は、他人も愛せるとよく道徳の時間で言いますよ
> >表面的にはそうだろう

自分自身を好きな人間は、他人を好きになった時に、具体的にどうしたら(接し方、言葉を
掛けたら)良いか知っているってことでしょうね。

> >しかし、本質は違う

自分を嫌いな人間は、自分を愛せない代わりに(あくまで代用として)人を愛そうとすることも。

> >自分を愛し過ぎると他人を愛さない?

ここが問題ですよね。
これは、ちなみに亘のセリフです。
自分を愛していたら、他人を愛する枠や、スペースがもうない、というイメージを
受けそうですが、そうではないと思います。

今言われている自己愛の一部分を、同質のなにかに例えるとしたら・・・・母性愛でしょうか?
それ自体は癒し、励まし、安心、休息をあたえ自己の成長を促すものですが、
過度の母性愛は自立を挫き、自己のアイデンティティの獲得を阻む。
あったかいベッドに居続けては、何の成長もないけど、
寝ないで戦い続けることは出来ない。でしょうか。

> >鏡の照り返しのように、したことを返せと要求するようになる

自身を満足させるための行動ですから。

> >自分を愛するがゆえに、いつも不平や不満がある

自己愛の根本は「際限なき要求」ですから。

前記した、「私は愛され、満足させられねばならない、しかもいかなる感謝の見返りもなしで」

> >恋というと聞こえはいいがな
> >性的な吸引に過ぎない

あ、あかんのか?(汗)

それとなんか、以前と意見の違いが?

> 僕が「自己愛」と「愛」を本質的に「同様の感情であり、対象が違うだけ」

とね、

> 僕のスタンスは「自己愛と愛は一緒ではない」というところですね。

1月23日(火)01時10分の書きこみからいつの間に変化したんでしょうか?
なんか最近、おかしいな?と思っていたんですけど・・・。

> 自己愛が他者に求めることは常に「見返り」であり、「愛」は他者に「見返り」
> を求めない事だ、という言い方もできます。

見かえりを期待しない規制、抑制は出来るでしょう。
しかし、あくまで「ガマン」してるだけのこと。
それで他者に対する欲求はなんら変わることもないし、
逆に押さえることにより、増幅したりもするでしょう。
「ダメっ!」って言われたことを、つい、やりたくなっちゃうような。

> (「おのれに利するか」、「他者が利するか」のどちらを優先するかが「自己愛」
> と「愛」の違いだ、と過去に書きましたが、それと同様の意味です)

利の行き先によって、愛の質を決められるんでしょうか?
こういった2分知ではなく、もっと本質的な部分が抜けているように思います。


元々、愛と言う原型があって、そこから消費するものではなく、
それがたとえ、感情と規定したとしても、個人個人に際限があるとは思えない。
生きている時間、体験する事柄によって、統計的に一定量はある程度
規定することが出来るかもですが、それは結果論的な算出に過ぎないと思うんです。
しかし、意識を一定量と規定するには、かなーり無理があると。
なんか、恋人に「どれだけ好き?」って聞かれてるような。(笑)


かなり大雑把に意識の中には、顕在部分、規制され隠れた部分、個人的無意識部分、集合的無意識部分。
とあると心理学上では言われています。(かなーり大雑把に書いてます)
そこで、無意識のなかで、ある質が集まり、それがどんどん形を作り、
感情と言う形態になって行く。きっかけは外部の刺激でしょう。なかなか、意識の深いところには届かないと思いますが。
感情でも、おぼろげなものや、もやもやと複雑で表現できないレベル、
感情とも言えない段階のものもあると思います。


なにか、どーしても自己犠牲を愛と結びつけたがってませんか?

http://alived.com/autism/


おっと、と思ったので別枠で。
投稿日 1月28日(日)00時36分 投稿者 taki 削除

ちょいまちよ。>ころすけ

> ところで、この話題に関係することで、櫂さんに一言。
> 人の質問に勝手に割り込んで来ないでください。
> 貴方の疑問と、私の質問は、その発生レベルも、そして、
> くまさんに対するその意図というかその意味も、おそらく違います。
> 私の質問に協調されても困ります。
> 貴方は疑問で、私は質問なので全く協調できません。

ほのぼのムードはどうした?(笑)

いいじゃないかなー。
横入りありでしょー。論点がボケるなら問題だけど、多数参加のディベートでしょ?

化けの皮がずれてる、ずれてる。(笑)
早く、ほのぼの仮面かぶらんと。(爆)

http://alived.com/autism/


共感するって難しいね。
投稿日 1月27日(土)22時56分 投稿者 ころすけ 削除

>taki

長文お疲れ〜♪(笑)
ふむふむ、俺の自己愛度って、どれくらいだかわかんないけど、takiも自分で言っていたように、自己愛の人にはtakiの言いたいことがあんまりというか、ほとんど伝わらないんじゃないかと他人の事ながら心配してしまったりして…。
あんなに長い文、書いたのにね。
まあ、書きたくて書いてるんだからいいのか(笑)

>>愛に辿り着けないなんて淋しい。
>これにすごく気が取られたんだけど、みんなそんなものなのか??

あんまり引っ張らないでくれよ〜(涙)
俺だって、日々変化しているんだから。
愛に辿り着けてなくて悔しぃ〜!!!ぐらいにしておきましょうか。

でも、愛にたどり着けない「から」淋しい、はちょっと字が違うんじゃないですか。>くまさん
思わないっていうのはいいんですけどね(笑)

>愛そのものは、自己愛とは無関係に機能(存在)するものだと…

無関係…ふむふむ、てことは愛は自分とも無関係なのですか?
関係って言うのをどう言う感じで使っているのかが影響してくると思うんだけど、前にも書きました、↓

 自分のいない時間も空間も、何らかの形で確かに自分に関係している。

と言うのが私の持論なので、なんとなくしっくり来ないのです。
言わんとすることはなんとなくイメージできるのですが、もうちょっと鮮明にイメージできるように説明が欲しいです。

>親元から巣立っていくような感じでしょうか?

これは愛が先か自己愛が先かと言う順番を表しているのでしょうか?
私としては、どっちが遠いかくらいのイメージはあるのですが、その発生の話となると順番はわからなくなりますね。
takiが言ってたプロセスとしての話ならイメージできるのですが…。

>「愛を育む」

良く使われる言葉ですが、ここで話されている愛とは異質であるように私は思います。
でも育むことで、愛に近づけるというのも頷けます。
これを愛以外で当てはめるのなら何なんだろう?

ところで、この話題に関係することで、櫂さんに一言。
人の質問に勝手に割り込んで来ないでください。
貴方の疑問と、私の質問は、その発生レベルも、そして、くまさんに対するその意図というかその意味も、おそらく違います。
私の質問に協調されても困ります。
貴方は疑問で、私は質問なので全く協調できません。
話題に参加するのは歓迎しますので、誤解のないように。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


まってました
投稿日 1月27日(土)18時32分 投稿者 櫂 削除

バトルとーくなのに待ってましたは不謹慎かな...
今仕事中(この雪の中出勤しております)なのでちょっと疲れてハイに
なっています。

>自己愛は、すべての人が大なり小なり持っているものなので、
>自己愛がないという状態がありえないと考えております。
>恋の状態は自己愛的な側面を持っており、
>その恋をきっかけとして長い時を重ね、
>魂が寄り添うことが「愛」なのでは?

この4行に関しては異論の余地有りません!

>「愛にたどり着くまでは自己愛の助けをかりる」
>と表現したのは、恋の状態のことです。

「自己愛の助けを借りる」=>「恋の状態」のこと
とはどうしても読み取れませんが(僕だけかなぁ)

>「恋の状態において、自己愛を増幅させすぎると愛にはたどり着けないよ」
>と解釈しております。

たどりついたあとは愛は減らないということですよね。同じ考えですが。

>ちなみに、自己愛と愛が共存、干渉されるとして
>「自己愛の増幅」が「愛の減少」につながるのならば、
>愛は「なくなる」可能性を秘めているのではないでしょうか?
>「終わらない、なくならないのが愛」ならば矛盾するのでは?

というか、本当の愛を手に入れた場合に、その人の場合「自己愛」が
「愛」を上回ることが、一生なくなるのだと解釈しています。
以前自己愛を超えなければ本当の愛ではないといいました。
自己愛を超えていない愛のレベルでは減少の果てに、「なくなる」こと
もありえると思います。

>自己犠牲すらも自己愛の範疇に入ってしまいます。
>自己犠牲的な人が、自己犠牲を行なわなかったら恐ろしく後悔の嵐が吹き荒れる>ことでしょう。
>それに対する恐怖と考えるなら、それは自己愛では?

つまり、「自己愛」のためだけに「自分を傷つけたり、ひいては自分の命
を落とすこともある。それは、後悔の念をおそれる恐怖心を自己愛が回避
する為だ。」ということを言っておられるのですか?
それはありえんでしょう? こういうのは「理屈のための理屈」だと思います。
「机上で考えた空論」です。
ただ世の中にはそんな変な人もいる可能性はありますが、そんな特殊な例まで
は普遍的に考えなければならない「定義」の中にいれる必要はないと思いますよ。



櫂さんごめんなさい ”反論込み”です
投稿日 1月27日(土)17時35分 投稿者 くま 削除

>櫂さん

>自己愛がないと愛にたどりつけない?

自己愛は、すべての人が大なり小なり持っているものなので、
自己愛がないという状態がありえないと考えております。
「愛にたどり着くまでは自己愛の助けをかりる」
と表現したのは、恋の状態のことです。
恋の状態は自己愛的な側面を持っており、
その恋をきっかけとして長い時を重ね、
魂が寄り添うことが「愛」なのでは?
(少しきれいな言葉を使いすぎたかな?)

教授の
>鏡は愛の敵といえるだろう(以下省略)
については、「恋の状態において、自己愛を増幅させすぎると愛にはたどり着けないよ」
と解釈しております。

ちなみに、自己愛と愛が共存、干渉されるとして
「自己愛の増幅」が「愛の減少」につながるのならば、
愛は「なくなる」可能性を秘めているのではないでしょうか?
「終わらない、なくならないのが愛」ならば矛盾するのでは?


>櫂さん、ころすけさん
>「機能」って愛をどう形容するつもりで使っているんですか?
これは、「機能」というより「存在」の方が近いかもしれません。
つまり、成り立ちは自己愛に関係するけれど、愛自体は自己愛と無関係といいたかったんです。
(親元から巣立っていくような感じでしょうか?(笑))
ここで「機能する」っていう言葉を使ったのは、「愛を育む」という言葉があるように
愛は何らかの「動的」なものだと考えたからです。


>も一丁 櫂さん
自己愛の減少が >防衛本能レベルを切ることがある...こうなると「自己犠牲」になる。

とありますが、メチャひねくれて考えると、自己犠牲すらも自己愛の範疇に入ってしまいます。
自己犠牲的な人が、自己犠牲を行なわなかったら恐ろしく後悔の嵐が吹き荒れることでしょう。
それに対する恐怖と考えるなら、それは自己愛では?
ここで言う「自己犠牲的な人」というのは「他者に利すること」をしたいと思っている人、
もしくは無意識のうちにやっている人のことで、そういう自分を突き通すこと自体が、自己愛とも考えられます。
>愛の究極がしょせん自己愛に根ざしているという論理には、つまらんモラルでの反論しかできない
という教授の言葉は、そこまでのレベルで重いものだと感じました。
(知り合いを見て感動したことに対して否定的な意見で申し訳ありません)

>takiさん
僕も「愛にたどり着けないから淋しい」とは思いません。
誰かと共にすごして幸せを感じるなら、それが愛であろうがなかろうが
あまり意味をなさなくなってしまう。
本物でも偽者でもいいから「とにかく一緒にいたいんだ!」って・・・。
このドラマの危険なところは、ドラマ自体に飲み込まれ過ぎると
自分の相手を(愛があるかどうか)試してしまう可能性がある点だと思うんです。
(試す疑点で愛ではないのかな? 疑ってるから・・・)
だから、ある種の恐怖感を抱きながらこのページに入ることも事実なんですけど、
そういう試すという行為よりも、誠実さをもって接した結果(誠実じゃないけど・・・)
愛にたどりつけたらいいなとは思います。


...あいかわらずすごい量
投稿日 1月27日(土)09時35分 投稿者 削除

ものすごい分量のれす、お疲れ様です。>takiさん

>自己愛は過度ではない限り、健全で健康に大事なものであり、自己の防衛規制と>しても存在する物です。

かなり過去にこの部分は僕も共感するメッセージをいれてます。
自己愛が種の防衛本能に根ざしている、という...全面的に共感。

>つまり、愛という名が同じなだけで、他者を愛する機能的、存在的に別物だと。
>自己愛の変容についてはまた、長く苦しいプロセスがあり、先に世の現実を受け>入れ、他者の認識を
>深めるとこが重要なので、愛に至るとかの全然手前の前提の問題だと。
>しかして、自己愛の人が、愛を得れないということではないんです。
>自己愛は愛を得る前段階でもあると言いたかったのです。
>ただ、心の状態なので、プロセスのみを踏まえれば良いというわけではないで
>す。

では、下記の教授のセリフを、どう解釈します?

>鏡は愛の敵といえるだろう
>自己愛を増幅するからだ
>自分を好きな人間は、他人も愛せるとよく道徳の時間で言いますよ
>表面的にはそうだろう
>しかし、本質は違う
>自分を愛し過ぎると他人を愛さない?
>鏡の照り返しのように、したことを返せと要求するようになる
>自分を愛するがゆえに、いつも不平や不満がある
>恋を何度も繰り返すだけですね
>恋というと聞こえはいいがな
>性的な吸引に過ぎない

自己愛も防衛本能的意味合いを超えた、過剰防衛状態になったところから
話はややこしくなると思う。これ以降の「自己愛」は「防衛本能レベル」の
ものではありません。

僕が「自己愛」と「愛」を本質的に「同様の感情であり、対象が違うだけ」
と思った(というか確認した)根拠は、最終回の教授のこのセリフによります。
つまり、自己愛が増幅=他者への愛の減少と「教授は」捕らえているわけで
逆にいうと「自己愛」を減らさなければ、他者への愛が増幅しない
という意味だと思います。

先にいった「防衛本能レベルを超えて(自己愛が)減少することは
普通ありえない」ことですが、たまに(「他者への愛」が大きすぎて)
防衛本能レベルを切ることがある...こうなると「自己犠牲」になる。
だから僕は過去に「「愛」はその本質的に自己犠牲をもはらむ」という
言い方もしました。

つまり「愛」の分量は、予め個々人に決まっていて(ただし経験やら環境やら
でたえず増減は繰り返します)
片方を減らすことよって片方が増幅するという現象は、「同質のもの」
でないと起こりえません。
だから「自己愛と愛は本質は同じ感情」と僕は定義しました。
そしてその決められた分量の中で「自己愛」はこれだけ、「他者に向か
う愛」はこれだけ、と割りあてているような...

自己愛が他者に求めることは常に「見返り」であり、「愛」は他者に「見返り」
を求めない事だ、という言い方もできます。
(「おのれに利するか」、「他者が利するか」のどちらを優先するかが「自己愛」
と「愛」の違いだ、と過去に書きましたが、それと同様の意味です)


あ、絡んでない。(笑)
投稿日 1月27日(土)03時22分 投稿者 taki 削除

質問へ。

櫂さんー。

>ずっと読んでてここだけわからなかったです(笑)

すんません。もともと自分の頭の中にある感覚を字にするのが、ものすごく時間のかかる作業で、
私の感覚的、主観的では人に伝わらないので、ほとんど避けるようにしているのですが、
ドジりましたね。(笑)

>感情の変化」だと思いますが、

あ、獲得と言う風に強調してるところ、汲み取ってくださいー。
愛とは恋と別物で、それの獲得と。
先の書きこみは、愛をあくまで感情と規定した上で言えることだったので。

今回付け加え、恋は感情でも、愛は違う。
それを得たいのならば、いままでの物をすべて捨て去る勇気がいると思うんですよ。


>その前に本質的に「自己愛と愛は異質なのか」ってゆう問題の答えがない気がしますが?

下記を参照してから、またしましょう。

自己愛は過度ではない限り、健全で健康に大事なものであり、自己の防衛規制としても存在する物です。
つまり、愛という名が同じなだけで、他者を愛する機能的、存在的に別物だと。
自己愛の変容についてはまた、長く苦しいプロセスがあり、先に世の現実を受け入れ、他者の認識を
深めるとこが重要なので、愛に至るとかの全然手前の前提の問題だと。

しかして、自己愛の人が、愛を得れないということではないんです。
自己愛は愛を得る前段階でもあると言いたかったのです。
ただ、心の状態なので、プロセスのみを踏まえれば良いというわけではないです。

愛を得るには運命を受け入れる・・・。
(あ、感覚的な部分で、全然未整理なので、今回割愛します。笑)


>たとえ、いかような愛(自己愛)でも愛を知る人が「決定的に」
>他者の認知が抜けていると言うのは、納得できない。

決定的は言いすぎた。(笑)
投稿時間見てくれー。眠かったのよ。


でも、皆も質問に答えてくれー。

とりあえず、これだけは。

>>愛に辿り着けないなんて淋しい。
>これにすごく気が取られたんだけど、みんなそんなものなのか??

みんな、そうなんじゃない?とかつまらん答えはやめにしてくれ。(笑)

http://alived.com/autism/


自己愛と自己中心的との違い。
投稿日 1月27日(土)02時35分 投稿者 taki 削除

自己愛は人の根底に根付く意識であり、
自己中心的とはその人の気質で、性格的なものですよね。

その二つは別物としても、自己愛から自己中心的になることもあり、
自己中心的が自己愛から発生しているという二次的なものだと思います。
が、すべて自己愛を根ざしたものが自己中心的性格ではないので、
根源的なものと、顕在しているものが、一つのパターンとして結びついている例といえるのではないでしょうか。
2つの違いは根源的、顕在しているの違いだと思います。

だから、自己愛に苦しんでいる人や、その影響のある人は他者から解りにくいと思います。


そんで、自己愛をまとめる為に、色々調べました。
つ、つかれた・・・。
読んでて、イライラする内容で、すごく苦手だし、自己愛の人ってキライなんですよー。

では、引用から。
(あ、ちなみに自己愛の人で重度の方は自分のことだと解らないと思います)

他者の必要性を認めない極端な自己崇拝としてのナルシシズムとしてのセリフ。


「あらゆる星が北極星を中心として動いているように、世界は私を中心として動いて
いる。私は秩序そのものであり、法律そのものである」
----シェークスピア「ジュリアス・シーザー」(映画版に脚色されたセリフ)より

「俺様バンザーイ!他人なんか糞喰らえ!俺様バンザーイ!」
----アラバール「建築家とアッシリア皇帝」より

「私を誰だと思ってるの」
----野村沙知代
(近所の電気屋さんがテレビの修理代を請求しようとしたときに言われた言葉)

自虐の自己愛として。

「こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置か
れている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。
詩人になりそこなって虎になった哀れな男を」――中島敦「山月記」より


引用:「境界例と自己愛の障害からの回復」


臨床心理学的、人格障害の視点から見て。

自己愛性人格障害
アメリカ精神医学会診断マニュアルDSM-IVより。

誇大性(空想または行動における)、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式
で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。
以下のうち5つ(またはそれ以上)で示される。

1.自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がない
にもかかわらず優れていると認められることを期待する)。

2.限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。

3.自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設
で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。

4.過剰な賞賛を求める。

5.特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを
理由なく期待する。

6.対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人
を利用する。

7.共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこう
としない。

8.しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。

9.尊大で傲慢な行勤または態度。


ここまで来ると、社会、精神、健康に障害が及んでしまいそうな状態なので、
BBSに書き記すのは過度なことかもしれません。


自分が特別であり、独特であると信じているのに、自分の厳然たる精神的現実は
現実と言う事実の前では異なり、自己愛の人の人生は、ますます満足のいかないものとなっていきます。

もともと偏狭な目的をもつがゆえに、人は自分自身に限界を感じ、そこからねたみや嫉妬が生まれてしまいます。

自己愛の人は常に誰かに見られているような感覚があったりもするでしょう。
相反して、他者の不在とも。

自分の感づること、望むことはすべて正しく、実現されるべきだ、と。

それはこんな言葉で表されると思います。

「私は愛され、満足させられねばならない、しかもいかなる感謝の見返りもなしで」


それが満たされないと、
「もし世界が私を十分に愛さず、十分な満足を与えてくれないなら、私は自分自身を愛し、満足させな
ければならない」

といった考えに変わっていきます。

自己エゴやナルシズム(自己愛)が強すぎると、ゆくゆくは自分を心的破壊へと導いてしまう原因にもなります。
それは自分-他者との関係をに支障をきたす元にもなります。

定義になってないかもなー。

とりあえずは自己愛関連の情報として。

http://alived.com/autism/


宣伝(爆)
投稿日 1月27日(土)00時35分 投稿者 ころすけ 削除

>櫂さん

「愛はありますか?」
   
   自己愛の人「あります」
   自己中の人「ないです」

でしょうか?


すいません。こんなところで宣伝して頂いて…(汗)
他の皆さんも、私のHPに是非とも遊びに来てください。
「まんが」も、じきにUP予定ですので。
訳のわからなさは保証します(爆)

私事ですいません、ホント。

↓ホームページはこちら♪(←ちゃっかり者)

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


ころすけさんへ
投稿日 1月26日(金)23時27分 投稿者 櫂 削除

ころすけさん、今晩は。

>たとえ、いかような愛(自己愛)でも愛を知る人が「決定的に」他者の認知が抜>けていると言うのは、納得できない。
>それはただの自己中じゃないのか?

自己中と自己愛をころすけさんの中ではどのように分けていますか?
僕は同じもののように感じているのですが...

(今日はあまりバトルを挑もうって気ではないです。念のため。)

>くまさんの言うことなんとなくわかるんですけど、「機能」って愛をどう形容す>るつもりで使っているんですか?

たしかにね。ここは僕も疑問です。

>ささ、ほのぼのムードでバトルしましょう(笑)

HP見させていただきました。ああいうマンガって僕には才能がないので
すごい!と思いましたね。あのわけのわからなさが、すごい。
ころさんらしい、シュール&ほのぼのマンガですね。


れす
投稿日 1月26日(金)23時12分 投稿者 櫂 削除

>皆さんの話を読んでいると、
>「自己愛か愛か」や「自己愛の上に愛がある」さらに言うと「自己愛をふまえて>愛がある」
>という風に感じます。

少なくとも僕はそうではありません。
いくつか前に書いてあるので説明は省略しますが...

>僕的には愛と自己愛はまったく別次元に存在しており、
>愛にたどり着くまでは、自己愛の助けを必要とするが

自己愛がないと愛にたどりつけない?

>愛そのものは、自己愛とは無関係に機能するものだと・・・

でも、そうすると教授の自己愛と愛に対する考えは間違って
いるということになりますが。


改めまして、お願いします。
投稿日 1月26日(金)23時10分 投稿者 ころすけ 削除

摩擦熱出しまくりのバトラーを演じてみたけど、どうやら自分の性に合わなかったらしいです。
相手の土俵じゃコテンパンにされたけど、自分の土俵に持ち込めばなんとか突け込めそうな弱点も確認できたし(謎)、名前も本名(嘘)に戻し、本来のあったか共感モードで、自分らしくさらに深く深く参加させて頂こうと思っております。
皆様どうぞよろしく。
ニコニコ笑顔で、破壊坊主をぶっ潰す野望を達成するその日まで…(笑)

>taki

人から共感を受けるなんて、あんたもずいぶん丸くなったね〜♪(ニヤリ)
あ、余計なお世話でしたね(笑)

>しかし、自己愛には決定的に他者の認知が抜けていると思うんです。

たとえ、いかような愛(自己愛)でも愛を知る人が「決定的に」他者の認知が抜けていると言うのは、納得できない。
それはただの自己中じゃないのか?
自分のことだからよくわかる(笑)

>「私のいない世界が、私にとって意味があるのか?」

あると思いますよ。
理由は簡単、ないって思ってしまったら、つまんないから。
自分のいない時間も空間も、何らかの形で確かに自分に関係している。
それは間違いない。
その意味を考えると面白い。
意味はあります。

>愛そのものは、自己愛とは無関係に機能するものだと・・・

くまさんの言うことなんとなくわかるんですけど、「機能」って愛をどう形容するつもりで使っているんですか?
愛自体が単独で動くということなのでしょうか?


ささ、ほのぼのムードでバトルしましょう(笑)

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


あらためて 自己愛について
投稿日 1月26日(金)13時29分 投稿者 くま 削除

皆さんと自己愛に対するとらえかたが違うようなので書かせて頂きます。

僕にとっての自己愛は防衛本能の延長上にあるもので、
誰もがもっている感覚だと思うのです。
つまり、人間の一側面(一部分ではなく)でしかないととららえています。
その側面から見ると絶大な支配力をもっていますが・・・

皆さんの話を読んでいると、
「自己愛か愛か」や「自己愛の上に愛がある」さらに言うと「自己愛をふまえて愛がある」
という風に感じます。
僕的には愛と自己愛はまったく別次元に存在しており、
愛にたどり着くまでは、自己愛の助けを必要とするが
愛そのものは、自己愛とは無関係に機能するものだと・・・

おそらく思いっきり感覚的な事、願望的な事が入っているので
そういう愛について具体的なことがなかなか説明できないのですが
それがわからないから、このBBSにいるって事で・・・(・・;
(こういう風に考えるのは自己愛と愛の相反性からの逃げかも・・・)

>自己と他者の同一化(混同)と他者との愛の同一化
前者は同一化というより同一視では?
おそらく意味上にさほど違いはないと思うのですが、僕はそう受け取ったのですが・・・
そうすると、ストーカーや虐待親についても理解できました。

先日は、皆様いろいろとアドバイスありがとうございました。
話しが込み入ってたのでなかなかお礼が言えませんでした。
(もうページから消えちゃった!!)
どうもアリガトっす。


りいさんへ
投稿日 1月26日(金)07時42分 投稿者 櫂 削除

自己愛に関する、りいさんの発言には共感できる部分が多々あります。
これからもどんどん書き込んでくださいね。

>「私のいない世界が、私にとって意味があるのか?」

このセリフ。これを言った人にとっては自分がいない世界は意味が
ないでしょうね。
「自分にとってどうなのか?」しか常に考えてないまさに「自己愛」
の人だからです。
「自己愛的な人」の発言は上記のように主観論になってしまいます。
このセリフは、だからあまり意味がない。
普遍的表現でなければ「論」にはならないからです。


訂正
投稿日 1月26日(金)07時33分 投稿者 櫂 削除

答えがないのではなく、僕がわからなかった1、2行目が答えのようですね。


質問
投稿日 1月26日(金)07時15分 投稿者 櫂 削除

>異質というより、存在の違いで、なにか自分の感覚として失敬なんですけども、
>親は親でも、他人の親と、自分の親、のよーな。(こーれはかなーり説明になって>ない。笑)

ずっと読んでてここだけわからなかったです(笑)


>厳密に、自己愛→脱却→他者との共感、愛(のような感覚、状態)に至れる
>かもしれないし、成長、感情の獲得なのかもしれないですが、
>アプローチとして、とても個々の事例に細分化されるものでもあるだろうし、
>そうなると、対象ありきで→脱却→獲得の過程を踏まえて行くと思うんです。
>それは一般的に「人を好きになる」という、心の発達でもあり
>そういった流れで、愛(それを感情とするならば)を知っていくことなんじゃな>いでしょうか。

僕も同じですよ、このへんの考え。ってゆーか、takiさんがこのへんで説明され
ているのは「愛に至るプロセス、とそれによる感情の変化」だと思いますが、
その前に本質的に「自己愛と愛は異質なのか」ってゆう問題の答えがない気がし
ますが?


さて・・・・。
投稿日 1月26日(金)04時05分 投稿者 taki 削除

なんか、バトルロイヤルになってますね。(笑)
ここでは「SOS」以上の盛り上がりか?

帰納に付け加えで。

辞書によると、様々な事柄を、一般に通ずるような法則を導き出すことや、
個々の特殊な事実や命題の集まりからそこに共通する性質や関係を取り出し、
一般的な命題や法則を導き出すこと。

つまり、すべてを一般的な事柄に普遍化しようと、強引な論理の導き出し方
だと思ったので、帰納法的と。

単語に意味を集約して書かないと、だらだら文章が長くなる一方だから。
あまりに長いと、読むのが困難になるし、(今でも長めか?)
キーワードにも使ったりしてるし、ちょいとぐらいはゆるしてくれー。>ころ

>おかげで何を考えればいいのか、見えてくる。

教わる、教えるとかよりも、言い方法かなと。


>愛に辿り着けないなんて淋しい。

これにすごく気が取られたんだけど、みんなそんなものなのか??
愛を得れるなんて、奇跡に近い、という考え方なので。
まさか、「愛を下さい〜♪」(歌です。笑)なんて、おそろしく我侭で、ずうずうしい、と思うのよ。

そう聞くと、「誰も愛しちゃ居ないくせに」と返したくなる。

誰も愛そうとしてないのにさらにいうと、
「誰一人、愛せっこないくせに」と。
さすがにこれはキツすぎるけど。(笑)

あ、「愛を全否定」派ではないですから〜。

なんか、takiさん人を愛したことがありますか?とこられそうだ。(笑)

>願望を含めて書くと誰かさんは、色々言うし…。

ここで変に匿名にしない。(爆笑)

櫂さ〜ん。>

>僕はtakiさんは同世代(たぶん同じ年?)なので結構共感するんですが...

め、珍しいですね。(笑)
色んなところで、反感を買う王者なんですけども。(笑)
あんまりこう、心にもないこと書くと、自分が「かゆくなる」(笑)タイプなので。

あ、もうすぐ35才ですー。

>僕にとっての自己愛と愛は「同質のもの」で「対象」が違うだけ。

僕はですね、自分が自己愛に包まれた中からでは、直に人を見ることはできない
と思ってて、それでは「誰かを好きな自分が好き」ってことに、良くなり勝ちと思うんですよ。
だから、他人に移動することはないと。
あったとしても、自分をぬくぬくと包んでいるものを、ムリにへっぺがして、
それを相手に向け、それで居て、自分のものでもある。ってのは
かなり、複雑な心理になってしまうなぁ、と。

つまり、成り立ちとしてはありえないことはないけども、
構造が複雑なだけに、想像がむずかしいぞ?!と、思いまして。

厳密に、自己愛→脱却→他者との共感、愛(のような感覚、状態)に至れる
かもしれないし、成長、感情の獲得なのかもしれないですが、
アプローチとして、とても個々の事例に細分化されるものでもあるだろうし、
そうなると、対象ありきで→脱却→獲得の過程を踏まえて行くと思うんです。
それは一般的に「人を好きになる」という、心の発達でもあり
そういった流れで、愛(それを感情とするならば)を知っていくことなんじゃないでしょうか。

もちろん、それぞれの過程は心、感情の流れなので、メリハリ利いたわかりやすい段階ではないです。

しかし、自己愛には決定的に他者の認知が抜けていると思うんです。

> taki さんに質問

うい、りいさん。

> >自己と他者の同一化(混同)と他者との愛の同一化は違いますよね。
> ここの意味がよく分からないのですが。それぞれが何をさしているのか
> がよく分かりません。教えてください。そのあとのストーカーや虐待親
> との関係もお願いします。

(汗汗汗汗汗汗汗汗汗汗&乾いた笑)

一応の一応、かなーりはしょった形で正確さがちょいと怪しくなることでなら、なんとか・・・・・。

虐待親>親が子どもを自分の一部として見誤り、自分への罰を
子どもに酷い仕打ちをしてしまうことで、自己を罰した感覚になってしまうこと。
それらがなんら間違ったことはしていない認識になったり、
虐待していること自体が認識できなくなっている状態で、その子どもはまた、
自分の子どもに、自分のやっていることを認識できずにやってしまうことが多く、
虐待の連鎖生みやすい。

ストーカー>他者への恋愛感情を他者も自分と同じ感覚を持っているはずだ、と思いこんでしまい、
偏執狂的な意識に至る。
私が望んでいることは相手が望んでいることだと、願望により状態から目を背け、相手に投影してしまうこと。
同じく、相手にしていることが酷いことでも、その認識はない。

これらを他者との同一性を混同することにより、矛盾が発生し、精神的、社会的破綻を招きやすい。

自己同一性とはアイデンティティを指しています。
自己が単一で、連続していて、不変であるという感覚。
自分が誰であるのかという疑問に解答している状態。
私の場合はエンジニアという解答を持っています。

例えば、外国人から「君は何者だ?」と聞かれると、
日本人のエンジニアだと答えます。

誇りとか、プライドにも関わってきますよね。
もちろん、自分自身への問いかけへの答えとして。

takiさんへ>

もいっちょあったか。(汗)

>愛と自己愛は根本的に異質なものだということですか?

上記しましたが、それで解答になれば幸いかと。

異質というより、存在の違いで、なにか自分の感覚として失敬なんですけども、
親は親でも、他人の親と、自分の親、のよーな。(こーれはかなーり説明になってない。笑)

http://alived.com/autism/


どうして
投稿日 1月26日(金)03時52分 投稿者 犬 削除

どうして今までこのHPに気付かなかったのだろう。
この人はぼくのバイブルだ。


簡単な例をあげると
投稿日 1月26日(金)01時29分 投稿者 削除

映画「タイタニック」の最後のシーン。

恋人を助けて死んでいきましたよね。
あれと同じシチュエーションを考えたときに

「自分が助かろうと板キレに乗る」か「恋人を乗せる」か
で自己愛か愛かがわかると。
自己犠牲を賛美しているわけではないのですが、一番わかりやすい
「愛」に対する踏絵(リトマス紙)だと思います。


かなり遅いレス
投稿日 1月26日(金)01時18分 投稿者 削除

今日はものすごい書き込みでびっくりしました。
考察用のほうも...結構重い書き込み多いので全部読むのつらい..

>どうなんでしょう?
>それはころの言った「主体」の逆転になるかもですねー。
>その行為のみが尊ぶものとされたら・・・。

う〜ん、そういうつもりはないんですけどね〜。
尊ぶつもりというか、「表現上極端に話したほうが伝わると
思っているからで。」

>人間よ、自分と他人との区別をやめよ
>愛とは極限であり、ほとんどの人間が手に入れられずに死んでいく

僕にとっての自己愛と愛は「同質のもの」で「対象」が違うだけ。
「自分」なのか「他人」なのか、という対象が違うだけで、感情の
種類は同じ物だと思ってます。だから「自分に向かう愛」=>「自己愛」
という言葉が生まれた気がする。
上記の教授のセリフにもあるように「他人のことを自分を愛するように
思う=区別をやめる」その感情が発展していくと最たるところに
「自分以上に愛せる他人が存在するようになる」
そういう人も現れるという気がする。

つまり
自分>自分以外の人 (ここまでが自己愛)
自分=自分以外の人 (教授のいう、区別をやめた状態)
自分<自分以外の人 (ここからが真実の愛)

>愛はあるのか。存在するのか。

って最終回での教授の叫びは自己愛をここまで捨てて人を愛せる人間
がこの世に存在するのか!っていうふうに僕は理解しました。

>それより、相手と同化という感じがするんですけど。
>ころの言うのも同感なんですが、違和感よりギャップのある人だな、
>と思って

そう?それは育ってきた環境の違いかもしれませんねー。
僕はtakiさんは同世代(たぶん同じ年?)なので結構共感するんですが...


撃たれた振りをしただけさ〜♪
投稿日 1月25日(木)23時00分 投稿者 ころ 削除

相変わらず鋭いな(笑)>taki
人の頭の中の混乱まで読み取るとはどういう洞察力をしているのじゃ!
おかげで何を考えればいいのか、見えてくる。

>>> 第一、自己愛とは何を指しているのか?とここでハッキリせずに
>> 愛と自己愛は一緒と言いました。
> もうすでに、矛盾してないか?

今わかったんだけど、多分私は自己愛すら見えていない。
なんで話が噛み合わないのだろうと考えたら、
私は世紀末の詩を考えるスタート地点にもいないことに気がついた。
私は野島さんが言う自己愛の人ではなく、ただ自己中なだけの人間なんだと思う。

>「愛を全否定」のスタンス

そういう気はなかったけど、この指摘もそんなに外れてはいないのかもしれない。
自分を愛するのが自己愛なら、自分すらも愛せず自己中に生きているなんて、なんとも淋しい限りだな、ははは。

>自己愛を脱却

自己愛に辿り着いていないのだから、脱却もできないね。
自己愛というものがわかれば、理論的には脱却できるのかな?

>自己愛も愛も一緒

私にとっても、どちらにも辿り着いていないと言う点で一緒なんだろうな。
嘘を言ったつもりはなく、本心だったんだけど、振り返って考えると
そういう気持ちから出た言葉だったんだと思う。

>世紀末の詩の否定

そう取られてもおかしくない書き方だったけど、否定じゃなくて、むしろ全肯定の気持ちが強い。
愛に辿り着けないなんて淋しい。だから世紀末の詩の目指そうとした愛を無にして、
描かれた人たちの愛はみんな本当の愛だったと思いたい、そういう願望みたいなものが残った。
願望を含めて書くと誰かさんは、色々言うし…。
だから隠そうと思ったんだけど、ただわかりにくくしただけだったようだ(笑)

今回は空中分解してないかな。
これで、ちったあ話が噛み合うようになるのだろうか。

ところで、帰納法的と言われても、意味がわからないよ。
難しい言葉を使うな!
敷居を高くし過ぎなんだよ、全く(怒)←逆ギレ

私のように意味がわからなかった人の為に↓↓↓

帰納…一つ一つの具体的なことがらから一般的原理を引き出すこと。論理的にものごとを考える基本的な方法。(『三省堂国語辞典』より)

以上。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


訂正します。すいません
投稿日 1月25日(木)21時15分 投稿者 りい 削除

>私の言う「愛」では、緊急避難は全然問題ないということになる。

自分で書いといてなんですが、これは愛じゃないなあ。(大笑い)

takiさんの言うように偽善的なものですね。何でこんな結論になっちゃった
んだろ?
 もう一度読み返すと、前半部分はともかく後半部分には自分でも共感でき
ないので、『ここからが難しいんだけれど』以下の部分は取り消させてくだ
さい。
 今度からはもう少しちゃんと考えがまとまってから書きます。
本当にすいません。 m(__)m

takiさんへ>

>>愛する対象の中心を自分自身以外のところにもっていくことができるか、

>発生元が自分の中で、自分に対しての「質」だと思うんで、もともと存在
>自体が違うかもしれない、とは思っています。

てことは、愛と自己愛は根本的に異質なものだということですか?


taki さんに質問
投稿日 1月25日(木)20時35分 投稿者 りい 削除

>自己と他者の同一化(混同)と他者との愛の同一化は違いますよね。

ここの意味がよく分からないのですが。それぞれが何をさしているのか
がよく分かりません。教えてください。そのあとのストーカーや虐待親
との関係もお願いします。


え、付け加えて。
投稿日 1月25日(木)15時20分 投稿者 taki 削除

あえての書き込みでは、わかりずらいと思いなおし、付け加えて。

ころ>

>「存在しなかった」という結論

にそうそうそう、と同意するなら、世紀末の詩の言う愛については否定派で、
ドラマで定義していた「愛」には、「ない」という意見にまでたどり着いてたということかな?
書ききれてないというより、たどり着いてなかったと思うんだけど。
先に書いた、「愛を全否定」のスタンスに立つのかな?

じゃあ、世紀末でもう悩む必要はないじゃない。(笑)
あとは、無と真実に絡むだけかな?


りいさん>

>ばとるにおじゃまします。

どんどんどうぞー。他の方も遠慮しないでくださいー。

>愛する対象を広げていくことによって、自分以外をも愛するよう
>になる。そこには利他的な思いもあると。

これができないから、自己愛の人は「脱却」や自己の殻の打ち破り方を
考えるんじゃないでしょうか?

自己と他者の同一化(混同)と他者との愛の同一化は違いますよね。
そうなると、ストーカーや虐待親になっちゃうと思いますが。
共に生きるとしても、こういう生き方はどうかと・・・・。

>私の言う「愛」では、緊急避難は全然問題ないということになる。

というか、世間では偽善、「偽りの〜」と片付けられてしまうと思います。

>「私のいない世界が、私にとって意味があるのか?」

命題の前提が、おかしくなってますが、平たく考えると意味はないでしょうね。
自分の居ない世界に何かを願い、祈るのなら違ってくると思いますが。

>特定の方向を向いていれば違うなあとおもいます。

ですよねー。
他者を愛したいのに、自分を通して誰かを愛することに自己愛は愛と異なるものになると思いますし。

>愛する対象の中心を自分自身以外のところにもっていくことができるか、

発生元が自分の中で、自分に対しての「質」だと思うんで、もともと存在自体が
違うかもしれない、とは思っています。

なにか、相手も居ないのに、結婚したら子どもを何人・・・、とか
将来設計してるようなものかもですね。
それには願望と現実のギャップがあり、他者、対象の不在になりますよね。

>とんちんかんなこといってたらごめんなさい。

いえいえ。ここで言われてる自己愛については
曖昧にしか定義されてないように思いますので、あたりまえかな?と。

http://alived.com/autism/


補足
投稿日 1月25日(木)13時06分 投稿者 りい 削除

>愛する対象を広げていく
と書いたけれど、広げていく過程が、同心円のようにしていくならば、
博愛主義につながっていくけれど、特定の方向を向いていれば違うなあ
とおもいます。

>その「愛」の対象の中心は自分自身だからだ。

と書いたけれど、愛する対象の中心を自分自身以外のところに
もっていくことができるか、ということが、ころさんの言う
自己愛を超えるということなのかな?

とんちんかんなこといってたらごめんなさい。
 
 


自己愛を超えたところにある愛について
投稿日 1月25日(木)12時58分 投稿者 りい 削除

ばとるにおじゃまします。

見てて思ったんだけど、私は自己愛と愛について次のように考えます。

「自己愛」は自分を愛すること。もっといえば自分だけを愛すること。
で、愛する対象を広げていくことによって、自分以外をも愛するよう
になる。そこには利他的な思いもあると。いわゆる博愛主義に近いか
もしれん。
 そう考えると、「自己愛」の「自己」を広げていくことが、愛につ
ながるのか?それはただの同化ではないのか?
 でも、愛するというのは共に生き続けることで、だから引き離され
るときにとっても痛い!と言うのもあったし(第4話「星の王子様」)
けっこういい線いってると思う。
 
 だから、「みんなで幸せになろうよー」というのが愛で、
「わしが幸せやったら、あとはとりあえずどうでもええ!」というの
が自己愛だと思う。

 で、ここから難しいんだけれど、じゃあ私の言う「愛」があったと
して、自分自身と周りの誰かの利益が決定的に、生死に関係するくら
いにかち合ったときどうするか。本当はみんなで幸せになりたいんだ
けれど、自分が不幸になるか自分以外の人が不幸になるかを比べると、
自分自身の利益を優先してしまう。なぜなら、その「愛」の対象の中
心は自分自身だからだ。
 私の言う「愛」では、緊急避難は全然問題ないということになる。

 こんな言葉がある。
「私のいない世界が、私にとって意味があるのか?」

みなさんはどう思いますか?


ちょいまち。(笑)
投稿日 1月25日(木)03時19分 投稿者 taki 削除

ぶ、分量が多いな。(笑)

それに、撃沈はまだまだ遠かろう。(笑)>ころ
まだまだ元気なのはわかってるぞー。

>> 第一、自己愛とは何を指しているのか?とここでハッキリせずに
> 愛と自己愛は一緒と言いました。

もうすでに、矛盾してないか?
仮定として「自己愛の先にある愛」の存在を唄っている「世紀末の詩」とするならば、

>自己愛も愛も一緒というのが私の基本的スタンスです。

と言えば、世紀末の詩で言う愛は間違い。とならないか?
質は一緒と言うならわかるけど、対象が自分と他者ではあまりにも形が違うものにならないか?
自己愛の先にある愛を示し、自己愛からの脱却がテーマ(これはかなり懐疑的だが)
だったと散々書いていたのに、それならば、世紀末の詩自体を否定していることになるな。
これを空中分解と呼ばざるべきか?(笑)

それに、

> 何が一緒かというと、それが共に「真実」ではないと言う点、あと、どっち
> もたぶん「真実」だろうという点、で一緒ということです。

これはちっともわからんちゅーに。(笑)


> 『世紀末の詩』に正面からぶつかって行ったら空中分解もするでしょう。
> しかし自分が空中分解してない気でいるなら、それは驕りだ。

そうかな?
簡単だけど、空中分解(拘られたか。笑)しない方法はある。

それは愛を全面否定すればいい。

そして、ここではラストに納得に行く説明が出来なければ、その論理は通ってしまう。
しかし、否定や反対は子どもでもできる、一番簡単なもので、その反対の賛成も同じ。
ネットでも、単なる否定意見だけが書かれることって、よくありますよね。

要はBBSに書きこむ時に、いかに考え、そして経験によって裏付けされていくかだと思う。
思考し、行動し、経験となり、論理としてその人に根付き、それぞれのポリシーとなっていくのではないかな。

うーん、はっきり書いた方が良いか。
なんでもかんでも自己愛のせいにすること「自体」が問題なんじゃないかと思う。
そこで、「帰納法的」とかいたはずだけど。

んでも、初めっから俺にかかってくるつもりで、書きこんだのはわかってるけど、
そう言うのはメールにしなさい。(笑)

まあ、ここでは私を空中分解(笑)させてくれるそうなので、楽しみにしてます。

それに、「驕ってない」と言えば、
「それが驕りじゃー!」と言い返されるのがオチで、(笑)
延々ときりのない水掛け論になっちゃうのはみえとるがな。
まあ、泥沼はやめにして。


> ところで脱却なんてできるの?
> できるんだったら教えてよ。

だから。(笑)
自分自身が見えている「自己愛」と思っている形を、よくよく詳しーく詳しーく、
教えてくれないと、何にも言えるわけないでしょ。

はたして・・・。それは本当に自己愛か?

> 主観とか客観って、もう趣味の問題なんですね。

ちゃうちゃう、スタンスだって。
感情的主観から書きこんだ文章はとても解りにくい。
主観による体験経験、感覚を基に字にすると、客観視する立場から
その人と同等の感覚はとても得がたい。
それを脚本家なり、小説家なりのプロが技術をもって
他者に感覚を提供すべく、表現するんじゃないのか。

主観のみで話し、誰かに共感してもらうと気持ち良いだろうな。
ただ、主観に対し、突き詰めて考えてることには、意味を理解していない共感をされても
うつろに感じるだろう。


>「絶対的になくならない「愛」が存在する。それを探そう!」

実を言うと、ドラマ見ていてそんなドラマだとは思ってなかった。(笑)
今でもそう思うが。
愛についてどう考えた表現をして行くのか、とても面白かったが、
教えてもらうつもりはなかったし、ラストも納得のいくものだった。
(かなりの少数派意見かもですが。納得した人は言葉で表現してないかな??)
しかし、メルマガがあるのでここではまだ書かないでおこうと。

> くそー、takiが爆笑してる顔が目に浮かぶ。

いや、別に笑ってないぞ?

> 打たれて強くなるというのもあるし、また懲りずに戦おう

いや、心配しなくても、どんどん打つし、撃つから。(笑)


で、櫂さん。

> つまり僕の中で「愛」の究極は自己犠牲になります。

どうなんでしょう?
それはころの言った「主体」の逆転になるかもですねー。
その行為のみが尊ぶものとされたら・・・。

> 「おのれが利する」ことが自己愛「相手が利する」ことが愛

それより、相手と同化という感じがするんですけど。

ころの言うのも同感なんですが、違和感よりギャップのある人だな、と思ってました。
(表現において)

しかし、「無常」というのは、なるほど!
野島ドラマを見ていた人が、良く抱きがちな感想は「虚無感」と聞いたことがあります。
ここの管理人のふみさんの「鏡」と言う意見も秀逸だと思います。

心の抑圧された、通常汚いとされているもの。
それを見たとっさの反応に対し、嫌悪感を表してしまう。
しかし、それは正しい心の反応だと思います。

しかし、それを自虐的に楽しんでいる悪趣味な人も居ますが、
そんな人はキライです。(笑)
痛みの共感からくる、快感は悪趣味としか思えないですねー。

自分の心を本当に知りたいと言う人は稀。
見たくないし、見なければよかったと思う場合がほとんどでしょう。
ほとんどが遊園地のジェットコースター、おばけ屋敷感覚だと思います。

死を宣告されたものは、死にたくないとあがき、苦しむ。
しかし、騒がない者も居る。

そう言う人が、宣告されるまで生きていたのが不思議になっちゃうんですけどね。


これまでの世紀末の詩の感想を見ていると、過去の恋愛は愛ではなかった、と思うことを
恐れる人が多いように思うんですけど、いかがでしょうか?

http://alived.com/autism/


そうそうそう(笑)
投稿日 1月24日(水)18時33分 投稿者 ころ 削除

>「絶対的になくならない「愛」が存在する。それを探そう!」っていう一話のころの教授と亘2人の命題は、ころさん的には「存在しなかった」という結論なのかもしれません。

長々とわかりずらく今まで書いてきましたが、そうなんです。
あまり頭いい方ではないので上手く言えなかった。
上手に言ってくれました(笑)

最後に野島氏が出した結論には納得しようとしても出来なかった。
無理に納得しようとして、出した答えが「無」だった。
納得できない終わりを無理やり納得しようとする嫌なイメージが、いつの間にか『世紀末の詩』全体のイメージに、私の中では変わってしまっていたようです。
自分の中では『世紀末の詩』が好きなのか嫌いなのか最近ではわからなくなっていました。

先の「自己愛」も然り、私は一つのことに集中すると周りが見えなくなってしまうようです(笑)
部分部分から全体を見渡すってことが出来ず、部分なら部分、全体なら全体とそこだけに集中する。
それらを無理やりまとめようとするから、論理に理がなくなり、空中分解してるなんて言われるんでしょう(笑)
くそー、takiが爆笑してる顔が目に浮かぶ。
俺の文章は、全体の理ではなく、パーツパーツとして見てくれ!
それを奇麗に並べるのは櫂さんにお願いしましょう(笑)

>どんどん反論してくれてかまいませんので活発にやりましょう(^^)

私が出て来たら、落胆する人が出て来たようなので、フォローの方お願いします(笑)

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


エノモンさんへ
投稿日 1月24日(水)17時42分 投稿者 MR.未成年 削除

だったら分かっていることを教えてくれー


感想
投稿日 1月24日(水)13時55分 投稿者 エノモン 削除

期待してこのページをみたんですけど、なんか落胆しました。もっとわかってるひとたちがいるとおもったのに・・・。


れす
投稿日 1月24日(水)07時24分 投稿者 削除

>さて、その違和感ですが、返事貰って少しだけ、わかりました。
>櫂さんは、普遍的なモノを探っていたように感じていたのですが、
>時々「場合」とか「例」とかをあげて、普遍的でなさそうなものを書かれる。
>上手く説明できないんですが、主観と客観のズレを差っぴいても、この違和感はぬ>ぐえない気がします。
>「ありますよ」なんて言われると素直に「ハイ」とは言えない、これは私の性格の>問題なのでしょうか?(笑)

「例」、とか「場合」について
ん〜と、僕のイメージでは検事・弁護士が詭弁のように紐解く「過去の判例」
ってイメージですね。
ひとつの普遍的な事象を表現する場合、身近な例や実際のに起こった事件をだす。
「実際、こういうことがあったけど、そればどう思うの?」
って感じで、論戦を挑むあいてに最初から、「反論されることを抑制する」働き
があると思います。
「つまり、「愛」に関して、僕はこう思う」
という主張に対し、「でも、そんなこと現実ではありえないでしょ」って
いう批判の芽を最初から摘んでおくのが狙いなのです。

あくまで、自分自身の「論」を展開する場合、客観的立場を貫いてきた
と思うし、今後もそれは変わりません。(亘型人間なのでたまに感情が上
回ることがありますが...)

>私が『世紀末の詩』から得たのは「愛」ではなく「無」だから。
>だからといって「無」が分かったわけでもなく、その存在に気付いた、と言うこ>とですが。

実は僕は「世紀末の詩」は、ほとんどのシーンに共感を覚えました。
野島氏の「愛」に対する考え方、は今僕が出せる最高の結論に近いです。
最終回の「風船」と「冒険」以外は...
ころさんが感じた「無」というのは宗教的な考え方の「無常」のことです
よね?
「絶対的になくならない「愛」が存在する。それを探そう!」っていう
一話のころの教授と亘2人の命題は、ころさん的には「存在しなかった」
という結論なのかもしれません。僕は...野島氏が結論を出し切れなか
ったと思うだけかなあ...

>ところで脱却なんてできるの?
>できるんだったら教えてよ。

自己愛からの脱却ですか? 無理です。っていうか意味がない。
takiさんが言われているのは「自己愛」に囚われている心の脱却」
の意味ですよね?

>打たれて強くなるというのもあるし、また懲りずに戦おう

どんどん反論してくれてかまいませんので活発にやりましょう(^^)


撃沈(涙)
投稿日 1月24日(水)01時33分 投稿者 ころ 削除

とりあえず、お二人のレスを読んで、思わず噴き出してしまいました(笑)

反論の余地は殆どありません。
書いて送信した後、なんか無茶苦茶だなと自分でも思ってたので、

>ころ、言ってる事がわからん。(笑)

と見て、思わず噴き出してしまった次第です。
確かにわからないです、スマン。

まず返事しやすいtakiから、

>第一、自己愛とは何を指しているのか?とここでハッキリせずに

愛と自己愛は一緒と言いました。

>途中で論理や感想が空中分解しているのは否めないんじゃないかな。

その通り。
分かってます。
でも、櫂さんも共感してくれたように、「愛ソノモノというのは説明できるものではなく、どんな手段を使っても表現できないものだと思います。」と考えながら、『世紀末の詩』に正面からぶつかって行ったら空中分解もするでしょう。
しかし自分が空中分解してない気でいるなら、それは驕りだ。

>書きこみをみてるだけでも、ころ自身が自己愛に苦しめ、逃れようとあがいている様しか
イメージに浮かんでこないのよ。

はい、自分で読み返してみても、そういうイメージです(笑)
別にそう思われてもいいです。以前はそうだったので…
今は逃れようともあがこうともしていない。
『世紀末の詩』というでっかい壁は、もう私にとって超えるべき壁じゃないから。
今の私は『世紀末の詩』という壁に向かうことはなく、それでいて背を向けることもない。
『世紀末の詩』という景色を横目に見ながら、近づいたり離れたりして歩いている。
そんな感じだろうか。

私が『世紀末の詩』から得たのは「愛」ではなく「無」だから。
だからといって「無」が分かったわけでもなく、その存在に気付いた、と言うことですが。

>うーん、君自身が自己愛を脱却してくれないと話が進まない気がする。(笑)

「無」の存在に気付いたからこそ、自己の殻から脱却する方法とか姿勢とかに関心がいってしまうのですが…。駄目?
ところで脱却なんてできるの?
できるんだったら教えてよ。

>櫂さん

櫂さんとtakiの書き込みみて思ったんですが、主観とか客観って、もう趣味の問題なんですね。
どっちがいいとか、どっちが正しいとかの問題じゃない。
私は主観で語るのが好きで、櫂さんはどっちもOK!って感じですね。

それから、下の書き込みで「全然納得できないです」とか書いてしまいましたが、言い方が悪かったです。
ちょっと違和感があっただけなのに、それを誇張して過激に書いてしまいました。
バトルと言うことでお許しを(汗)

さて、その違和感ですが、返事貰って少しだけ、わかりました。
櫂さんは、普遍的なモノを探っていたように感じていたのですが、
時々「場合」とか「例」とかをあげて、普遍的でなさそうなものを書かれる。
上手く説明できないんですが、主観と客観のズレを差っぴいても、この違和感はぬぐえない気がします。
「ありますよ」なんて言われると素直に「ハイ」とは言えない、これは私の性格の問題なのでしょうか?(笑)

なんか、カッコ悪いな、俺…(笑)
打たれて強くなるというのもあるし、また懲りずに戦おう♪
がんばろ。


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なるほど...
投稿日 1月23日(火)07時14分 投稿者 櫂 削除

>とりあえず、自己犠牲とごっちゃにしてません?
>そうなると、命知らずの奴はどうなるんだろう?とか思ってしまいますが

「おのれが利する」ことが自己愛「相手が利する」ことが愛
と2つ前に書いてあるように、自己愛と愛の違いを捕らえています。
つまり僕の中で「愛」の究極は自己犠牲になります。
「恋人を救って命をかける」って行為が一番上記の極端な例としてわかり
やすいと思ったんですが...ダメ?

命らずは単に「命の価値をしらない」やつという事で、上記の「相手が利
することを優先する」という考え方に関係ないので論議の対象ではないです。


はんろ〜ん。(笑)
投稿日 1月23日(火)03時01分 投稿者 taki 削除

ころ、言ってる事がわからん。(笑)

自己愛に関し、それはあまりに主観的すぎないか?と思う。
世紀末の詩が自己愛からの脱却というスタンスから始まっていても、
それをのみを語ることで、すべてを言い尽くせるだろうか?
言い尽くす気はなくとも、途中で論理や感想が空中分解しているのは
否めないんじゃないかな。

世紀末の詩を「己の」自己愛からの脱却(のような)括りだけで捉えられるだろうか?
そういった帰納法的な考察には限界があると思う。

第一、自己愛とは何を指しているのか?とここでハッキリせずに
自ら、

>私にとって自己愛とは主観であり客観ではありえない。

と言われたら、全然わかんない。(笑)

字で書いて、客観視させてくれー。

それに自己愛の種類といっても様々だろう。
それに含まれるであろう、美学や美意識などに殉ずることもあるだろうし。

では、侍や騎士が己の誇りのために殉じたのは、自己愛だろうか?

前に、自己愛のポジティブな面(自己愛からの癒し)
を書いたけど、そんじゃ、ネガティブな面はなんなんだ?

自分自身の中に「自己愛」がしっかりと見えているところから話していると、
自己愛の薄い人間にはピンと来なくても当然だと思う。
書きこみをみてるだけでも、ころ自身が自己愛に苦しめ、逃れようとあがいている様しか
イメージに浮かんでこないのよ。

うーん、君自身が自己愛を脱却してくれないと
話が進まない気がする。(笑)

山崎努氏が言ったのは、「枠」からの脱却といった意味合いのことじゃなかったかな?

まあ、バトって見ました。(笑)


付け加えて、
>愛というものはそんなに大それたモノじゃないと思っています。

じゃないでしょ。(笑)
自己愛と愛はともに包括されないから、超えたところなんじゃないのか。
その質では、愛にたどり着けない、ってのが野島氏のインタビューにあった気がするが。

んで、とらおさん。

>人は、絶望の淵に立たされても、愛を見失わずにいるということが果たして可能なのでしょうか?

愛はすべて都合の悪いことを許し、救ってくれるようなものではないと思うんですよ。
愛には絶望も含んでいると思います。
希望も同様。
いや、一緒に付かず離れずのものなのかもしれないですが。

愛は光だと思うんですね。
そして、必ず影と共にある。


あ、櫂さん。
例えがわかりにくーい。(笑)
とりあえず、自己犠牲とごっちゃにしてません?
そうなると、命知らずの奴はどうなるんだろう?とか思ってしまいますが。

イソップだったか、グリムだったか忘れたけど、
「百人の敵を倒せる勇者と、一人も敵を倒せない臆病者とが、
ある日勇者が百人倒し、臆病者が一人倒した。どちらに勇気があったか。」

まあ、ほぼ比較法なんですけど、勇気は臆病者にあったなと。
それが恋人をすくったとなればどうなんでしょう?
(すいません、男性対象の例えです)

まだありますが、今日はこの辺で。(笑)

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ホントに悪気はないんですが...
投稿日 1月23日(火)01時10分 投稿者 櫂 削除

反論(笑)

僕のスタンスは「自己愛と愛は一緒ではない」というところですね。

>何が一緒かというと、それが共に「真実」ではないと言う点、あと、どっちもた
>ぶん「真実」だろうという点、で一緒ということです。

ここの意味がよく...?たぶんかなり長い説明を要する感じですかね...

>私にとって自己愛とは主観であり客観ではありえない。
>客観で自己愛を語るなら、それはもう想像ということになり不確かなものになっ>てしまう

これは今回に限らず、ほとんどの人がこの考察に対して客観的にも主観
的にも意見を言い合う場ですからね。
この場合はわかりやすいかと思って例をひいたまでです。
その例から主題の「自己愛を超えた愛」に関しては僕個人の主観入りま
くりになってます。

>私にとって自己愛とは主観であり客観ではありえない。

僕にとっては主観の場合もあり、客観でも語れることです。
同じように劇中で影山と教授が「自己愛」に関して語るところを
「主観」「客観」まじりに話していたと思うのですが...

>客観で自己愛を語るなら、それはもう想像ということになり不確かなものになっ>てしまう。

主観だけで語られた恋愛論などというものは存在しないし、個体的ではなく普遍
的でなければ「論」というものにさえならないのでは?

>私にとって、対象とは自分だけであり、「自分が死なずに、自己愛を超える」と>言う仮定はナンセンスです。

僕の場合は上記のとおりですから「ナンセンス」ではないのです。

>私なら、絶対にこの順番を崩さない。
>飾りは飾りに過ぎず、決して主体にはなり得ない。

ころさんが解読してくれたように、順序がどうであれ、「彼」と「飾り」
どちらが主体を持っているかは明らかと思いますが...

>愛というものはそんなに大それたモノじゃないと思っています。

僕は亘的人間ですから「愛」はとても大それたものと思ってます。
「ホントに手に入れることができるのか?」とさえ思ってます。
このドラマをみて、さらにそういった認識が高まった気がします。
そういう「愛」に対する考え方、教授も亘も最終的には同じ認識
を持ってますよね。

>私にとっては、自己愛は生きることであり、同様に、愛も生きることです。
>愛は生きていれば誰かと触れ合っていれば、何度かは出会えるぼんやりとしたモ>ノというイメージがあります。
>不意に現れて、意識したとたんに、たとえば「愛」という文字に変わってしま>>う、そういうモノのような気がします。

ここが決定的に僕と違います。最終回の教授のセリフで僕も共感できる部分。

>鏡は愛の敵といえるだろう
>自己愛を増幅するからだ
>自分を好きな人間は、他人も愛せるとよく道徳の時間で言いますよ
>表面的にはそうだろう
>しかし、本質は違う
>自分を愛し過ぎると他人を愛さない?
>鏡の照り返しのように、したことを返せと要求するようになる
>自分を愛するがゆえに、いつも不平や不満がある。

つまり「自己愛」と「愛」は相反するものとして野島氏は描いてますし
僕も基本的にこの意見に全面的に共感しました。
「おのれが利する」ことが自己愛
「相手が利する」ことが愛ならば、両方を満たす場合も時と場合により
ありますが、必ずしもいつもそうとは限らない。

>愛ソノモノというのは説明できるものではなく、どんな手段を使っても表現でき>ないものだと思います。
>愛に限らず、真実というのはそういうものなんでしょうけどね。

ここの部分は共感できます。


バトル1
投稿日 1月23日(火)00時29分 投稿者 ころ 削除

>櫂さん

ん〜、ごめん!全然納得できないです(笑)
自己愛の捕らえ方と言うのは人それぞれだから、櫂さんにそう言われても、それが櫂さんの考えなんですねとしか言えません。
でも、ここでそれを言っちゃうとオシマイなので、takiが言っていた「切磋琢磨の形」で返させてもらいます。
自己愛というテーマから生じるズレや摩擦を感じることで、お互いが自己確認できれば幸いです。

まず確認しておきたいのは、「自己愛の先にある愛」の存在を唄っているのは『世紀末の詩』の中だけの話であって、自己愛も愛も一緒というのが私の基本的スタンスです。
何が一緒かというと、それが共に「真実」ではないと言う点、あと、どっちもたぶん「真実」だろうという点、で一緒ということです。
「真実」の話になると、また話が長くなるので、今回の論戦に進みましょう。


>対象が死なずに「自己愛」を超えた愛が存在する場合

私にとって自己愛とは主観であり客観ではありえない。
客観で自己愛を語るなら、それはもう想像ということになり不確かなものになってしまう。
私にとって、対象とは自分だけであり、「自分が死なずに、自己愛を超える」と言う仮定はナンセンスです。

>僕は彼は「自己愛」を超えた、本当の愛を持つ人なんだと素直に感動を覚えました。

命をかけた行動は見る者の心を揺さぶります。
もしも、その感動を言葉にするのなら、表現する者にもそれなりの覚悟が必要だと私は思います。
主体は彼であり、彼の行動を形容する愛とは、彼にとっては飾りに過ぎないということ。
飾りは飾りに過ぎず、決して主体にはなり得ない。
私なら、絶対にこの順番を崩さない。
これは、私の文章を書く上での覚悟というか、美学ですね。

>自分が「生きること」を前提とするのが「自己愛」ならば

愛というものはそんなに大それたモノじゃないと思っています。
私にとっては、自己愛は生きることであり、同様に、愛も生きることです。
愛は生きていれば誰かと触れ合っていれば、何度かは出会えるぼんやりとしたモノというイメージがあります。
不意に現れて、意識したとたんに、たとえば「愛」という文字に変わってしまう、そういうモノのような気がします。
愛ソノモノというのは説明できるものではなく、どんな手段を使っても表現できないものだと思います。
愛に限らず、真実というのはそういうものなんでしょうけどね。



ああ、また話が自己愛から遠ざかった気が…そして第八話考察からも…。
話がいきなりワープする悪い癖…スイマセン。

愛の説明は出来ないが、自分のスタンスは喋れます。
というか、それしか出来ません(爆)

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追記
投稿日 1月22日(月)07時15分 投稿者 櫂 削除


>自己愛は本当に超えなきゃならないものなのでしょうか?

超えなきゃ「ならない」とは思いません。
たぶん真実の愛ならば恋人を救って命を投げ出した彼のように
緊急の場合に「自己愛さえも超えられる愛」は「たしかに存在」します。
(世紀末の詩のエピソードでこういう話もほしかったけど)
自分が「生きること」を前提とするのが「自己愛」ならば相手が生きる
ことを第一条件とするとき、すでに「自己愛」を超えているわけですよね。


自己愛について
投稿日 1月22日(月)07時08分 投稿者 櫂 削除

ころさんの意見、なるほどな、と思う部分もあります。

対象が死なずに「自己愛」を超えた愛が存在する場合がありますよ。
こんな例はどう?

それは「自分の命より大切に思う人がいて、いつでもその人のため命を
なげだすことができる」という気持ちがある場合。
「命がけで愛するものを救ったあと、救った人間も偶然命が助かった場合」
などは、上記の愛の証明になるのではないでしょうか?
しかも僕の知り合いに、上記のようなことを行った人がいます。
僕は彼は「自己愛」を超えた、本当の愛を持つ人なんだと素直に感動を覚
えました。


第八話再考察「自己愛について」
投稿日 1月22日(月)00時45分 投稿者 ころ 削除

私が「自己愛」と『世紀末の詩』で言う「愛」に線引きをするならば、「永遠の愛を信じますか?」という問いになる。

もしも信じるのなら、その「愛」はあるのでしょう。
でも、人間死んだら終わりという発想で「永遠の愛」を否定してしまうのなら、『世紀末の詩』で言う「愛」もまた存在せず、すべては「自己愛」の枠の中ということになる。

前にも言いましたが、「自己愛の先にあるモノ(=愛?)」が本編の一貫したテーマであったように私は思う。
ただ、ここで見逃したくないのが「自己愛は超えるべきものなのか」また「超えなきゃならないのか」ということです。

私的には、自己愛は超えなくてもいいと思っています。
本編では毎回、結局自己愛を超えられないキャラクター達が描かれていますが、彼ら自身には「自己愛を超える」という意識は無く、自己愛という概念すら無かったはずです。
彼らを自己愛という「枠」で囲い、彼らの愛を愛ではないと言ったのは、教授であり脚本家・野島氏本人です。
野島氏が本当に彼らの愛を否定していたのかは正確にはわかりませんが、彼らの愛を自己愛という「枠」で囲うことで、その外側にあるものをイメージさせようとしたのはインタビュー記事でも言ってる通りです。
でも、「枠」の中、自己愛を超えられない生き方も悪くないんじゃないかって気持ちが私にはあります。
「枠」の中でも、イイなって共感できることがある。いや枠の中だからこそ共感出来るのかもしれません。
私には自己愛を「超えなきゃならない」と素直に受け止めることが出来ません。
半面、どこかで「自己愛の先にあるモノ」を信じ、超えようとする亘の姿にも共感してしまうのです。

自己愛は本当に超えなきゃならないものなのでしょうか?
こうした受け手の迷いを形にしたのが第8話であったような気がします。
「自己愛を超える」という強い意思が在るか無いかを確認する、それが第8話のテーマだったように思います。
その問いに答えるかのように、最後に亘は「それは愛じゃない」ときっぱり言い、「愛」を目指します。しかし教授は言い切ることが出来なかった。
亘の言葉はもっともだし、清々しさを感じる。
だが「枠」を踏み出せない教授に、私はある種の共感を覚えました。
自分で作った自己愛という「枠」に閉じ込められ抜け出せなくなったのは教授自身だったのかもしれません。
それは教授に共感した私にも当てはまるのですが。


なんか理屈っぽくて読みにくいですね。
今回のキーワード「枠」について、私的に一言で言うならば、


私にとって自己愛とは生きること。
『世紀末の詩』はそれを超越したところに愛があると唄っている。
「枠」とは「私って思うこと」。


と私は思う。
…弱い。断定はできないです。
なんか第8話の話じゃなくなってる?(汗)

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僕は...
投稿日 1月21日(日)19時10分 投稿者 櫂 削除

>亘的な感情論で、愛への感想を語るもよし、
>教授的スタンスで、物事をシニカルに答えるのもよし。

僕は亘派。「わかっちゃいるけどやめられない」感情が先にきますね。
愛に対するあこがれが強い亘の発言は、いちいち共感しまくります(笑)


「世紀末の詩」8話考察!
投稿日 1月21日(日)00時36分 投稿者 ふみ 削除

今SOS放送中ですけど(笑)、世紀末8話の考察を再開します。
みなさん「利用上のお願い」を読んでご参加下さいー
ちなみに7話はtakiさんがチャットでやってくれました。そのうちメルマガで配信すると思います。
ここのBBSは今までどおり、世紀末の詩全体や8話以外の話題で使って下さい。

http://alived.com/cgi-bin/bbs/topic.cgi


くまさん、ついでにですが。
投稿日 1月20日(土)11時42分 投稿者 taki 削除

掲示板について意見を書きこむことで、共感、反感を生むのは
仕方ないことなんじゃないでしょうか?

とくに「愛とは?」がメインのテーマである世紀末の詩に関しては
教授と亘のバトル的なやりとりも随所にありましたし、
投げかけられているテーマが難題で、そして決して優しくない。

それぞれのスタンスにより意見や感想が違ってくるでしょうが、
そこは切磋琢磨という形で良いのではないでしょうか。

亘的な感情論で、愛への感想を語るもよし、
教授的スタンスで、物事をシニカルに答えるのもよし。

僕はどちらかと言うと、教授的スタンスかなぁ。

こういった物事に願望を交えて話すのが嫌いなんですよ。
愛というか、恋愛に対し、懐疑的なスタンスなので。


愛とは元々感じるものですが、それを「いったいなんだろう?」
と考えてしまうと、思考の迷宮に落ちてしまうわけですね。
かといって、思考の優れたるものだけが愛を理解できるわけではない。
また、それが正しいと言えるわけでもない。

野島氏もこの作品から、難解になるため、みんなついてこられる人は
少なくなくなるだろう、と詩集に書いてありましたし。
(すいません、うろ覚えです。笑)

http://alived.com/autism/


愛する資格
投稿日 1月20日(土)09時49分 投稿者 櫂 削除


>「愛し愛される資格」(第10話)というのは 何なのでしょう?
>これが、僕の「世紀末の詩」最大の疑問です。

このドラマに共鳴してここにあつまってきている人ってのは「愛」
に対するあこがれや感受性が強い人が多い気がします。
また、「愛」に対する真摯な態度を持っている気も。
そこが基準になるのではないでしょうか?
「愛を求めて生きるのか、求めないで生きるか?」ということが
最低の資格になるでしょう。
でも、それでも愛が得られるのか?というと疑問符がついてしま
いますが。



>くまさん
投稿日 1月20日(土)02時28分 投稿者 ころ 削除

いやいや、あれは別にくまさんに言ったわけではないのですよ。
謝らんでくださいな。
あれはですね、「人の感想に正しいとか間違っているとか、そんなの知ったこっちゃない!俺の意見はこうなんじゃー!」って、書いただけですから(笑)
あんまり気にしないでくださいね。

>マナー

私は間違った引用を使って失敗しましたが、
自分の主張ですから、自分らしい言葉で書きたいなと私は思っていつも書いています。
らしいっていうのが難しいのですが。
くまさんが思っていることをそのまま書いていただければ、読んでいる側は面白いです。
がんがん主張すればいいんじゃないでしょうか。
ここはバトルの場ですから(笑)

追伸
遅くなりましたが、りいさんレスありがとうございました。
求愛ダンスの話は初耳でした。勉強になります。

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いろいろ意見聞かせてください
投稿日 1月19日(金)15時29分 投稿者 くま 削除

MR.未成年さんへ
「愛は冒険」の解釈については、2,3ページ前にいろいろな解釈を話していただいているので
そちらをご覧になってはいかがでしょうか?(もうご覧になっていたら,失礼)
僕的には、「とどまること」は愛を表現する「場」としては非常に容易であるが,
愛があって当然(と感じる)の場所に居続けることはいつの日か、
>日々の暮らしの中に埋没して、もう面倒で、あるいは本質的に怖くてか
>誰も、愛があるのか確かめたりはしないものです(第2話・教授)
といういわば危険性をはらんでいる。
つまり、愛に対する感覚がマヒしてしまう。
だから物理的な距離を離すことで、それでも思いつづけることができるなら、「愛がある」といえる
という意味で
>唯一の真実の愛とは、互いの愛を確かめ合うための・・・・
>・・・・・冒険だから
と思いました。

ころさんへ
>妥協を許さず厳しく自己愛と向き合い、見えない愛を探求する
っていうところで「愛は自己愛を超えたもの」っていう勘違いしてしまいました。
ごめんなさい。。。

話を蒸し返すようならごめんなさい
愛を感じる「構造」や「仕組み」に関係すると思うのですが、
「愛し愛される資格」(第10話)というのは 何なのでしょう?
これが、僕の「世紀末の詩」最大の疑問です。

マナーについて質問
>荒らすつもりではなかったのですが、結果としてそうなってしまった
ころさんみたいに、世紀末の詩についてきちんと自分の意見を言った場合でも
荒らしっていうんですか?僕は全然そういう風にはとってなかったんですけど・・・
僕はたまにしかカキコしないし、自分勝手に論点はずれたようなことも書いちゃってる時が
結構多いいような気がして、僕も荒らしなのか?って不安です。
初心者なのでマナーみたいなのを教えてくれるとありがたいです。
(どなたかレスいただけるんでしたら、なるべく雑談の方にお願いします)


愛は冒険の意味について
投稿日 1月19日(金)01時25分 投稿者 MR.未成年 削除

「唯一の真実の愛とは、互いの愛を確かめ合うための・・・・・」
「・・・・・冒険だから」
という亘のせりふについて僕の意見を書きたいと思います

ずっと同じ環境にいる(とどまること)と
人間が変わらないと思います
観覧車の人の恋人は
新しい環境でいろんなことを体験して
感じてたことをお互い話して
もっと相手のことをわかりたいと思ったんじゃないでしょうか

愛は冒険というのは
愛は本当の相手を求めていくことで
その相手を求めてく事が冒険というんじゃないかなぁと
思いました

ジョン・レノンの曲で
スターティング・オーバーという曲で
こんな歌詞があります

ともに分け合う二人の人生はとても尊い
僕たちはともに成長した
二人の愛は今でも特別だけど
あえて冒険してみないか
それぞれ 新しい空に飛び立つんだ

分かりにくい文章ですみません
意見を書いてくれるとうれしいです


補足
投稿日 1月19日(金)00時55分 投稿者 櫂 削除


>それならば「自己愛を超えた愛」とは誰のために存在するのでしょう?
>相手のためでしょうか?

自己愛を超えた愛。それはやはり相手の為に存在するのです。
利己的という言葉がでましたが、「己に利することを優先する」ことが
利己主義ならば、「己の利よりも相手の利を優先する」、これが自己愛
を超えた愛と思います。

すなわち、究極の愛は利己主義とは正反対の「犠牲」をはらんでいるも
のといえるかもしれません。(もちろんそれが全てとはいいませんが)

そんなものが現実に存在するのか、どうかはわかりませんが、子供を助
けて死んでいった親の痛ましい事故の報道は何度も聞きますし、身近にも
それに近い話がありました。
ボク自身、そのような「愛」の存在を信じるか信じないか、というより
「あってほしい」と考えることもあります。

>それならば自分にとって「愛すること」はなんの意味が
>あるのでしょう?

自分にとって、「愛」そのものに意味をもとめる必要はな
いのかもしれません。
そこにたしかに「存在」するのであれば、それだけで充分
美しく価値のあるものだと僕自身は思えるのです。






自己愛?
投稿日 1月19日(金)00時03分 投稿者 ころ 削除

ちょっと勘違いされているようなので言わせてもらいますが、
まず、「自己愛を超えた愛」なんてものを書いた記憶は一切ないです。
私は愛について「わからない」、「見えない」とは表現しましたが、
自己愛の先に愛があるなどと断定するようなことを書いた覚えはありません。

私は自己愛というものと向き合いながら何かを探していく姿に共感したのです。
「亘、愛はあるのか」という教授の声は今でも忘れずに耳に残っています。

>人間は利己的なだけなのか?

教授の問いの一部だと思います。
人間は利己的なものです。
欲の権化、超利己的だった教授が魅力的に見え、共感してしまったのはなぜなのか?を自分に問うと、それは山崎さんがカッコ良かったからというのが一番の理由かも知れません。(笑)
2番目は(爆)、自分の死期が近づき「本当に大切なもの」に気付いていく『クリスマス・キャロル』のお話のような典型的ハートフル・ストーリーに心を揺らされてしまったからだと思います。

「本当に大切なもの」が本当に大切なのかはわかりません。
わからないけど探してみる。
あるかどうかわからない、わからないけど探してみる。

限りない探求心、持ち続けたいです。
それを持っている人って魅力的だと思います。
最期、教授はキャバクラで騒いで、そこのトイレで死にました。
カッコ悪い最期だったけど、らしいなって感じがして良かったです。
私にとってはカッコいい最期でした。
これもやっぱり山崎さんだからでしょうか?(笑)

人間の魅力ってわかりませんね。
あれ、自己愛の話じゃなくなってる?ま、いいか。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


引用について
投稿日 1月19日(金)00時02分 投稿者 ころ 削除

まず最初に謝っておきますが、山崎勉氏の引用は、
私のあやふやな記憶のため、正しい引用であったかは定かではありません。
ただ私が言いたかったのは、自己愛に対する関心が山崎氏の人生においても
かなりのウェートを占めているということを強調したかったのです。
「無くす」という表現がまずかったのかもしれないけど、
自己愛を否定するような意味で書いたわけじゃない。
安易に書いた私のミスです。
あの引用は忘れてください。
今後、あの引用に関する批判はしないでください。
荒らすつもりではなかったのですが、結果としてそうなって
しまったことは謝ります。

確実なのは、山崎氏が「自己愛」というキーワードを使い、
その言葉に当時(昨年)関心を抱いていたということ、
それだけです

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


え〜い。話に割り込んじゃえ!
投稿日 1月18日(木)17時37分 投稿者 くま 削除

>それほど人は自己愛に囚われている?

囚われているというか、愛によって満たされる存在が「自分である」と考えるならば
愛は自己愛であるという側面をぬぐえないと思います。

それならば「自己愛を超えた愛」とは誰のために存在するのでしょう?
相手のためでしょうか? それならば自分にとって「愛すること」はなんの意味があるのでしょう?
「恋し森のくまさん」で教授が自己愛を否定できなかったのは、こういう理由からではないでしょうか?

僕なりには、「自己愛を超えた愛」というものは、「他者との同化」、「他者との精神的共有」に非常に近いものだと思います。


自己愛について
投稿日 1月18日(木)07時46分 投稿者 櫂 削除


自己愛についてtakiさんのいっていることは正しいと思いますよ。
ボク的ないいかたで言い換えると、「自己愛とは生物が生き長らえる
ために生まれつき備わった種の防衛本能が過剰に働いている形」
だと思います。だから完全になくすことはできないし、takiさんの
いわれているように、緊急時「心の癒し」の為に人間みずからの心
の内部に備え付けられているもの。
スポーツで体が限界を迎えると「エンドルフィン」という脳内麻薬
が発生しますが、心を癒す特効薬は「自己愛」に他なりません。

すなわち「自己愛をなるべくなくしていきたい」という山崎努さん
の考え方は、「人の道を解脱したい」っていう宗教的考え方にすり
かわっていく気もします。
山崎氏は自己愛否定派なのか?
でも物語は自己愛の否定じゃないですよね。
「自己愛」を超えた愛の模索(探索)
でも、ホントにそんなものがあるのか?っていう答えは出てなかった
気がします。(ってゆーか、出すのは不可能かも)





なんか、だいぶ下になっちゃいましたけど・・・・。
投稿日 1月18日(木)03時44分 投稿者 taki 削除

むー。難しいか?>ころ

しかし、ひさしぶりに元気な書きこみ。
なにか、「生きる意味」をメインの掲示板で遣り合ってた時を思い出す。(笑)
でも、前にもそんなこと言わなかったっけ?
とりあえず、平たく書くと書きこみが長くなり読みにくいし、書きこんでる方の数人に
答えてるから読みにくいかもなー。
だから、出来るだけ引用文を使ってるんだが。
でも、良く読め。(笑)

> 『世紀末の詩』における「愛」とは「自己愛」抜きには語れないと思う。

これは了解。

でも、自己愛がどんな弊害を生んでるのか、それ自体を良く考えないとダメじゃないかな?
他者と交わり会うことに、自己愛が弊害になるは解るが。

愛の問題を考えるのに、自己愛的であったり、主義めいていたり、それに囚われてるのでは、
得れるの得れないの問題外じゃないかな?つまりそれ以前の問題。
それほど人は自己愛に囚われている??

>自己愛と向き合い

人は他者との関係性の中で、自己愛と言うフィルターを通してしまい勝ちだけど、
愛自体を見る時に、自己愛はその形をいがめ、邪魔をする。
だからこそ、自己愛を超えたところへ到達し、そこから見えたものは真実。(だろうか?)

人間は利己的なだけなのか?という問いかけのような気もしてくる。


>「自己愛をいかに無くしていくかが人生のテーマ」

しかしながら、これだけを取り上げて自己愛自体を批判するのはどうかな?と。
みな、必然的に備わっているものであり、個人個人によって、その強さや
自分に向けられる部分の対象が違うもんだろうし、自己愛なくしては
心の痛みも癒せないだろうし。

過去を事実より、美しく彩ろうとするのは自己愛からの癒しじゃないだろうか?


ニュアンスとして、自己愛が「自己満足」と言う意味合いを大きく含んでしまうと思う。
そこから愛を定義付けてしまうのではなく、脱却を試みた感覚はドラマの中にあったと思う。
と、脚本家としての斬新な試みってベースには、自分枠からの逸脱という感もあった思う。

こんなもんでどう?

> 論点違うとか言わないで〜。

言わんよー。これは別話題だから、全然問題ないー。
けど、君はチャットをよくやってた時から、たまにピンぼけしてたし、
慣れとるわいな。(笑)

PS:マンガの感想出しにくいぞー。(笑)


PS2:考察チャットとメールマガジン発行に関わってるから、ラストについてとか
ドラマに対する総括とかだせんのよー。
なので、その部分は無回答で御許しをー。

http://alived.com/autism/


たぶん
投稿日 1月18日(木)00時49分 投稿者 櫂 削除

日常生活で、「愛」などとまじめに考えたり語ったりすることが
ないぶん、「世紀末の詩」というドラマはひさしぶりに「日常」
の中で愛を考えさせてくれた稀有なドラマなのだと思います。
私を含め、このドラマに魅せられた人はやはり「愛」を実生活で
手に入れているかどうかは別ですが、一生「本当の愛とは」って
いう命題に悩まされ続けていく存在なのかな。


愛は永遠の哲学ですから
投稿日 1月18日(木)00時07分 投稿者 k−1 削除

定義すら見えない
だからその断片を探すのです
吹雪の中で山荘を探すように
山荘なのかペンションなのか
人によって形は違いますけどね


真実の愛
投稿日 1月17日(水)21時17分 投稿者 えいじ 削除

世紀末の詩を見てから、愛ということをもう一度考えなおすようになった。僕は、まだ真実の愛ということは分からない。一生わからないかもしれない。でも、いつかは、手に入れてみたいな。真実の愛を。


世紀末の詩を見たら
投稿日 1月17日(水)20時43分 投稿者 MR.未成年 削除

世紀末の詩を見たら
結婚式で永遠の愛なんて誓えませんよ
ここの人はどうなんですかねぇ


はじめまして ころさん
投稿日 1月17日(水)11時29分 投稿者 りい 削除

はじめまして ころさん。
>「愛」に対する己の探求心を教授は「冒険」と表現したのではないかと
>今は思う。

なるほどなあ、と思います。

私が思ったのは、「動物の求愛ダンス」のことです。ひょっとしたら
『世紀末の詩』の中でも触れられていたかもしれません。

 動物の求愛ダンスは、本当はダンスを踊っているのではなく、異性
に近づきたいけれど近づいて攻撃されないかお互いに不安に感じてい
るので、近づいたり離れたりちょっと面白い動きをしたりするそうで
す。

 他の人に関わろうとするとき、傷つけられる可能性があると。自分
の経験だったり、見聞きしてきたことからそういう不安があると。
 そういうリスク(危険)を背負ってでも、愛し愛される関係を他の
人との間で持ちたいと行動する、つまり危険を冒すという意味で冒険
ではないかなと思いました。
 これは、男女の愛だけでなく、同性間の友情についても言えると思
います。


愛について(補足)
投稿日 1月17日(水)11時10分 投稿者 りい 削除

愛し合うことが難しいのは、両者の持つ愛に対する理解が異なるからだと思う。

 一方が愛を動機として行ったことでも、相手にとっては、その行動が愛を動
機としているとは感じられなかったり。逆に、愛してたらその行動は無いやろ
と自分が思うことを相手がやったり。
 たとえば最終話の麗美さんとその恋人の場合がそうでしょう。恋人の男が麗
美さんをどのように愛していたかはさておき、2人のそれぞれの「愛をこうい
う行動によって示していこう」という方向性が一致していなかったのは明らか
でしょう。

 愛を実感するには両者の間に愛についての一種のコンセンサス(共通の理解)
が必要ではないかということを言いたかったんです。

皆さんはどう思いますか?


takiさんに反論!…ではありませんが(笑)
投稿日 1月17日(水)03時28分 投稿者 ころ 削除

takiの言っている愛というのは難しくて良くわからない。
2年前を思い出して、私なりに再考察してみよう。

『世紀末の詩』における「愛」とは「自己愛」抜きには語れないと思う。
各話で提唱される愛のカタチ、愛のコトバは、すべて自己愛の内側にあって、
その自己愛を超えたところにあるモノを教授は亘に問い続けた。
それが愛というモノなのかは私にはわからない。
妥協を許さず厳しく自己愛と向き合い、見えない愛を探求する二人の男を描いたのが
あのドラマだったのではないか。
結局、答えが出ないまま「愛」に対する己の探求心を教授は「冒険」と
表現したのではないかと今は思う。

私は、山崎氏、竹野内氏は自身の自己愛と向き合い、役者として人として
何かを探しながら教授と亘を演じていたであろうと推測する。
でなけりゃ、答えの見えないものに対しての、あんな熱い掛け合いなど出来ないと思う。
以前、新聞のインタビューで山崎努氏が
「自己愛をいかに無くしていくかが人生のテーマ」と語っていた。
そんな人が野島伸司の『世紀末』という脚本に、なにも反応しないわけがない。

『世紀末の詩』は脚本と二人の役者魂が見事にリンクしたすばらしい作品だったと思います。
禅問答のように繰り返す二人の役者のぶつかり合いに私は熱くなり、そして共感した、
当時『世紀末』にハマった自分をこのように分析します。


追伸

論点違うとか言わないで〜。
これは、あくまで私の解釈・推測・感想ですから。
視点が違うということです、はい。


追伸2

『世紀末の詩』はジョン・レノンの歌抜きには語れない!!!

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takiさんに賛成
投稿日 1月15日(月)13時50分 投稿者 りい 削除

愛を感じる仕組みについて皆さんの意見が知ることができてうれしいです。

私が思っていたのもtakiさんがおっしゃった「愛を知ってる」ということかなあ。

power of love と言うけれど force of love とは言わない。きっと愛は
筋肉のように何かを行うための潜在的な力なんじゃないかとおもう。

潜在的なものだから何も無ければ見ることはもちろん感じることも難しい。
何らかのアクションに対するリアクションを見ることで知ることができるん
じゃないか?とか。

だから、愛を感じるためには愛に対する感受性が必要であると。

「ミラー効果」ということだと思うんですけど。
「自分が他の人とどのように接するか」が、「他の人の行動の背後にある動機や、自分がどうのように思われているかに対する見方」に影響を及ぼすと。

ということは、自分なりに「これが愛だ。これをすることが愛を示す方法だ」と
思うことを実践していくことが、鍵だと思う。


話はかわりますが
投稿日 1月13日(土)17時31分 投稿者 櫂 削除

今日レンタルで借りてきた4巻目をダビングしてみたら
簡単にできました。コピーガード入っているのかな?
この機会に全巻借りてきて取り直してしまおうと思います。


愛する意思
投稿日 1月13日(土)09時52分 投稿者 櫂 削除

>では意思の無い「愛」とは何なのでしょか?
>「愛」というものが「恋」の延長で、たしかに
>相手がいるのならそこに意思が存在するのでは
>ないのでしょうか!どうなんでしょう?

この質問ですが、takiさんの解説につけくわえると
「意思がある」とボクが表現したのは現実世界に存在
する愛を考えたときに、「誰かが誰かを、愛する」と
いう形でしか、存在し得ないからです。
(ほんとに存在するか、どうかっていう教授的な話は
この際おいときます)

一方「愛がある」という表現は2次元的で現実的な表現
とは思いません。愛を物質的に表現する..即物的です
よね。

takiさんのいうように意思が介在しない「愛」は存在
し得ないと思いますよ。





んーと。
投稿日 1月13日(土)04時54分 投稿者 taki 削除

>ものすごーく、おひさしぶりですtakiさん(笑)

いえいえ、こちらこそ。(笑)<櫂さん
もうすぐ、考察BBSを始めれるように、管理人殿にお願いしてありますので、
また、御相手おねがいしますー。

んでですね、ちょいっと付け加えが。
えと、掲示板では定義付けが限界ってことで、
仕組みに関しては、個人個人の体験を元にしても
感性、感覚等等々、理解するのには難しい面があって、
下手すると、相談室になっちゃうし(爆)
過程の問題だと思うんで、その心の働きこそが人それぞれだから
もうちっと限定してほしいなぁ、と。

まあ、愛を与えて感じること、愛されて感じることとかで
それ自体が変化してしまうと思いますが、
それらを含めて、あえて感じる仕組みは、
その発端から、「愛」と断定できるような状態に至るには?
(うーん、これはかなり至るには難しい状態ですが、あえて便宜上)

愛を知ってる、ってことじゃないでしょうかねぇ。

実は愛されて育った子どもは、人に愛し愛されやすいと
おもってるからなんですけど。
男女間の愛を感じるには、他の愛を知っている者が
愛にめぐり合いやすい、じゃないでしょうか。

Oさん(ZERO?)さんへ、ちょいと考えを。

>「愛する」という言葉と「愛がある」という言葉はどちらが正しいのでしょうか?

いや、どちらも正しくないと。(笑)
んー、愛するのは2人称で、愛があるのは3人称「でも」言い表せる、
のではないでしょうか。
つまり、人の立場が異なることによって、受け取りかたが違ってきますよね。
となると、愛を感じる立場ではなく、考える立場から出た疑問でしょうか?

んでも、スポットは「愛する」と言う言葉の作為的なニュアンスについて
お聞きになられてるのでしょうから、それについては
相互の意思確認を無視した表現かもしれないですね。
どちらが正しいかより、どちらが愛なのか(に近いのか)と考えると、
愛がある、なんですけど、そうなると自分のことじゃないみたいですね。

と、意思のない愛はないんじゃないでしょうか?
ちょいと歩いてて後ろを振り向く、ってのも意思のうちだと思うんで、
櫂さんの言う意思とは愛したい気持ち、ぐらいのことを
言っておられたのではないでしょうか?
意思のあるなしで捉え、その相反した言葉で立証されることはないとおもいます・・・が。

うを!明日も仕事なのに5時って。(笑)

http://alived.com/autism/


お返事
投稿日 1月12日(金)23時53分 投稿者 0 削除

はじめまして。

さっそく話に入りますが
では意思の無い「愛」とは何なのでしょか?
「愛」というものが「恋」の延長で、たしかに
相手がいるのならそこに意思が存在するのでは
ないのでしょうか!どうなんでしょう?

http://homepage2.nifty.com/kokorononakani/index.html


愛について
投稿日 1月12日(金)21時36分 投稿者 k−1 削除

もうすぐドラマが始まるので早めに書き込んで起きます。
愛について僕の意見を述べさせてもらえば、
愛に対する定義って文化の中にあると思うんです。
日本人とアメリカ人では愛に対する意識に大きな違いがあると思うんです。
その中で人それぞれの価値観で形が少しずつ変わるのだと思います。
仕組みや構造もその辺にあるのでは?


そうですね
投稿日 1月12日(金)07時11分 投稿者 櫂 削除

ものすごーく、おひさしぶりですtakiさん(笑)


>愛を認識する機能に関しては、そんなものないと思いますね。
>しかし、仕組みという構造に対してはあるはずですね。

なるほど、ちょっと僕の書き込みを見直してみましたが、勘違い
入ってたかな。
「機能」ではなく「仕組み」ですね、問題は。
僕もtakiさんの意見に近いです。「定義的ではありえない」
つまり「人によっていろいろ」ってことですね。



0さん...
投稿日 1月12日(金)07時00分 投稿者 櫂 削除

はじめまして0さん
>「愛する」という言葉と「愛がある」という言葉はどちらが正しいのでしょうか?

「愛する」と「愛がある」
違いは「意思があるか、どうか」ですよね?
表現方法が違うだけで、「正しいかどうか?」という評価はできないと思います。


なぜか・・・・。
投稿日 1月12日(金)03時02分 投稿者 taki 削除

明日から、野島伸司の新番組が始まると言うのに、
なぜか、世紀末の詩の書きこみが多いと言う。(笑)

TBSなんで、シリアスなカラーのドラマじゃないかなと思います。
(前情報は全然知りません。タッキーとふかきょんしか。笑)

と、それだけ書くのも何ですからここの話題をちょいと。

愛を認識する機能に関しては、そんなものないと思いますね。
しかし、仕組みという構造に対してはあるはずですね。
じゃないと、愛という言葉なんて出来なかったでしょうし。
(しかし、神については別。太古の書物からの認識や、人間の信仰心から
生まれた可能性もあるので、ここでは別件)

仕組みというのは、愛をどうしたら感じるか?と言うことだと思うんで
それに関しては、一概に言えないのではないでしょうか。
もっと、限定した、自己の体験に拠らない、定義的な範囲でしか
掲示板などでは限界があると思います。

構造としてどうだろう?と考えると、どうしても個人の過去の体験に
拠ってしまいがちだと思います。

しかし、過去の思い出を反芻することによって愛に変わっていく事もあると
思います・・・・し、そうしてしまうことはよくあると思います。

が、愛は記憶ではない。

愛の記憶はあっても、愛が記憶ではありえない。

記憶はあくまで「過去」であり、今という時間が付与されている
人間には条件的に成り立たないと思います。

過去に拘り、過去を恋愛を愛にする、愛と思いこむ思いは
愚かなんじゃないか?

自身がしてきた恋愛が、なぜ愛でなくてはいけないのか?
それは愛であって欲しかった、という願望に過ぎないと思います。

愛が消えない、とするならば、それは酷い矛盾になるわけですからね。

果たして、愛は今を彩り、生を有意義に感じさせるためだけのものなんだろうか。
そうならば、クリスマスツリーの飾り物みたいなもんですよね。

とか思う、今日この頃です。

http://alived.com/autisum/


はじめまして りいさん
投稿日 1月12日(金)02時31分 投稿者 くま 削除

はじめまして くまと申します。

僕は以前「愛は現在形ではありえないのでわ?」
という質問をしたことがあるんですけど、
「愛はどうやって認識できるの?」って疑問から派生したものなんです。

僕なりには「今、愛がある」っていうのは認識できない(認識機能がないというか機能が働かないというか…)
と思います。
だから 櫂さんもおっしゃっているように、片思いに悩んだり、(愛と思い込んで)偽者の愛をつかまされたりするんじゃないでしょうか。
そして愛する人との別れ(死別)がきた時に心が壊れてしまったり(教授論)ひとり残される悲しみを生涯受け続ける(亘論)とき、
初めて愛の存在を認識できるのではないかと思います。(壊れた心で認識と呼べるのかどうかはわからないんですけど…)

なんか自分で書いてて悲しくなってきたんですけど(死によって愛を認識するなんて…)
認識機能の有無=愛を感じれるor感じれない
って考えると こうなってしまいました。
でもでも 愛が認識できる、できないに関わらず「愛とは生きること!」という言葉には大賛成です。

文章がとてもヘタクソなので きちんと伝わるか心配です・・・。


愛する
投稿日 1月12日(金)00時29分 投稿者 0 削除

「愛する」という言葉と「愛がある」という言葉はどちらが正しいのでしょうか?
私には「愛する」という言葉には動作主のエゴが感じられるのですが皆さんは
どう思いますか?

http://homepage2.nifty.com/kokorononakani/index.html


愛を認識する機能
投稿日 1月11日(木)23時48分 投稿者 櫂 削除

りいさんはかなさんk−1さんはじめまして。

>目で見ると言うことは光を感知する仕組みが目にあるからで、
>じゃあ愛を認識する「仕組み」ってなんでしょう

む、難しい。
僕なりの意見で言わせてもらうと、この機能は人間にはありません。
たぶん、昔あったかもしれませんが、いつかなくなってしまったもの
なのかも。
だからみんなが悩む。教授の「愛はあるのか」という苦悩はそこから
始まっていると思います。
恒例の教授のセリフの引用。

>人間は見てはいけないものがあるんです
>互いに恋をし合うことはある…しかし愛し合うのは…難しい
>例えば結婚した夫婦をご覧なさい
>恋をして結婚したかもしれない
>しかし、いつしか熱は冷め、家族になったから愛に変わったと思う
>思う、ただ思うだけだ
>誰もが突き詰めない
>日々の暮らしの中に埋没して、もう面倒で、あるいは本質的に怖くてか
>誰も、愛があるのか確かめたりはしないものです
>そして時々確かめる人間がいるとすれば、必ず絶望するんです
>その純粋さ故に確かめ、愛などなかったと絶望する
>パンドラの箱の最後には希望が残されたという
>なぜ愛ではなく希望なんだ…

愛を認識できる機能があったら、片思いになやむことも
上記のように、最初から愛はなかったのに、愛があったと
勘違いするという事もなくなるのに。
(本物の愛なら途中でなくなることは決してない、というの
が亘の意見ですからね。)
思うのは、この機能が人間に備わっていたら、結婚する人間
が飛躍的に減るかもしれませんね。
いや、ひょっとして「種の保存」の為になくなった機能かも
しれません。(なんちゃって)


信じる事と疑わない事
投稿日 1月11日(木)22時26分 投稿者 k−1 削除

櫂さんがいう意味の経過、つまり 疑う → 否定 → 信じる の構図は正しいと思います。僕はただ単純に信じる=肯定、疑わない=否定だと思ってました。
つまり否定と肯定では否定の方が意味合いが強い印象を受けるでしょ?
(あくまで僕の主観ですが)
 勉強になったなぁ……。


はじめまして
投稿日 1月11日(木)21時29分 投稿者 はかな 削除

野島伸司作品が好きで、特に「世紀末の詩」が好きです。「世紀末の詩」の感想や、自分のこととか、いろんなことをこれから書きたいと思います。このページを訪れる人になら、きっと自分のことがわかってもらえるような気がするから。


目に見えないものを「見る」
投稿日 1月11日(木)17時36分 投稿者 りい 削除

おひさしぶりです。
櫂さんのおっしゃるのはそうだなあとおもいます。

>人は目に見えるものにはあまり疑念をもたない。
>愛が疑念を相手に与えてしまうのは、「見えない、確認できない」
>という前提があるからだと思います。
>人の愛も、目に見えるもののように「真実だ」と認識するレベルま
>でいけたらいいなと思いませんか。愛があることを疑うことすら必
>要じゃない...そんなレベルに到達できるのでしょうかね。


たとえば断崖絶壁に架かっている見えない釣り橋について考えてみましょう。

そこにあると言われて一歩踏み出すことができるか、と考えたとき、
あると「信じる」ひとは、きっとりきんでしまうんじゃないでしょうか?
あると「疑わない」ひとは、すいすいと渡っていくと思います。

つまり、ふだん何も無いときには両者の差はそんなにはっきりしている
わけではないと思います。

でも、自分の命や人生など大切なものがかかっている決定的な場面でどの
ように行動するかに大きな影響を与えると思います。

ところで、
目で見ると言うことは光を感知する仕組みが目にあるからで、
じゃあ愛を認識する「仕組み」ってなんでしょう?


みなさんどうもありがとうごさいます。
投稿日 1月9日(火)21時04分 投稿者 水梨 削除

なんかうれしいです〜
昨日というか今日未明に(笑)ビデオ2巻目をみました〜
私、羽夢ちゃんの回の岡林サンが突然来て、帰っていった後に
ミア寂しそうな顔をしているところで泣きました。
ミアって私を泣かせるんですよ…
身振りで伝えるからかもしれませんが。
もうまた亘に惚れちゃいそうです。(爆)
亘がいたら、絶対好きになっちゃいますね。

疑うことすら思い付かない…
信じてる、の裏にはいつも疑うという言葉が潜んでいるんですね。
なんかすごく納得がいきました。

くまさん!HPいらしてくださってありがとうございました!
私の人生はまだ短いので
相当この世紀末の詩に影響されてるところがありまして
詩もそんな感じだったりするんですけれども
最近世界観が少し変わって、新しい感じの詩も書けるようになってきました。
頑張って更新するんで、ぜひまたいらして下さいっ!!

http://mizunasi.hoops.ne.jp/favorite/


話題も変わって・・・
投稿日 1月9日(火)12時30分 投稿者 くま 削除

「疑わないこと」は
ー愛とは時の流れに関連があるんだろう
という教授の言葉にすごく関連があるように思います。
愛、恋は別にして「疑わない人」っていうと僕の場合、
父親が浮かんできたんですけど、
これまで共に過ごしてきた時間がすごく影響してしているように思います。
「恋し森のくまさん」の話でもあるように
他者を完全に理解することは不可能とも思えることですが、
長いときを積み重ねて相手の思いを理解し、
マンネリや妥協ではなく
相手を「疑わないこと」ができたらいいなと思います。

櫂さん、金木犀さん、水梨さん
最終話の件ではいろいろなお話参考になりました。
僕はいろんな事に対して自分なりの答えをはっきり見つけられないでいるので皆さんすごいな〜って思いました。
これからもいろいろな話聞かせてくださいね。

水梨さんHP見させてもらいました。MY WORDSいいですね。
自分の体験がオーバーラップしながら読ませてもらいました。


ひさしぶり♪
投稿日 1月9日(火)02時45分 投稿者 くろねこ 削除

私は、「疑わないこと」はできないと思います。人から不安になることを言われたりすると、きっと相手のことを疑ってしまう。相手のことを想っていればいるほど、些細なことでも強く疑ってしまうと思います。逆に疑われないのも悲しい気がします。でも、疑うことなく信じ続けられたらいいな…と思います。


奥が深い・・・。
投稿日 1月8日(月)23時07分 投稿者 金木犀 削除

櫂さん、こちらこそ、ありがとうございました♪
さて、「疑わないこと」ですが、
リップスティックで藍も同じようなセリフを言ってましたよね。
「信じること」は容易にできても「疑わないこと」って、
本当に難しい・・・・。
‘相手を疑わない’っていうのは‘自分を信じる’ことでも
あるのかなとも思います。


いいかえれば
投稿日 1月8日(月)20時48分 投稿者 櫂 削除

今ふと思いましたが、疑わないことっていうのは
「愛があるのは当たり前」って感覚に近いかもしれませんよ?


水梨さんへ
投稿日 1月8日(月)20時45分 投稿者 櫂 削除

>私の頭では、信じるのと疑わないのの違いが
>いまいちピンと来ないのですが

大辞林という辞書サイトによると「信ずる」(信じる)でひくと
(1)疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。
とありました。
信じる=疑わないこと。つまりこの2つは同じ意味です。

教授はなぜああいう言い方したんでしょうね。
僕が思うのは、「(私はあなたを)信じる」と人が人にいう時
絶対一度は心理のなかで「疑い」を経過してきているのではない
かと思います。
「まさかあの人が...いいえ、そんなことはない。私はあの人
を信じる」という感じ。
世間的な評価では充分疑わしい人を「信じる」場合もあります。

一方、「疑わない」という感情は文字通り「疑うことすら思い浮か
ばない」ということだと思います。
自分で真実だと目で認識してしまっているものに、人はいちいち疑
念を抱かないのではないでしょうか?
たとえば冷蔵庫にはいっているリンゴをいちいち「模造品かもし
れないな」と思う人はいないですよね。
人は目に見えるものにはあまり疑念をもたない。
愛が疑念を相手に与えてしまうのは、「見えない、確認できない」
という前提があるからだと思います。
人の愛も、目に見えるもののように「真実だ」と認識するレベルま
でいけたらいいなと思いませんか。愛があることを疑うことすら必
要じゃない...そんなレベルに到達できるのでしょうかね。





ところで。
投稿日 1月8日(月)19時33分 投稿者 水梨 削除

私の疑問なんですが…
もう、前のことで何回も考察されてると思うんですけど
車椅子の回で「愛とは信じることでさえなく、疑わないことだ。」
とありましたよね。
私の頭では、信じるのと疑わないのの違いが
いまいちピンと来ないのですが
どなたか意見聞かせてください〜
お願いします〜

http://mizunasi.hoops.ne.jp/favorite/


いろいろ失礼しました。m(__)m
投稿日 1月8日(月)16時26分 投稿者 櫂 削除

金木犀さん、どうも失礼しました。
また違う話題の時に議論しましょう(笑)


バトルトーク終了(笑)
投稿日 1月8日(月)11時35分 投稿者 金木犀 削除

なるほどー。そういう捉えかたをされたんですね。
まぁ、この件については、そろそろおしまいにしましょー。
たくさんレスしていただいて、ありがとうございました。
櫂さんに想われる人は、きっと幸せですね。
なんとなくそんな気がしました。
 この最終話は再考察でも、きっと盛り上がるんだろーなー。


うーん。。。
投稿日 1月8日(月)10時18分 投稿者 櫂 削除

>このセリフが「愛」のすべてなのでしょうか。
>これは、ひとつの愛のカタチにすぎないと思います。

そう、人によっていろいろな愛があっていいと思います
でもすくなくとも「亘の口から出たセリフ」なので亘にとって
の愛の形態は第一話のセリフ通りだと思うのです。
第一話のセリフが亘にとっての愛の形(第9話のセリフもそうですが)
ならば、それに反する対応を里美にしたのならそこに愛はなかった
証明になると思ったんですが...ちょっとしつこいですね。
この議論はそろそろやめますか。


難しいですねぇ。
投稿日 1月8日(月)00時58分 投稿者 水梨(みずなし) 削除

櫂サンに言われてみると、そんな感じもしますね。
少し無理があるかも。
冒険、に疑問がっていうより
>君を愛するゆえに、僕は時に違う景色を見つめなければならない
>僕がとどまることは、いつか愛そのものすら停滞させてしまうものだから
のセリフが無理があるのかも。
2人が離れることで愛をいつも新鮮なものにしていく
というのが亘の考え方なら
里美サンを最後に迎えに行かなかったのもわかるような気がしますけど。
でもそうすると2人の間には
愛は残らず、思い出になってしまうと思うんですよね。
特に里美サンのほうに。
まぁ一応お互いに意思の疎通ができたってことに
ドラマではなってますけど。

なんかよくわかんなくなってきたなぁ…
ところで私も亘の
>君に教えてもらったんだ
>終わらないのが愛だって
>変わらないのが愛だって
>思い出にできないのが愛だって
ってセリフ、好きです。
何度聴いても映像が浮かんできて泣けてきます。

http://mizunasi.hoops.ne.jp/favorite/


櫂さんへのレス
投稿日 1月7日(日)19時14分 投稿者 金木犀 削除

>君を愛するゆえに、僕は時に違う景色を見つめなければならない
>僕がとどまることは、いつか愛そのものすら停滞させてしまうものだから

この2行のセリフのあとに「愛とは冒険だから」と続いているのは、
確かに、うまくないかもしれませんねぇ。
ドラマだから、いろいろ制作する上で、無理が生じてしまうのは
ある程度、仕方のないことかもしれませんよ。
これは野島さんのチカラだけじゃ、どうにもならないことも
きっとあるのでしょう。
私としては、この2行のセリフは麗美の恋人が亘に乗り移って言っている
セリフで、「愛とは冒険」というのは亘と夏夫が到達した言葉で、
この二つは、繋げて考えてないです。
きっとドラマの流れ上、そういう風になってしまったのでしょうね。

それと、亘と里美のことですが、第1話の亘のセリフは、私も
すきです。
ただ私には、これが「愛がなかったこと」の証明になるとは思わないのです。
このセリフが「愛」のすべてなのでしょうか。
これは、ひとつの愛のカタチにすぎないと思います。
たとえもしもそうだとしたら、この第1話のセリフにしろ第9話のセリフ
にしろ、このセリフ達を最終話にもってくるのではないでしょうか。
しかし、ラストは冒険という言葉を使っている。
愛にはいろいろなカタチがあります。亘の上げた、風船のように。
 これは、櫂さんの言うように、水掛け論になっちゃいますね(^-^;
こんなふうに人それぞれ「愛」に対する思いって様々なんだと思います。
何が正解で何が不正解ってわけでもないだろうし。
なんにせよ、私にとっては素敵なドラマでした。


それと亘と里美について
投稿日 1月7日(日)08時56分 投稿者 櫂 削除

僕のすきなセリフ
(第一話 亘のセリフ)
>君に教えてもらったんだ
>世の中には偽物が多すぎる
>耐えきれなくて手放すのは愛じゃない
>終わらないのが愛だって
>変わらないのが愛だって
>思い出にできないのが愛だって
>100万回恋しても、決してたどり着けない…

亘と里美に「愛はなかったこと」のこれが証明にならないでしょうか?


一部賛成。でも...
投稿日 1月7日(日)08時44分 投稿者 櫂 削除

>「冒険」って「生きること」に通じてるって思うんです。
>そして極論かもしれませんが「生きることは愛すること」かもしれないと

これはその通りだと僕も思います。7話でパン屋の愛を否定した教授に対し
て亘が教授をなぐりつけていうセリフ(というか絶叫)
「愛とは生きることなんだ!」
にも通じますからね。愛とは生きることって最終話でも言ってくれれば僕
も納得したのですが...

>君を愛するゆえに、僕は時に違う景色を見つめなければならない
>僕がとどまることは、いつか愛そのものすら停滞させてしまうものだから

この2行のセリフがいけないのです。この2行のセリフのあとだから
「愛とはすなわち冒険である」といわれても、その言葉をいろいろな
意味を感じ取って「生きること」に結びつけることなどできなくなっ
てしまう。この2行のセリフは野島さんのセリフの中でも大失敗だと
僕は思います。
実際にこの2行がなければ、僕も金木犀さんのように「愛は冒険」
といわれても「なるほどな〜深い考え方だよな〜それも」
とか思って違和感を感じることはなかったと思います。

つまり冒険をすることのいいわけとして、「愛を維持するため」
といっておきながら「愛=冒険」みたいな言い方をしているところに
ムリがあると思いませんか?

「愛は決してなくならない、唯一無二のものなんでしょう?
冒険なんかしなくても維持できるにきまっているし、まして停滞する
わけないじゃないか!
それが愛を維持するための冒険で命をおとしてたら世話ないよ〜」
というのがぶっちゃけた僕の考え。
間違ってますか?


櫂さん、レスありがとうございました。
投稿日 1月6日(土)21時23分 投稿者 金木犀 削除

なるほど、あの9話のセリフですね。
私も、あの部分はとても好きです。
私は「世紀末の詩」って、もちろんテーマは「愛」ですが、
「愛とはこういうものだ」って提示することよりも「愛ってなんだろう」
って問いかけのような気がするのです。
全11話の中で、徹底的に愛を否定し肯定し、様々な愛の形を見せていく。
そして例えば9話のあのセリフのように「愛とは〜・・・なんだ」と
いろんな言葉で説明していきます。
しかしラストは「冒険」という言葉で結んでいます。
これには、ほんとうに色々な意味がこめられているような気がします。
と同時に野島さんの苦悩?もうかがえるような・・・。
 ひとつ思ったのは、「愛」に決まった定義はないからなのでは、
ということです。
100人いたら100通り、いやそれ以上のそれぞれの「愛」がある。
つまり愛にはいろいろなかたちがある。
野島さんは「あくまでもこれは自分が考える愛のかたち」(←「愛とは
冒険だから」以外の「愛とは〜・・・」)として、
あえてラストで「愛」について定義付けせず「冒険」としたのかもしれない
と思いました。
「冒険」って「生きること」に通じてるって思うんです。
そして極論かもしれませんが「生きることは愛すること」かもしれないと
思うのです。「冒険」「愛」「人生」ひとつの線で結ばれることはないかも
しれませんが、とても近い場所にあるような気がします。

 超個人的憶測で、本当はどういう意図があったかわかりませんが、
こんなに考えさせられたドラマは他になかったです。
それに、ここではいろんな意見があって面白いです。







くまさんへのレス
投稿日 1月6日(土)18時40分 投稿者 櫂 削除

>愛する人が「死んでしまう」のと「生きているけど二度と会えない」のとは違う>んでしょうか?

生きているけど2度とあえないのは「本人たちの意思ではなく」なんでしょうか?
本人たちの意思ではなく2度とあえない、つまり「お互いあいたいのに会えない」
のは「死んでしまった」ことに非常に感覚的には近いと思います。
もし本人たちの(双方の)意思で会わないのなら、それは全然違うと思います。


金木犀さんへのレス
投稿日 1月6日(土)18時28分 投稿者 櫂 削除

>私には、素敵な最終話に感じましたが、「?」と思った方は、どういう形だった>ら納得がいったのでしょうか・・・。

亘と里美先生に「愛があったかないか」は水掛け論ですのでここでは保留します
が、上記の書きこみについて。
僕の考えでは最終話は「愛とはこういうものだ」と提示することが物語の目的
であったとしたら、僕自身で納得のいきそうな答えは9話で亘自身の言葉で
すでに表現されています。
つまり下記のセリフが愛の解釈としての到達点だと思えるのですが...

>愛とは恋のように思い出にはできず
>失えば誰かを好きになる回路すら奪われるもので
>瞬間にして永遠で
>疑わず、諦めず
>そして喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、救われるものだと
>恋する人と出会い長い時間をかけて魂が寄り添うことなんだ(特にこの一
文が重要)
>それが愛なんだ
>誰もが手に入れられるものじゃない
>まして生まれながら持ってるものなんかじゃない

これ以上簡単に表現する必要もなく、これが愛の結論であってもかまわない
のでは?と僕は思ってます。


愛が停滞って...
投稿日 1月6日(土)18時20分 投稿者 櫂 削除

金木犀さん、くまさん、水梨さんいろいろとレスありがとうございますm(__)m

>愛を守るために登山に行っちゃったでしょ?
>それを 愛と呼べるなら 愛は物理的な距離にはとらわれないのかなと思ったん
>です。

最終話最大の疑問ですよね。ここの解釈。
以前にも僕がここの掲示板にかきこみましたが最大の疑問のセリフが下記
です。

>君を愛するゆえに、僕は時に違う景色を見つめなければならない
>僕がとどまることは、いつか愛そのものすら停滞させてしまうものだから

???愛するために、たまに冒険の旅にでないと愛が維持できない???
はぁ??って感じ。じゃ百歩譲って停滞するとしても、それが何故いけない
の?(停滞=あきちゃうって意味にきこえてしょうがない)

このセリフから、亘の言葉を通して麗美の婚約者の言葉として最初語られる
(その前に教授も口にしてますがね)のが「愛とは冒険だから」
上記のセリフが理解できないから、僕は「愛=冒険」という言葉が理解でき
ないのです。



とうとうやってしまったぁ。
投稿日 1月6日(土)15時43分 投稿者 水梨(みずなし) 削除

とうとうHPに世紀末の詩のコンテンツをつくってしまいました!
頑張って発展させるぞぉ。

ところで、みなさんの話に混ぜさせてくださいな。

私は、亘と里美さんは愛ではなかったと思います。
あれだけ考えた2人が、愛を創れるでしょうか。
きっと理屈だらけの愛になってしまうと思うんです。

あと冒険について。
亘は最後に、愛は風船の形をしているを
答えを出しましたね。
それが何故かは最終話の最後の詩のように
野島伸司サンがとらえたからだとしましょう。
では、風船の旅を想像してみてください。
道もないところで、自ら進む道を決めるのです。
(風が運ぶんじゃん、とか言わないで下さい…)
それはまるで冒険のようではありませんか。
この先何があるかも判らない…という。
型にはまらず、2人で道を決めていく
そんな冒険のようなものを
愛と呼んだんだと私は思っています。

http://mizunasi.hoops.ne.jp/favorite/


「冒険」はどこかしっくりこないですよね
投稿日 1月6日(土)15時37分 投稿者 くま 削除

櫂さんありがとうございます。言いたいことすごいわかります。
ここらへんは、僕もちっと解釈に困ってるんですけど
最終話の麗美様(だっけ?)の婚約者(名前忘れた)は
愛を守るために登山に行っちゃったでしょ?
それを 愛と呼べるなら 愛は物理的な距離にはとらわれないのかなと思ったんです。
「星の王子様」や「恋するコッペパン」で愛する人との別れが
描かれていましたけど、社会や時間(死別)によって強制的に引き裂かれることと、
最終話での別れ(結果的に婚約者は帰らぬ人となりましたが)は少し意味が違うように感じました。

ここであんまり関連はないかもしれないですけど、疑問をひとつ。
愛する人が「死んでしまう」のと「生きているけど二度と会えない」のとは違うんでしょうか?
皆さんの意見を聞かせていただけるとうれしいです。


冒険
投稿日 1月6日(土)15時17分 投稿者 金木犀 削除

私も、最終話の「冒険」についていろいろと考えてみました。
しかし、野島さんが「冒険」という言葉を選んだこと、何度も本を読んで、ビデオを見て、そしたらなんとなく分かるような気がしてきました。
「愛」って究極のテーマですよね。それを真正面から描いたこのドラマは、まさに究極とも言えると思います。そんなドラマの最終回ともなると、すごくムズカシイですよね。
1話のはじめの詩にありますね。
>ハローベイビー
>僕はきっと
>愛を知らない
>君もそうなら
>ついておいで
>この果てしなき
>物語の彼方へ
野島さん自身にとっても究極で永遠のテーマなのだと思います。
たとえ、どんな風な終わり方をしても、賛否両論があるのでしょうね。
私には、素敵な最終話に感じましたが、「?」と思った方は、どういう形だったら納得がいったのでしょうか・・・。
 
 里美と亘は愛に「辿り着いた」とは思っていません。
恋であったにしろ何にしろ、確かに愛は「あった」って思ってます。


かまたさんの意見に賛成!
投稿日 1月6日(土)03時02分 投稿者 櫂 削除

>最終話の愛は「冒険」

これが一番わからん。むしかえすようですが、なんで「冒険」なんだ???
そんな陳腐な言葉で1話から繰り返し繰り返し、大事に詩のようにして説い
てきた「愛」を表現してしまうなんて...
(野島さんのこの辺が限界だったんだろうか?)


愛は距離に
投稿日 1月6日(土)02時54分 投稿者 櫂 削除

くまさんはじめまして。

>愛それともう一つ、愛は物理的な距離にとらわれないものだと(ドラマを見て
>て)思ったんです。

上記の書きこみについて考えてました。僕はドラマから感じ取ったことは
まるで逆です。下記のような僕の好きなセリフがあります。

>愛とは、時の流れに関連があるんだろう
>同じ時を長く過ごし、互いに呼吸をし、それが互いの肉体の細胞に加わる
>だから引き離される時、血の滲むような肉体の痛みをも伴うだろう

また、こんなセリフも

>恋は喜びや楽しさで、やがて終わってもアルバムに挿めるものだ
>時々、懐かしく開くこともできます
>だが愛は違う
>愛は悲しみも刻み込むものだ
>お互いの心に、思い出にできない傷をも刻み込む
>共に生きて行くから
>人はしょせん孤独な生き物だから
>相手に深く傷を負わせ、また一方で包帯を持ち寄るという自虐的なことをする

どちらかというと、里美先生と亘の間にあったのは、「思い出にできる恋」
だったような気がするのは僕だけでしょうか?
愛が、そんなに簡単になしえない、一緒によりそって生きて、時間をかけて
育んでいくのが「愛」だと繰り返し、物語は説いています。
亘のセルフとして「愛とは努力することなんだ」というセリフもあります。
当人達の意思では「離れて生きることを」思いつくことさえできない、それ
が愛だと。

各話ごとに否定されていくゲストの登場人物達の「エセ愛」。
でもその中には教授達のように突き詰めて考えなければ「ああ、これは愛だな」
という一般的評価ですまされるべき愛だってあったはずです。

あの2人だって、そんなに簡単に愛に辿り着いていたとは思いにくいのです。
最終回の二人を見る限り、「愛」ではなく「恋」であり、二人はそれを
「思い出」に変える方を選んだ気が僕はします。


最終話
投稿日 1月6日(土)01時03分 投稿者 汲ゥまた 削除

わたしはドラマの最終話というのはどうも虫が好きません。
なんかテレビ局側で思いっきり操作されている気がするんですよね。
実際、ドラマの最後がハッピーエンドでなかったら、視聴者から苦情の電話が殺到するといいますから。
世紀末の詩の最終話も見ていてあれ?って思いました。
野島さん的にはもっと他にやりたいことがあったように思えます。


「あけおめ」っす
投稿日 1月5日(金)16時17分 投稿者 くま 削除

最終話について皆さんの解釈 なるほどと読ませていただいてます。

亘が里美先生を迎えにかなかったのは 里美先生に女性として
幸せになって欲しかったんじゃないかと思います。
(たまに里見先生が女性の恋愛感みたいなのをかたっていましたよね?)
里美先生が教会で目を閉じるシーン、小説版には「その瞳には母性が宿っていた」って書いてありました。
それともう一つ、愛は物理的な距離にとらわれないものだと(ドラマを見てて)思ったんです。
愛がある時「よりそう」のは体ではなく 心だと・・・
最終話の愛は「冒険」でしたよね。
(僕は亘と里美に ある種の愛があったと思ってます。)
んで 亘は死んだのかっていう話題もあるんですけど、
世界中に愛をうたいに行ったのではないでしょうか?
亘は世紀末の詩人だから・・・


世紀末の詩をまさに世紀末に見ていた
投稿日 1月4日(木)19時22分 投稿者 SATOKO 削除

2000年12月31日に世紀末の詩のビデオを見つけて1話から最終話までぶっ通しで見ました。感動した。いい正月を迎えました。哲学的なお話ですね。その当時私は中学生だった?けど、高校生になった今、野島伸二さんのすごさがわかった。


A HAPPY NEW YEAR!!
投稿日 1月1日(月)12時13分 投稿者 金木犀 削除

亘が里美をさらうと言ったのは、約束であって約束ではなかったのだと思います。
なぜならその時に、「里美さん・・・愛の形が見たくありませんか?」ととも問い掛けている。ということは、‘さらう’と言っておきながら、もうすでに亘の心は決まっていたのでは?(里美も心の奥の方ではなんとなく気付いていたような気がします。)
そして、里美も亘を心底待っていたとは、思えません。
しおんさんの言うように、期待よりも不安の方が大きかった。
そして何より、亘を好きだったとは思うけれど、彼女は草間のことも、想っていたのではないでしょうか。
誰も、悪くも、間違ってもないと私は思います。
そして二人の間には確かに愛はあったと思います。
それからラストの風船のシーンですが、「ご都合主義」でしょうか・・・。
もちろんこれはあくまでドラマであって、セリフがあり演出がある想像の世界
ですからね・・・。
例えば、もしも風船が飛ばなくても、里美は亘との愛の形にきっと気付くでしょう。
風船は愛の証明ではなく、象徴なのだと思います。
しおんさんの言うように、“最高の幸せのカタチ”そう思います。


例えば
投稿日 1月1日(月)08時31分 投稿者 櫂 削除

事故らなかったら、どんな運転をしてもいいかというと違いますよね?


あけましておめでととうございます
投稿日 1月1日(月)08時27分 投稿者 櫂 削除

今年もよろしくお願いしますm(__)m

>その時点で里美は“これでいいのだ”と言う気持になっていたのではない
でしょうか.

その通りだと思います。(=表情からみる感情の変化)
ただ問題は里美先生が最後こう思ったのは必然ではなく結果論だということ。

ホントのホントーーーに(前夜に亘が’ハッキリ’約束までしているので)
里美先生が「待っていたら」...
亘のやったことはたちまち「悪いこと」になりますよ?



一番の幸せ
投稿日 1月1日(月)03時25分 投稿者 しおん 削除

> だって、里美先生は迎えにくることを最後まで期待してましたよ?

櫂さんはそう見えましたか.

教会での里美の表情の変化...よく見て欲しいです.
始めは亘が現れる事を期待していた.そして同時に不安感もあったと思うんです.
“実際に来たらどうなるんだろう”というような.
そこで里美は瞳を閉じる.そこにはどのような心境があったのかは解りません.
しかし最後には里美は安堵にも似たような表情を,微笑を浮かべる.
そして,「誓います」の一言.
その時点で里美は“これでいいのだ”と言う気持になっていたのではないでしょうか.

そうして,それが最高の幸せの形だったんだと僕は思います.


世紀末なんで。(笑)
投稿日 12月31日(日)22時24分 投稿者 水梨(みずなし) 削除

特に何って訳じゃないんですけど
世紀末なんで。(笑)
今日でもう新世紀となってしまいます。
やっぱり新世紀には夢が無い…
もう夢なんてどうでもよくなっちゃうんです。
それが寂しいんです。
いつまでもココにいたい〜

http://mizunasi.hoops.ne.jp/favorite/


たしかにそうですが...
投稿日 12月31日(日)19時04分 投稿者 櫂 削除

ドラマ的には里美先生の笑顔をさしはさんで強引にハッピーエンドに
したとしか思えないんです。
風船に気づいたのは偶然だし、それを亘のメッセージだと気づいたの
も偶然です。
だって、里美先生は迎えにくることを最後まで期待してましたよ?

最後の風船に気づいたのだって「ドラマ的には」必然かもしれませんが
ホントは偶然ですよね?
風船が飛んでいることに気づいて、それを亘が飛ばしていることに気づ
いて、しかもそれが愛の証明だと思って、ラストの笑顔になる。
僕には、ご都合主義だらけの偶然のラストにしか思えないんです。
実際にあれを女性がやられて、最後風船に偶然気づいたとして、それ
を「愛の証明だ!」と感じて、ニッコリ微笑む...そんなことはあり
えますか?(ふざけんな!って思われる気がするけど...)

このドラマはファンタジーですし、ストーリィから設定までSFもどき
の部分があってもそれはやむを得ない、そんなリアリティをもとめるこ
とが番組の主旨でないのはわかります。
肝心なテーマは「愛」をさまざまな形で表現してみせていくことですよ
ね?
でも肝心なテーマ「愛の表現」までがご都合主義的な作り方だとしたら
おかしくなりませんか?



ハッピーエンド
投稿日 12月31日(日)11時17分 投稿者 金木犀 削除

最終回の部分、私は納得というか、良かったと思ってます。
愛には色々な形がある。
二人の間に確かに愛があっても、別れることも、別々の道を歩むことも、違う幸せを見つけることもあるんじゃないかなって思う。
二人が一緒にいることが愛とは限らないんじゃないかなぁ。
亘は死んだのではないかという意見もあったみたいですが、私には、亘も、そして里美も、幸せな未来を辿っていくのではないかと思います。


最後...
投稿日 12月31日(日)03時49分 投稿者 しおん 削除

式の前夜,亘は里美に「愛の形が見たくありませんか?」と言いました.
そして,「明日,見せてあげます」とも.

結局,当日に亘が見せた全てが愛だったのではないでしょうか.
潜水艦,風船,満面の笑み.
何も二人が見た目の上で結ばれる事が愛だとは限らない.
あゆみさんの言うように,式場の二人の邪魔をする事は亘には出来なかったでしょう.
でも亘と里美の二人の心は結ばれていた,というか,心は重なっていたのではないか.
そこに愛はあった.

僕はそう思っています.


はじめまして
投稿日 12月30日(土)09時25分 投稿者 櫂 削除

>私はずっと亘の性格上(良い意味で優しい、悪い意味でお人よし)、
>自分と同じ辛い体験を人にさせることは無理だったからだと思っていました。

あゆみさん。最近ちょくちょくここにカキコしている櫂といいます。
ぼくも新参者ですが...
さて上記のお話。僕も絶対これだと思ってたんですよ。
これしか考えられなかった...でもね、亘は迎えにいかないこと
をいつ決心したのでしょう?
前夜里美先生に会ってから後じゃないとおかしいし、それじゃ
「絶対奪いにいきます」って言っているのが矛盾してしまう。
前夜までは「奪いにいく」と実際思っていて、直前に考えが変わった
のだろうか??それじゃ、その時の心情の変化にはどんな要素が影響
したんだろう?
とか、いろいろ考えているうちにわからなくなってしまったんです。
最終的に亘は里美を本当にすきだったんだろうか?
っていうところまで考えてしまいました。

ここの最終回の部分はまだ結論が僕の中ではでていないのです。
奥歯に物がつまったような気分のままです。


教えてください!
投稿日 12月30日(土)04時15分 投稿者 ★ 削除

「世紀末の詩」本放送で第二話から録画していました。一話は
レンタルビデヲで録画しようと思ったら、コピーガードがかかっていて
出来ませんでした。それならと思い再放送で録画しようと思ったら、
所々カットされてるじゃありませんか! ショック!!!
八方塞がり?ビデオ買うほどサイフに余裕ないし・・・
どなたか、コピーガード付きビデオを8mm以外の方法で、個人的にダビング出来る
やりかたありましたら教えてください。よろしくお願いします。


はじめまして。
投稿日 12月29日(金)22時01分 投稿者 あゆみ 削除

今日、数日前からレンタルで借りて来た世紀末の詩を
最終話まで見終わりました。
やはりこのドラマは最高だと思いました。
いや、ほんとは「最高」なんて言葉じゃ表せないくらい
心に響くものがあるんですが・・とにかくとても感動してしまい、
どうしようもない私の荒ぶる魂がここへ連れて来てくれました(笑)。
こんな風に深いところまで考察されているサイト様を
見つけられていますごく嬉しく思っています★
さて、亘がなぜ里美先生を迎えに行かなかったかといことですが、
私はずっと亘の性格上(良い意味で優しい、悪い意味でお人よし)、
自分と同じ辛い体験を人にさせることは無理だったからだと思っていました。
前夜里美先生に「絶対迎えに行く」と言ったときの亘は
あまりにも亘らしからぬはっきりした態度であったし、
最後に格好良く決めたかったのかなと思います。
(物語上、あれが亘と里美先生の最後であったわけだし)

以上、初心者ながら自分なりの考察を書いてみました;;
本当にこの作品は素晴らしい。今日は泣きすぎて目が痛いです。


なるほど
投稿日 12月29日(金)19時23分 投稿者 櫂 削除

>私は、最後に亘は死んだと思っています。
>ミアに,「アタシ,悪魔。オマエ,死ぬ」といわれ
>自分が死ぬことがわかったので、里美先生を幸せにできないと思い
>迎えに行かなかったのではないのでしょうか

ううむ、人の意見を聞くのって面白い。全然僕にはこんな発想なかった
です。
なるほどそう考えると里美先生を迎えに行かなかったことも説明できるか。
里美先生を亘は(愛しているまではいかなかっただろうけど)好きだった
のは分かりきっているので、他にあの行動は説明つきづらいかも。
でもでも...なんか違和感が...
あっそうだ! 里美先生には前の日に「必ず奪いにいきます!」って亘言
ってましたよ! ここだけ説明つかないかも。
あとの部分はバッチリなんですけどね。ううむ、難しい。。。


私は・・・・
投稿日 12月29日(金)16時47分 投稿者 SIN. 削除

はじめまして
私も、「世紀末の詩」が好きです。

私は、最後に亘は死んだと思っています。
ミアに,「アタシ,悪魔。オマエ,死ぬ」といわれ
自分が死ぬことがわかったので、里美先生を幸せにできないと思い
迎えに行かなかったのではないのでしょうか。

そして、それを教えてくれたミアに
亘は感謝したのではないでしょうか

そして最後に、教授のイエローサブマリンを
死に場所に選んだのだと思っています


本当の世紀末に「世紀末―」が見たい
投稿日 12月29日(金)11時37分 投稿者 Coo 削除

 少し来ない間にたくさんの書き込みがあって驚きました。
当時は視聴率があまり良くないと聞き、私はこんなにハマっているのにどうして?!と思っていました。けれど、終わってかなりの時間がたっているのにもかかわらずこんなにもたくさんの方々と熱く語る事が出来るなんて、本当に素晴らしい事だと思います。
そう言う意味で「世紀末の詩」は優れた作品と言えるのではないでしょうか。
今日から正月休み。皆さんの書き込みを読んで、またゆっくりビデオを見たくなりました。

 ところで亘が最後に死んだとか、自殺したのではないかという意見がありましたが、私はあのドラマを見た限り、自分自身の中でそういう発想は全くなかったのでものすごく驚きました。
亘はきっと教授のイエローサブマリンに乗って、“新世紀”へと旅立ったのだと思います。真実の愛を探しに・・・
そういう吹っ切れた良い笑顔をしていました。そう思います。


死神
投稿日 12月29日(金)05時47分 投稿者 わたしま 削除

第一話で教授は自分のことを死神と名乗った。
この時の死神は言葉の通りの死神であったのだろうか。
少なくとも、劣等性だった少年の中で、
良い意味での変化が起こり始めたように思えるが……。


見落としてたけど
投稿日 12月29日(金)00時50分 投稿者 楓 削除

最終話で、ミアは自分のことを「死神」っていってましたね。
見落としてました。。
ナオが死神だったら、ナオは男が死ぬということ(って言うか、ナオが殺したやんってかんじですが)を知ってたんですねー。
男がナオに最近出会った、といったあと、亘も
「僕もミアに出会った・・・」
と言っていたのが印象的でした。


青い薔薇
投稿日 12月28日(木)22時19分 投稿者 櫂 削除

バイオテクノロジーの発達で、青の薔薇も現在では買えるそうです。
なんかロマンチックでいいですね。

http://www.dcc-wao.com/%7E9901da/shono/index.html


ナオは...
投稿日 12月28日(木)17時10分 投稿者 しおん 削除

楓さん.ナオこそ死神だと思いますよ.

ミアが傍にいた人たちには確かに死んでいった人が何人かいますが,
それぞれに愛を悟って死んでいったのではないでしょうか.
だから,ミアは天使だと思うんです.

でも,第9話の『男』だけは,とうとう愛を知る事なく死んでいった.
その証拠に,青い薔薇に祝福される事はありませんでしたよね.
だから,やはりナオこそ死神と言えるのではないでしょうか.


4行詩について
投稿日 12月27日(水)01時30分 投稿者 櫂 削除

4行詩そのものの形態は詩のスタイルとしては普通に存在するもの
ですが、内容はオリジナルだと思いますよ。
世紀末、ノア、河南市、モーゼ、と聞いて「なるほど4行詩か」
と思ってましたが、9話?でノストラダムスがでてきて確信を持ちま
した。
そう、4行詩といって一番僕らになじみ深いのはノストラダムス
の「諸世紀」ではありませんか?

このドラマにはそういう「遊び」というか「キーワード」みたいな
ものが随所に散りばめられているようですね。
僕も全部はわかりませんがこのHPの
「その他」というところ(←左にありますよね)の中にいくつか
書かれているようです。



4行詩は
投稿日 12月26日(火)22時26分 投稿者 sak 削除

はじめまして。
僕も世紀末の詩大好きです。
一番好きなのは三上博史さんの回です。

ところで、毎回最後に出る4行詩(?)って何かから取ってきてるものなのですか?
それともオリジナルなのですか?
よかったら教えてください。


『恋するコッペパン』の話
投稿日 12月26日(火)00時17分 投稿者 G 削除

いくら真実の愛を求めつづけていた教授だとはいえ、誰かが狂ってしまうことを期待することはないと思います。あれほど聡明な人間が自分の目的のために他人の狂気を望むようなことはありえないのではないでしょうか。
パン屋の主人石田の正気を悟った教授は「どうやら誤解していたのかもしれない」と言っています。それは明らかに『気が触れている』と誤解していたということのはずです。『実は苦しんでいた』と言う事実を知り、教授は妻の死を認めないことができずにいながらひどく中途半端な決断を下してしまった石田を、哀れんでいたと思いたいです。
またバラックに戻った後で亘との口論の中「石田さんの愛は偽者だと言うんですか?」と問われ「そうだ」と確かに言っていますが、答えたのは亘から目をそらししばらく間を置いてからです。その後で殴りつけられても無抵抗。普段の様子からは想像もつかない死人のような対応でした。教授は亘の考えをどこかで抱いていたのではないでしょうか? そして自らの結論に絶望していた風に感じられます。
いずれにせよ、愛は優しくあって欲しいと言うのが私の本心ですし、教授も優しい男であって欲しいです。


「コッペパン」の話
投稿日 12月24日(日)14時50分 投稿者 優 削除

僕もコッペパンの話、とても好きです。
愛する人の死をどう受け止めるのか(あるいは、受け止めないのか)、考えれば考えるほど結論の見えなくなる気がしますが、でも、考えたくなるテーマだと思います。
教授がパン屋の主人に「それは犯罪だ」と語るシーン、僕は教授はパン屋がその言葉の意味を理解しないことを期待し、それを確認したかったのではないかと思います。後で語っているように、教授は自らの母親がそうだったように、愛する者の死に直面したとき、そのことを認知しないことが「真実の愛」であると考えています。その見方からすれば、相手の死を認知したうえで、その事実(自分が相手の死を認知している、ということ)を否定しようと努力していたパン屋の主人の行為は、偽物の愛、ということになります(実際、教授は亘にそう語っています)。
真実の愛を捜し求める教授は、あのパン屋の主人にそれを期待していたのですが、「実は苦しんでいた」という事実を知り、「これもまた、本物の愛ではない」と失望しているように感じました。
しかし、亘は、教授の考えを否定し、「愛は生きることだ」と語っています。どちらが正しいのでしょうか。最初にも書いたように、考えてもなかなか結論は出ませんが、最後のシーンで里美先生の語った、「私は亘さんのほうに賛成する。・・・優しいほうがいいもの。この海みたいに。」というセリフに、ドラマの中ではどちらが正しいという結論を出していない野島氏の、希望、あるいは祈りのようなものを感じました。


アメリカで、日本語ビデオレンタルする店で借りて見たよ。
投稿日 12月24日(日)04時35分 投稿者 野茂英雄 削除

斎藤洋介と遠山きょうこの話が(作品として)よかった。あの救いの無さと、にもかかわらず透明感の有るところは
野島伸司で無いと出せない。

よしかわひなのの伏線は、いい意味で期待を裏切ってくれてよかった。そこまで考えてるとは思ってなかったので。

三上博の役は、この世の果ての役をさりげなくパロディしてて嬉しい。三上がまたナルシスティックにえんえん語ってくれ
て野島ドラマの三上はやっぱこうでなきゃ。

海辺を女の子が裸で走りまわる話とか、野島伸司はやっぱり印象的なシーン作るのがうまい。

桜井幸子せりふ無し、は思い切りがいい。うまい。

映画「卒業」で、花嫁に逃げられた方の男の惨めな心情や如何に?という視点からして流石に野島伸司と思いました。


大事のことは。
投稿日 12月24日(日)02時35分 投稿者 たけし 削除

私は世紀末の詩でいろいろ考えさせられました。そこで気になると言うか何と言うか不思議な納得感をあじわった回がありました。それは夏夫の元同僚がクローン人間を造るという回です。最後に彼は自分の本当の息子とクローンの息子を正確に見分けるのですが、彼は本当の息子を逃がし、自分はクローンの息子と逃げる。しかし、本当の息子は最後に父は自分のことを分かってくれたと思うわけです。そして涙する。というわけです。ここで大切なのは本当の息子を逃がしたと言うことだとおもうのですが・・・そこにささやかではあるけれども愛と言うもの存在を感じずにはいられないのですが。


ナオは?
投稿日 12月23日(土)00時29分 投稿者 楓 削除

櫂さん、しおんさん、レスありがとうございます。
やはりわたしも、ミアは天使だな、と思います。
書き込みを読んでまた考えたのですが、
今までの既成の天使と違って自分が何者かをわかっていないところがミアの面白いところではないでしょうか。
また、「僕の名前を当てて」の回のナオの存在も気になるところです。
ところで、私も太宰治すきです。
「トカトントン」、読み直してみようかな。


あい・愛・アイ
投稿日 12月22日(金)16時42分 投稿者 老人 削除

愛とは【時間】なのでは?


Re:実際にあった話
投稿日 12月21日(木)19時54分 投稿者 yuka 削除

はじめまして、ゆかです。
私も「世紀末の詩」大好きです
私も見ました、「アンビリバアボー」
私は未だに教授の言ったことと「死を認知しないこと」と
亘の言った「死を受け止めること」のどちらが真実の愛なのかは
わかりません。というかまだ結論は出ていません。

ビデオが4巻まとめてYAHOOオークションに出品されていました。
悲しいようなうれしいような。
ではでは


トカトントン
投稿日 12月21日(木)17時48分 投稿者 しおん 削除

また,話の途中で割り込むようで申し訳ないのですが.
ミアの事ですが,ミアは最初から天使だったのではないでしょうか.
亘と夏夫が最初に自殺を計ろうとした時,ミアの笑い声によって二人は自殺を思い留まった.
それは太宰治の『トカトントン』という作品と同じような感覚だったんだろうと.
人間は何かを思い詰めている時に,何かをきっかけにフッと正気に戻るものだと.
ミアはそのきっかけをくれる天使なんだと思っています.


火葬っていうのは(追伸)
投稿日 12月20日(水)23時46分 投稿者 櫂 削除

本来なかなか風化しない残された人々の悲しみや思いを出来るだけ
はやく風化させるために必要な、死者よりも生者のために必要な儀
式が火葬なのではないかと思いました。

(火葬場で焼いているときのパン屋のホッとした顔が印象的でした)


実際にあった話
投稿日 12月20日(水)23時37分 投稿者 櫂 削除

このコッペパンの話、「奇跡体験アンビリーバボー」で先日紹介され
ていたアメリカであった実話に非常に似ています。
見た方もいますよね?
死んだ恋人の亡骸と9年間(だったっけ?)一緒に暮らしていた老医師
の話。
少しずつ死体に防腐剤を注射したりして、生前の恋人の姿のままにして
一緒に暮らしていたらしいです。
番組では美談として扱ってました(感動のアンビリバボーで紹介されて
いた)が、やはり実際の死体写真映ってちょっと気味が悪かったです。
(顔なんかすでに人形にしか見えなかった)
たしかにアメリカでも美談として語られているようです。
実際にあった事件でもそういう世間の反応ですから、ムラサキユカリ
さんのお考えになることはごもっとも。
それはそれで美しいことなのかもしれません。
間違っている可能性がありうるのは法律的なことだけと考えられます
が教授はそんな意味でいったわけじゃないと思います。

教授はひそかに「苦しんでいた」パン屋のご主人を救いたかったのだ
と思います。
恋人の亡骸と一緒に暮らすのは、「恋人の死」を永遠に心に刻むこと
になりますが、同時に生々しく心にキズを付けたまま凍結させてしま
う行為にも似ているのではないでしょうか?
あのパン屋はあのままだとずっとああして、奥さんを失った時の悲し
みの世界にとじこもったまま生きていくことになっていたと思います。
ダラダラと心から血を流しつづけているようでした。
ちゃんと葬れば時間が解決できる心の傷を、ずっと生傷のまま9年間
を過している。それはそれで奇跡的な精神力だと思いますよ。
教授が「正気だったんですか?」と聞いたのは、その悲しみを耐え
ながら9年間生きるのは(正常な神経でしかも”本当の愛があるなら”)
「不可能」だと思ったのだと思います。
教授の母親のように「愛する人の死を受け入れることができず、壊れて
しまうこと」が本当の愛なのかどうかはわかりませんが、少なくとも死
を受け入れたパン屋のご主人のあの行為は自虐的なまでに自分を傷つけ
つづけるだけでなにも生みません。
「美しいが、それは犯罪です」教授にとっては犯罪であったかどうかは
本当は問題ではない。パン屋のご主人の心を救いたいという気持ちに他
ならないのではないでしょうか?








コッペパン。
投稿日 12月20日(水)12時18分 投稿者 ムラサキユカリ 削除

私は「恋するコッペパン」が一番好きです。
とても美しい話だと思います。
教授がパン屋のご主人に言った「けれど・・・それは犯罪だ」という台詞。
このドラマの中で唯一「現実」を感じさせる台詞でした。
だから余計切ない。
あのままにしておいてほしかった。
あれこそ永遠の愛だと言って欲しかった。
何か間違っていたでしょうか?私も亘と同じくわからない。


逆説の天使
投稿日 12月20日(水)10時00分 投稿者 櫂 削除

はじめまして楓さん。
亘と里美先生の件は最終回再考察の楽しみにしておきますが、ミアの件。
ミアは本人もいうように「死神」だったのではないでしょうかね。
ただし、ものずごいドジな死神で、ミアが出現する前に必ず人は自殺を
企んで、失敗したあとに出現してます。(一話の教授と亘)
ミアは近く、2人がもう一度自殺を企むことを予想してしばらく側にい
ました。でも側で暮らしているうちに人間が好きになったような気がし
ます。
最終回泣きながら亘に「私が側にいるともっと死ぬ人が出る」みたいな
ことを言ってましたよね。

おちこぼれの死神=逆説の天使 という気がします。

最終回にいたっては、ミアの出現に
よって自殺を思いとどまった人もいますね。(一話の教授と亘の時は自
殺を思いとどまってからの出現だった)
最終回のあとは自殺しそうな人の現場にあらわれて、その決意をゲラゲ
ラ笑うことによって萎えさせてしまう、ということをミアは続けていく
ような気がします。




はじめまして、疑問があって書き込みを
投稿日 12月20日(水)02時05分 投稿者 楓 削除

私はいまだにミアの存在がつかめていません。
ミアは天使か悪魔か?
どっちかに決めるのも味気ない気がしています。
あと、少し掲示板を読んで思ったのは、
私は「なぜ亘が迎えに行かなかったか」よりも
「なぜ里美先生は亘に恋愛感情を抱いたまま他の人と結婚したのか」
ということです。
結局、二人の間に愛はあったのだろうか。


疑問の続き
投稿日 12月20日(水)00時15分 投稿者 baby wolf 削除

みなさんは亘はいつか迎えに行くと思いますか?


亘、その後
投稿日 12月19日(火)19時20分 投稿者 櫂 削除

話の作りが基本的にファンタジーなので、亘は「死んではない」と思いますよ
世界中を潜水艦で旅しているのではないでしょうか。
リアルなドラマにしちゃうと、あの潜水艦が浮いてこれなくて、死亡!みたい
なのも思い浮かびますが...


野亜 亘
投稿日 12月19日(火)16時05分 投稿者 SOLA 削除

最終話、亘は何処に行ってしまったんだろう。

最終話は泣けて泣けて仕方がなかった。
最も悲しかったのは教授の死で…
なんだかそれ以来、すっかり世紀末のとりこになりました。
亘は死んでしまったの?


最終話...
投稿日 12月18日(月)06時03分 投稿者 しおん 削除

最終話の考察はまだ先のようですけど,今世紀中にひとつの答えが欲しいので書きます.
答えのうちのひとつ,と言うほうがいいのでしょうか.

最後には,亘と里美が共に『笑顔』だったから,それでいいのだと思いました.
あの『笑顔』は,お互いに嘘ではないと思います.
ドラマでは愛の形にこだわって(?)いましたが,最後の『笑顔』はひとつの愛の姿ではないでしょうか.


幻想
投稿日 12月18日(月)00時42分 投稿者 くろねこ 削除

そうです? 辿り着ける人がいないというのならそもそも「存在」するのでし
ょうか?「存在」自体の定義づけが必要かもしれません。

はじめは愛の存在を否定していたんですが、そうすると現在、自分が存在していることすら意味のないものになってしまうので(まあ、もともと生きる意味などないのかもしれないが)辿り着けないと分かっていても追い求めたいという気持ちをこめて愛は存在するけど誰も辿り着けないということにしました。


連続連続!
投稿日 12月17日(日)18時04分 投稿者 水梨 削除

連続ですみません。

私には残された時間が少ない。
別に一生が…とかではなくて。
世紀末である時間が残り少ないのだ。
私は世紀末のうちに見つけなければならない…
愛を示す言葉と形が見つかったなら
私は…その愛自体を見つけたい。

それは、不可能なことなのか…?

http://mizunasi.hoops.ne.jp/favorite/


切ない…
投稿日 12月17日(日)17時47分 投稿者 水梨 削除

この季節になると、世紀末の詩が思い出されて切ない…
ちょうどあの頃は受験勉強をしていたんです。
でもなぜかこのドラマだけは見てて。
日中のドラマ再放送枠で宣伝してたんですよ。
だから面白そうってことで見たんです。
そしたらハマリました。
そのずっと前から詩を書いていた私は
自分の考えとの一致と
こんな人が私以外にもいたんだ、という気持ちから
1998年のクリスマスプレゼントとして
自分から自分へこの本を買ったんです。

でも中学生になって(私は今14です)
こんな人が身近にできたんです。
その子とは今でも、とても仲が良いです。

このドラマが無かったら
私はラルクを好きではなかったような気がします。
それほど、私を変えたんです。

だから…
同じ風の吹く季節になると
私は切なくなります。
あの頃が…一番生き生きしていたと。
あの頃が…一番楽しかったと。

でも、大切な人がいるから
私は今が大好きです。


あと…
第七章の考察楽しみにしています。

http://mizunasi.hoops.ne.jp/favorite/


僕もわかりません
投稿日 12月17日(日)09時24分 投稿者 櫂 削除

僕もビッケさんと同じ。なんとなく向えにいかない事は想像してましたが
「なぜいかないのか」という事は当時僕も答えを出せなかったです。
そのままうやむやのまま忘れてしまっていました。
ここで疑問bebywolfさんの意見を聞いて思い出しましたよ、当時の疑問を。
なぜかなー。最終回再考察までに考えておこう。

>ちなみに、私の愛についての考えは、愛は存在するけど誰も辿り着けないです。

そうです? 辿り着ける人がいないというのならそもそも「存在」するのでし
ょうか?「存在」自体の定義づけが必要かもしれません。


みつからない
投稿日 12月17日(日)01時33分 投稿者 くろねこ 削除

>最終回、なんで亘は里美先生を迎えに行かなかったんでしょう??
>愛してなかったから??

私の考えは、亘るが愛に辿り着かないとおもい身を引いたということにしています。

ちなみに、私の愛についての考えは、愛は存在するけど誰も辿り着けないです。


う-ん
投稿日 12月16日(土)23時56分 投稿者 ビッケ 削除

>最終回、なんで亘は里美先生を迎えに行かなかったんでしょう??
>愛してなかったから??

なんとなく、迎えには行かないんだろうなぁ、と、
思いながら見てました。
「愛してるから、してないから」は、明確には
していないと思います。

7話の再考察するのですね。楽しみにしてます。


今になって解らないんですが
投稿日 12月16日(土)22時26分 投稿者 baby wolf 削除

最終回、なんで亘は里美先生を迎えに行かなかったんでしょう??
愛してなかったから??


それでは。
投稿日 12月16日(土)06時07分 投稿者 taki 削除

世紀末の詩再考察、今度はチャットでやりましょうー。
参加希望者は私までメールくださいー。
今回は7話ですー。
このBBSにあらすじとキャストを書きますので、
みなさんふるってご参加くださいねー。

http://alived.com/autism/


この季節になると...
投稿日 12月15日(金)04時19分 投稿者 しおん 削除

はじめまして.

このドラマが放映されていたのはもう2年前.
でも,なんかそんな気がしないんですよねぇ.
いつもこのドラマの事が,心にあるからかも知れません.
そして,毎年この季節になると,このドラマの事を思い起こします.

櫂さん.僕も第10話は好きです.

> 「幾千も夏と冬をつなぐ秋」って言葉でぶわー!と涙がでます。
> 何度みても泣かせる話です。

思えば,このドラマの世界自体も,夏から冬へと季節が移行していましたよね.
そして第9話の始めのほうで,
「好きな人は応援しなさい,ってママが...」
と,千秋が亘に言っていたのを思い出すと,10話での冬子の心情が少し解る気がします.
本当にこのドラマは,各話毎に独立しているように見えながら,
実はちゃんと話が繋がっていて...この順番じゃないとダメなんですよね.

今,再びこのドラマを見ると,また温かい想いが湧き起こされます.


何度見ても飽きません
投稿日 12月15日(金)01時49分 投稿者 joe 削除

もともとは,ジョン・レノンの曲を使っていることと,
キャスト,それに"世紀末"と言う言葉に関心があって
ビデオを撮っていました.
しかし,次第にその内容に引き込まれるようになりました.

近頃,再び,何度も見直していますが,そのたびに
心にぐっとくるし,愛を考えさせられます.


Re:質問です。
投稿日 12月14日(木)17時53分 投稿者 goro 削除

初めて書き込みます。
みなさんはじめまして。りのさんはじめまして。
以前、世紀末の詩をビデオレンタルして見てました。
無茶苦茶感動して、ついつい小説版も買ってしまいました。

もちろん、「ハローベイビー・・・・。」の部分は書いてあります。
この詩を読むと、それだけで心に愛という言葉が刻まれます。


それなら
投稿日 12月14日(木)08時40分 投稿者 櫂 削除

はじめまして。くろねこさん。
コピーガードですが、8ミリビデオカメラをお持ちならそれに
ダビングできると思いますよ。たぶん。
ちょっとためしてみてください。


何度も見たいけど……
投稿日 12月14日(木)01時58分 投稿者 くろねこ 削除

はじめまして
ビデオを借りてダビングしようとしたらガードが入っていました。
再放送を撮り損ねたのでどうしようか困っています。
買うと高いしなあー。DVDで出ないかなー。
ちなみに私は9話の喜怒哀楽を否定していくシーンが好きです。


質問です
投稿日 12月14日(木)00時29分 投稿者 りの 削除

はじめまして。
買おうか買うまいか迷っているのですが、
小説版もやっぱり良いですかね??
毎回最後に出てた「ハローベイビー」は
載っているのでしょうか???


小説本について
投稿日 12月13日(水)15時48分 投稿者 りんごジャム 削除

 私は『世紀末の歌』が大好きで,サントラも買い,小説も読みました。
 ところが,私の大好きな台詞がカットされているではありませんか。それは,坂
井真紀演じるミアが最終回で亘のもとを去るとき,「アタシ,悪魔。オマエ,死ぬ」
と涙をいっぱいためて言うと亘が「ミア,お前は天使だよ」という場面です。これ
は,私の中でとても大切なシーンだったので,非常に残念です。
 ドラマを小説化するときは,台本に忠実にしていただきたいものです。まあ,何
はともあれ,『世紀末の歌』は不朽の名作だと思います。


久しぶりに観ても泣けました。
投稿日 12月13日(水)05時36分 投稿者 はる 削除

はじめまして・・・
久しぶりに『世紀末の詩』をビデオで見直したのですが、またもや第2話の
最後のパントマイムのシーンで泣いてしまいました。
ストーリー的に他にもっと好きなものがあるのですが、物言わぬあのシーンには
ついつい・・・


ビデオは
投稿日 12月10日(日)22時07分 投稿者 櫂 削除

VAPのHPで購入方法がかいてあります。
だいたいビデオ屋で取り寄せてもらうようですが海外の場合はどうするん
でしょう?直接メールででも問い合わせしてみてください。

http://www.vap.co.jp/html/main_fset.html


うれしい.
投稿日 12月10日(日)15時46分 投稿者 ばん 削除

Yahooで世紀末の詩を検索したらなんとかここだけHitしました.
自分の周りには知らない人ばかりなのでかなりうれしいです.
今アメリカで留学中なんですけど,夏に帰った時に再放送していたのでなんとか
「僕の名前を当てて」から録画してもう何回も見ています.
恋には誰でもたどり着けるけど誰もが愛にたどり着けるわけじゃない.なんて英語では絶対表現できないですよね.Love.でおしまいです.
日本語の奥深さなんかを実感してしまいます.これほどいいドラマは少ないとおもいます.11話全てが映画になるほど深い内容だと思ってます.
どなたかビデオの購入方法知ってる方いませんか?是非購入したいんで.
それでは.


みる順番は
投稿日 12月10日(日)00時16分 投稿者 櫂 削除

>悲しくて泣くのと、違う泣きがはいりました。

そう、人間の持つ「愛情のすばらしさ」に涙がでる「嬉し涙系」ですよね。
ただ、今思ったのですがいきなり10話みてもたぶん泣くかもしれないで
すがやっぱ1話から千秋ちゃんのエピソードを何回も見ていたほうが確実
に泣けますよね。
だからホントは世紀末は1話から順に最終話までみてほしいです。




はじめまして
投稿日 12月9日(土)23時14分 投稿者 ビッケ 削除

最近、思うことがあって「世紀末の詩」をまた見てます。
私も10話好きです。他の回でも泣きましたが、
悲しくて泣くのと、違う泣きがはいりました。


一番好きな話って
投稿日 12月8日(金)11時25分 投稿者 櫂 削除

10話です。
「幾千も夏と冬をつなぐ秋」って言葉でぶわー!と涙がでます。
何度みても泣かせる話です。
直也さんももし近所のレンタルビデオ屋にあったら見てみてください。


僕の過去最高のドラマ。
投稿日 12月8日(金)05時57分 投稿者 直也 削除

『世紀末の詩』は知らなかった、今年(2000年)まで。
深夜の再放送で見てかなり泣いた。
第一話と第四話、最終回後編、これは前編を見たからかなり悔しい。
金曜のナイトスクープにでも頼んでみようか、「世紀末の詩、見せろ」と。
今年12月このページを見付けてい俺の他にもいっぱい『世紀末の詩』が好きな人が
居る事を知った、何故か嬉しい。
皆さんが世紀末の詩の中で一番好きな話は何ですか?俺は第四話。
そろそろ世紀末が終わる、何か切ない。


トラウマ
投稿日 11月30日(木)07時01分 投稿者 taki 削除

考察用BBSで話題になったので、長くなるためこちらに書かせていただきます。

心理学用語で心的外傷といわれるTraumaは
フロイトが使い出したもので、心のある部分の状態を表す概念的定義です。
となると過去の事象の「何々がトラウマ」といった使い方は適切ではなく、
それが何らかの心理障害を引き起こす元というのが正しいと思います。

臨床の現場ではトラウマティックな出来事からの定義と症状から見る特有の反応
(個人の傷つき)から見る2つの見方があると聞きます。

トラウマ自体は臨床的障害を引き起こす原体験です。
それが個人の体験に拠るものなので、定義がしにくいものなのですが、
ショッキングな出来事イコール、トラウマではないのです。
よく「トラウマ」と使われる時に出来事なのか、心の傷なのか曖昧に
なってることが多い様です。
つまり、ある規定した出来事が起これば誰でもトラウマを背負ってしまうと
言うことではなく、それにより何らかの臨床的障害が起きてしまう元が
トラウマと言います。
出来事は人間の内部のことではなく、トラウマは心の中のこと。

トラウマがあれば、その障害であるPTSDとして診断される場合が
ほとんどですが、それは熟練した医師でもかなり診断を下すのが
難しいものとされているので、診断までセラピーを重ね時間をかけるそうです。

つまり、素人が症状や出来事を見ただけでトラウマだとか、PTSDだとか
簡単に言えない出来事だそうです。


参考文献:「インパクトオブトラウマ」小西聖子 朝日新聞社

http://alived.com/autism/


>どなたかご存知の方おられませんか?
投稿日 11月25日(土)02時39分 投稿者 ふみ 削除

「世紀末の詩」DVDは出てません。
書籍の方は別に絶版になっていないので、近くの本屋で注文するか、オンラインブックショップなどで注文して買えると思いますー。


めちゃめちゃ泣きました。
投稿日 11月24日(金)14時15分 投稿者 りんご 削除

このドラマを見て、久しぶりにバカみたいに泣いてしまいました。
特に3話なんて、もう、ボロボロ。内容はもちろんのこと、最後に流れてくる
音楽と詩がまた、涙をさそうんですよ。
たとえ、このドラマを見ていた人が少なくても、視聴率が悪くても、
私が大好きならそれでいいんです。っと、思えちゃうんですよねぇー


どなたかご存知の方おられませんか?
投稿日 11月24日(金)12時47分 投稿者 しんいち 削除

世紀末の詩をジョン・レノンの歌を久しぶりに聞いて思い出したのですが改めてすばらしい話だったなあとおもいぜひいつでも見れるようにしたいと思いDVDソフトを探したのですがない、出ていないんでしょうか?ご存知の方おられませんか?
ちなみに書籍のほうも探しています、どなたか譲ってくださるというかたおられましたら連絡ください。宜しくお願いします。


6話の考察について
投稿日 11月24日(金)01時59分 投稿者 ふみ 削除

「世紀末の詩」好き!という人やっぱり多いんですね。
当時視聴率は悪かったけど、今更ながらにこの作品の持つ影響力とか普遍性を実感します。。
それで、、
考察も5話で止まったままの状態だったんですけど、掲示板を使って再開してみたいと思います。
今までチャットでやってきたんですけど、チャット参加者全員の都合に日時を合わせるがちょっと無理があるのと、参加者もあまりいない状態だったので(^^;
掲示板でちゃんと考察できるか分からないですけど、「利用上のお願い」を読んで、ぜひみなさん参加して下さい。

なお「世紀末の詩」全体に関する感想や話題、6話以外の話の感想、6話全体の感想などなどは引き続きこの「世紀末の詩BBS」に書き込みして下さい。

http://alived.com/cgi-bin/bbs/topic.cgi


>次回再考察が第6話のようなので
投稿日 11月24日(金)01時56分 投稿者 ふみ 削除

>次回再考察が第6話のようなので
>投稿日 11月8日(水)18時42分 投稿者 櫂 削除

>>つまり、天才の子供は天才でありえないという論理ですね?
>>そのとおり
>>世襲される文武が質を悪くするのはそこにある
>>大経営者の息子は凡人だろうし
>>大芸術家の息子もまた、凡人であるということだ
>>徹が広田聡の息子ではありえない

>でも、天才の息子が天才である確率も結構高いと思いますよ。
>長島一茂とか、あきらかに非凡な才能ですからね。
>お父さんほどの活躍は残念ながらできませんでしたけど。
>みなさんはどー思われますか?

確かにそうですね。
このドラマで言われてる事がすべて正しいとも思えないし、
ここで教授がこういう例を出したのは、広田聡の息子は徹ではないってことをただ強調したかったのかな?って私は思いました。


本当にいい曲・・・
投稿日 11月24日(金)01時14分 投稿者 水深二尋 削除

「LOVE」を着メロにしているなんて素晴らしいですね〜。この曲なら鳴り出しても周りの人は不快に感じることもきっとないんじゃないでしょうか。
むしろ某コーヒー会社のCMのようにさえなるかもしれません(笑)
今ちょうどジョンのアルバムを聞きながら書いています。


今日ついに・・・
投稿日 11月23日(木)20時49分 投稿者 Spiral 削除

今までずっと探していてみつからなかった世紀末の詩の小説を
今日本屋にいって予約してきました
なんで本屋に普通に並んでないんでしょうか・・・
僕の周りに世紀末の詩を知っている人が少なかった様に
小説の方も売ってる店が少ないんですかね・・・


LOVE
投稿日 11月23日(木)09時19分 投稿者 櫂 削除

ジョンレノンのLOVEは携帯の着メロにしてま〜す。


「LOVE」
投稿日 11月23日(木)01時55分 投稿者 水深二尋 削除

ドラマももちろん大好きですが、使われている曲も大好きです。ジョン・レノンの「LOVE」を聞くとドラマのシーンが浮かんできます。また、ドラマを思い出すと必ず頭の中に「LOVE」が流れてきます。ドラマと曲って、切っても切り離せない関係ですよね。


はじめまして
投稿日 11月18日(土)14時27分 投稿者 櫂 削除

>人生を破滅させるぐらいその人のことで気持ちが一杯になっても、
>その時は「愛」と「盲目的な恋」の区別なんてつかないでしょ?

ドラマではこういう感情は「盲目的な恋」であって「愛」ではないと
言っていましたね。

>本人にとってもそれが真実かどうかなんて考えもしないですから。
>その人とのつながりに終焉を迎えたとき
>ようやくそれが「愛」だったのかどうかを考えることができるのだと思います

終焉を迎えるのも「愛」ではないといってました。
決して終わることがないのが愛だと。
愛する人がいる当事者としては愛を実感できることは
あまりないのではないですかね。(それが当然で、他の
カップルもそうだと勝手に思い込んでいる)

恋が終わった後にいつの間にか愛にかわっていて、
おだやかで、嫉妬もなく、虚栄心もなく、エゴもなく
浮気心が芽生えることもなく。
世間で恋の名残、結婚の行く末に「ただ一緒にいるだ
けとなった」カップル(夫婦)と外見上なにも変わる
ところがない。
でも心の中だけはおたがい「やすらぎ」で満ち足りて
いる。そんなのが「愛」の形のような気がします。
(というより「愛」とはそういうものであってほしい)


愛って・・・
投稿日 11月18日(土)13時27分 投稿者 くま 削除

始めまして初投稿させていただきます。
このドラマみてて思ったんですが、
「愛」 って現在進行形では 語れないもののように感じました。
つまり「愛している」ってう言葉はありえないという意味です。
人生を破滅させるぐらいその人のことで気持ちが一杯になっても、
その時は「愛」と「盲目的な恋」の区別なんてつかないでしょ?
本人にとってもそれが真実かどうかなんて考えもしないですから。
その人とのつながりに終焉を迎えたとき
ようやくそれが「愛」だったのかどうかを考えることができるのだと思います。
もちろん 過去に対する美化意識なんてあったら到底たどり着けないでしょうが・・・

でも、ドラマの筋からいくと「愛」って失ったらその人壊れちゃうんですよね。
それなら 自分で考えることもできないような・・・
んじゃ 「愛」の有無って第三者が判断するのだろうか・・・
そのあたり ムズカシイ・・・


こんなドラマって
投稿日 11月17日(金)06時53分 投稿者 櫂 削除

もう2度と現れない気がしますね。
一話一話、視聴者になにかを訴えかけてくるなんて。

脚本家野島伸二はまさに「天才」よりも「鬼才」というにふさわしい
気がします。


世紀末の詩、第4話について。
投稿日 11月16日(木)01時57分 投稿者 ゆうこ 削除

世紀末の詩は、連続したストーリーじゃなかっただけに、
そんなに真剣に見ようって思ってなかったんです。

でも、あの日は画面から目が離せなかった。
涙があふれて仕方なかった。

谷啓さんの演技も野島さんのセリフもとっても良かったです。
あんなに真剣にTVを見たのはホント久し振りだったなぁ。
よくあるストーリーなんだけど、きっちりツボにはまりました。

最近野島さんのお話には、以前のようなメッセージ性がないようで、
ちょっと寂しい気もするんですが、これからもずっと少年のような
純粋な感性を失わないで欲しいです。

ずっとずっと何かに挑戦し続けて欲しいです。

日本に住む私達が最近忘れてしまってる、人間らしさを再認識させて
くれるようなステキなお話を作り続けて下さい。
私の大好きなアメリカのペニー・マーシャルのように。


最高です!
投稿日 11月16日(木)00時08分 投稿者 削除

ここのページに来てショックを受けました!
ランキングで「世紀末の詩」が1位じゃないっすか!
「世紀末の詩は最高だよ!!」と言い続けて早2年。
みんな知らないんだもん!それがここに来てびっくりでしたよ!
まさか1位とは・・・ねぇ。また来ます。是非!


愛って
投稿日 11月15日(水)23時11分 投稿者 櫂 削除

せつなさに起因するものだと思う。せつなさは寂しさに起因する。


なんざんしょ。
投稿日 11月13日(月)05時43分 投稿者 しゅう 削除

愛ってすっごくシンプルなものだったりして。。。。


最大の嘘
投稿日 11月12日(日)09時20分 投稿者 櫂 削除

人は一人でいることができないから「愛」という概念を生み出しました。
たしかに存在するかどうかは定かではないが、「自らの不安を癒す」詭弁
として最初生まれたものだと思います。
そういった意味での派生のし方は「宗教」とも似ています。
「死」の恐怖がまずあり、それを精神的に癒すために派生してきた「宗教」
の概念と「孤独にたいする不安」から派生した「愛」の概念。
どちらも目にみえることのない「概念」として存在し、不安をとりのぞく
「まやかし」であるともいえるし、「事実存在する」ともいえる、そんな
「あやふやな存在」
でもひとつ言えることは「存在自体が嘘だろうとなんだろうと、不安を癒
すことができるなら、また愛(または宗教)を必要とする人があるなら、
それらが存在することには価値がある」と思います。

不安を取りのぞくために派生した嘘=愛、宗教。それらは人類の英知が生
み出した「最大の嘘」なのですから。


きゃぁ〜〜〜〜
投稿日 11月11日(土)21時06分 投稿者 水梨(みずなし) 削除

かんど〜〜〜〜
世紀末の詩って結構マイナーだったのか、
周りに知ってる人があんまりいなくて…
今、14なんですがこのドラマを見たとき
めちゃめちゃ感動して、それから愛について考えるようになりました。

本は持ってるんですけど
やっぱりもう一度、画像で見たい!!!と思ってます。
ビデオで借りればいいんですけど
なかなかお金とかも無くて…(爆)
再放送、やって欲しいデス。
これは、ず〜っとの願いです。

私が出した答えは
「愛は存在しない」
というものです。
愛は永遠なら…
永遠はこの世に存在しない。
だから…
愛も存在しない。
でも私は、この存在しない愛を
手に入れてみたいんです。
私はL'Arc〜en〜Cielのtetsuさんが大好きです。
決して届かぬ人だけど…
永遠に想い続けたい…

なんか、これからもここにきて
愛を考えたいです。
ちょっと、一員にならせて頂きま〜っす。

あと、最後に…
風船っていう答えがすごく気に入ってます。
私は詩を書くのですが…
いつも風船が象徴になっているような…(爆)

http://mizunasi.hoops.ne.jp/favorite/


愛の存在
投稿日 11月10日(金)19時22分 投稿者 nori 削除

生きることに忙殺されている者にこそ愛の存在が信じられる。
ことばでそれを確認しようとする者にはそれは訪れない。
野島ドラマではあたかもマニュアルを開くがごとくに、唯一の愛とは、互いの愛を確かめ会うための冒険と言い切ったところに魅力がある。


刹那的ですね
投稿日 11月10日(金)19時02分 投稿者 櫂 削除

>「人は昨日でも明日でもなく今日に生きている」
>そういう生き方をしたいなと思います。

----------------------------------------------
とても刹那的です。
でも昔の人の言う「粋」な生き方なのかもしれません。
江戸時代には明日のことを考えてお金を残したりすること
が「無粋」と思われていました。
粋な江戸っ子は「宵越しの銭はもたない」といって
午後2時くらいにその日の仕事を終えて、日払いの賃金
をもらって、その日の内に(夜が明けないうちに)全部
飲んで使う。これが粋な生き方だと思われていたのです。

ハタからみると非常に理想的でうらやましい生き方みた
いですが、なかなかできないものです。


驚き!
投稿日 11月10日(金)15時45分 投稿者 めい 削除

こんなHPがあるなんて知らなかった.
私はとってもうれしい.
世紀末の詩は本当に本当にいいドラマでした.
これまで見た中でだんとつトップです.
終わってしまえばはいそれまで,のドラマHPの中,やはりいいものは
こうやって語られつづけられていくんですね.
管理人さん,ありがとうございます.これからも遊びにきます.


一日暮らしとその日暮らし
投稿日 11月10日(金)11時03分 投稿者 りい 削除

今を大切にして精一杯生きることあるいは今出来ることを今やること

今が楽しければそれでいーじゃんという生き方

愛に限らず、今を生きている人は案外少ないのでは?

あの時ああすればよかったと過去に「後悔」し、
こうなったらどうしようと将来に「不安」を感じる。

「人は昨日でも明日でもなく今日に生きている」
そういう生き方をしたいなと思います。


現在
投稿日 11月10日(金)08時29分 投稿者 茶夢姫 削除

現在があるから過去も未来もあると想うの

だって過去は現在(今)の積み重ねで
未来は現在の延長線上にあるような

”愛してた”
”愛したい”

どっちの言葉もいらない
過去も未来もどうでもいいような

わたしが欲しいのは
感情として存在する現在の気持ちかも

”愛してる”


時間と愛
投稿日 11月10日(金)06時51分 投稿者 櫂 削除

それをいうなら愚者さん。「現在」という概念こそ現実には
存在しないものですよ。未来から現れはてしなく過去に流れ
ていく時間。
悠久の昔からある過去と、有限の未来。
そのハザマを称して「現在」とよんでいるだけです。
だから「愛」の表現としては「愛していた」「愛したい」
が本来正しいのです(すみません詭弁のようなことを...)


人の心は虚ろいやすいもの
投稿日 11月10日(金)00時29分 投稿者 愚者 削除

私の名は「愚者」

「愛」と言う物は、現在に無いのではないか?
ある者は「私が愛していたものは…」と過去を振り返る。
ある者は「君のことを愛したい…」と未来を望む…。
「愛してる」といった、物語の主人公立ちの結末は?
それぞれが、過去に縛られ、未来に対する願望を待ちつづけている。
そのいずれもが、本物によく似た偽者ではなかったか?

「大切なモノは、いつも眼に見えないと誰かが言った」
それは、「現在」には無いからではないか?


次回再考察が第6話のようなので
投稿日 11月8日(水)18時42分 投稿者 櫂 削除

名セリフ1から下記抜粋しました。天才とその遺伝に関する
教授の意見の部分。

>つまり、天才の子供は天才でありえないという論理ですね?
>そのとおり
>世襲される文武が質を悪くするのはそこにある
>大経営者の息子は凡人だろうし
>大芸術家の息子もまた、凡人であるということだ
>徹が広田聡の息子ではありえない

でも、天才の息子が天才である確率も結構高いと思いますよ。
長島一茂とか、あきらかに非凡な才能ですからね。
お父さんほどの活躍は残念ながらできませんでしたけど。
みなさんはどー思われますか?


徒然なるままに
投稿日 11月4日(土)23時06分 投稿者 アク 削除

お初にお目にかかります。
私も世紀末の詩はとても好きです。言葉の紡ぎ方が素敵です。
愛って究極ですよね。
誰もが知るものではあるけれど、実体のない分、曖昧で不確かで、
それに対する共通の定義を与えることが難しい。
実際にそれに触れた事のある人って果たして存在するのでしょうか。
その存在にすら疑問を抱きます。
「愛している」という言葉を軽々しく口にする人は嫌いです。
女性はすぐ言葉を求めるけれど、
そんなものでは人の心の孤独は満たされない。
孤独はもっと絶対的なものであり、唯一絶対のモノとは孤独のみ。
孤独によって人は苦しむけれど、孤独によってまた救われる。
恋愛関係にある男女について考えます。
大抵の人間は少しでも自分の方が多く想われていたいと願う。
想われていることの確証の上でなければ安心して相手を想うことができない。
しかし、相手の想いが確かなものであることへの確証を得ると途端に不安になる。
欲望の肥大化、心変わりへの恐怖(相手の、また、自分の)。
人間の思考や感情が、すべて、
外部の刺激を自己のうち取り込むことによって表出されるものである以上、
自己中心的なものであることは避けられず、
そのように立ち振る舞ってしまうことは否めない。
・・・って、
なんだか収集がつかなくなってきてしまったのでこの辺で止めておきましょう。


>DVD
投稿日 11月4日(土)01時14分 投稿者 ふみ 削除

世紀末の詩のDVDは出てないです。
野島ドラマはまだ一つもDVD化されてないと思います。

愛は冒険(否定せず追い求めるもの)というのは納得なんですけど、風船に関しては私も?という感じです。
でも、色々な解釈ができそうですね。


はじめまして
投稿日 11月3日(金)22時08分 投稿者 プッチ 削除

はじめまして、プッチと申すものです。

突然ですが、「世紀末の詩」のDVDはあるのですか?
誰か知っている方がおられたら、発売元とか教えてください!お願いします!(ビデオでは映像が汚くなってしまうので…)


風船
投稿日 11月3日(金)02時57分 投稿者 ピエロ 削除

風船って不思議ですよね。
一体、何をして風船と呼ぶのでしょうか?

@外側のビニール?
A中の空気?
Bビニールと空気両方?

一般的にはBですよね。

私は風船と愛についてこう解釈します。
まず、風船の要素はどこにでもあるんです。
つまり、私達の周りに空気は当たり前の様にあります。
そして愛も私達の周りに当たり前の様にあるんです。
でも見えません。何故でしょうか?
空気は包んでくれるビニールがないと風船として見る事が出来ません。
どうように愛もきっとビニールの様に包んでくれるものがないと見れない気がします。
愛はすぐそこにあるんだけど多くの人は気づかないんです。
じゃー愛を包むビニールって一体どこにあるのって言う話しになるけどそれが分からないんです。
だから冒険してそれを見るけるんだと思います。
求めるモノは目の前にあるのに捕まえられない歯がゆさ。
そう考えると風船を見る目が変わってしまいます。

『愛は風船』私はすごく素敵だと思います。


風船について
投稿日 11月2日(木)11時19分 投稿者 りい 削除

 風船にガスを入れて膨らせても、針で穴を開けると穴が爆発的に拡がる。
穴は瞬間的に風船全体に広がり、風船は割れてしまう。

風船にガスを入れても、口を開けてしまうとブリブリとガスがもれて
しぼんでしまう。

風船は一度ガスを入れてもしばらく放っておいて何もしない
でおくとしぼんでしまう。

風船が愛だとしたら、その中に詰まっているガスは感謝だと思います。

相手の信頼を裏切る行為

相手との関係に不平や不満を募らせてしまうこと

相手との関係に慣れてしまって(倦怠期になって)当たり前のもの
として考えてしまい、感謝できる理由を探さなくなること

こういったことで、愛の中に詰まっていた感謝は、
徐々に、あるいは一瞬で失われて、その結果、愛を失ってしまうの
ではないでしょうか?

愛はそれを保つために、お互いの努力が求められると思います。


愚者さん
投稿日 11月2日(木)07時15分 投稿者 櫂 削除

>そして、死によって愛は分かつモノでもないと思います。

ならば第7話をどうおもいますか?
愛する人にさきだたれた場合、「その死を認めない。みとめたら心が
壊れる」ことが唯一の愛の形という教授。
一方の亘は「愛は生きることだ。生きて悲しみに耐えて生きていくのが
愛だ」と主張します。コッペパンをつくっていたパン屋のように。

どちらがより、「純粋な愛」に近いのでしょう。


ひとつの無限
投稿日 11月2日(木)01時26分 投稿者 愚者 削除

私は、言葉が絶対だとは思いません。
そして、死によって愛は分かつモノでもないと思います。
そして、最後の風船の意味はこうだと思います。

「真実はひとつ。そして、見る方向によってその姿を変えるもの」


愛の形が風船?
投稿日 11月1日(水)21時44分 投稿者 櫂 削除

形が...というより、その特性すべてが「愛は風船」という
ことになったみたいなモノローグでしたが...
これもいきなりすぎてよくわかりませんでした???


そうです...
投稿日 11月1日(水)21時40分 投稿者 櫂 削除

>つまりコミュニケーションを充実させる努力が求められると思
>います。
>「俺のこと好きなら、いちいち言わなくても分ってくれよ」とい
>うのは男の甘えだと思います。

そうです。コミュニケーションというか完全に自分の心を理解
しているという確信があれば別ですが、やっぱ「いちいち言わ
なくてもわかって」というのは身勝手ですよね。

特に麗美にいたっては3重苦の状態になるほど心を閉ざしてし
まった。>でも愛を維持するために離れていったというのは
(遭難が不可抗力としても)矛盾ですよね明らかに。

愛を停滞させないためにしたことが、結果、愛を永遠に失う
ことになってしまうなんて...やりきれないです。



勉強になりました
投稿日 11月1日(水)14時50分 投稿者 ゆうか 削除

このドラマが教えてくれた愛に関することは多いと思います
ただ二十歳の私にとっては難しいかもしれませんが、心に響いた物語りと認めます


離れるのは倦怠期だから?
投稿日 11月1日(水)12時55分 投稿者 りい 削除

櫂さんへ

離れるのは倦怠期だからというのはそうかなとも思います。
でも、その動機が相手の女性に対する感謝を保ちたいという
積極的なものならば,必ずしも身勝手ともいえないと思いますが。

ただ、そういう時は互いの共通認識がないと、「何で一緒にいて
くれないのよ!」と女性の方が不満爆発になるかもしれません。
これは逆効果ですよね。(笑)

2人の関係を良いものにしたいという願いがあるのなら,誠実に
「私はこう思うからこうしたいと思う」と相手に説明する必要も
あると思います。
 つまりコミュニケーションを充実させる努力が求められると思
います。
 「俺のこと好きなら、いちいち言わなくても分ってくれよ」とい
うのは男の甘えだと思います。


とおりすがりですが・・
投稿日 11月1日(水)07時54分 投稿者 ケムマキ 削除

ビデオ借りてきてHPさがしてたらここにきました〜^^
「世紀末の詩」感動してます。
僕も皆さんと同じで最終話納得いかないんですが・・あれってこじつけっぽく感じました。(最終話だけなんですが・・なんか無理やり結論だしてるみたいで・・・・)
脚本家が結論でなかっただけかなあ・・・・っておもちゃったりしてますが、・・・>真実の愛について


ためしに
投稿日 11月1日(水)00時50分 投稿者 櫂 削除

最終話での亘のセリフを名セリフの2から抜粋

>君を愛するゆえに、僕は時に違う景色を見つめなければならない
>僕がとどまることは、いつか愛そのものすら停滞させてしまうものだから
>僕は君のために、そして僕たちのために、時に離れる必要がある
>どんなに今愛していても、その愛を守るために…
>僕はもうすぐ肉体を死なせてしまうだろう
>しかし、僕のことを許し、理解し、そして永遠に愛して欲しい
>僕もまた君をそうするだろう
>この肉体が死んでなお…
>なぜなら愛とは…
>唯一の真実の愛とは、互いの愛を確かめ合うための…
>愛とは…冒険だから

<解釈>
たまにおまえのことわすれて息ぬきしねーと
あきちゃうんだよ、お前のこと。
そろそろ倦怠期だしさー
ちゃんと愛してっからさ、今は好き勝手なこと
させてくんな。

言葉の美しさについだまされて(詩人だから言葉が美しいのなんの)
よーく読むとこの男の自分勝手さがよく理解できます。
亘自身の自分勝手さなのか、本当にこの冒険家がのりうつっている
のかは知りませんが...(最初に聞いたときは結構感動したけど
な...)
でも言葉の意味をすんなりうけとめるとこういう解釈でしょう?


愛が冒険?
投稿日 11月1日(水)00時32分 投稿者 櫂 削除

恋人とともに生きて、それが時間をかけて愛になっていくという形
を「冒険」というなら理解できますが、10話の詩人になった亘の
表現がわからない。
ずっと一緒にいることが愛を停滞させることになるから、山に冒険
の旅にでた...という主旨のことをいっていました。
だから愛とは冒険なんだと。
愛を維持する(?)ためには一時的にも離れ離れにならないといけ
ない、そういう「刺激」がないと愛を維持していくことができない
というように聞こえました。
そんなに危ういものが「愛」だとしたら9話で亘が言っている「愛」
の理想形にもやはり矛盾するような...
全体を通して、亘の観覧車の中でのモノローグこそ最大の「謎」です。


冒険について
投稿日 10月29日(日)23時12分 投稿者 ティガー 削除

教授が示す愛とは第9話でノアが
真実の愛とは恋のように思い出にはできず
失えば誰かを好きになる回路すら奪われるもので
瞬間にして永遠で疑わず、あきらめず、そして喜び、怒り
悲しみ、楽しみ救われるものだと。
恋する人と出会い長い時間をかけて魂が寄り添うこと
誰もが手に入れられるものではない。
まして生まれながらに持っているものではない。
と言っています。
恋する人とは出会えるけどそこから真実の愛に
たどり着けるかどうか解らない。
だから愛とは冒険なのではないでしょうか?
たしか、パンドラの箱の中も希望でしたよね。


冒険
投稿日 10月29日(日)15時24分 投稿者 nori 削除

僕には判らない。教授の見つけだしたとてもとてもシンプルに愛を表現する言葉がなぜ冒険なのか?


続編「新世紀の詩」が放送されるとしたら
投稿日 10月28日(土)23時45分 投稿者 風の前の塵 削除

「人間の幸福とは何か」をテーマにしてほしいです。でも「世紀末の詩」は
それほどヒットしたドラマではないので続編ができるかどうか・・・
私としては是非続編を作って欲しいと思います。


自己愛を区別することなかれ
投稿日 10月23日(月)16時35分 投稿者 くうや。 削除

YKRさん
こんにちは。

>忘れちゃいけない気がするんです。
>直感?
>ってゆうのかまだ終わっちゃいけないような・・う〜
なんで別れたの?


偽善
投稿日 10月21日(土)07時53分 投稿者 kei 削除

りいさんの意見にとても共感します。
「偽善」と言う言葉は大嫌いだし、軽軽しく使わないようにしています。
「偽善」という言葉を使いたがる人こそ
「偽善」的な性質を持つ人に多いと思うのは僕だけでしょうか?

「10年間待った女」という回を久しぶりに見たんですけど、
やっぱりいつも泣いてしまいます。
前半を通して、愛の存在を否定されてきた亘が
教授の生き様に触れ逆に愛の存在を確信していく。
愛に絶望してあきらめかけていた教授も
愛の形が見えるという亘に期待していく。

教授「おじちゃんもここに入ろうかな」

園児「おじちゃんが保育園に?]

教授「みんなと同じ所からやり直したいんだ」

園児「どうして?」

教授「無理だからさ」(悲しそうな目で)

このシーンがとても好きです。
この「無理だからさ」はたんにやり直すことが無理
という以上の含みがある気がします。
この「無理だからさ」を皆さんはどう解釈しますか?


りいさんへ
投稿日 10月20日(金)14時23分 投稿者 YKR 削除

返事ありがとうございます。
なんかなるほどなるほど、っておもいました。そしてちょっと楽になりました。その言葉を言われたときなんかすごい自分が不細工だと言われた気がしてたので。りいさんが言うような意味だったら、私だけじゃないんだ!とおもえました。本当に皆さんみたいに頭よさそうな文章書けなくてごめんなさい。


救われない、すくわれる
投稿日 10月20日(金)14時18分 投稿者 櫂 削除

たしかに信じるものは足をすくわれるのかもしれません。すくなくても私の場合
信じたことのみかえりが「救われる」ではないことはたしかですね。
「救われる」人も「足をすくわれる」人も根本的な違いはないと思いますよ。
ただひとる違うものがあるとすれば、信じた対象の程度、ひいてはその「信じる
対象」を見極める眼力の違いとでもいうのでしょうか。
裏切られる人は、もう信じた瞬間から裏切られ始めているのだと感じます。


信じる者はすくわれる
投稿日 10月20日(金)12時06分 投稿者 りい 削除

「信じる者は救われる」という。
その一方で、
「信じる者はすくわれる。足元を」
ともいう。

 「救われる人」と「足元をすくわれる人」は何が違うのでしょう?
たとえば二人ともが愛を信じていたとしたら?

 皆さんはどう思われますか?


偽善かそうではないかは何で決まるか>YKRさんへ
投稿日 10月20日(金)12時01分 投稿者 りい 削除

こんにちは。りいです。YKRさんの元彼が
「人間は所詮見た目。中身なんて言ってる人は偽善者だ」
とおっしゃっていると。

 「偽善」なんて嫌なひびきだ...。
でも考えてみると、人間は完璧ではないし、不完全な欠点を多く持つものです。
であれば、「完璧な善」を人間が行えるはずはないのでは?
 だから問題になってくるのは「なぜそうするか」ということでしょう。

 元彼の言葉は非常に面白いと思います。私も含めて人は他人を完全に理解する
ことはできないです。何しろ自分自身を理解するのも難しいのですから。
 理解できないから想像するしかない。相手の行動にどういう意味があるのか、何を思ってそうしたかと考えたりします。
 考えるとき材料になるのは常識も含めて自分自身の中にあるものです。
そうして考えて「この人はこういう人なんだ」と思うのではないでしょうか?
 つまり、自分の思っている「相手の人の中身」はあくまでも
「自分の推測や想像」で、その段階では「不確かなもの」であると。

 元彼はなにかそういうことで以前に嫌な思いをしていたのかもしれません。
これも想像ですが(笑)

 人生経験が豊富になると考える材料が増えていくので、より多面的で冷静な
考え方が出来るようになるのではないでしょうか。
 
 


反省+α
投稿日 10月20日(金)00時41分 投稿者 優 削除

前回書き込んだときに、2時間ほど回線を切断したまま文章を打ち込んでいたので、Dさんの2回目の書き込みを見ることのないまま書き込んでしまいました。その為、話の流れから、非常に間の抜けたタイミングの書き込みになってしまいました。Dさん、万一気を悪くされていたらごめんなさい。ただ、その後の書き込みを見てそうでもないかな、と勝手に安心していますが・・・。
ところで、その後の書き込みを見て、Dさんは愛に対してとてもまじめで厳格な方なのだなと思いました。前回の書き込みで、「究極の愛は自己愛に根ざしている」という考えに対する反論は難しいと書きましたが、その「難しさ」はまさにこの点にあり、Dさんの仰るように、「自殺」という状況はおろか、「愛する相手のために命を投げ出す」という、分かりやすいほどの「究極的」な行動さえ、相手のためにそうしたいという自己の願望の産物であり、その自己の願望を満たすためにそうしている、と考えれば、自己愛によるものではないとは決して言い切ることはできなくなります。
おそらく、こうした行動はkeiさんの仰る「純粋な自己愛」と呼べるものでしょう。愛を大切なものだと思えば思うほど、それに対して厳格になるのは当然のことだと思います。ですが、僕は比較的いいかげんな人間であり、一方で愛の存在を信じたいと強く思っているために、そうしたものはもはや自己愛と呼ばなくてもいいんじゃないかな、と都合よく「自己愛」の意味を縮小解釈しています。「人間の愛はしょせん自己愛に根ざしているのかもしれない!・・・(中略)・・・だけど、僕が好きなのは、あなたを好きな自分なんだ!」と叫んだ亘の心境、と言ったら自分を良く言いすぎでしょうね・・・叫ぶ相手もいないし。


良ければ相談のってください。(直でも可)
投稿日 10月19日(木)07時01分 投稿者 YKR 削除

元彼がいつもこのドラマをみててそれから見るようになりました。
絶対ビデオほしい!!そして自分に子供ができたらいつかみせたいです。
本当に感動しまくりでした。今また思い出してすごく胸が切ない。それは、どうしても忘れられない人がいるんです。まあ元彼なんですが、もう全然思いこみかもしれなんですが忘れちゃいけない気がするんです。直感?ってゆうのかまだ終わっちゃいけないような・・う〜でもやっぱ思いこみなのか!?
感覚的には愛に近い感じです。思い出に出来ないこと、誰かを好きになる回路を奪われる事も愛に含まれるなら。
そこで愛について考えるんです。このまま自分の中だけで思い続けるべきなのか、また時期が来たら告白してもいいのか。自己愛と愛の区別がいまいちわかりません・・その人と生涯一緒にいられたらと思うのはどっちなんでしょう?
やっぱ自己のほうですか?それは私の願いでしかないから・・う〜〜どうかいていいのかわかりません・・この胸のもやもやを文章にするのは難しいですね・・ホントに解りづらくてごめんなさい。

ちなみに元彼はこのドラマをビデオとって何回も見たりたまに台詞の一部を私に言ってきたりしてたのにもかかわらず「人間は所詮見た目。中身とか行ってる人は偽善者だ。」と言っていた。本気で言ってるのか、照れ隠しでそういう言い方しか出来ないのかわかりませんが。まあ完全に否定できないんですが、もっと思うことあるだろ!っと思っちゃいました。

このドラマを見てからすごく愛って..て考えこんでしまいます(まるで宇宙ってどこまであるの??と同じ感覚です)。
心理テストでは私の人生を表す歌は[LOVE]でした。(笑)
頭良ければ再考察に参加したいくらいです。


はじめてカキコさせて頂きます(^^)
投稿日 10月19日(木)06時12分 投稿者 カメ 削除

今日、初めてこちらのサイト様に御邪魔したのですが、
すごいですね(^^)感激しました。
(ガマンできずにカキコしてしまいまして失礼します;;)
ある決心をして『愛』について考えてみよう、と思い立ち、
私の今までの人生で一番真剣に、実直に、熱く『愛』を考えさせて
くれた『世紀末の詩』のサイトさんに行って見よう!と、来てみたら
…もうもう、感動でした〜(*>_<*)/
これからも、皆様の『愛』の御意見を拝読させて頂きます(^^)
(難しくって、う〜となる時もありますが…(苦笑い))
<管理人様へ
 ステキなサイトにたどり着けて、本当にうれしいです。
 これからもサイト運営、頑張って下さい(^^)
では、失礼します(^^)


自己愛じゃない愛
投稿日 10月17日(火)23時26分 投稿者 削除

自己愛じゃない愛...ほんとにあれば素敵ですね。
相手のことが自分を犠牲にしてでも愛しいと思える心...そんな相手に
めぐり合えることが第一の奇跡。自分の心がそのレベルに到達するまで成長
することが第2の奇跡でしょう。
でもそういった愛があると信じられたほうがとても豊かな気持ちになれます。
いえ、ぜったい誰でもそういう相手にめぐり合えるはずですよ!
アキラメルノハ、ハヤイハヤイ!


つづき
投稿日 10月17日(火)23時25分 投稿者 kei 削除

ひとの愛っていうのは
それぞれが子供のときからどれだけ人に愛され
人に愛されたという実感を得たかによると思う。
それだけに今の日本で本当に愛に満ちた人
他人にその喜びを与えられる人を探すのは難しそう。
たまに出会えると生きてるのも悪くないって思うよね。
個人的に愛し愛されることも必要だけど
存在だけで人を幸せにできるってすごいよね。


愛って
投稿日 10月17日(火)23時16分 投稿者 kei 削除

やっぱりゆるすことだよ。
自己愛っていうのはマイナスなことばかりではないと思う。
というか生きていく上で否定しようがないもんね。
整理すると、自分に対する「偏愛」ゆえに他人を傷けたり、
相手を束縛したり、自分を愛すことを強要したり、
自分の利益のために他人を蹴落としたりする「利己的な自己愛」と
自分に対して肯定的で純粋な感情を持つことができ、またそれによって他人にもよい影響を与えることのできる「純粋な自己愛」に分かれると思う。
人って孤独だし、孤独であるがゆえに人を求める。
でも人は何を考えているか解らないから怖い。
だからいつも人を疑い、試し、傷つける。
傷つくことから自分を守るのは純粋な自己愛でしょう?
本当の自分自身を知っているのは自分だけだからね。
だから純粋な自己愛で人を傷つけてしまうのは
人間が本来的に持っている「弱さ」だから仕方ないと思う。
意図的に傷つけるのは許せないけどね。
自分に正直に生きるって言葉は嫌いだけど
自分の弱さから目をそらさずに失敗を重ねたらいつかはね・・・



自己愛
投稿日 10月17日(火)20時36分 投稿者 削除

優さんの考えはオレとほとんど同じだと思います。
自己愛を超えた愛・・・あるといいとは思っているんですが・・・
愛にかぎらずすべての行動は自己愛だと思うんです。
たとえば「自殺」なんて自己愛でしょうか?
死ぬんです・・・あきらかに自分にマイナス・・・
けれど自殺する人は自分がかわいいから・・・苦しみから逃げるため・・・結局は
自己愛なんじゃないでしょうか?
そうするとなんでもかんでも自己愛になるんじゃないでしょうか?
愛の中には自己愛がかならずある。
自己愛の中の一つが愛・・・
たとえ自己愛でもいい 本物だと思える愛があればなぁ・・・


投稿日 10月17日(火)16時52分 投稿者 未成年 削除



人間はとても眩しい瞬間に、とても大事なものを失う


このような掲示板があろうとは、感激です。
投稿日 10月17日(火)00時44分 投稿者 風の前の塵 削除

「世紀末の詩」はテレビ放送中も見てましたが、夢中になって見ていたわけではありません。しかし、記憶に残るドラマでした。
先日レンタルビデオで借りて観てすっかりはまってしまい、昨日サントラ盤も買ってしまいました。
今は野島作品の中でも指折りの質の高い作品ではなかったかと思っています。
これからからみなさんの投稿を楽しみに読ませてもらおうと思います。


Dさんへ。
投稿日 10月16日(月)23時01分 投稿者 優 削除

愛する相手を「疑わない」ことができるのか?
この問いは、人間と自己愛の関係に大きくつながりがあると思います。Dさんは、人間の愛は自己愛によるものだと仰っています。世紀末の詩でも、8話で影山が「人間は最後は自己愛でしかない」と語っています。そして、その自己愛を満たす究極的な形として、彼はクローンによる家族を作り上げました。無論、これは究極的な話ですが、現実においても、人間の愛が自己愛からのみ生まれるものだとすれば、愛するが故にその相手の全てを求め、それが手に入れられないことによる不安や疑念が生まれるのは必然的なことだといえるでしょう。相手を愛すれば愛するほど、そこに投影される自己愛の量も増えます。つまり、「愛されたい」という思いが強くなり、それが満たされないことによって不安を覚えるのです。「信じる」ということは、それでもなお相手の自分への愛の存在を肯定するということですが、そこには常に「疑う」という選択肢が残り、その人間を苦しめつづけます。しかも、先ほど述べたように、相手に対する愛が強くなるほど、「疑う」という選択肢の存在は大きなものとなります。従って、自己愛のみによる愛においては、「疑わない」ということはほぼ不可能であり、強まりつづける「疑い」の中で苦しみながらそのたびに「信じる」という選択を続ける、ということになるでしょう。
ところで、人間の中に「自己愛」が存在し、かつそれが大きな部分を占めているということは、間違いのない事実だと僕も思います。人間が動物である以上、他者の生を奪ってでも自らの生存を追求する「生存本能」というものが存在します。これは、最も根源的な「自己愛」であるといえるでしょう。そして、ここで問題になるのは、「本能」に根ざすほど強力な自己愛を超える愛を、人間が持ちうるのかということだと思います。前述の世紀末の詩8話で亘は、究極的な愛は自己愛に根ざしているという影山の考えに対して、直感的に反発しています。しかし、百瀬「教授」も語っているように、この考えに対して、本質的に反論することは非常に難しいといえるでしょう。では、実際に自己愛を超える愛は存在しうるのでしょうか?
現実の恋愛に即して、考えてみたいと思います。といっても、僕は自らの恋愛体験をもとに語ることはできないので(泣)、ここでは「キスだけじゃイヤ」というテレビ番組に出演していたカップルの話をしてみたいと思います。ご存知の方もいると思いますが、基本的に、この番組はカップルが相手の浮気云々やら、ここを直してほしいやらを語る番組ですが、たまに、直感的に「ああ、この2人は本当に愛し合ってるんだろうな。」と感じるカップルが出てくることがあります。例えば、太目の「ぶちゃいく」な(ブス、という言葉の蔑みのこもったニュアンスとの違いを感じていただければ幸いです)女の子と、ひょろっとした男の子のカップルでは、彼女が心配していたのは彼氏がほかの女の子と付き合うといったことではなく、自分と付き合うことによって彼が馬鹿にされているんじゃないか、ということでした。恋愛に対する精神的コンプレックスがより少ないケースで言えば、5年以上付き合ったカップルが登場したときに(教授の言う「DNAによる肉体的吸引」はとうに終わっているころです)、彼氏が語っていたのは、「付き合っている間にも彼女はどんどん魅力的になっている」という話であり、彼女が語っていたのは「自分が変わっていったら、今度は彼を変えてやろうと思っていたが、彼は良いところばかりで欠点が見つからない」という話でした。この類のノロケ話は、「DNAによる肉体的吸引」が続いてる間は珍しいことではありませんが、それのとうに過ぎた相手同士においてはなかなか聞かない話です。
無論、これらの話によって僕が言いたいのは、彼らが完全に自己愛を超越した愛情を抱いているなどということではなく(そもそもそんなことをたかだか10分かそこら彼らの話を聞いただけで確認できるはずはありません)、彼らの間には自己愛以外の部分の存在を感じる、ということです。最初の彼女の話はまず自分よりも相手のことを考えてのものですし、2番目のカップルにも、相手を疑うような気持ちは微塵も感じられませんでした。もちろん、彼らは特別な人間ではありません。必ずしも「本当の愛とは何か」ということを常に考えて付き合っているわけではないでしょう。しかし、彼らには「自己愛」による疑いの苦しみを感じることはありませんでした。このように、決して数多くではないですが、しかし必ず、現実の世界の中にも、部分的にでも自己愛を超越した愛を持っている人々が存在すると僕は思います。
結論。人間は「DNAによる肉体的吸引」によって恋をします。この時点では完全に自己愛によるものだといえるでしょう。しかし、付き合いを重ねていくうちに、そこには、いつしか少しずつですが自己愛を部分的に超越した気持ちが生まれ始め、結果としてそこには、自己愛を超える愛情と、愛する相手を「疑わない」境地が存在するのではないかな、と僕は思います。
・・・あー、またしても頭でっかちな話に・・・。やはり、どう考えても現実の話をテレビ番組で代用するのはあまりにも説得力が・・・。


本当は・・・
投稿日 10月16日(月)22時06分 投稿者 削除

keiさん、ありがとう。
難しいことはわからないけど、自分なりに考えなおしたよ。
もし・・・自分と相手の心がいっしょになれたら自己愛も2人の愛になれるんじゃないかな?結局は自己愛の延長だけど・・・それが愛かな?
簡単には手に入らない・・・本当に難しいものだけど・・・100%ないなんて言いきれない・・・「あるわけがない」と思いながらも・・・信じたい。
オレもラブバードにあこがれてるのかも・・・
「疑わない」・・・いや・・・「疑えない」・・・そこまでいっしょになれる人とめぐり合えたら・・・「オレ」は愛を手に入れたことになるのかな・・・
愛は探しても見つからないもの。しかしかならず存在する。
そう思いたい・・・そうあってほしい。
たとえそう思うことが自己愛でも・・・


下のつづき
投稿日 10月15日(日)04時43分 投稿者 kei 削除

でも人は弱いから他人を受容することがなかなかできない
そこで人間が作り出したもの
究極の存在、それが「神」だと思う。
神はすべての人を許し愛してくれるから。
そこに宗教の根源はあるのだと思う。
「神」とは人間の完成形なのではないでしょうか?


疑わない
投稿日 10月15日(日)04時36分 投稿者 kei 削除

「信じる」ということは意図的な行為だと思う。
自分にとって受け入れがたい事実に直面した際に
自分の気持ちを歪曲させその事実に適応させ
精神の安定を図る。それが信じるということでは?
それゆえ、信じるという行為はその期待が裏切られた瞬間
憎しみや絶望といったマイナスな感情に向かう。
一方「疑わない」ということは、言い換えれば
すべてを受容することと理解できると思う。
許し、受け入れることそれこそが愛だと思う。
自分によほどの自信がなければできないことだけれども。
だから一緒にいる、失ったとか形にとらわれずもてるものが愛だと思う。
だから、愛とは誰でも持っているもの、常に得ているものと思う。
だから特定の男女のものでもないし、肉体を介した支配欲や所有欲とは無縁のものだと思う。しかし、肉体的なスキンシップは不可欠であると思う。
なぜなら他者の実在性を介してしか人は自己を認識できないから、
また人の身体は自分と同じ生体リズムを持つ者によってしか安らぎが得られない仕組みになっているからと思う。それは母体のリズム。
別れの時に自分の肉親との死別くらい身が引き裂かれる思いをもてたら
それは愛といえるのだと思う。「愛とは時の流れに関係があるのかもしれない」
教授の言葉のようにともに過ごす中で心が同化していくそして別れの時には心が引き裂かれるほどの痛みを伴う。そんな相手にめぐり合えたら
きっと愛は・・・
そんな相手にめぐり合いたいですよね。
だから16歳の〈D〉君も
自己愛もそれゆえの「弱さ」も受け止めてくれる人にめぐり合えるといいですね。


愛の2つの側面
投稿日 10月13日(金)11時30分 投稿者 りい 削除

 愛には2つの側面があります。1つは「接近」もう1つは「献身」です。
 「接近」は物理的あるいは精神的にある対象のそばに居たいと思う願いのことで、慕うと言っても良いでしょう。一方の「献身」はある対象を喜ばせたいと願う気持ちのことです。これは歓心を買うとかへつらうという意味ではなく、対象の益に対する純粋な関心ということです。
 いずれも、何らかの対象に対して抱く精神的傾向のことで、行動の背後にある「動機」であり、一種の行動原則ともいえます。愛の対象が自分自身であれば「利己的な愛」になり、他者をその対象とするならば「利他的な愛」になるでしょう。
 ただ、「利他的な愛」は学んで培う必要があるでしょう。なぜなら、その種の愛はしばしば自然な感情(自分自身をを大切にしたい!など)と相反することがあるからです。いわば筋肉のようなものです。鍛えて使う、つまり学んでその愛に基づいて行動しないと愛は強くなりません。
 興味深いことに「愛の力」は英語で「power of love」というそうです。つまり愛は潜在的な力(power)であって具現化した力(force)ではないということです。その人の愛がどのような種類のものかは、その人の行動によって見分けることができます。たとえば、自分の益と他者の益がかち合ったとき、いずれをとるかということです。 ではここで、相手の益を優先させたとしましょう。それは「利他的な愛」でしょうか?必ずしもそうは言えません。なぜなら、自分の益を優先させることで相手に嫌われるのを恐れたからかもしれないからです。もしそうならそれは嫌われたくないという自分の感情を満たすための行為であって、「利己的な愛」に基づく行為ということになります。
 でも実際の場合においてはそんなに割り切れるものではないと思います。前述の行為に及ぶとき、私も含めてたいていの人は、相手にも幸せになって欲しいし自分も嫌われたくないと考えるのではないでしょうか。100%自分の益しか考えないということも、逆に100%相手の益しか考えないということもそうはないはずです。
 私なりの結論は「利他的な愛」は存在していて、大なり小なり全ての人が持っているはずだということです。ただ、100%相手の益を考えるということだけが「利他的な愛」なのだというのであれば、それは難しいなと思います。


おほほほ
投稿日 10月13日(金)08時02分 投稿者 たまたま 削除

「心を受けとると書いて愛と読む」・・・某少女漫画に載ってた。。

まさにそのとおりですね。


疑わないなんてできるのか?
投稿日 10月12日(木)22時09分 投稿者 削除

「信じる」ことはできても「疑わない」ことなんてできないんじゃないんか?
「信じる」ことが限界・・・「疑わない」なんて、相手のことを何も思っていない
んじゃないんか?疑って疑って疑う・・・それが現実。
「疑わない」なんて理想だ。

愛は・・・あると思うよ。ただし自己愛だけどね。
相手を愛することさえも自己愛の延長。その行動、思い・・・すべてね。
オレはそう思うよ。16歳の今は・・・・
みんなはどう思ってるの?


人類へ
投稿日 10月10日(火)10時18分 投稿者 ノアワタル 削除

ああ教授!DVD出してくれ。


映画デビュー
投稿日 10月6日(金)23時43分 投稿者 すする 削除

第4話の山内羽夢 役でゲスト出演した真柄佳奈子さんが映画デビューしました。
題名は「カラフル」です。もし、機会があったら見に行ってみて下さいね〜♪

http://www.myweb.friend.ne.jp/hanamizu/index2.html


beby wolf さんへ。
投稿日 10月6日(金)09時59分 投稿者 タイガー 削除

「疑わない」と「信じる」・・・「信じる」方が強い意志だと漠然と、意識せずに・・多分生まれつき思っていました。beby wolf さんの投稿を見て、意識しだしたのはもちろん、考え方が変わりました。beby wolf さんが他人の意見を聞きたいというのなら、僕の意見は「その通り。」です。
なんだかとてもつまらない文章になってしまいましたが、1人のちっぽけな男のくだらない意見だと思ってください。
それでは失礼します。


信じることと疑わないこと
投稿日 10月6日(金)00時26分 投稿者 baby wolf 削除

信じることと疑わないことの違いってみなさん、どう思います?
 僕が思ったのは信じるのって1/2なんだと思うんですよ。「この人の言ってることは嘘かもしれないけど、でも信じる」みたいに、2つのうちの一方を選ぶと『信じる』ことになる。それがどんなに強い意志でも。
 疑わないのは、1/1じゃないかな。他になんにも考えられないからそれが当たり前なんだって感じるのが『疑わないこと』。他に選択肢がないんじゃないかな。
 たとえば、『疑ってない』人に誰かが「あの人きっと嘘ついてるよ」って言ってしまったらその時点で『信じる』ことに変わってしまう。他人から別の道の存在を
認識させられたから。『疑わない』って一本道なんですよ、きっと。
 みなさんはどう思うか、知りたいです。
 


愛はあると信じることですらないのかもしれない?
投稿日 10月3日(火)11時50分 投稿者 くうや。 削除

優さんこんにちは。
>僕も「愛はある」と信じたいです。
ありがとう。
早く好きな人できるといいね。


始めまして。
投稿日 10月1日(日)15時35分 投稿者 優 削除

僕はかなりのドラマ好きで、たくさんのドラマを見てきました。
けれど、「愛って何?」と直接訴えてくるドラマは、「世紀末の詩」が始めてだったような気がします。かなりいろんなことを考えさせられました。
この掲示板を見ると、多くの人が、やはり同じように「愛」について、このドラマを通して考えているんだなと思えて、とてもうれしい気持ちになりました。
僕は現在19歳(!)ですが、今まで「彼女」と呼べる人がいたことはありません。でも、いつかそういう人と巡り合えたら、その人と本当の「愛」のある関係を築きたいと思います。このドラマと、それに続く「リップスティック」を見て、その思いが強くなりました。
あ、でも、こういう考え方を一方的に相手に押し付けるのも、「愛じゃない」ですよね。きっと。
こうして考えていくと、ますます何が愛なのか分からなくなってしまいますが、でも、くうや。さんが仰っていたように、僕も「愛はある」と信じたいです。
現時点では、僕は、愛とは「愛する人の全てを受け入れる」ことじゃないのかな、と漠然と考えています。その人の良いところも、悪いところも、その「死」さえも。2人ともそういう気持ちになれた時、そこには確かな「愛」があるんじゃないかな、と思います。
何か、頭でっかちな話になってしまいました。悪いクセなんです。すいません。
これからも、懲りずにお邪魔したいと思います。よろしくお願いします。


「世紀末の詩」5話の考察
投稿日 9月30日(土)22時17分 投稿者 ふみ 削除

長らく止まっていた「世紀末の詩」5話の考察を10月6日(金)の夜23時からやろうかと思うんですが…
どなたかチャットでの考察に参加してもらえる方いますか?
参加予定者は現在ふみとtakiだけなので、さすがに2人では難しいので(苦笑)
参加してもらえる方は簡単なメールか、このBBSにメールアドレス入りでその旨の書き込みお願いします。
折り返し、考察用チャットルームのURLと日時なんかをメールします。


re「愛している」という言葉の重みについて
投稿日 9月25日(月)14時24分 投稿者 くうや。 削除

詩人になりたい さん
こんにちは。
自分もなりたいです。
なんとなく気になったのでレスつけました。

「愛している」と言っていいのか?言う必要があるのか?
基本的にはあんまり、言うことじゃないだろうな。
絶対とは言えないけれど。

理由は、
もし、それがあれば言わなくても判ってるはずだし、
無ければ、言ったところで、、、
それに、口にするとウソになるような気がするから。
(なんでかは良くわかんないけど)

でも、そう言われて嬉しい時もあるし
言ってあげたい、言ってみたい時もあるし、、

問題は
>「なぜ愛しているといってくれないのか。
> 私のことを愛していないのか。」
かな。
詩人にないたい さんはこの言葉をとても重くとらえたね。
きっととても真面目な人。
だけど、それを口にしなかったから愛にたどりつけなかったの?

考えてみて。

多分、言っていたところで同じ結果。
むしろ早く終わったかもね。

彼女は「愛してる」と言って欲しかったんじゃなくて
「愛して」欲しかったんだよ。
それも自分はあなたを愛してもいないくせに、、、
(好きではあったと思うけど)

だから、早く判れて良かったよ。
あなたみたいにまじめな人、付き合ってる人がいる時に
他の人が見れないだろうから。
他の人(本当の人)を探す時間を少しでも多くもつことの方を
大事にして良いんじゃない。
どうも、前の恋愛をひきづってるみたいに見えたから。

>最近、思います。愛の真意を突き詰めると
>偽りの愛に耐えきれず現実社会に適応できないのではないかと。
「偽りの愛」はなんとなくわかるけど対極にある
「本当の愛」に明確な解を出せない自分では本当は結論だせないけど。

今の社会よりもっと貧しい環境
例えば、戦争中とか、貧困な国とか、身分制度とか
過去の歴史のあらゆる環境(現在も続いてるとこもあるけど)に
「愛」はきっとあった。
なら、
今の恵まれた環境にそれが生まれない理由なんてないじゃない。
もし恵まれてることが問題なら
それなら捨てればいいし。

世紀末の詩 第二話で
コオロギさんがふられたあとで、
この世に愛なんてないのかもしれないと思う教授に
「そんなことはない!愛はあると言えっ!」
と亘が言うシーン知ってる?(よねきっと)
今の自分もそう思う。
他人のことなんてどうでも良いけど
野島脚本が好きな人には
「愛はある」と言って欲しくなる。


話そう!
投稿日 9月22日(金)22時05分 投稿者 tomoくん 削除

わたしは、世紀末が好きです。あと、フードファイトも大好きです。
誰かわたしとお話しませんか?
あんまり難しい話はできませんけど、メールくれたらうれしいな。


はまってます!
投稿日 9月20日(水)22時40分 投稿者 spri 削除

世紀末の詩にとっても。
もう、はたから見たらお前ばかじゃないかって言うぐらい暇があったらビデを見てます!見れば見るほど考えさせるドラマだなーって思います。
ぼくって変ですかね?


再放送見たい!!
投稿日 9月20日(水)21時29分 投稿者 あこ 削除

はじめまして。野島さんのドラマがスキな高1のあこですっ。
「世紀末の詩」は「未成年」と同じくらい大スキです。
毎週泣いてたような気がします。あの頃一番はまってたドラマでした。
ジョン・レノンの「LOVE」と「STAND BY ME」もスキで
借りてきてよく聴いてました。
あのきれいな色の映像もすごく印象に残ってます。
ところで、再放送はどこの地域でやってるんですか?
私の住んでる東海地方ではやらないのかな?
見たいです!!
リアルタイムの時、最終回のラストをビデオ録ったんだけど途中できれてたし。
ビデオ買いたいんだけど値段がちょっとキビシイんで・・・。
なんか、皆さん真剣に話してる掲示板に
突然こんなことでオジャマしちゃってすみません。
再放送のこと教えてください。
では、また。


一番の真理
投稿日 9月20日(水)01時13分 投稿者 do_evil 削除

イヴの死後、アダムの最後の言葉
「彼女がいれば、そこがエデンだった…」


「愛している」という言葉の重みについて
投稿日 9月19日(火)05時17分 投稿者 詩人になりたい 削除

再放送を観ました。昔を思い出しました。

当時放送された時、私は18歳で彼女がいました。
そのときは、確かに私は彼女との間に愛を感じていませんでした。
しかしながら、私は心にも無く「愛してるよ」と口に出しました。
数えるほど、少ない回数ですが。
私は自分の気持ちにあまり嘘はつけないタイプで「愛している」と
いう言葉を口にするだけで心が痛みました。
しかし、女性からすればその言葉がほしいのでしょう。

私はその葛藤の中で彼女との生活に満足していました。
しかし、彼女にとってはそれが不満だったのでしょう。
「なぜ愛しているといってくれないのか。
 私のことを愛していないのか。」
私の推察ですが彼女はそう思っていたでしょう。
そして付き合って2ヶ月、彼女は私に別れを告げました。
私にとってはそれが初めての恋愛であり、
私はとてもショックを受けました。
私はこれから一緒に愛を見つけようと思っていた矢先でした。
たった2ヶ月程度で愛が生まれるわけがない。
 「愛とはゆっくり時間をかけてはぐくむもの」
という考えが私にはありました。


最近、思います。愛の真意を突き詰めると
偽りの愛に耐えきれず現実社会に適応できないのではないかと。
あれから2年。私には彼女と呼べるひとと付き合っていません。
自分の魅力のなさを上記の理由と置き換えているのかもしれませんが…。

みなさんは「愛している」と口にすることを
どうとらえていらっしゃいますか?


恋人って何?
投稿日 9月17日(日)04時25分 投稿者 不眠子猫 削除

はじめて来ました。世紀末の詩最高ですよね。
めちゃめちゃ色々考えさせられました。

私は未だに別れた彼の事を引きずっています。
すごくすごく好きな人で、どこが好きなのかと聞かれても答えられなくて。
何だか分からないけど、凄く惹き付けられる人なんです。
付き合ってる時は彼に嫌われる事・彼が離れていってしまう事が本当に怖くて。
彼に嫌われないよう、自分を偽ってばかりいました。
いつ迄も本当の自分出せなくて、言いたい事も何も言えなくて。
彼と付き合っていく内に、コイビトというモノが何なのか分からなくなってしまいました。
付き合っている時は本当に苦しくて・・・。
お互いの価値観の違いなどもあり、私は別れる事にしました。
あんなに離れる事を怖がったのに、自らの手で切り離してしまいました・・・。
今は成長の時なのです。
もっともっと大人になって、自分に自信が持てるようになったら。
もう一度彼にこの気持ちを伝えに行く予定です。
あの頃の私は苦しさしか見えていなかったけど、確実に幸せだった。
あんなにも毎日傍に居れた。
今はどんなに望んでも逢えない・・・。
失ってからでないと、その幸せに気づかないなんて・・・。
一日も早く彼の元に戻りたい。
けどもしかしたら、私と彼は合わないのかもしれない。
どんなに好きでも、愛し合っていても駄目な事もあるんだ・・・。
誰か私に教えて下さい。恋人とは何なのか。
私にとってはこうだと言う意見でもいいので。


車椅子の恋
投稿日 9月16日(土)23時56分 投稿者 クーニャン 削除

一番はまって一番泣けたドラマです。

あの時彼は何を思ったのだろう。
自分が初めて心から愛した人、「マリア」にそっくりな恋人に踏みきりで置いてきぼりにされて、彼は何を思ったのだろう。
「どうして私をだましたの?」
彼には最初わからなかったはずだ。自分を愛していてくれているはずの恋人が言っていることが。
「愛していたのに・・・あなたを愛していたのに!」
ボクモキミヲアイシテイルヨ
コンナニモアイシテイルヨ
「信じていたのに・・・信じたかったのに!」
その時初めて彼は気付いた。
キミハボクヲシンジテイナカッタノ?
ボクハキミニシンジテモラエナカッタノ?
心から愛している恋人に信じてもらえなかったら僕はもう生きている意味が何もない。君に信じてもらえないのなら、僕は生きていたってなんの意味もない。
そして彼は自分の運命を受け入れた。
彼はゆっくりと微笑んだ。
愛する恋人に。
最後の別れを告げるために。

いつもこの場面を見るときは、勝手に以上のような事を思って感情移入して大泣きしてます。



理想論
投稿日 9月13日(水)16時08分 投稿者 タイガー 削除

他人に対する「愛」はある、と仮定します。
その「愛」のある世界で愛し合った2人、
男と女、同性愛でも構いません。
相手を愛している、と気付いた瞬間
2人はどういう行動をとるでしょうか?
昔、何かの本で読んだことのある質問です。
その本に答えらしきものも載っていましたが、
まったく覚えていません。
夜、ベットでふと思いついたので考えてみました。
・・・・殺しあう、か、自殺。
どっちでも構わない。という答えがでました。
「愛する人」がいる限り、その人がうける最大の
悲しみというのは、「愛する人の死」。
これはドラマ内でも話されていることです。
確か、百瀬の両親の話だったと・・
自分が死んだら相手がおかしくなってしまう。
そう思った2人は、お互いに殺しあうでしょう。
もしくは、愛する人を殺すなんて・・という考えのもと、
自殺しあうでしょう。
これは例えるならば、
「自分が死んだら愛する人が悲しむ、だから殺してあげよう。」
「あっ、愛する人が私を殺そうとしている・・愛する人を殺すなんて
 最も愚直な行為。自分を蔑んでまで私の幸福を求めるなんて
 ・・そんなことはさせられない。私が自分で死ぬ。」
この2つの思いを2人が同時に思った場合、
2人同時の自殺という結果になります。
・・・と、愛する2人は相手を愛していると
感じた瞬間に死んでしまいます。
愛はないのでしょうか?
あったとしても、継続はしないのでしょうか?
誰か、「答え」を教えてください。
もしくは、自分と違う意見を聞かせてください。
くだらないことを長々書いてしまって申し訳ありませんでした。
ここまで読んでくれた人、ありがとうございました。
それでは。


好きな詩
投稿日 9月9日(土)23時20分 投稿者 未成年 削除


ハローベイビー
不幸の手紙は僕が破ろう
この世に終わりなんかないんだよ
君を愛する僕がいるから


うたばんを見て・・・
投稿日 9月8日(金)03時22分 投稿者 透明人間 削除

今日『うたばん』を見ました。小学生の悩み相談みたいなコーナーがありました。その中である男の子が『好きな女の子をゲットしたい』と言い、キムタクが『ゲットってどういう意味?』って聞きました。男の子の答えは『彼女を自分のモノにする』。これを聞いて私は驚愕しました。【自分のモノ】。この男の子にとっては彼女という存在は一体何なのか。ひょっとして自分を飾り立てるための1つの小道具でしかないのか。

この男の子を見ていて第一話の小学生を思い出しました。第一話ではサブストーリーとして小学生の男の子の話しがありました。私としてはスミレの話よりもこちらの方に興味が持てました。教授は自分の事を【死神】と名乗り、少年を追いこみました。少年はカンニングしたと思われたく無いという自己愛のもと、必死で勉強して劣等生から抜け出しました。教授は同級生を傷つけようとしていた少年の自己愛の歪みを正しい方向(世間一般で言う)に向けたのです。【死神】は、ひょっとすると【天使】であったのかもしれません。

最近、少年犯罪が騒がれていますが、これはこの第一話に出てきた少年の様に自己愛のコントロールが出来ない少年が急増している表れなのではないでしょうか。そしてその少年たちの周りには教授の様に自己愛をコントロールしてくれる大人が居ない。何故なら当の大人ですら自己愛をうまくコントロールできていない時代だからです。仮に教授があの少年に手を差し伸べなかったとしたら少年は劣等生として社会のシステムから切り離されてしまう。少なくとも日本に存在する民主主義というシステムは究極的には異分子を切り捨てるシステムだからです。社会から切り捨てられた少年には究極の自己愛が生まれ、やがて犯罪をおこす。現代において、教授のような【死神】が必要なのではないでしょうか。

最近、作家の村上龍が時代の先を読む力があるとマスコミでもてはやされていますが、こと少年に関しては脚本家・野島伸司も負けてはいないと思います。

最初の男の子に話しを戻します。彼はこの先どのような大人になるのでしょうか。多分、普通に進学していって、普通に恋をするでしょう。はたして彼の中から私物的発想は消えるでしょうか。私は少年というのは時代を表す鏡だと思っています。少年時代に誤ったベクトルに向かった自己愛は、誰に修正されるでもなく、グングン突き進んでいきます。今一つだけ言える事は20年後・30年後、今の少年が社会において第一線に立つ時、日本は自己愛と言う名の【死神】によって危機に瀕するでしょう。それはあたかも旧約聖書にある大洪水の様に日本を襲います。この時、果たして日本版【ノアの箱舟】は表れるのでしょうか。


ハジメマシテヨロシク
投稿日 9月8日(金)02時06分 投稿者 哲学者 削除

この掲示板でみなさんが考えていること。愛って何だろう?人はなぜ生きるのだろう?こういうことを考えるのって哲学ですよね?とてもすばらしいことだと思います。
野島監督の作品っていつも哲学的ですよね?(特にこの世紀末の詩はそうだと思います。)だからいつも作品を見るといろいろと考えさせられる。
少年犯罪、学力低下、無責任・無節操になった日本人。最近の若者について、いろんなことが言われていますが、僕はその原因をみんながあまり哲学しなくなった、物事をあまり深く考えなくなったからだと考えています。
友達どうしの会話というのは、特に大勢の場合だと真面目な話なんかするとすぐにチャカされる。バカ話をするのも面白くていいことだと思うのですが、バカ話だけだったらホントのバカになってしまう。(笑)中には真面目な話のできる友達もいるけれども、そういう友達のほうが少ない。真剣に論議し合う場が少なくなった。これが問題だと思います。
そんな若者たちに考えさせる場を与えてくれる野島監督を、僕はすばらしく思います。思えば僕も物事をホントに真剣に考え出したのは、中学生の時にこのドラマを見始めたころからだと思います(つい数年前の話ですが)。このころから考えること、哲学することに興味を持ち始め、今、哲学を勉強するために京大目指して受験勉強中です。とても野島監督から受けた影響というのが大きいと思います。
この間、世紀末の詩のビデオをようやく発見しました。昔見た時よりもさらにいろんなことを考えさせられました。とても感動しました。
第2話の最後、『ハローベイビー 僕はいつも不思議だね 人は見えるものを欲しがるんだ いづれ自分は消えていくのに』のところで、「いや人間はいづれ消えていってしまうからこそ、見えるモノに跡を残したがるんだ。自分は生きていたんだ、存在していたんだという証を、痕跡を、残したいんだ。これは人間があることに真剣になって精を尽くす理由になり、また殺人などの残虐的な行為の理由にもなるだろう。」という風に思いました。
僕はまだ哲学について詳しくは知らないし、抽象的な言葉も間違った使い方をしていたりもしますが、とにかくヘタなりにも思ったことを文章にしてみることを心がけています。同じ考えだという人や反論のある人と、こういう場で話をすることによって考えがより深まると思います。いい掲示板ですね。


ミヤという女の子
投稿日 9月6日(水)03時19分 投稿者 革衣 削除

do_evilの仰られる「人は、愛を手に入れても気付かないのではないか」
同感です。。

このドラマの中で私は気付いたことがあります。
登場人物の「ミヤ」という女の子。
彼女を通して「愛」というものを表現しているんじゃないでしょうか。

なんだか、そんな気がしてます。


疑問
投稿日 9月5日(火)02時54分 投稿者 do_evil 削除

眼に見えない物は美しく、手に入れたものは色褪せて見えるのは何故でしょう?

私は、ふと思うんです。
人は、愛を手に入れても気付かないのではないかと。
全てを失って最後に残った物が“愛”のあった日々の想い出ではないかと。

そして質問です。
“愛”とはなんですか?
それは、定義できない物ではないでしょうか?
それらは、人によって形を変えるものでしょう。
偽善を何故、否定する?
自己愛を何故、否定する?
猜疑心は、愛ゆえに生まれた物ではないのか?
全ての行動には“愛”という名の“欲望”があるのではないか?

疑問だ。
人間は、クリーンである事を求める。
欲望は、不純な物ではないだろう。
それは、自然な物である。
人間は己の本質を隠すために全てを覆い隠そうとする。
それは、道徳であり、信仰であり、言葉だ。

あなた達の求める物こそが、最も醜いものではないか?



暇ならよんでくださいな。
投稿日 9月1日(金)19時30分 投稿者 みっちぇ 削除

「世紀末の詩」の中でもっとも印象に残っているのは「車椅子の恋」の回の教授の言葉。「愛とは信じることですらないのかも知れん・・・愛とは疑わないことだ」
愛ってなんなのか?それは私には分からないけれど、互いに相手を疑うことがなかったら、そこに愛が生まれるのかも知れない。そんな風に思わせてくれた。

 相手が自分のことを思ってくれている、愛してくれている、それを当たり前のように疑わなければ、そして全ての人が皆同じように誰も疑わなければ、憎しみだとかそういうものは生まれないのではないか?そんな風に思う。
 憎しみなどの気持ちが生まれないことが愛なのか?きっとそれも違う。ただ、もしもそれを愛と呼ぶのなら“愛”とはきっと“無”なのだろう。人間に存在するすべての感情がなくなった時に生まれるモノなのだろう。
 なぜなら人を憎む気持ちが消えたとき、きっと人を愛しく思う気持ちは消えてしまう。そうしてきっとすべての感情が消えてしまう。
 誰かを傷つけたいと思うとき、そんな時には必ず誰かを守りたいというきもちがある。(例えばその誰かは自分だったりも)。
 いつだって対極に“何か”が存在することで“何か”が存在している。そう考えると対極に存在するものがないのが“愛”なんじゃないかって思う。だから“無”。そういう意味では死と向かい合っているっているのは分かる気がします。>透明人間さん 
となると、“愛”=“幸福”ではない気がするんですよね。人間は幸福を求め続けてると私はずっと思っていました。だけど、皆“愛”を求め続けてる。もちろん私も。

ダラダラ書いてしまったけど結局は分からないんですよね。“愛”も“幸福”も。ここまで読んでくださった方ごめんなさい(^^;

あ。世紀末の詩じゃないけど24時間テレビの「愛は地球を救う」私はまんざら嘘だとも言えないんじゃないかって思います。“偽善”も一つの愛かなって思うんです。

【「カワイソウナヒト」のために募金をした。自分は優しいヒーローだ。私はそんなヒーローが好きなんだ。】そんな自己愛のひとつの手段なんじゃないかな・・・って思うんですよね。【誰かを思うように愛せないなら、まずは自分を愛してみよう】みたいな。あくまで私見ですけど。

支離滅裂な文章でごめんなさい。読み返してみてもちょっと意味不明・・(−−;
管理人さん、ながかったら削除しちゃってくださいね。


恋するコッペパン&僕の名前をあてて
投稿日 8月29日(火)17時02分 投稿者 かよ 削除

初めてのかきコとなります。再放送を見て初めてこの世紀末の詩というドラマを知りました。丁度、見たのが恋するコッペパンの時で、そのご1話〜3話まで借りてきて見ました!あたしはまだ、中2で愛ってことをあんまり深くは考えないんだけど、このドラマを見て考えさせられる愛ばかりです。「僕の名前をあてて」という回の時はすごーくなやんでビデオを何回も見直しました。
みなさんのかきコを見ているとなんでこんなに上手く文字で表現ができるんだろお。と、つくずく思います。自分の中で「愛とは自分のもっとも大切なものをひとにあげてしまう事」こう思っていました。(この文は前に文庫本を読んだ時に覚えたものです。)けど、世紀末の詩を見て、愛という形はいろいろあるんだなぁとかんじました。
このドラマを見て野島伸司さんの作品がすごくすごいドラマだと思いました。


絶望と希望
投稿日 8月29日(火)00時27分 投稿者 yoku 削除

なんかさみしいですねー。
八月ももう終わりということもあるのでしょう。
愛なんか到底私には、手にはいらないものだと思ってしまいます。所詮愛は、幻想といいますが、幻想でさえもてず人を疑ってばかり、、、。もう、こうなると絶望しかないのでしょうか?でも、どこかであきらめきれないところがあっていつか自分が変われるように信じて生きていこうと思っています。
でも、たまにというかよくさみしいというかむなしいやるせない気分におちいってしまいます。
ま、こういう起伏があるから人生なんですね。分かっててもついつい、、、
ぐちってすみませんでした。強くなります。
みなさんのカキコ読んでると、勇気でます!


love
投稿日 8月28日(月)05時14分 投稿者 kei 削除

世紀末の詩、再放送を見てまたみたくなりビデオを借りて見ました。
教授の言葉が好きで何回も見直した。
よく考えると、妄想癖のある痛い兄ちゃんと俗っぽいおじさんが
きしょい義論を交わしてるだけともいえそうですが、
やはり学ぶべきところが多いようです。真剣に、愛とか、
生きる意味とかを口にすると変人とみなされてしまう今の社会自体が病理なのかもしれません。人間関係においても(明るさ)ばかりがことさらにもてはやされ
本来誰でも抱えているはずの本質的な問題や悩みは言及されず、誰もが抱え込んでしまう。そのようなことを話せる相手がいる人はまだましで、自分らしさを殺し、
人が望む価値観に適応しすぎた人たちは壊れてしまう。
明るさというのは所詮虚像であり、誰もがどす黒い悩みに取り付かれている。
心から明るい人もいるのだろうが、そのような人には深みを感じることはできない。誰かの言葉には、明るさには創造性がないとある。明るく悩み無く、さわやかでかっこいい、そして一緒にいて楽しい。誰もがあこがれる人間像だが、そのような人間が他人に対する慈しみの心をもてるだろうか?今の若い子達はそのような人間像を理想とし自己愛だけを増幅させていく。本当の他人を愛せず、ルックスや付加価値を愛する。人を愛しているのではなく、ゆがんで満たされない自己愛を他人に投影して、けっきょくそのような人物に受け入れられる自分自身を愛しているだけなのである。今が楽しければいいという彼らは、一人になった時まで強気にいえないものである。みな自分の弱さを知っているのに集団になると強気になる。そして人の価値観に左右される。だから二枚目俳優の竹之内が屈託した青年を演じるのは、そのへんの健全そうで不健全なトレンディドラマよりは人間の本質に近く、リアリティがあり好感が持てた。
すべては葛藤から生じているのではないか?
尾崎豊や、新興宗教、そしてこの世紀末の詩が今の日本人にカタルシスを与えている事実をみんな重く受け止めるべきであると思う。
ドラマにおいて一番すきなのは(車椅子の愛)
守を信じることができなかった留美が守の義足を見せられるシーン。
あの教授の「愛は信じることでさえないのかもしれない・・・
のセリフでは思わず涙が出ました。そしてそれに平行して
ミアが偽の指輪を叩き割るシーン!!
そして羽夢の話。
あのホームレスの父親。彼の持つ虚無感は日本人によく当てはまるのでは。
小切手を破り捨てもとのホームレスに戻る彼にはきっと悲しくそして変わらない
今日と昨日と明日があるのだろう。彼ほど極端ではなくても愛すべき相手を得られずしかばねのようにむなしく生きる人がとても多い気がする。どれだけ自己愛が増大し物欲が満たされても、人はきっと自分自身のためにのみ生きることができない
だから虚しいんでしょう。誰かの笑顔が見たいとか、触れ合いが欲しいとか。だから現代人の孤独は彼らからエネルギーを奪うのでしょう。教授の言葉に「まったりした時間はそれはそれでよい、しかしいらだちはある。」そう、穏やかに生きているはずなのに不満が出てくる。それは人間関係。尽きることが無い。孤独を欲するのに他人が欲しいこれが人間の苦しみの根源なのかもしれない。まさにあのクローンの話のように、自分だけに無償の愛をささげる存在がいたら。人間から不満が消えるかもしれない。
序盤では亘の愛は否定されつづけたけど、後半では持ち返している。
多くの男は教授が自ら公言するような弱さを持っている。
だから彼の考えに共鳴してしまうのかもしれない。
よく付き合っているカップルで相手の束縛が激しいといった話を聞く。
これは愛なのだろうか?恋愛レベルでそうなのだから
結婚している人びともたかが知れている。そもそも特定の人間だけを愛すことが愛なのか?現在、親子でも恋人でも所有しコントロールすることを愛と勘違いしている。まさに自己愛である。
持論:愛とは、あるがままに受け入れ受け入れられることである。
   人に合わせたり、コントロールされたりする関係は愛ではない。
   相手がどんな過去を持っていても、浮気性でも、そのような要素すべてひっ   くるめて受け入れるのが愛である。
そのような愛の無い関係は自然に消滅するのが道理であるが、そうできないのがシステム上の病理である。


結・婚
投稿日 8月27日(日)02時19分 投稿者 透明人間 削除

さらに下の掲示板を見たら結婚について書いてあったので結婚について書こうと思います。

結婚はただの法的拘束です。【愛】とは何の関係もありません。一夫多妻制の国もあるので、結婚=愛と言うのは大きな誤りです。結婚と言うのは社会に秩序をもたらす為の1つの手段です。そしてこれは出産にも言えます。恋する二人は結婚して法的に拘束され、子供を産むことで社会的負担を両方で分かち合う。結婚、出産によって愛が生まれるわけでなく、【赤い糸】と呼ばれる強固な【鎖】が二人を嫌が上にも結び付け、【世間体】と言う名の仲間を伴って、冷め切った二人をなおもつなげ続けるのです。本当は結婚・離婚は両性の合意のもと自由に行われるべきなのですが、現実には高校生の結婚に親は反対しますし、子供の離婚に親は反対します。親の望む結婚は適齢期での結婚です。離婚はあまり望みません。適齢期を過ぎた娘に『早くお嫁に行きなさい』と言う親が居ることからも、結婚は【愛】ではありえないことが分かります。なぜなら、【愛】は売れ残った商品の買い手を見つけるほど簡単には見つかりません。


お願いします
投稿日 8月27日(日)01時38分 投稿者 聡子 削除

誰か世紀末の詩をビデオに録っていた人いませんか?
うちの住んでるところは再放送がされないんです。ビデオもおいてないし。
誰かダビングして下さい。送料とかビデオ代とかは払います。
ダビングしてくれる人メール下さい。いつまでも待ってます。
ほんとに見たいんです。お願いします。


徒然なるままに
投稿日 8月27日(日)01時19分 投稿者 透明人間 削除

前にやった再放送を部分的に見てショックを受けました。ビデオ屋で借りて全部見ようと思うんですけど、何故かいつ行っても貸出中です。世紀末の詩、今、ひそかにブレイク中ですか!?

私はまだ全部見ていないのですが、見た限りでは【車椅子の恋】が好きです。特に『愛ってのは信じることですらないのかもしれん。愛ってのはただ、疑わないことだ。』と言う台詞が好きです。

現実には疑わない事って難しい事ですよね。そう言う意味では現代に【愛】を見出す事は難しいのかもしれません。でも【愛】がある時代はあったと思います。それはカオスが世を覆う時代です。言葉下手なのでうまく表現できませんが、例えば、現在でも世界では様々な紛争があります。ユーゴスラビア内戦、ルワンダ内戦などでは1つの国でお互いに憎しみあっています。しかし、自分側には絶対的な信頼があります。ここに【愛】の要因があるのではないでしょうか。【愛】とは疑わない事。そして【愛】を追求する結果、あるモノを愛した結果、その他全てを敵にしなければなりません。なぜなら、あるモノは絶対的に正しいのですから。

星野守は電車にはねられる間際、留美に微笑みかけました。留美を絶対的に愛していたのです。そして、愛するがゆえに死にさえ向かっていったのです。そう考えると平和な日本において本当の【愛】を見つける可能性がある一番の瞬間とは、死(カオス)と向き合った時なのかもしれません。【愛】は人が想像するほど素敵なモノではないのです。野島さんのドラマは死を大事にしていると思います。何故ならそこに【愛】のきっかけがあるからなのではないでしょうか。

あと、【愛】に関して最近気になった事があります。それは【世紀末の詩】を放送した日本テレビの24時間テレビです。この番組のテーマは『愛は地球を救う』です。でもこの場合の愛は本当の【愛】ではないでしょう。どちらかというと。『偽善は地球を救う』です。あれを見て感動して、涙を流す人もいるかもしれないですけど、一番涙を流すのはテレビ局です。莫大な広告料が入っていきますから、嬉し涙が止まりません。それに体の不自由な人などを見世物にして感動を呼ぶショービジネスの極みです。本当にこの番組を見て感じるモノがあったら、自分の全財産を掃ってそうした人達を、アフリカで飢えた人達を救うと思います。裕福な日本に五体満足で生まれ、生物として不自由することなく過ごす、一方で、生まれながらにして貧しい国に生まれた人、体が不自由な人がいるという事実。こうした事実を、番組を見て涙を流し、募金をする事で、誤魔化す事が出来るのです。

現在日本には自称愛が溢れています。電気製品のパンフレットにある『愛の修理』、恋人に対して『愛してるよ』と言う台詞。でも、新品が買えるくらいの修理代を取って【愛】はないと思います。本当に治ってるのと疑ってしまいます。付き合った人数10で、その度に『愛してるよ』はないと思います。口先だけの人だと思って信用できません。『愛してる』と『好きだよ』を使い分けて欲しいと思います。現在、日本にあるのは愛と言う名の偽善です。でもそれが幸いして現在の平和があり、豊さがあります。何故ならこの国が本当の【愛】に溢れていたとしたら『愛は地球を巣食う』ことになるからです。権力が作った偽善があるから、バランスがとれているのです。

野島さんは偽善ではなく本当の【愛】を模索しました。私はまだ最終話を見ていないので野島さんがどんな結論を出したのか分かりません。でも、ここの書き込みを見た限り、最終話は曖昧に終わったそうなのでひとまず安心しました。私が見た限り、【世紀末の詩】のどの話しもハッピーエンドではありません。そこに野島伸司と言う脚本家の【愛】に対する世界観が詰まっていると思います。『【愛】は死・カオスと向き合う事によって見つかるかもしれない』と言う意味において【愛】とは危険を伴う【冒険】なのではないでしょうか。

【愛】は確実に存在します。しかし、それを得るためには現在の自分を、人間としての自分を捨てる覚悟が必要です。その意味で現代人は【愛】に辿り着けず、偽物の【愛】をつかまされ続けるのです。

くだらない持論を長々と書いて、しかも取急ぎだったので、文章の脈絡もなくエッセイ調になってしまいどうもすんまそん。でも、早くドラマの残りを見たいものです。


良かった。
投稿日 8月26日(土)16時27分 投稿者 さとみ 削除

毎週欠かさず見てて、一番いいなあと思ったのは、恋するコッペパンです。あれはすべてに感動しました。そんな恋をしてみたいと思ったし、そんな恋に憧れます。


愛は本とに有るんだろうか
投稿日 8月24日(木)22時16分 投稿者 emu 削除

このドラマ本当に好きです
野亜の考えが本当にピュアでストレートな感じがして
本当に羨ましい
自分はいまだに愛は有るとは
強い口調でいえない
どちらかといえば百瀬的考えの持ち主なのでしょうか


愛って?
投稿日 8月24日(木)21時45分 投稿者 沢井辰郎 削除

この前、再放送されているのを久しぶりに見ました。で、最終話を見終わって、どうしてもスッキリしない気持ちが残りました。「結局、愛って何?」
最終話では、愛を表現する唯一の言葉を「冒険」とし、又、愛を表象する唯一の形として「風船」を呈示していました。「冒険」って事はつまり、そこ(愛)へは誰も到達していないという事。何処まで行ってもそれは未開の地であり、もしかしたらそれは、桃源郷でしかないのかも知れない。ここでもう一度、これまでのストーリーの中に見た(と思っていた)愛を否定されてしまいます。しかしながら一方で、愛の形として「風船」を呈示して、その多様さをもって愛の存在を主張してきます。
ここで最初の疑問にぶつかります。「結局、愛って何?」
ドラマ(フィクション)だけで結論づけることはできませんが、このドラマを見る限りそんなものは存在しないんじゃないかと、僕は思いました。
このドラマでは、愛は存在するという条件の下で愛を否定していきます。一度「存在する」と定義しなければ否定できないからだと思いますが、その結果、残るのは「愛」という幻想であって、「愛」という言葉(文字)を使う限り否定しても存在してしまう幽霊です。それは言葉を変えてもついてきます。幻想であって実態がない以上、言葉に何の意味もありません。だから、「愛って何?」と自問自答したところでいつまでたっても「分からない」んです。
物語を見ていつも感動して涙を流していました。存在しないものへの憧れと、存在しない現実への絶望が、複雑な感情を引き起こしたのかも知れません。でも、絶対的な愛なんて存在しない、と割り切ってしまうのはとても淋しいですよね。だから僕はその複雑な感情に「愛」を見たいと思います。たとえそれが「冒険」だとしても、その桃源郷を目指して生きていきたいと思います。スッキリしない気持ちは今も変わりませんが、それが「世紀末の詩」のメッセージなんだと勝手に解釈させていただきました。
なんだか長くなっちゃいましたね。暇だったんです。でも、最後まで読んでくれたもっと暇な人がいてくれたら、僕は嬉しいです。ありがとう。


クローン人間
投稿日 8月24日(木)20時57分 投稿者 Coo 削除

 最近「イギリスでヒトのクローン胚培養 10月にも法制化」なるニュースが話題になっていましたね。
私はすぐに「世紀末」の第8話を思い出してしまいました。
この話は現実離れしているとか、試験管での実験レベルじゃないとかいろいろと批判の声が聞こえた話ではありましたが、私は好きでした。と言うかとても考えさせられました。
教授じゃないけど、私も影山さんの叫びに洗脳させられそうになったから・・・
「ロジックではいかようにも言える。―愛の究極がしょせん自己愛に根ざしているという論理には、つまらんモラルの反論しかできない。」
でも、最後に亘が学校の校庭から里美先生に伝えた言葉にハッとさせられました。
この世にひとりしかいない人間だからこそ人間は素晴らしいんだって―。
 そう言えばこのドラマのOA当時、ここの掲示板ではどっちが本物の良希?というのが話題になってましたよね。私も良くわからなかったので「なるほど」と感心しながら皆さんの意見を読んでいたものです。
ほんとに好きなドラマです。だから「新世紀の詩」も期待しています。


何度見てもいいドラマですね
投稿日 8月24日(木)02時15分 投稿者 みずき 削除

今私の住んでいるところで再放送をしていて2年ぶりに見たのですがやっぱりいいドラマですね。来週は青いバラの話で大沢たかおさんが出演するので楽しみです。


新世紀の俳句
投稿日 8月23日(水)13時22分 投稿者 北アジア共和国 削除

初めてこのページを見ました。完成度の高いページだった。
このページを見て、私もホームページを作りました。(パクッてません)
見てね。
再考察を全部みたいのですが、(最後まで)どうすればよいのですか?

http://members.tripod.co.jp/noa3/noanohakobune.html


考えさせられる
投稿日 8月22日(火)04時50分 投稿者 松本 削除

必ず見るべきドラマですね。感動します。面白いです。最高です。

http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=town2&P=0


はじめまして
投稿日 8月20日(日)01時31分 投稿者 麻乃ゆきぢ 削除

はじめまして。15歳で世紀末の詩は再放送で目にしたものです。
このドラマほど“好き”とおもったドラマは無いです。
ちなみに再放送では 目の見えない人とその婚約者の話しからでした。
恐らく3話くらいでしょうか?…1.2話見ればよかった(泣)
続編とか放送されませんかねぇ…。

愛ですか。愛って語るものでしょうかね?新参者が色々言って良いのか
解りませんが私が考える愛って
言葉では語れないものなんだと思います。人の言葉ってなんだか
未熟な気がするから。そして言葉に出すことによって
その気持ちを偽るから。でも言葉で言ってくれないとどうしても
不安になるから、確かなものが欲しいから言葉にしてしまうのかと…。
というか行動ではきっと現しきれないのが愛であって言葉では
偽ってしまうのが愛なのかなぁ、と。ああ、わかんなくてごめんなさい。

…私としては『愛してる』より『好きです』のほうが嬉しいです。
正直な気持ちな気がするから。


パンドラの箱
投稿日 8月14日(月)11時44分 投稿者 信愛者 削除

はじめまして、今この世紀末の詩BBSの存在を発見しまして、たまらず参加した次第です。
いきなりですが、教授の「パンドラの箱には希望が残されたという。なぜ愛ではなく希望なんだ」という言葉に対してなのですが・・・。
私は夏休みという機会に、世紀末の詩の本を何度も読み返しています。
真実の愛について自分なりに考えたつもりです。
私は愛はあると思います。というよりも、真実の愛から希望が生まれるのではないのでしょうか。そもそも、私にとって真実の愛とは、この世でもあの世でも信じることのできる唯一のものです。そんな真実の愛は今日私に希望を与えてくれているように感じます。だから、パンドラの箱に希望が残ったのは、人々に真実の愛の存在を信じる心が残ったということなのではないでしょうか。
それに、もしパンドラの箱に下手に愛が残ってしまうと、それこそ世界中の人々は様々な愛に混乱し、真実の愛を見失ってしまうのではないでしょうか。     この考えは、パンドラの箱が登場する話から完全に脱線しているかもしれません。
また、私の言う真実の愛とは単なる現実逃避かもしれません。
しかし、私にはどうしてもそのようにしか考えることができないのです・・・。
初めてなのにこんなことを言ってしまって大変生意気だとは思いますが、この考え方はおかしいのでしょうか?


「愛」って何ですか??
投稿日 8月14日(月)02時53分 投稿者 白い薔薇 削除

まだ16歳の自分が、「愛」を語ったりするのは気が引けますが、「世紀末の詩」を見て思ったのが「愛」に対して深すぎる感じがします。もっと単純なものなんじゃないですか?自分より相手のことを優先してしまうのが、「愛」なんじゃないですか?「愛」を遠ざけているのは、1番「愛」を求めてる人だと思います。人間は完璧な「愛」を追求するけど、そんなの無理に決まってる。感情があるから。まわりのものが邪魔するから。動物や植物は、生きることだけを考えて、また人間の様に自殺したりなんかしない。だから「愛」があるんじゃないですか?昔、誰かから「神様の声が聞こえないのは人間だけだ。」と聞いたことがあります。人間と動物の違いは、「愛」がないところかなと思いました。
自分勝手でごめんなさい。


若輩者ながら、意見を・・・。
投稿日 8月14日(月)02時08分 投稿者 do_evil 削除

青い薔薇は、どんなに品種改良しても絶対に出来ない物だといわれています。
また、青という色はそれ自体が禁忌だと聖書ではされています。
そこらへんから、転じて愛とは人間が手にしてはいけない、
手に入れられないものだとほのめかしているのではないでしょうか?

欲しい物を手に入れたらどうなりますか?
つまり、手に入れた瞬間に“愛”は“愛”ではなくなるのではないでしょうか?
愛しあうことことを永遠に求めつづけて、時には手に入らない事を哀しみ
“愛”は“哀”となりうる。
私は、そう解釈しました。


最終回
投稿日 8月12日(土)23時34分 投稿者 どん 削除

 ビデオの情報ありがとうございます。思ったより高価でちょっと迷いましたが、やはり買おうと思います。
 ところで、皆さんは最終回をどのように見ていましたか?私は最終回が一番難しかった。
 一つは一番最後に出てくる青い薔薇・・・あれってどういう意味なの?
 もう一つは、のあとさとみ先生はあれでよかったの?一生思いをかかえたまま生きていくことになるよね。それが愛ってこと?だったら結婚ってなんだろう。さとみ先生と結婚相手には、愛はあるの?あの最終回は、結婚があまりにもむなしいというか、愛の前で結婚は意味をなさない感じがする。
のあは教授と同じ苦しみを抱えていかないだろうかとも思う。(一人の女性を忘れられず生きていくということ。)
 どう思いますか?


投稿日 8月11日(金)16時31分 投稿者 勇次 削除

初めまして、このBBSに書き込むのは初めてです。
この「世紀末の詩」は、僕が生きてきて一番感動したものといえるものです。
最近、再放送が始まって(最近じゃないけど)また、見ているんですけど、
ある日、部屋でボーっとしていたら蝉が耳にさわるくらい鳴いていたので、
もう夏だなーと思いながら座っていたら、
いきなり蝉の鳴き声が途絶えてしまったのです。僕はこれを直感的に「死」だと感じ、その瞬間デ・ジャブが頭の中で起こったのです。
それは、第3話の海辺の場面で、愛美が倒れこむところにいたあの蝉に、、。
僕はなんだか悲しくなりその日は「世紀末の詩」に着いて考える日々であった。
僕が言うのもおこがましいんですが、世紀末の詩のテーマは「愛」
自分は愛についてあまりよく分からないんですが、教授の重みのある発言はなにか
僕の中に伝わってくる部分があり、とても感動します。
話が進むにつれ愛は、不安で、不確かで、証拠もなく、触れてはいけないもの、という風になっていくが、亘の純粋に愛を追い求めていく姿はぼくの心に打たれました。
教授の言葉で印象的なのが、
「愛とは、、、疑わないことだ、、、。」


ビデオについて
投稿日 8月11日(金)02時23分 投稿者 はり 削除

ビデオはVAP?という会社のホームにいけば分かると思います。


サントラ。
投稿日 8月9日(水)18時32分 投稿者 アリス 削除

世紀末のサントラ聞いてたら、心が和むわ。
一人で車運転してる時とかに最高。
再放送のヤツ次は恋するコッペパンですね。


ビデオが欲しい
投稿日 8月9日(水)12時21分 投稿者 どん 削除

 ほんと、この,BBS、嬉しすぎます。放送されてから時間がたっているのに、私のように未だにこのドラマを引きずって?いる人がこんなにいるなんて!
 セミの声、太陽、燃えるような夕焼け・・・今、今です。この季節、すごくひたってしまいます。車の中のチェンジャーにいつもサントラを入れて、今だ!と思うときに聴いています。
 ところでどなたか世紀末の詩のビデオの入手方法を知りませんか?
前に投稿したとおり、何回も見ているため、録画したのはぼろぼろです。売っているのも見たことないし。一生持っていたいのです。


はじめまして。
投稿日 8月8日(火)14時50分 投稿者 革衣 削除

私もモネさんと同じくこちらのBBSみつけて嬉しいです!
このドラマは何度見ても心にグっときますね。ちょうど放送されてた頃、大好きな人との別れを考えていて、
どうしようもない渦の中であがいてたのを思い出します。
いまでも彼のことは大好きです。

4行詩を読むと涙があふれていました。
一番印象に残っているのは「星の王子様」ので、おもわず号泣していました。

ハローベイビー
もしも僕に会いたいのなら
僕も君に会いたいのさ
きっときっと会いたいのさ


泣きまくそ
投稿日 8月7日(月)17時39分 投稿者 たまたま 削除

サントラ聞きながら書き込んでいます。なんかもぉ、音楽聴いているだけで涙が出てしまいます。狂った果実のまなみちゃんが自分を見せているシーンは何度見ても泣けてしまいます。女性のヌードを見て涙が出るなんて信じられない。なんでだろう?


このBBS見つけられてすっごくうれしい
投稿日 8月7日(月)14時34分 投稿者 モネ 削除

世紀末の詩の再放送を見てめちゃくちゃ感動してずっとこういうページを探してたのでほんとにうれしいです。
周りであんまり見てる人がいなくて寂しかったんですがここにきてみたら世紀末の詩が好きな人がたくさんいてうれしいです。
私は2話目からみだしたんですが、あれだけ心に響いて愛について考えさせられて毎回感動できたドラマは私にとって初めてで
衝撃を受けました。
ビデオで1話目からもう一回みなおしたいです。


恋するコッペパン
投稿日 8月6日(日)00時12分 投稿者 ムー 削除


ぼくは、この話が一番好きです。
もしこの世界で愛する2人取り残されたれて、相手が先に死ぬと分かった時、自分ならどうするか?あとを追うのは孤独にたえられないだけかもしれない、、、生き延びるのは生への執着かもしれない、、、どちらにせよ本当の愛とは呼べないかもしれない。
 そこにパン屋の主人は先立たれた最愛なる妻の死を認知しつつも妻の死ぬ間際の言葉「出来る事ならあなたとずーっと一緒にいたい、なぜなら私だったら心が壊れてしまう、、、」を受け止め妻を冷却保存し、そばにいた。
美しい愛の形だと思った。でも、それは第三者からみるととても滑稽   真実の愛とは、とても奥深く難しいものだと思った。


悲しい
投稿日 8月4日(金)03時07分 投稿者 どん 削除

 はじめまして。
 世紀末のビデオはもうぼろぼろでこちらでは再放送もしていなくて。 毎回泣きながら見ていたけれど、残ってる言葉は、車椅子の星野が死んでしまった時の教授の言葉。「愛とは信じることですらない。疑わないことだ。」
 これってすごく難しい。あたりまえのことなのに。
 このドラマは愛を貫いた者が最後にその愛に苦しむ。叶わないんだ、絶対。
どうして!?


もしかし、私は無自覚な荒らしなんでしょうか?
投稿日 8月4日(金)02時28分 投稿者 do_evil 削除

はじめまして。いきなり、メチャクチャ長くてすみません。

真説・パンドラの箱
ゼウスが鍛冶神ヘファイストスに命じてつくらせた人類最初の女・パンドラ。
プロメテウスが、天上の火を盗んで人間に与えたことに腹をたてたゼウスは、その報いとして人間に災いをもたらそうと考えた。
神々からあらゆる魅力や美徳をさずけられたパンドラは、プロメテウスの弟エピメテウスの元におくられた。
ゼウスはヘパイトスに土からパンドラを作り、ゼウス自ら生命を吹き込みました。アテナは、知恵と紡いだり織ったりする技を与え、アプロディティは美しい肉体を、アポロンは美しい歌声と病気を直す力・・・・・・・をそれぞれ与えました。
最後にヘルメスが、美しい彫刻の入った金の箱を与え、「その箱には見てはならない不思議な物が入っているから決して開けてはならない」と言ったのです。
そう伝えた後で最後に好奇心を与えました。

実は、これは、火の使用を覚え誇り高ぶっている人間を、制圧することを目的としたゼウスの計画だったのです。
エピメテウスはゼウスの贈り物は受け取ってはならないというプロメテウスの忠告を無視し、パンドラを妻にした。
パンドラはエピメテウスと結婚し、幸せな生活を送っていました。しかし、パンドラには一つだけ気になることがあったのです。
「この金色の美しい箱には、どんなものが入っているんだろう。」
昼はその箱を眺め続け、夜はその箱の夢を見るのでした。パンドラは、とうとう我慢出来なくなって、箱を開けてしまったのです。
すると箱の中からは、毛むくじゃらの黒い生き物が沢山でてきました。実は、この化け物は、病気、貧困、犯罪といった人類を悩まし続けるあらゆる災害だったのです。パンドラはあわてて箱を閉めましたが、たった一つの化け物を残して全ての化け物は出てしまった後でした。
箱の中に残ったたった一つの化け物の名は、「前兆」。人類にとって、この化け物「前兆」を閉じ込めることが出来たのは不幸中の幸いでした。もし、この化け物が飛び出していたら、世界中の人間が人生でこれから何が起こるか予測出来てしまい、そうなれば希望を抱くことが出来なくなり人類は破滅していたに違いないからです。苦難は解き放たれて、人間の間に広がった。残酷さの総仕上げとして、ゼウスはまやかしの「希望」をも人間に与えた。彼らが絶望のあまり、天界の父の意志によって自分たちに課せられた苦難の報酬から逃れようと、自殺をはかるのを阻止するために…。

このあと、パンドラはどうなったのか知りません。

パンドラの話には色々な解釈があります。
まず、私が置いていった話し。
次に、あらゆる災害が外に出ていって最後に出てきたのが希望。
この希望にもいろいろあって普通の“希望”と“実の無い希望”
最後のやつは結構有名な話しでかののんさんがいったヤツです。

他にも、いろいろありますがオーソドックスといったら普通の希望の話ではないでしょうか?
私は昔からこの話が好きで、色々な本を読んできました。
だけど、いつも残っていた違和感を拭い去る事が出来ませんでした。
なぜ、大いなる災害と共にあったのが“希望”なのか?
主神が最後に私達が開ける事を予測していれたのだろうか?
ならば、なぜ私達にそれを与えたのか?
罰を与えるため?
罪には罰を下せば良いから?
ならば、“希望”を与えると言う事も罰なのだろうか?
たしかに、“希望”はもう一つの姿をもっている。
それは“貪欲”という…。

そして、次に読んだのが“実の無い希望”の話し
最後に出てきたのは希望でありながら実が無い。
つまり、この世に希望なんて持ってもその希望はかなわないという風に解釈できる。
これならば、まだ108の悪徳と一緒に入っていたという説明がつくのでは?
さすがに、上のただの“希望”が悪徳とは考えにくい。
しかし“実の無い希望”ならば人の心を惑わすもの、止めを刺すのに最適なものですから
108の悪徳と共にありそうなものです。

外に出ないで箱の中に残ったというパターンですが、一番納得できませんでした。
他の悪徳は、外に出たから人々に広まったのに“希望”は外に出なかったから、
人々の心に残った?
ちょっと、矛盾を感じますが無理やりこじつければ…。

神の教えを破った人間は、いままで外に出なかった全ての悪徳が外に出たため
それらの悪徳を償わななければならなくなった。
しかし、“希望”だけは外に出ないでいたので人々の願望が形をなす事は無かった。
もしもこれが外に出ていたならば、この世界はめちゃくちゃな事になっていただろう。

なんか、しっくり来ませんね。

つぎにかののんさんが言っていたものなんですが、
後々の人が上の矛盾に気付き形を変えて伝えたものだと思います。

全ての悪徳が外に出ていく中、慌てて箱を閉じたパンドラが
外に出すのを防ぐのは、“輝ける希望”
この世に、希望など存在せず、形あるのは人々の幻想のみ。
幾ら求めても手に入らぬものとなりました。

なんとなく納得できそうな気がしないでもないですが、やっぱり悪徳と一緒にあるのは…。
私のイメージのせいでしょうか?

次は、パンドラの箱には悪徳ではなく全ての美しいものが入っていた話し。
しかし、人のもつ“好奇心”というものは知らなくても良いものまで知りたがり、
結局、持たされるはずだった美しいものを失って悲しんだ。
最後に残った“希望”でね、私達は失ったものを手に入れようとするのさ。

最後に知ったのが、“前兆”
これが、一番納得できるんですがマイナーなんですね。
哀しい…。
希望という風に捕らえられるようになったのも、未来を知ったなら生きる“希望”を失うところからきてるんだと思ってますが、どうでしょう?



Re:恋するコッペパン
投稿日 7月30日(日)02時30分 投稿者 shinya 削除

気がふれるってのは方言なのでしょうかね?意味は、気が違ってしまうというか、おかしくなってしまうというか。そんな感じだと思いますけど。違うんでしょうか?


Re:好きな話
投稿日 7月28日(金)21時01分 投稿者 すする 削除

ハオ!
「星の王子様」が一番好きで、理由は2つあります。
1つ目は、ミアが唯一誰も死へ導かず、むしろ傷付いた白鳩や羽夢を助けた事。
2つ目は、下記サイトをご参照下さい↓

http://www.myweb.friend.ne.jp/hanamizu/


恋するコッペパン
投稿日 7月28日(金)14時03分 投稿者 よしお 削除

恋するコッペパンで教授が言ってた
俺のおふくろは親父の死を認知したとき
気がふれた ってのはどういう事ですか
気がふれた?


みなさんの好きな話は?
投稿日 7月27日(木)00時30分 投稿者 アリス 削除

世紀末の詩の中で、みなさんは第何話がよかったですか?
私はパンドラの箱が一番で、そのあとに星の王子様、この
世の果てで愛を唄う少女と続きます。


愛とは何か?
投稿日 7月26日(水)15時47分 投稿者 鴻上 削除

 はじめまして。僕は野島作品の中でこのドラマが一番好きです。特に、山崎
努さんの教授の一言一言が心に響くものがありますし。この作品を見てから、
「愛」について深く考えるようになりました。しかし、ぜんぜん分かりません、
若輩ものですし。ジョン・レノンの「Love」が流れるエンディングが最高です。


星の王子様…
投稿日 7月25日(火)13時24分 投稿者 ひで 削除

やっぱりこれもいいですね。白い鳥が飛ぶ様と
羽夢が走り去っていくところが、好きです。
最後にホームレスに戻り、あのラストメッセージ
はグッっときました。


狂った果実をみて
投稿日 7月20日(木)23時19分 投稿者 勇気 削除

あー私は、愛美がうらやましい。
あんな穴蔵で一生を送るのなら、一瞬でも自由に何にもとらわれず生きたかったんだと思います。
自分の思い通りにはならない人生、他人に嫉妬して、自分の弱さをひた隠し、そんななか生きていくしかできない。ならば、私も太陽に向かって生きたい。


母性について
投稿日 7月20日(木)22時18分 投稿者 秋山 削除

こばりんさんへのお応えです。
母性とは、ひとを無条件で愛する心。
なので、性別、年齢は無く在るものだと思います。


うーん
投稿日 7月19日(水)06時32分 投稿者 ひで 削除

第3話。ひまわりを太陽と見立てて、セミが求愛し、命を終える様を
あらわす.第3話は実に奥深い。


いま、やってまーす。
投稿日 7月18日(火)02時21分 投稿者 taki@代理管理人 削除

今、関西系列の読売テレビで「世紀末の詩」第3話「狂った果実」がやっています〜。
愛美の愛、女性には不評だった感想があります。
皆さんどう思います?

愛を感じたかった。ただそれだけに命を終わられたように思いました。

http://alived.com/autism/


世紀末の詩は私の人生を変えた。
投稿日 7月14日(金)21時28分 投稿者 村長 削除

何より感動したのは、星の王子様だ。
他のどの話よりもセリフが好きだった。
羽夢がいじめられている時の百瀬のセリフ「同情はするがな・・」
特にあれに強い衝撃を与えられた。
あのセリフだけを聞くためにビデオで何回も見直した。
私はそれほど衝撃を与えられたのだ。

そして最後私はじめて、ドラマを見て涙が出ました。羽夢の父親からもらった金を使わず
また、山内は昔のようにホームレス生活に戻った姿を見てとても切なく感じたからです。
山内は本当に羽夢のこと愛しており、今その生きる糧がなくなり、またこうして過ごしてるんだ。
うまい事表現できませんが、山内の愛の形に本当に感動した。

http://www7.tok2.com/home/momonohomepage/


最高
投稿日 7月14日(金)20時30分 投稿者 未成年 削除

世紀末の詩は「未成年」の次に好きなドラマです。
むしろ、1番かもしれない。
特にエンディング曲のときの回想シーンがとても感動します。
第2話より

ハローベイビー
僕はいつも不思議だね
人は見えるものを欲しがるんだ
いずれ自分は消えていくのに


2話感想
投稿日 7月14日(金)19時59分 投稿者 FTK 削除

2話の感想

野亜がこおろぎさんを見て笑う、その後の教授の言葉

>それはお前が、救いがたく心の卑しい人間だからだ
>自分はちっぽけで小さな人間だと理解しながら、
>一方で自分より小さな人間を貪欲に探している
>まるで、自分より不幸な人間を探して同情する
>ワイドショー好きの主婦のようだ。しかもなお悪いことに、
>人間の価値を表面的な見てくれで判断しようとする
>俺には、愛の花火がどこで打ち上げられたか、
>全力で、大汗かいて探し回った彼が星の王子さまに見えたけどな。

それを聞いた野亜は自分が愚かだったと涙して
こおろぎさんに謝りにいく。

僕はこの二人(教授と野亜)とても素晴しい人だと思いました。
教授は言わずもがなこのセリフから分かる通り、
素晴しい考えの持ち主なんですが、野亜には考えは無いんですが
素晴しい心を持った人物だと思うんです。
果たして普通の人が野亜の立場だったとして
教授のこのセリフを聞いて涙して謝り、こおろぎさんの所まで
謝りに行こうとするでしょうか?多分しません。

僕はもうこのシーンで半泣きでした。

だからこおろぎさんと響子の話しあまりにも悲しかったです。

>人間の価値を表面的な見てくれで判断しようとする

目が見えない頃の響子とこおろぎさんの間にはきっと愛があって
それは響子が目が見えないとかは関係なくて、こおろぎが貧乏なのは
知ってたはずだし、手の感触でこおろぎがある程度整っていない顔を
していたのも、自分の顔が整っているという事も理解できた
と思うんです、それでも響子はこおろぎさんを愛していたと思う。

でも目が見える様になった響子はこおろぎさんの良さを忘れてしまった
人間の価値を表面的な見てくれで判断してしまった。
『人間はとても眩しい瞬間に、とても大事なものを失う』

それって、すごい悲しい事だと思いました。


2話ついて。
投稿日 7月14日(金)13時32分 投稿者 taki@管代理理人 削除

話しのついてどうもわれますいたか?

そして、コウロギさんについては?

私の意見には、以前に配信したメールにかいてあります。
わたしの意見は、響子が美人であることなにもかんけいjなかったとおもいます。
なら、身体障害者はすべからく不幸でしょうか?  

http://alived.com/autism/


ありがとう
投稿日 7月13日(木)19時58分 投稿者 プッチマシ 削除

けんじさんありがとうございます!
さっそく探してみます!


随分古いドラマですね・・・
投稿日 7月13日(木)15時11分 投稿者 TOM 削除

信仰を抜きに愛を語るのは難しいよね。


本も詩集もでてるよ
投稿日 7月13日(木)01時22分 投稿者 けんじ 削除

世紀末の詩はワニブックスより¥1400で発売されています。私がもっているのはハードカバーのものですが、文庫サイズもでてるのかな?あったらほしいな〜。
同じく詩集も発売されていますよ。野島伸司詩集T・U(ワニブックス刊)です。


>ワイアルドさん
投稿日 7月12日(水)04時05分 投稿者 グリフィス 削除

もう、第2回も終わりましたよ。
遠山景織子はかわいいな。
第2回のラストは最高の終わり方やー


本とか・・・
投稿日 7月11日(火)23時48分 投稿者 プッチマシ 削除

世紀末の詩って本になったりしてるのですか?
それか野島伸司さんの詩集とか販売されているのでしょうか?
是非お教えください!


あの場所って・・・
投稿日 7月11日(火)19時57分 投稿者 MASTER−P 削除

世紀末の詩のあの、場所はどこなんですか?一回、幽霊の橋で
考え事とかしてみたい。誰か教えてください.


最高傑作
投稿日 7月11日(火)07時41分 投稿者 ひで 削除

世紀末の詩は自分の中で最も揺れ動かされたドラマ
と思います。野島さんの脚本はどれも文学的で大好
きです。世紀末の詩は脚本、キャスト、主題歌から
挿入曲まですべて最高でした。


やってます〜。(^^)
投稿日 7月10日(月)20時38分 投稿者 taki@代理管理人 削除

どうも、「世紀末の詩」再放送の情報ですが、
読売TV系で深夜2:10から放送しています〜。
今日は2話の「パンドラの箱」です。
みなさんご覧になってくださいねー。(^^)

野島ドラマ再考察チャットの参加者も募集中です。

私にメールをしてもらうか、スタッフの方にメールくださいねー。
(TVガイド、参考リンク↓)
http://www.tvguide.or.jp/hyougo/tabletv/071101t1.htm

http://alived.com/autusm/


質問です
投稿日 7月10日(月)01時58分 投稿者 ワイアルド 削除

こちらには初めて書き込みさせて頂きます。
ワイアルドと言う者です。
以後お見知りおきをm(_ _)m

ところで質問ですが、こちら大阪では「世紀末の詩」が
再放送されるので楽しみにしてたのですが、ひょっとして
もう第1回は終わってしまったのでしょうか?
今度こそビデオに全話残そうと思ってたのに・・・

どなたか教えて下さい!


上方でも再放送
投稿日 7月9日(日)07時27分 投稿者 すする 削除

ハオ!
7月から読売テレビで毎週月曜日の深夜に、
「世紀末の詩」始まりましたね。
夜中なので放送時間のカットが無く羨ましいなぁ

http://www.myweb.friend.ne.jp/hanamizu/


こんにちは♪
投稿日 7月6日(木)20時21分 投稿者 みかん 削除

こんにちは・・・はじめまして・・・・・
「世紀末の詩」は一番好きなドラマなのに・・・・・
1話から全て見たことがありません・・・・(涙)

もう一度見た〜〜〜〜〜〜い!!!!!


(^^)
投稿日 7月5日(水)13時52分 投稿者 帥の宮 削除

「この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO」
1996年12月発売
(株)エルフ

18禁ソフト 18歳未満はやってはいけません。 


教えて!!
投稿日 7月5日(水)00時46分 投稿者 こばりん 削除

はじめまして、こばりんと言います。
最近、母性について考えてます。
みなさん母性とは何でしょう??
ぜひ、教えてください!


♪いい場所みつけました。
投稿日 7月4日(火)02時23分 投稿者 まこっぺ 削除

初めまして、まこっぺといいいます。世紀末の詩第1話から
第3話まで観た所です(レンタルビデオで)。前に放送で見
た時から、面白くその言葉のやり取りなどに引き付けられた
作品でしたが前回と違って今回は初めから見逃さずに見られ
るのでますます感心してしまいました。本当に泣けるドラマ
で書く人によって本当に作品の良さが変わる物です。関東圏
では再放送があるそうですが自分の地域では無いので残念で
す。もしどなたかこの作品が手に入る方法があるのならメール
等で教えてくれるとありがたいです。あと、野島さんの作品は
外にもみてますが世紀末の詩は好きですね、自分は、これから
もっと観て具体的に感じた事などを書ければいいと思います。


わたるさん最高。
投稿日 7月4日(火)02時21分 投稿者 バカボン 削除

野島ドラマ大好きです。すごく純粋で、いつまでも少年のこころを持っている人なんでしょうね。
いちばんすきなのが、世紀末の詩です。
これは、もうドラマっていうかすごいですね。ドラマを超えて、哲学ですよね。
このドラマを見てると、すこし生きることが楽になるんです。
すべてがすばらしすぎて語り尽くせないでしょう。

世紀末について、愛についておおいに語りましょう。


はじめまして
投稿日 7月1日(土)23時54分 投稿者 Spiral 削除

せっかく再放送がやっていたと言うのに
僕は全部見損ねてしまいました・・・
僕は1話と3話をを見ていまかったので
絶対に見ようと決めていたのにみそこねてしまい
とても悔しい思いをしています・・

僕の回りではあまり世紀末の詩の人気がない・・・
ちょっと悲しいです・・

http://celat.gaiax.com/home/spiral39


はじめまして☆★
投稿日 7月1日(土)23時08分 投稿者 ヨコヨコ 削除

私も大好きです。こんなに自分変えてくれたドラマは初めて!
再放送を見た私は、以前より少しは成長していて感じることが
少し違った。何度見てもその時の自分が感じることは違って
世紀末の詩は変わらないのに自分が変わっていけばいつまでも
感動し続けられるはず☆すっっっっっっごーーーい!


いろいろ。
投稿日 6月30日(金)23時17分 投稿者 P子 削除

はじめまして、P子と言います。
当時「世紀末の詩」の最終回が、どうにもこうにも
わからないことだらけで、HPやBBSを覗いてまわりましたが、
わからないままでした。
そして、今回の再放送で最終回を見て、少しわかってきたような気がします。
私は、ミアが大好きでした。
最終回に限らずミアの行動は2回目の今、見るとよくわかりますね。
とりわけ最終回の亘の元を去るミアに「愛」を感じました。
(もちろん1回目も感動はしたのですが、よくわからなかった)
見るたびに、感じ方も変わって、本当にいいドラマだと思います。
次はビデオに録って見たいと思いました。


ありがとーございます。
投稿日 6月30日(金)06時42分 投稿者 taki 削除

すするさん>
あ、憶えていただいててありがとうございます〜。(^^)
そうですか、そこで切るのか。

りようさん>
私、ビデオ持ってますよ。どーしてもですか。
見る方法は・・・・。メール下さいますか?(笑)

世紀末の詩再考察のメールマガジン、発行遅れててすいません〜。(>_<)
近々考察チャット行いますので、参加希望の方はここに書きこむか、
私にメールください〜。
テーマは「車椅子の恋」です!

http://alived.com/autism/


Re:「世紀末の詩」の本がほしいんですが。。。
投稿日 6月30日(金)00時40分 投稿者 aki 削除

あきです。

>kikuさん
早速のお返事感激です。
kikuさんありがとう!これで本屋さんに注文できます。
読むと映像が浮かんでくるなんて、ちょっと楽しみです。

ムシ暑く眠れない夜に1人感動に浸ることができそう。
色々考えちゃって余計眠れなくなったりして(笑)


メドゥーサ
投稿日 6月29日(木)23時04分 投稿者 すする 削除

ハオ!
>最終回の放送を2度に分けると聞きましたが、どこで切るのかな?
亘と教授が小船で沖へ出て、オレンジ色の夕日の中、
麗美を救う話題の最中に教授が激しく咳き込み、
亘が「もう戻りましょう」と言ったが、教授が「イヤダ」と断り
「後編へ続く――」でした。
明日の後編は夜空の下でモーゼの十戒から始まるのかな。

観覧車内の時限爆弾停止のエピソードを見てて、
「古畑任三郎」でキムタクがゲスト出演した回の、
「赤か、青か」を思い出しました。
同じ観覧車爆弾の話で、その時選んだ色も…


「世紀末の詩」
投稿日 6月29日(木)21時42分 投稿者 kiku 削除

>あきさん
 「世紀末の詩」の本は、テレビドラマを原作として小説化したものと
 書かれています。かなり忠実だと思いますよ。
読むと、映像が浮かんできます^^
 ISBN4-8470-1302-6

>りょうさん
  脚本家志望なのですね。
  がんばってください。
  お尋ねの件、また放送してくれるといいのですが・・・



「世紀末の詩」の本がほしいんですが。。。
投稿日 6月29日(木)18時03分 投稿者 aki 削除

どうも、あきと言います。

恥ずかしながら、再放送から「世紀末の詩」を見はじめてます。
退廃的なイメージの中から実像を見つけ出すような作品で非常
に考えさせられます。

さて、同ページ関連商品の書籍にある。ワニブックスから出版
されている「世紀末の詩」は原作なのでしょうか?
とりあえず読んでみたいと思うのですが、どなたかISBNを教え
ていただけないでしょうか?よろしくお願いします。

ではでは。


はじめまして。
投稿日 6月27日(火)22時50分 投稿者 かげつや 削除

こんにちは。
最近見つけました。
野島ドラマが大好きです。
なかでもやっぱり「世紀末」。
自分と自分の弟の中では最高のドラマだと思っていました。
けれど、どうも世間的な評価は低かったみたいで、
ビデオにもなかなかならなかったし、再放送も遅かったし、、
でも、ここのファン投票で1位と知って本当うれしかった。
同じようにあのドラマを好きな人がいっぱいいるって知れて
なんかうれしかった。
これからいろいろ見せてもらいます。
では、また。


カレンさんへの返信。
投稿日 6月26日(月)16時27分 投稿者 呉モヨコ 削除

 カレン様。
『星の王子様』ビデオにとっていたので見たのは今日でした。
私は(心身共に)大人ではないし子持ちでも男でもないのですがカレンさんの意見に
ついて少し・・・。
愛って、常に試行錯誤の連続なのではないのですか?
「この状態で、この人は本当に幸せなのだろうか?自分の都合のいいように
この人の気持ちを解釈してはいないか?」と自分に問いかけることは別に
その人の自信のなさを表しているわけではなくて、当然、ではないでしょうか
・・・人間として。
ドラマとかでよくある 「僕なら君のことを幸せにできる」などとという台詞、そして
それに付随する関係をカレンさんは愛と呼んでいるんですか?

でも本当、この父親は愚かだなと思います。でもそれは周りから見た結果であって、
父親自身が考える『愛』に従ったまでなのではないだろうか?

羽夢はどう思っているんでしょうねえ育ての親を。
本当は愛されていなかったと思っているんでしょうか・・・。
私は・・・愛というのは愛する側ではなく愛される側の感じ方の問題だという気も
するのです。つまり愛された側がそれを真実の愛だと感じればそれは
真実の愛だと。たとえ愛する側にとってそれが・・・ただのたわむれでも。

生意気言ってすみません。これでも意見のつもりです。



見ることはできる?
投稿日 6月25日(日)22時07分 投稿者 りょう 削除

kikuさんにお尋ねします。「時には母のない子のように」もう見る術はありませんか?知っていれば教えてください。なんか野島さんの原点が見れるようでなんとしても見たいです。お願いします。僕も野島さんみたいになりたくて(なれないけど)フジテレビヤングシナリオ大賞に応募しようと思っています。今日は暇だったのでリップスティックを見ました。特に第四話のいしだ壱成がポッポに過去を明かすときの台詞が最高!野島さん独特のあの語りも三上さんがいい感じで最高!やっぱり野島ドラマは最高だ〜!


パンドラの箱について
投稿日 6月25日(日)19時37分 投稿者 もんきー 削除

おおう!ここに書き込むのは初めてだす!よろしく!
ええと、この話は鏡子が目が見えるようになってしまい、一郎の元を去っていってしまうというおはなしでしたよね。 これとパンドラの箱とどういう関係があるのか? パンドラの箱にある神様がこの世のありとあらゆる災いを詰め込みました。
パンドラの箱中には、最後に希望が詰まっていました。このことに関しては、哲学の中でも二つの解釈の仕方があります。
 希望を抱く時というのは、自己の能力では解決できない問題が発生した時です。例えば誰もが持っている私欲などから来る欲です。このような時に人は希望を抱く
これが、一つ目の解釈だす。
 二つ目は肯定的解釈で、希望とは絶望の中に活路を見出す勇気の象徴だとされています。しかし、希望を持つときは必ず災いが先に発生します。だからパンドラの箱に入っていたのです。
おそらく、この話では前者の解釈でパンドラの箱という題名を使ったのでしょう。
以上!  生意気言ってごめんなさい。


野島さんのドラマ☆
投稿日 6月25日(日)14時54分 投稿者 kiku 削除

再放送始まって、ここもにぎわっていますね。
以前知らなかった人が、世紀末のよさを分かって・・・というのも
なんだかとてもうれしくなります^^
ほんと、深いドラマです。
そうですね。確かに野島ドラマは常連が多い!
連続ドラマデビュー作「君が嘘をついた」からも、その後何人もでていますし。
>りょうさん
「時には母のない子のように」は、小学生の男の子の視点でドラマが進みます。
自分は親に愛されてない、と勝手に思いこんでしまう。
心理的な部分を主としているところと、ちょっと屈折させているところが、
野島作品らしい感じでしょうか〜


世紀末の詩
投稿日 6月25日(日)13時29分 投稿者 りょう 削除

関東では世紀末の詩が再放送されてるそうですね。関西では読売はあまり再放送をやらないので残念です。でも僕はリアルタイムでちゃんと録画してあるので大丈夫。みなさん世紀末の詩に出てたキャストがリップスティックにもたくさん出てるの気が付きました?広末涼子、三上博史、池脇千鶴、伊藤歩、真柄佳奈子。野島さんは自分で出演者を選んでるそうですよ。未成年のいしだ壱成とかリップスティクの広末涼子など。だれか野島さんデビュー作の「時には母のない子のように」見たことありませんか?感想を聞かせてください。


関東ローカルの話題でスンマヘン
投稿日 6月22日(木)23時20分 投稿者 すする 削除

ハオ!

>でもどうして、どっちの料理ショーが入るんでしょ。
再放送は新番組の宣伝を兼ねているからかなぁ
7月から新ドラマ「フードファイト」スタートしますよね〜
新ドラマの企画が野島伸司さんのため「世紀末の詩」を、
新ドラマの主役が草gさんのため「どっちの料理ショー」を、
再放送するんだと思いますよ、それに、
再放送中に「フードファイト」のCMがたくさん入るしね。

>ミア
今回の再放送、ミアを重点に見ています。
やっぱ、最終回で云ってるけど、ミアは●●だね〜


ミアは
投稿日 6月22日(木)08時01分 投稿者 NAX 削除

初めまして。
考察やチャットログなど色々読ませて頂きました。
ず〜っと思っていて誰にも言ってなかった事がありました。
近くにこのドラマに感動を覚えた人がいなかったもので
丁度いい機会だと、ここに書かせて頂きます。
前振り長いですが(笑)大した事じゃありません。

ミアはもの言わぬストーリーテラーだと思いました。

それだけです。

http://www.hi-ho.ne.jp/cyber-nax


うーん。いいなー。
投稿日 6月21日(水)12時55分 投稿者 taki 削除

あ、関東地方は再放送で盛り上がってますねー。
うらやましいですね、関西はやってないんですよー。

真柄佳奈子さんの誕生日なんですか?おめでとうございます〜。(^^)
でも、まだ16才なんですか・・・(笑)

4話は好きでしたー。みんな9話がいいと聞きますが、
先にひょんなことでネタばれの目にあってしまい、
入り込めませんでした・・・(泣)

でも、最終回の放送を2度に分けると聞きましたが、
どこで切るのかな?
誰か、見た方は教えてくださいねー。

http://alived.com/autism/


知らなかった〜!!
投稿日 6月21日(水)11時11分 投稿者 郁子 削除

わぁ〜☆
今日って真柄佳奈子さんのお誕生日だったんですね!
私、うかつにも知りませんでした。( ̄Δ ̄;)
おめでとうございます♪
・・・16歳って、私 佳奈子さんと同い年だったんだ!


本日誕生日
投稿日 6月21日(水)07時59分 投稿者 すする 削除

おめでと〜♪
羽夢 役の真柄佳奈子さんが今日16歳になりました。
7月3日からNHKの「一絃の琴」に出演するそうです。
(注:野島さんの脚本じゃないです)

http://www.myweb.friend.ne.jp/hanamizu/


世紀末の詩 大好きです
投稿日 6月21日(水)00時44分 投稿者 ミキ 削除

はじめまして。今日初めてこのHPを見ました。
世紀末の詩を好きな人はこんなにたくさんいるんですね。
私も世紀末の詩が大好きです。本当に本当に大好きです。
でもなぜか本放送の時も再放送の時も1,2,3話ぐらいを
見逃してしまって。それはいずれビデオで見るつもりです。
いつもみると涙です。音楽も、最後の’ハローベイビー’もほんといい。
心が震えます。今までで1番好きなドラマです。
私は羽夢の回と20年待った女の回が好きです。
早くまた新しい野島伸司のドラマを見たいな。


再放送始まったの気付くの遅かった!
投稿日 6月20日(火)18時34分 投稿者 け〜すけ 削除

はじめまして。昨年、本放送のときに全部見たのだけれど、それ以来ずっと
「再放送は絶対ぜんぶ録って自分のライブラリに加えるんだ!」と誓い、
ここ半年テレビ欄のチェックは欠かさなかったのだけど、
今月ちょっと手を抜いたとたん...悔しい!
ボーナスも出たので、ビデオを買っちゃおうかな。(全部で4万近く。高いな〜)
レンタルは東京、中野坂上のTSUTAYAにはありましたよ。->RYUさん
vapから出ているビデオです。詳細はこちら。
http://www.vap.co.jp/movies/dorama/tv/sei.html


なんで・・・
投稿日 6月20日(火)13時47分 投稿者 郁子 削除

はじめまして☆
書き込みをするのは初めてですが、今まで何度か
遊びに(?)来てました。
いきなりなんですが、私の周りに野島作品が好きという人が
いないんです・・・それはとても悲しいです。
みなさんの周りには、野島作品が好きという人はいますか?
大好きな世紀末の詩の話が出来なくて寂しいです・・・


どっちの料理ショー
投稿日 6月20日(火)00時05分 投稿者 wolfboy 削除

最終回は2回に分けてということでよかったです。
思えば一昨年の本放送のとき、
テレビ番組表の雑誌に載ってるとおりにビデオを予約したら、
放送ではもっと長くなっていて(たぶん1時間半が2時間に)、
終わり30分が見れずに
レンタル屋に入るまで見れなかったことがありました。
教授が便所にいるあたりできれたかな?
再生していて、途中で切れたときはショックでした。

最終回のことなんですけど、
台詞をいうタイミングがNGのところありますよね。
あれは撮り直してほしかったと思います。

でもどうして、どっちの料理ショーが入るんでしょ。
不可解。


ビデオ出てます
投稿日 6月19日(月)22時26分 投稿者 Coo 削除

 私はかなり田舎に住んでいますが、近くのレンタルビデオ屋さんに世紀末あります。
それと、http://intertv.or.jp/cgi-bin/intertv
ここによると、来週月曜日(26日)から再放送が再開されるようですよ。


えっほんとに・・・
投稿日 6月19日(月)18時02分 投稿者 ルパム 削除

はじめてこのページ見ました!
そしてはじめて世紀末の詩のビデオがあること知りました
今まで行ったレンタルビデオ屋には、どんなに探してもなくて
ビデオ自体が出てないのだろうかとさえ思ってました。
こうなったら死ぬ気で探すぞ! ちなみに買うのはちょっときついっす!


再放送
投稿日 6月18日(日)23時52分 投稿者 shinya 削除

再放送、ニュースプラス1の文字がうるさい。しかも、話が結構いい感じの時に。でも、やっぱり世紀末はいいドラマだ。見てくれだけのような浅い話が多い中、ハッピーエンド、きれいな終わり方にこだわっているようなドラマのなか、これだけ疑問を残したまま終わるドラマもないでしょう。深く考えさせてくれる。お気に入りは第8話、遺伝子家族の話ですが、再放送はいつやるんでしょうか?心配です。火曜からだと嬉しいのですが。


世界で一番好きなドラマ
投稿日 6月18日(日)14時53分 投稿者 LARK 削除

はじめまして。今日はじめてこのHPにきました。
過去に世紀末の詩に感動し「世紀末の詩」と検索しやっと
このようなBBSにたどり着きました。

再放送嬉しいです!!毎日欠かさず見ています。
まったく持って野島さんの作品は素晴らしいですね。
今日は日曜なので明日が待ち遠しいです。

では以後よろしく!!


再放送バンザ〜〜イ♪
投稿日 6月18日(日)01時07分 投稿者 そら☆ 削除

  再放送、最後までやるようですね。 よかった、、( ´o`) (ホ)
 過去こんなに考えさせられた、感動したドラマは  自分の中でありません
でした。本放送を見ていない友人達のためにも、最後まで放送して欲しいと思
ってたから、、、、嬉しいっ♪  あぁ、、早く『僕の名前を当てて』が見た
いっ!!!!!!!! うぅぅ、、、待ち遠しい、、ヾ(@^▽^@)ノわはは


反省と感動
投稿日 6月18日(日)00時24分 投稿者 七虎 削除

再放送で初めて、見ました。毎回、感動しています。こころにズ−ンと響いてきます。野島作品の主題曲は過去のちょっと捻った名曲が多くて、放送当時、ジョンレノン ファンの僕は「とうとう、ジョンレノンまで手をだしやがった」と見もしないのに、毛嫌いしてました。テレビドラマは女性視聴者の受け狙い(スポンサーターゲット)の馬鹿なトレンディ−ドラマだと偏見を持っていました。今回、この再放送を見て、テレビドラマもただの消費される娯楽作だけじゃなく、人のこころに何かを残す、忘れられない作品もあるのだと知りました。普段、ドラマを見ない人にも見てほしい作品です。ただ、他の野島作品と比べ、視聴率が低いのは残念だな〜。最後に、ジョンレノンの曲は、この作品の主題に合って、大切に使われていると思います。


再放送続け
投稿日 6月17日(土)15時18分 投稿者 マクベス 削除

世紀末の詩が好きな人って結構いらっしゃったんですね。同志を見つけた思いです。私も大好きで、今回の再放送は一日千秋の思いで待ってました。2年間は長かったです。
山崎努の教授がいい味出してますよねえ。
第9話「僕の名前を当てて」が待ち遠しい。それにしても大沢たかおのイメージもさいきんずいぶんかわってきましたね。


はじめまして
投稿日 6月17日(土)14時51分 投稿者 羽夢君LOVE 削除

はじめまして。
四月にビデオ全部借りて見たばっかりなのに、早速再放送がはじまりちょっとショックな羽夢君LOVEです。
いやいや、世紀末の詩にこんなに感動している人たちがいるなんて世の中捨てたもんじゃないですね。
僕も見るたびに愛について考えながら泣いてます(いままでドラマで泣いたことないのに)。
これからもちょくちょく来ますのでみなさんよろしくお願いします。


再放送・・・
投稿日 6月17日(土)09時54分 投稿者 中学生 削除

はじめまして。再放送を見て、えらく感動しました。
「この世の果てで愛を唄う少女」から
毎日かかさず見ています!!本当に感動しています。
いやあ、これからよろしくおねがいします!

ああもう!学校中なのでここらでおいとましまーす。


4話 せつない
投稿日 6月16日(金)22時43分 投稿者 カレン 削除

ホームレスだった育てのお父さんは羽夢を手放した。お金持ちの方が羽夢が幸せだろうと思ってしまった。彼は愚かすぎる。人生放棄者だったが羽夢を育てようと立ち直った。すばらしいことだ。人間として強くなったと思ったが産みの父という障害が現れると諦めてしまった。羽夢が自分を必要とし探し回るだろう事をわかっているのに。いずれ羽夢もわかるだろう。彼が無気力の世界に戻りたかっただけということを。2人で幸せと思っていたのも羽夢1人の努力の賜物だったということを。生きる力のない人間につかの間の活力を与えただけ。全身全霊で愛されていたのでない。親子以上に愛していたら心配でたった今現れたような人間に託さない。お金があろうとね。愛していたら自信がつくはずだから。自分といた方が幸せと確信として湧き上がってくるから。親子以上に親子らしいなんて嘘。世の中の大半を占める上っ面の愛と断言する。残念だ。1回目にみたときは泣いた。離れ離れかわいそうって。再放送を見て考えた。2人でいられたのに放棄してるって。わざわざツライ目をみてるってムカムカきた。以上。これをみてちがうよこれはほんとの愛だよって私に教えてくれる大人の特に子持ちの男の人。意見聞かせてください。


最後まで放送する様です
投稿日 6月16日(金)20時24分 投稿者 Coo 削除

 関東地方の皆さん、世紀末は最後まである様ですよ。
7話の後一回だけ違う番組がはさまって8話以降も放送するみたい。
それも最終回は2回にわけて放送されると聞きました。良かったですね!


最後まで放送して欲しい〜
投稿日 6月16日(金)17時18分 投稿者 おにゃんた 削除

何で再放送が中途半端で終わってしまうんでしょうねー。
納得いかないのでNTVにメールで問い合わせてみました。
何か分かるといいのですが…。


こんにちは
投稿日 6月16日(金)04時41分 投稿者 かがみ 削除

はじめまして〜
世紀末の詩再放送にあたり、熱がぶり返してきてネットサーフィンしたら
ここにたどり着きました。

皆さん再放送知ってたんですね〜(^^;
私は偶然テレビ欄を見て見つけました。ただし、すでに4話からでしたが(泣

世紀末の詩は、本当に大好きな作品です。
サントラCDも聴きまくっているくらいです。
こちらの再考察楽しみにしてますね(^^


シンプルさ
投稿日 6月15日(木)15時42分 投稿者 sign 削除

このドラマだいすき よくみるとつぎはぎだけど浅田次郎の小説みたいに

シンプルでやさしい 7話でおわりはさびしいけど だいすきな3 4 7
まであるのはありがたい 希望的観測だが29日から残りを放送してほしい


考察延期
投稿日 5月29日(月)03時29分 投稿者 taki 削除

本日の考察チャットはメンバーが病欠のため中止しましたー。
また、日付は御知らせしますー。

Dさん>はじめましてー。(^^)
うーん、でも自分のため「だけ」ってのとは
ちょっと違うんじゃないかなー?

まあ、「情けは人の為ならず」でしょうか。(古い。笑)

http://alived.com/autism/


はじめてでーす!
投稿日 5月26日(金)23時08分 投稿者 削除

こういう場があってうれしいなー♪
「世紀末の詩」はオレの見たドラマでは1番こぉぐっっときた
でもなぜか人気ない・・・
いろんな人に勧めたりしたんだけど・・・
だからオレ一人でもりあがってた
2話目からビデオに録画して本買って
ビートルズのCDまで買った(笑)

ところでオレは15歳の高校生なんで難しい感想は書けないけど
「世紀末の詩」を見て感じたこと・・・
それは「人間」の行動はすべて「自己満足」するためにあるということ
これは第9章の「僕の名前を当てて」のノストラダムス(?)の考えと同じようで
微妙に違う(かな?)
人間は生まれた時から自分にプラスになることだけを求めて行動している
一見他人のためにしていること・・・そう、たとえば愛することさえも
自分の利益にする、いや・・・自己満足できるから愛するのであって愛される・・
愛というのは自己愛でしかない
自分の手で命を絶つことでさえも、辛さから逃げるため・・・自分を守るため・・
そうするのが一番自分にとってプラスになるから・・・自分のため・・・・
自分を一番愛しているから・・・・
他人からみればとても哀れで虚しいことだが、それが人間・・・
だから愛する・・・他人のためじゃなく自分のために
「人間の愛はしょせん自己愛に根ざしているのかもしれない!
僕も結局は自分が一番カワイイのかもしれない!
だけど、僕が好きなのは、あなたを好きな自分なんだ!」
ずばりこれです 自分のためなんですよ愛するということは

まだ書き足りないようなー・・・
まっいっか♪
ここで終わらせることも「自己愛」なんだからねー☆


世紀末再考察の御知らせ。
投稿日 5月26日(金)02時33分 投稿者 taki 削除

第5話の再考察を5月28日(日)の23:00から行いますー。
希望者の方は、私にメールくださいー。
今回、初参加の方はここに感想書いてなくても結構ですー。

なにか、2話盛り上がってますね。(笑)
どこかのコラムで「視覚障害者は声の美人を探すか?」ってのがありましたね。
でも、顔を見た感覚がなかったら、初めに見た顔が美しいと「インプリンティング」
されるんじゃないかなー?
まあ、番組の設定ミスとみて考察では省きましたけど。(笑)

あと、パンドラの箱(壷)に残されたものは「希望」ではなく、
正確には「予兆(予知)」と言われています。
人が未来を知ってしまうのは、とても不幸なことだとされています。
まあ、これも設定ミスかなと。(爆笑)

2話は悲劇とは感じなかったんですよね。
痛みの共感はあっても。まあ、モテない男にはよくあることだし。(苦笑)
くわしくはバックナンバーをごらんください〜。
(ちょいと、わかりにくいところにありますが。)

PS:あ、別のドラマですが、TBSドラマ「君が教えてくれたこと」ファンサイト
もやってますので、よろしくおねがいします〜。
  ↓↓↓↓↓↓

http://alived.com/autism/


車椅子の恋
投稿日 5月25日(木)05時52分 投稿者 ルパン4世 削除

このドラマは、愛がテーマはずなのに、題名で、思いっきり「恋」と書いてますね。愛は、疑わないこと。恋は、信じること・・・
信じるってことは、少し考える。ちょっとでも、不自然なこと、違和感を感じることじゃないかな。1+1=2がなりたってない気がするなあ。むりやりって感じ。まあ、そうしないとやってらんない世の中なのかなあ。ちょっと寂しい気もするけど・・・「信じる」・・なんか聞こえはいいけどおいらん中では息苦しいね。じゃあ、疑わないってのは、う〜ん・・・例えば、受話器をとれば、「ツー」と聞こえてくるし、鏡を見れば、自分が、写るし、う〜ん・・・。当たり前のことじゃないかな。意識しないとゆうか。自然のこと。もし、おいらの友達に、「俺たち友達だよね?」と言うと、「当たり前じゃん。」と、あたりまえにかえってくる。じゃあ、これも愛??となる。そんな気もしないこともない。???今の子はみんな言うね。「あいしてる」と。ほんとに愛してるならば、こんなにメジャーじゃないとおもう。恋愛も「世紀末の詩」も。
こんなあいまいの中で、星野は愛していたんだろうか。逆に留美は愛していたんだろうか。対照的なふたり・・・でも、もとめるものは、ひとつの愛・・・
結果はわかっていたけど、凄く痛々しい、それでいて、凄い繊細な第5話。
こういうストーリーは、すきですね。こういうちょっとしたずれといいますか、いたずらですね。だれかの。
あと、くだらないんですが、ヒロイン役の人が、好きじゃないからこの第5話は好きです。まあ、愛とは、幻想・・・のような気がしました。



第2話
投稿日 5月21日(日)21時23分 投稿者 Coo 削除

鏡子はきっと香りのいい花やコオロギさんの製作した花火の美しさを想像したように、コオロギさんのやさしさに触れるうち、勝手に想像を膨らませすぎたのでしょう・・・
 でもね、コオロギさんだって鏡子が美人だから好きだったのかも―。なんて考えてしまうのはおかしいでしょうか?

 ギリシャ神話の「パンドラの箱」の話はよく知りません。
読んでみたらこの第2話はもっと理解する事ができるのかな。
パンドラの箱の底に残ったのは何故「愛」ではなく「希望」だったのでしょうか。


キャスバルさんへ
投稿日 5月20日(土)22時05分 投稿者 チョウ 削除

キャスバルさん、教えてくれてありがとう!
「パンドラの箱」の悲劇作品としての完成度は
ドラマ「世紀末の詩」の中できっと一番ですよ!
自分としてはレンタルするよりビデオごと買いたいくらいです。


チョウさん江
投稿日 5月20日(土)10時37分 投稿者 キャスバル 削除

『世紀末の詩』は下記の関連商品が発売されています。
(って、おいらは変な斡旋販売者じゃないですよ!あははは!)

@ビデオ:VAPより発売中・レンタル中です(全4巻) 各\8800
Aノベライズ本:ワニブックスより発売中です。 \1400
Bサウンドトラック:東芝EMIより発売中です。 \2854

第2話もビデオvol.1で見れますよ。
2話の『パンドラの箱』の結婚した夫婦の絶望について
百瀬が語った台詞には、おいらも打ちのめされました。
そして最後に、
「パンドラの箱の最後に残されたのは希望だった・・」
「なぜ愛じゃないんだ・・・」
はぁ〜・・・ため息とは言い難いものが出ちゃいましたよ。
まぁとにかく、レンタルビデオで借りてみてはいかかですか?


かってな意見ですけど・・・
投稿日 5月20日(土)10時26分 投稿者 LBM 削除

「人間はとても眩しい瞬間に、とても大事なものを見失う。」

おそらく鏡子は自分の顔がまぶしかったんでしょう。
だから美しいと思った。
そんなとこだと思います。


誰か教えて!
投稿日 5月20日(土)00時03分 投稿者 baby wolf 削除

第二話の再考察終わっているけど、どうしてもわからないところがあります。鏡子は眼が見えるようになって自分が美人だと気づいてコオロギから若い医者に乗り換えましたよね。ここで質問、鏡子はそれまでなにも見てこなかったのに、どうして「美」の基準があったのでしょうか?だって目に見えるものに対してなにも知識がないなら自分の顔が綺麗かどうかもわからないはずだし、コオロギを見たときだってすごくかっこいいって感じるかもしれないでしょ?自分は綺麗でコオロギはブサイク、コオロギの家はボロくて、泉<若い医者>との食事は豪華。これって「美」の価値基準をはじめからもっていないとわからないことですよね?でも「美」の価値基準があれば眼がみえなくても手でさわれば自分の顔もコオロギの家のこともわかるでしょ!?目が見えないと他の神経は鋭くなるっていうし。みなさんはどう想像しますか?

   


お願いします!
投稿日 5月19日(金)22時09分 投稿者 チョウ 削除

もう一度「世紀末の詩」がみたいです。
特に第二話の「パンドラの箱」が!
どなたか見る方法を教えてください!!


五話の感想
投稿日 5月17日(水)01時20分 投稿者 削除

出会ってから何度も、「笑って」と星野は留美に言う。
どんな顔をしていても、その人の中には、色んな顔がある。
泣いていても、不安に歪んでいても…必ず、「笑える自分」がいる。

留美が本当に信じなければいけなかったのは、星野ではなく、
自分の中に、笑える自分がいる、ということだったのではないだろうか。

本当に「こころ」を喪っていたのは、留美の方ではなかったか。
最後の瞬間、微笑んでいた星野は、まるで、
「君にもらった『こころ』を、返すね」と言っているようだった。
舞い上がった留美のスケッチは、すべて、笑っていた。

見た目、留美はいつも笑っているように見える。
「傷ついても、明るく振る舞うけなげな自分」に酔い続けて、
いつしか、「本当に笑う」ことを忘れていたんだろう。

演技で笑うばかりでは、こころは喪われたままだ。
(同じように、演技で泣くばかりでも、こころは喪われたままだ)
本当の意味では立ち直れず、いくら人を好きになっても、
同じことの繰り返しでしかない。

「今度こそ…でも、また騙されるかも」ということはすなわち、
「騙されても仕方がない自分」を肯定し続けることだ。

相手を…相手の愛を信じるのではなく。
まず、自分のこころと愛を信じるべきだった。
自分の中で眠っている、こころから笑える自分を…


削除ができない(T0T)
投稿日 5月14日(日)18時49分 投稿者 キャスバル 削除

一回目のカキコ誤字もあったんで消したいんだけど・・・
消せない・・・
ううう・・・
方法が間違えてるんだろうか???
誰か教えてくださいな。m(_ _)m


第5話の感想 「ぼくの愛も黄泉の国へ(笑)」
投稿日 5月14日(日)17時53分 投稿者 キャスバル 削除

『5話の感想』
少しピントがズレますが、まず三上博さんがゲストでててましたよね。
彼は桜井幸子さんと同様に野島さんのドラマにクッキリとした輪郭を
つけてくれる重要な人物だと・・・再度実感した次第です。
「この世の果て」のイメージが強くて、「リップスティック」では
ちょっと期待はずれ(言い過ぎかな!?)の感はあったけれど、
とにかく欠かせない人物のような気がします。
(まぁ「世紀末の詩」ほど全員ベストキャスティングのドラマは初めてだけど・・・)

んで、感想ですが・・・
いきなり結論言っちゃうと、
愛はトラスト・・・信じること・・・疑わないこと・・・
という方程式が最後に出てましたが・・・
僕は理解しがたいです。
これこそ愛を美化するロジックだと思うのです。
愛は本能だと思うから、自然と疑い、信じることもあるのだと・・・
それを言っちゃおしまいよ的な話になっちゃいますが・・・
オリフェウスは正しいと思うのです。

で、僕が最も共感できたのは、
「がらんどうの心」です。
人の痛みを感じることのできない心・・・
目が見えない。耳が聞こえない。のとはレベルは違いますが、
五感の一部欠落といっても過言ではないと思います。

僕もまた「がらんどうの心」を持っていたから・・・
(星野のような犯罪歴はないですけど・・・あははは!)
(この「がらんどうの心」は野島さんの一つのテーマなのだと思う。)
(野島さんのドラマにこの「がらんどうの心」は表現は違えどよく登場します。)

僕もそうであったように、
それを認知していながら、あたかも自分は悲劇のヒロインを夢見る。
他人の悲しみ・苦しみを見て、自分の感情を得ようとする・・・
悲しい心です。
それを誰もが気付いてくれないことが、わかったとき
初めて懺悔するんです。
だから星野は、絵描きになったんでしょう。
人の痛みを感じたい
その想いが絵描きという表現だったのではないかと。

痛みを持ち、人を信じることに打ちのめされたルミ・・・
痛みを感じ、人を信じなかったことを懺悔する星野・・・

この出逢いに意味があったんだと思う。

信じることなんて脆い自分の決め事なんだと。
信じようと決めた時にはもう既に疑ってるのだから・・・
ルミも星野に持ち寄ったのは愛ではなく、
恋だったのでしょう。
恋は一種の精神異常だから、いろんな引き金で
発病するものです。
あの出逢いがそうさせたのでしょう。

第5話で野島さんが伝えたかった主旨とは
少しズレてるかもしれませんが、
これが僕の感想です。
僕の心は歪んでるのでしょうか?あははははっは!!


第5話の感想 「ぼくの愛も黄泉の国へ(笑)」
投稿日 5月14日(日)17時44分 投稿者 キャスバル 削除

『5話の感想』
少しピントがズレますが、まず三上博さんがゲストでててましたよね。
彼は桜井幸子さんと同様に野島さんのドラマにクッキリとした輪郭を
つけてくれる重要な人物だと・・・再度実感した次第です。
「この世の果て」のイメージが強くて、「リップスティック」では
ちょっと期待はずれ(言い過ぎかな!?)の感はあったけれど、
とにかく欠かせない人物のような気がします。
(まぁ「世紀末の詩」ほど全員ベストキャスティングのドラマは初めてだけど・・・)

んで、感想ですが・・・
いきなり結論言っちゃうと、
愛はトラスト・・・信じること・・・疑わないこと・・・
という方程式が最後に出てましたが・・・
僕は理解しがたいです。
これこそ愛を美化するロジックだと思うのです。
愛は本能だと思うから、自然と疑い、信じることもあるのだと・・・
それを言っちゃおしまいよ的な話になっちゃいますが・・・
オリフェウスは正しいと思うのです。

で、僕が最も共感できたのは、
「がらんどうの心」です。
人の痛みを感じることのできない心・・・
目が見えない。耳が聞こえない。のとはレベルは違いますが、
五感の一部欠落といっても過言ではないでしょうか?

僕もまた「がらんどうの心」を持っていたから・・・
(あんな犯罪歴はないですけど・・・あははは!)
(この「がらんどうの心」は野島さんの一つのテーマなのだと思う。)
(野島さんのドラマにこの「がらんどうの心」は表現は違えどよく登場します。)

僕もそうであったように、
それを認知していながら、あたかも自分は悲劇のヒロインを夢見る。
それを誰もが気付いてくれないことが、わかったとき
初めて懺悔するんです。
だから星野は、絵描きになったんでしょう。
人の痛みを感じたい
その想いが絵描きという表現だったのではないかと。

痛みを持ち、人を信じることに打ちのめされたルミ・・・
痛みを感じ、人を信じなかったことを懺悔する星野・・・

この出逢いに意味があったんだと思う。

信じることなんて脆い自分の決め事なんだと。
信じようと決めた時にはもう既に疑ってるのだから・・・
ルミも星野に持ち寄ったのは愛ではなく、
恋だったのでしょう。
恋は一種の精神異常だから、いろんな引き金で
発病するものです。
あの出逢いがそうさせたんでしょう。

第5話で野島さんが伝えたかった主旨とは
少しズレてる気がしますが、
これが僕の感想です。
僕の心は歪んでるのでしょうか?あははははっは!!


この様な場がある事をうれしく思います
投稿日 5月7日(日)12時12分 投稿者 FTK 削除

はじめまして
そういえば『世紀末の詩』ってすごい好きだったけど
あんまり評価されなかったなーと思いだして、探してる内に
偶然ここ見つけました。

で野島氏のコメントとか読んで、このオムニバスが『愛』について
消去法を用いて構成されてる事になるほど、とOAを見ていた頃とは
年齢という事もあってまた違った感想を持ちました。

突き詰めて考えた結果
愛は永遠では無いと思いました
なぜなら人間が永遠じゃないからです

まずなぜ愛と人間を一緒に考えるかというと
人間だけが愛を理解できるからです、人間以外の思考することが
できない動物同士の間には愛はないからです。
動物間の間にも愛があると思うのは人間がそう思うからです
擬人なんです、正確には擬愛。
では結局愛とは人間の脳によって思考される幻想かというと
そうではないと思います。

昨今この愛についてあまりにも飛躍していって、様々に分岐してると
思うんですが、特に遺伝子的視点から語られる愛についてよく聞きます
そして遺伝子的愛というのはまさに人間以外の動物の愛だと思います
また好きという感情も遺伝的コンプレックスから生まれるものかな
とも思います。
が、人間には相手の気持ちを少しですが想像する事ができます
そしてそれを言葉によって確かめる事ができます。
でもこれだけでは人間の脳の思考力のもたらす愛であって
本当の愛とはいえない、最も大事な事は相手の気持ちが分かった時に
自分の中の何かが反応する事だと思います、教授風にいうなら
荒ぶる魂が引かれ合うですか、それが本当の愛だと思います。

愛とは人間の思考力+魂の引かれ合い

が人間の考えというのは移り変わる物というのが真理です
だからこそ人間は素晴しいとも言えます、無限大の可能性を秘めている
という事です。
そんな訳で生まれてから死ぬまで同じ考えの人なんて存在しないように
愛は永遠ではないと思います、だからこそ素晴しい無限性を秘めている。


おしらせー。
投稿日 5月6日(土)11時19分 投稿者 taki 削除

5月末の週末に5話「車椅子の恋」の再考察を行いたいと思います〜。
参加希望の方はここに感想を書きこんで、私にメールください〜。

http://alived.com/autism/


第4話 星の王子様
投稿日 5月4日(木)23時21分 投稿者 tomo 削除

 もう既にここに出てくる愛の形については教授が語ってくれているので、付け足す必要はありませんが、このストーリーの重要なテーマとして考えています。この作品の中で親が望む子の幸せと、子供が親の希望に応えたいと思う心が一見合致しそうなキーワードではありますが、現実の中で、いかに難しい問題であるのかを明確に浮き彫りにしてくれたと思っています。
 その他にも、現在の中学生の退屈と言う名のヴァーチャルの中で葛藤するあらぶる魂について、羽夢の未来について、傷ついた鳩などいろいろな現代社会の問題にリンクしていく作品であるといえると思います。 
 私の個人的な感想としてこの父親像は大場守とオーバーラップします。


ハムのアップリケ
投稿日 5月3日(水)00時06分 投稿者 すする 削除

ハオ!
羽夢役をされた真柄佳奈子さんの1ファンです。
感想文は小学校の頃よりず〜っと苦手なので、問題提起で参加させて下さい。

1.死神として設定(?)されたミアは、第4話で傷付いた白鳩を介抱し大空に放ったり、
羽夢の運ばれた病院への入室を拒んだりし、他話とは異質の行動をするのはなぜ?

2.徹(義父)にとって羽夢は'生きがい'だったのでしょう。
しかし、羽夢を愛する(親子愛?)がゆえ羽夢の将来を考え身を引いたように見えます。
これも結局は自己愛に基づく行動だったのでしょうか?

3.スキャンダラスな過去を持つ羽夢の政治家生命は前途多難では?

4.百瀬や野亜が新聞を取っていた理由は?

http://www.friend.ne.jp/myweb/hanamizu/


投稿日 5月1日(月)07時52分 投稿者 taki 削除

世紀末の詩4話感想。

傷ついていた鳩をひろったミヤが最後に鳩を空に放つ。
4話は「旅立ち」なんだろうか?

教授と由佳も親子の愛情の間で揺れる。

羽夢は山内の期待に答えようとした。
子どもが愛されるためにする行動は見ていて物悲しい。

人生に何の意味も持ち得なかった山内。
赤子の羽夢によって力強く「生きる力」をもらった。
しかし、山内は羽夢を手放してしまう。
羽夢に押し付けていた勝手な期待を撤回するように。
そして、羽夢を失い生きる希望も見失ってしまう。
自分の人生を子どもに押し付けていたことに気がついたのだろうか?
羽夢は山内の「生の欲求」の代弁者だったのだろうか?
手放したのは子どもへ愛情のありかたを正しく受け止めたからか?

PS:谷啓さん、演技うまい・・・。

http://alived.com/autism/


おいらのバイブル
投稿日 4月30日(日)16時34分 投稿者 キャスバル 削除

はじめまして、キャスバルですぅ。
いつのまに再考案なんて始まったんでしょう?
久しぶりに覗いたら、ビックリ(*o*)

でも、ほんと「世紀末の詩」は、今でも「おいらのバイブル」として心に刻まれてます。
(はじめは、また2番煎じのドラマかなっと思っていたけど・・・)
ほんとドラマなんて枠におさまらないよ!
所詮、自己愛に帰結するであろう自分がこんなことをいう分際でもないが、
簡単に「愛してるよ」なんて言い合う連中がわんさかいることに
ほんとウンザリする毎日だった。
その真意なるものを見たいからこそ・・・言えない言葉なのに・・・

でもこのドラマ見て最後に妙な感慨が残った。
「わからずや」ばかりの世界でもない。
自分の手首の試し傷を見ながら思いっきり泣いてしまったよ。
自分も愛を否定してきた人間だったと・・・

あははははは!なんか、暗いカキコになちゃった(^^;)
もう過去の話だからね。アルバムのように開けない過去!あはっはは!
でも、おいらもそのチャットに参加できたらいいなぁ〜。
今月はムリっぽいけど、
来月は参加しようかな。
また、カキコしに来ます!

じゃあ!
キャスバル≡☆キラッ(赤い彗星)でしたっ♪


4話の感想
投稿日 4月29日(土)03時19分 投稿者 削除

「愛」といっても、4話で語られる愛は、「肉親」ではない「家族愛」である。
血の繋がりのない家族に、愛情による絆は存在するのか?

オムニバスとはいえ、毎回前話からひきつがれる「想い」…
今回のそれは、「喪いたくないが故の檻」だろうか。

「親」は、「子」を、自分とは別の人格、属性だと認められたときに、初めて、
本当の「愛情」に到達できるのかもしれない。


愛について
投稿日 4月26日(水)14時28分 投稿者 野明 削除

 愛にはいくつかの種類があると思います。
一番分かりやすいのは「その対象のそばに居たい(物理的or精神的)と言う願い」ではないでしょうか?例えばいわゆる「愛の告白」というのはこの手の愛でしょう。この種の愛は自己満足につながって行く可能性もありますし、決して永遠を保証するものではないでしょう。ただ、感情部分に直結している分だけパワーはあると思います。
 一方別の種類の愛もあります。この愛は次のように言い換えることができるかもしれません。つまり「ある種の原則に則し、対象の益や福祉に対して関心を示し、その益や福祉の充実のために積極的に働きかけようとする動機」ということです。 この愛は前者よりも理性的ではありますが,決して客観的なものではない。相手の福祉とは何かについては思いっきり主観が効いてきます。この場合問題になってくるのは一体どういう原則(行動の指針となるもの)に則しているのかということです。その原則によってはこの[愛」は崇高なものにもなれば醜悪なものにもなり得ます。
 例えば教育ママは彼女自身は子供のためを思っているでしょうし、その思い自体にうそは無く純粋なものかもしれません。(見栄のためという場合は除きます。)また、いわゆるカルト宗教にはまって勧誘活動に必死になっている人たちもそうでしょう。彼らの思いには不純なところは無いかもしれない。でも、彼らの行動を迷惑だと感じる人が居るというのもまた事実です。
 その一方で例えばマザーテレサが示した愛もあります。彼女がどういう「原則」に則していたかは皆さんはご存知のはずです。そして彼女の行動に全世界が涙したのではないでしょうか? 
 教育ママやカルト信者の「愛」とマザーテレサの「愛」はどこに違いがあるかと言うと彼らを動かしている「原則」です。その原則が「普遍的」なものでない場合、この社会においてその種の愛は受け入れられないものとされることが多いようです。教育ママの「学歴信奉」もカルト信者の「終末論的世界観」という原則も、別の「原則」に従って生活している人にとっては無意味であって、その原則に基づく「愛」は醜悪なものと言われるかもしれません。一方、マザーテレサの「不利な状況にある人のために自分を役立てたい」という原則に基づく「愛」は崇高なものとして評価されるでしょう。
 野島氏のドラマで問題になっていたのは恐らく,前者の「愛」が、つまりその原初的なパワーが永遠たり得るのか?また、後者の愛における「原則」が「無私」の純粋なものであり、その「愛」の表明が対象(もちろん他者)の永遠の福祉と益につながっているのか、といったところではないでしょうか?


4話再考察チャット。
投稿日 4月26日(水)08時45分 投稿者 taki 削除

5月のGW中に4話の再考察を行いたいと思います〜。
参加希望の方はここに感想を書きこんで、私にメールください〜。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


「世紀末の詩」3話再考察。
投稿日 4月18日(火)06時15分 投稿者 taki 削除

延期していた「世紀末の詩」再考察(3話)を今週末に行いたいと思います〜。
日程は金曜か土曜のどちらかで、参加希望の方はここに感想を書きこんでから、
私にメールをください〜。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


愛と死について
投稿日 4月6日(木)02時18分 投稿者 院生23 削除

      ハローベイビー
    ピクニックに出掛けよう
  不格好なお握りまんまる頬張って
    僕はやさしくなれるだろう

愛美にとって冒険すること、愛を得ることは
自らの命を代償としても
踏み込みたい領域だったのだろう。
いや、もしかしたら
命が燃え尽きる瞬間、空間のみに
愛は発生存在し
そこに留まるのかもしれない。


えーとですね。
投稿日 3月26日(日)19時02分 投稿者 taki 削除

世紀末の詩3話の考察チャットは4月に延びました。
希望者の方は参加してくださーい。
連絡はここのBBSに書きこむかふみさんか僕にメールください。

ではよろしくですー。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


世紀末の詩大好き
投稿日 3月26日(日)00時10分 投稿者 Coo 削除

 はじめまして。私も第二話参加したかったです。
最後の四行詩
 
 ハローベイビー
 僕はいつも不思議だね
 人は見えるものを欲しがるんだ
 いずれ自分は消えていくのに

 これには「そうなんだよね」
と妙に納得してしまいました。
あ、ごめんなさい。第3話の月でしたね。
3話は全ての物語の中でいちばん残酷に感じました。
「愛」という意味で考えても凄く難しいテーマだったように思います。


世紀末の詩・再考察ですか(@_@!
投稿日 3月25日(土)02時06分 投稿者 いでっち 削除

しばらく伺っていないうちに、世紀末の詩@再考察という
企画が始まっていたとは!

野島さんの作品では、世紀末と美しい人が特に好きなので、嬉しいです♪
...パンドラの時に参加したかったな。。。(笑)

車椅子かコッペパンの時あたりに参加できればいいかな?


第3話は...。
投稿日 3月24日(金)23時24分 投稿者 ミルザ 削除

 第3話は世紀末の詩である意味では憧れに対して強く思う
内容だったのような気もしました。
「太陽とひまわり」の関係を主に中心として...。
 特に印象深かったのは里美先生が夕焼けを見つめてるシーンに対して
マナミが星の輝く夜空で海に愛を誓うシーンなどは特にそう思いました。
 里美は小学校の時から活発に動いたり、学級員を任されたり、
野亜からの想いなど自分(マナミ)の求めている物を全て持っている
彼女に対しての憧れがありありと出ていたと思います。
いつも太陽の方を見るひまわりのように・・・。
ラストのシーンのひまわりはそれを
もっと強くしているような気がしてなりません。

また、欲しいものがあっても自分には決して手に入れられない物
があった場合にそれに近い物で代用とさせようとした父親の行為
(擬似恋愛)に対して里美が「お母さんが生きてらしたらきっと...。同じ女として...。」
という言葉とっても残酷なように思えてなりません。
もし、母親がいたらいったいどういった行動をとっていたのでしょうか?


3話の感想
投稿日 3月23日(木)21時30分 投稿者 ribon 削除

ちょっと難しくて・・・葵さん、takiさんのように、深く考察できてません。
ただ、愛美になぜかフシギと暗さを感じなかった。最後の儀式をなぜか美しくさえ
感じられる、自分がフシギでした。
 チャット参加したいので、誘ってくださいね!


3話の感想
投稿日 3月23日(木)19時49分 投稿者 削除

「もしも君が、それを、愛と呼ぶなら」…
野亜はそう言う。

彼が泣きながら走ったのは、彼女を止めるためだったのか。
それは、最後まで、彼の中でも整理が着かないことだったと思う。
まるで神々しく輝く絹の繭のような白い布を脱ぎ棄て、走り出す彼女を見るまでは。

----
「死んで欲しくない」と望むことを咎められはしない。
だが、「生きる」ということは、ただ「死なないこと」=生命を永らえること、ではない。
「父」である彼には、最後まで、それが判らなかったのかもしれない。

朝も昼も夜もない世界では、過去は一瞬に過ぎず、未来は永劫に続くだろう。
人と触れあうことのない世界では、思考も論理も、自分だけのものにすぎず、
やがてはそれがすべてになっていく。

彼はそうして、彼女を守っているつもりの砦の中で、
彼女に、自分の現状への恨みと、外界への憧れだけを植えつけてしまった。
今の自分を肯定し、そのままで生きる事への模索を、させなかった…。
そこには、「生への渇望」がなかったと同時に、「死への願望」もなかっただろう。
手首の躊躇い傷は、おそらくは、
自分をこの世に送り出した両親への抗議行動だったにしろ…

生がないところには、死もまた、存在しない。
だから、彼女のあの行動は、自殺ではないのではないだろうか。

「愛したかった」と彼女は言う。
だが、愛とは、誰かに認めてもらわなければ、受け止めてもらわなければ、
虚しく霧散するものなのかもしれない。
だから、彼女は「肉体の死へ身を投げ出すこと」を選んだ。
「生きたい」と願う人々にとっては、「死をも厭わない」彼女のその行動は、
おそらく、「すべて」を賭けて野亜を愛した証明になるだろうから。

あの瞬間、彼女が美しかったのは、初めて、「生きた」からだろう。
「死」を意識した行動は、「生」をくっきりと浮き上がらせた。
「消極的な死」の中から抜け出し、軽やかに「生」へと飛翔したのだ。
だから、彼女のあの行動は、「自殺」ではありえないだろう。

余談だが、白い布は、太陽の光と熱は反射するものの、
紫外線は通すと聞いたことがある。意味ないやん(笑)

http://alived.com/aoi/


死と再生。
投稿日 3月22日(水)23時46分 投稿者 taki 削除

3話の感想。

ヒロインの愛美。この存在が僕は一番興味深い。

日の光と相容れないという、生きることに大きく制限がある状態で、
愛をそばに感じ生きたかった愛美。
それは悲しくも愛し愛されたかった願望のみの所業だっただろう。
しかし、それはあくまで願望だ。中身を知らない。

そして、愛美は自殺願望者ではない。
彼女は日の下に出れず、そのため暗闇から1つの真実を知っていた。
それは「存在の虚しさ、空虚さ」だろう。
そして自分の存在にさえ執着していなかった。
なんの希望も持てない存在であったから、絶望、失望さえもなかった。
そんな者が自殺という衝動があるだろうか?

彼女はドラマの最後、魂の牢獄のような状態から脱皮するように
自ら「儀式」をとりおこない旅立っていった。

穴蔵のような場所で一生を終えることを、日の下に生きる者からみれば
不憫だろうが、本人にとっては当然のことだ。
教授が最後に憤慨してカーテンを破り捨てたのは、
その、なにも望みを持てない状態で、なにも感じていなかった彼女に
誰も何もあたえることなど出来ない、消え行くことしかできない
存在のはかなさに憤ったのではないか。

ただ、彼女は愛に依って

「生まれ変わりたかった」

のだと思う。

彼女はそれを叶える為に「再生の儀式」を選んだ。
ひまわりのビデオは来世、または再生後の自分を思い描くために見ていたのだろう。

しかし、ここで問題は愛美の存在の特異さである。
それを考えずに、心情を理解するのは難しい。
生の執着が強ければ強い者ほど、死への恐怖は強い。
執着が強い者から、執着しない者の心は決して見えないだろう。
誰もが「生きていたい」と当然のように感じるだろうと思うのは間違いではないか?
そして誰かが引きとめようと、自己の存在が希薄にしか感じれない者に
「強く生きろ」と言うことはちゃんちゃらおかしく、滑稽である
そんなことは言葉を発した者が、自分に向けて言ってるだけのことだろう。


野亜は母性から生じる愛を求めていた。
愛美の「相手を見ていない愛」は野亜を息苦しくさせていくだけで、
彼は愛美をうとましくとしか感じなかった。

そして、愛美は愛し方を知らなかった。
だからこそ、盲目の愛で野亜を愛した。
いや、野亜じゃなくても、だれでもよかったのだろう。
自分が誰かを愛してると感じれる状態があれば。
当然、愛美は野亜のことなど見ていない。
興味もないだろう。
「誰かを愛する自分」が彼女に必要だっただけだ。

しかし、男として盲目に愛されることは心地良い。
だが、それが女にとって男など誰でもよかったと
知るまでのことだが。

ただ愛を体感したかった。そして、自分の存在を今の状態から
変わることを強く望んでいた。
そこには生死の執着はなく、1歩を踏み出す「ねがいごと」が必要だった。

そして、命を滅ぼし、相手の記憶に留まることで
相手の愛を獲得し、愛を実現できると思った。

完全に幻とは知らずに。

また、悲しく、みじめだと思っている自分の運命を呪い、
それに終止符を打つべく、愛を利用したのかもしれない。
ある意味で脱出、再生、羽化のためへのモチベーション。とも思う。

そして、生きることに執着しない、いや執着出来なかった
愛美を僕は好きだ。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


お。
投稿日 3月16日(木)00時49分 投稿者 taki 削除

今週のHEY X 3に3話のヒロインの小田エリカが出てた。
(HAIR CUTSと出てた。同一人物だと思う…)
ちょいと太ってましたね…。
でも、タイムリーっすねー。
考察は下旬ですー。(^^)

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


はじめまして!
投稿日 3月4日(土)07時44分 投稿者 uNA 削除

はじめて書き込みさせていただきます、ウナともうします。
ようやくたどり着いた。。。
ずっと世紀末の詩に関するサイトを探していました。
やっとみつかったよー!すごくうれしい!感動してます!
でも、とりあえず今日はもう寝ます。徹夜なものでして。。。
今はもう頭が働かない。。(^^ゞ

絶対また来ます!それでは!
(こういうのは、メインのBBSに書き込んだ方が良かったかな。。。)


おねがいします。
投稿日 2月29日(火)06時25分 投稿者 taki 削除

ribonさん、参加ありがとーございます。
リアルタイムじゃなくても、ビデオで見ていただければ結構ですよー。
管理人が帰ってきたら、日付が決まりますので、それまでに
3話の感想をここに書き込んでおいてください。
それでは、よろしくおねがいします〜。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


第3話考察チャットに参加させてくださーい
投稿日 2月27日(日)01時36分 投稿者 ribon 削除

第3話考察チャットに参加させてください。どうぞ、よろしく。
私は「世紀末の詩」をリアルタイムで見ていないのですが、
がんばります。


パンドラの箱<真実の愛
投稿日 2月26日(土)21時54分 投稿者 削除

鏡子が去り、ひどいというのはどういうこと?自分がどんなに醜くても鏡子はいずれ去ることになったんじゃない?感覚あっての理性なわけだし。自分の可能性をもろに信じてるあたり、鏡子がこうろぎさんを愛する可能性はないと思います。こうろぎさんは追いかけなかったからこそ、ああやってチクタクやっていけるんだと思います。真実の愛は感覚40%、理性60%ぐらいのものなんじゃないでしょうか。いや、さんしちぐらいかな。


美しいものを美しいと感じること
投稿日 2月21日(月)13時58分 投稿者 ゆき.O 削除

みずほさんの書き込みを読んで、新しい視点に気が付かされた。

美しいものを美しいと感じ、美醜で物を判断することは自然なこと。
美しいバラは美しいからこそ、人間は、守り、育てようとする。
美しさという付加価値は、植物が身につけた生き残るための手段。
同じように・・・
動物の赤ん坊は「かわいい」からこそ他者の庇護意欲をそそる。
くじゃくのオスは美しさでメスを惹き付ける。

人間も「自然」の一つなら、美醜の判断基準を持つことは自然そのもの。
もし「真実の愛」というものが存在するならば、
それは「自然」とは対立する・・・人間だけが持ちうる価値基準。

でも、それは本当に「真実」というものなんだろうか・・・


シンデレラの不幸
投稿日 2月18日(金)13時56分 投稿者 みずほ 削除

シンデレラは、もともと美しい娘だった。
普段は意地悪な姉達により、みすぼらしい格好を強いられ、いじめられ、こき使われていたシンデレラも、魔法によってきらびやかに変身を遂げ、王子の目にとまったという。
王子は、シンデレラの大変な「美しさ」に目を奪われた。夢中になった。

では、コオロギは?
彼は、鏡子のどこに惹かれていたのか。
鏡子もまた、シンデレラ同様、美しい娘だったではないか。

人間は、目が見える以上、「目に見えるもののカタチ」というものが、個人の「好み」や「趣味」の判断材料となりうる。
(言うまでもないが、健常者にとっては、それを自分でも気づかないうちに、「ごく当たり前のこと」として、生活している。)
『スキ、キライのひとつの判断基準』
それが鏡子には備わっただけのことだ。

視力という、これまでの彼女に欠けていた「好みの判断基準」が備わったとき、彼女の価値観は変わってしまったのかもしれない。
だとすれば、彼女自身が、「変わって」しまったのだと言っても過言ではないのではないか。
もう、そこにはコオロギの求める、コオロギ唯一人を頼りにし、そしてまた、コオロギだけを求める、鏡子の姿はない。

もしも、鏡子が「美しい」娘ではなかったとしたら?
もしも、シンデレラが、「美しい」娘ではなかったとしたら?

はたして、王子は、彼女にどれほどの興味をもっただろうか。
彼女に、「魔法の奇跡」は起きただろうか。

人間の、「美しいカタチをしたもの」に惹かれるココロは、誰も否めない。
しかし、そのせいで、人は一体どれほどの「カタチない真実の美」を見逃してしまっているのだろうか。


テーマにあわなくてすいません
投稿日 2月18日(金)01時26分 投稿者 山本 削除

全体的に野島作品は女性に
どの様に評価されているのでしょうか
基本的に理論的な考え方というものを
大くの女性は肯定しないと思うのですが


第2話の感想  注)長いです(^^;)
投稿日 2月14日(月)02時55分 投稿者 削除

野亜の、「ひどいじゃないですか」というセリフに惑わされ、
ともすれば「鏡子の裏切り行為」に目を奪われそうになるが、
この回の命題は、そこにはないような気がする。

私はそれよりも、
「人間はとても眩しい瞬間に、とても大事なものを喪う」
という教授のセリフの方に気を惹かれていた。


障害を持つ故に受けてきた被害…
それは、鏡子が美しかったにもかかわらず、
いや、それゆえに殊更、彼女を傷つけるものだったに違いない。

そうして、悲観と諦念の中に埋没し、
「人」を信じられなくなっていった彼女を救ったのが、
興梠の切々たる真情であったのだろう。

だから、鏡子に視力がなかった時、彼女が信じていたものは、
ただ、興梠の真情のみ…すなわち、目に見えない強い想いだった。
そこにある価値基準は、「自己」に主眼を置いたものではない。
「他(すなわち周囲)」が健常であり基準である、という前提がある。
(自分は普通ではないのだから、ここまで親切にしてくれるなど普通ではできない…という前提)

しかし、鏡子が視力を得た時…
そこにコペルニクス的転回が起きた。
価値基準が「他」から「自己」へと、180度転回したのだ。

その時、すべては反転した。
自分は若く美しい…そしてすでに、障害者ではない。
哀れまれるべき弱者ではないのだ。
だとすれば、ただひとつ、注がれる真情のみにすがる必要もない。

そうして彼女は、「とても大事なもの」
…目には見えないが、ただ信じるに足るただひとつの真実…
「興梠の真情を信じる自分」を喪ったのだと思う。

「とても眩しい瞬間」…その時人は、「見えている」のだろうか?
目を眩まされて、なにも見えていないのではないのか?

眩しい光を感じて(他よりも自己を見つめすぎて)、
すべてが見えていると錯覚し(すべて手に入れていると錯覚し)、
実は(自己以外の)すべてを喪っているのではないのか?

だとすれば、暗闇の中、差し出された手にすがり、
自己よりも他を思いやった時、そこに愛は交流する
(とても大事なものを得る)のではないのか…?

私は、興梠と鏡子の姿に、そんな感想を持った。


愛の実存性。
投稿日 2月14日(月)00時44分 投稿者 taki 削除

「そんなことはない!愛はあると言えっ!」
野亜は叫んだ。
胸に刺さる言葉だった。その後に「願望」が入っていたとわかっても。

愛は見えない。ならば、目の見えない者に愛は見えるのか?
そして、鏡子は目が見えるようになり、愛が見えなくなった。
いや、欲望によって感じる心を失ってしまったのだろうか?

しかし、鏡子はなぜ一番最初に自分の貌を見たがったのか?
コンプレックスがあったから。だけで片づけられるだろうか?

愛を論じるにはお互いの心の傷のつつきあいが必要なのかもしれない。
教授と野亜もそうだった。愛を問うことはまるで、人間の価値、
生まれてきた価値を問われている様なものなのかもしれない。
下手をすると傷つけ合うだけになってしまう。
だが、僕は傷つけ合うことに快感は覚えないのであしからず。(笑)

けど、看護婦のナンパシーンを見て、
あ、野島さん、ナンパ下手だな。(くすっ)
と思いました。(冗談ですよ〜。笑)

本放送の時にもパンドラの箱(もしくは壺)の解釈は出ていましたが、
愛ではないことはあたりまえだろう。
なにしろ最後に残ったのは最大の厄災だったと言われていたのだから。

(引用:◆パンドラの箱(←Pandora's box)〔外来語最新事典〕
《ギリシャ神話》ゼウスがパンドラに与えた箱。これを開くと,なかから人間の
罪悪のすべてが飛び出していって,あとには希望(未来の予知能力。予兆ともいわれる。)
しか残っていなかったという。「予知不可能な困難を蔵したもの」の意に使われる。)

美人は男を理解する。
なるほど。冷静に対象をみれるからだろう。
恋愛は「狂気」なので冷静さが重要なのだろう。

目の見えなかった者には物の形の美醜はわからないはず。
主題は鏡子の心変わりなのだろうが、感想としては
「自分のためについた嘘」が醜く反感を買ったのではないだろうか?
みんなが自分の為だけに行動することを抑制していることに対して
素直に行動した鏡子に嫌悪感を抱いただけでないだろうか。

巨乳のはるみちゃんが気になる・・・。

うーむ。今日のところはズリセンこいて寝ますか。(笑)

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パンドラの箱〜本当に大切なものを〜
投稿日 2月11日(金)16時31分 投稿者 kiku 削除

とめどなく流れる涙。そして自分に問いかけた。
大切なものを見失わないでいられるだろうか、と・・・
いや、失いたくないと強く感じた。

教授が亘に話す「サービス」
自分より小さな人間を貪欲に探し、人間の価値を
表面で判断しようとする心の貧しい人間。
ふと気付くと見え隠れする卑しい心。

教授のセリフは、毎回ドキッとさせられる。

パンドラの箱に残ったものは希望。
「なぜ愛ではなかったのか、この世に愛などないのか!」
そんなことなど考えたこともなかった私の心に
強烈に響いてきた。
いや、きっとある!
希望・・・希望があれば人間は生きていける。
前へ進んでいける。
愛はある、そう信じたい!いつしか亘の思いに重なっていく。

コオロギさんの心を殺した哀しみのパントマイム・・・
それにかぶさっていくエンディングの二人の出逢いの映像の美しいこと!
演出も素晴らしかった。

余談だが、野島さんのコオロギというキャラクターへの
思いも感じた。
詩集に「コオロギ」シリーズがある。
醜い自分が嫌われるのを恐れて、彼女の前から姿を消すコオロギJr.
それを知って治った目に硫酸をかける彼女・・・

人間の持つコンプレックスからくる相手を信じ切れない思い。
表面ではなく、内面で見てくれる人を求めたいという思い。
見えるものと見えないもの・・・何が大事なのか・・・
そんなこだわりを感じさせられる。

このシリーズはまだ続いている。


2話に思うこと。
投稿日 2月8日(火)16時38分 投稿者 ゆき.O 削除

え〜表題はまだ更新されてませんが、2月になりましたし、
2話の話をさせていただきま〜す。
2話といえば!
今ストーリーを振り返ってきたんですが、この話こそまさに「愛とは何か?」を
ストレートに考えさせられる話でしたね。
私はひねくれものなので、確かこんな感想を持ちましたっけ。
「これが男女逆だったなら、男の心変わりは許されてしまうのでは」
「それなのに女性の心変わりは許されないなんてなんか変」

私はほんとのこと言って、自分の容姿にからっきし自信がありません。
だから、もし、自分がコオロギさんの立場だったら・・・というのをつい考えてしまうのです。
すてきな男性のためにがんばって。
だけど、見えるようになったあと、男性が自分のところから去っていってしまっても。
自分だったら「悲劇の主人公になんかなってたまるか」と思います。
いや〜多分に私情が入った感想になってますな・・・(^^;)

鏡子をひどいという男性に聞いてみたかった。
「あなたなら心変わりを絶対しないって言い切れますか?」って。

私の意見を言わせてもらえれば「絶対」なんてありえない。
でも、それでも・・・私がコオロギさんだったら、
行ってしまった鏡子さんを、笑って見送れるくらい
自分自身が強くなりたい、と思います。


お久しぶりです。
投稿日 1月30日(日)22時55分 投稿者 ゆいと 削除

一話のタイトルって元ネタあるんですかね。
僕はどうしても「ユーノ?」とか思ってしまうのですが。

こういう見方はよくないかもしれないですが、
一話に幽霊話を持ってきたのは重要だと思います。
最初が幽霊ならあとは何が起こっても不思議じゃないですから。
ノストラダムスだろうが死神だろうが(笑)。
そういえば豊川悦司さんと加藤あいさんの
幽霊恋愛ドラマ(?)もおもしろかったです。

関係ないけど、「無限のリヴァイアス」というアニメを
いまテレビ東京でやっているのですが、野島さんが好きな人ならおすすめします。
アニメなので対象年齢は中高生ですが、人間の極限状態を描いているようです。
それがテーマではないのかもしれませんが、
この間は14歳の女の子がレイプされてしまいました。
夕方6時のアニメでそれは・・・   ちなみに水曜日です。


世紀末の詩〜プロローグ
投稿日 1月28日(金)23時38分 投稿者 kiku 削除

とても不思議な世界に入り込んでしまった、という印象でした。
実は初めは、適当に見ていました。(笑)
でも亘の「世の中には偽者が多すぎる!」に反応し、
「終わらないのが愛だって、変わらないのが愛だって」
と叫んでいるところにいつしか引き込まれている自分がいて・・・

そしてエンディングでは自然に涙が・・・
再度ビデオをまわし、じっくり見てしまいました。
幽霊のすみれの思いに共感してしまった亘。
悲しみの心が合わさってしまったのでしょう。
すみれの恋人に会いに行ったときのショックと言ったら!
死んでもなお恋人を思うすみれなのに、忘れてしまっているなんて・・・
さらには「悪い想い出」という意識・・・現実はあまりにも悲しすぎました。
亘は又自分を重ねていきます。
一度も振り返らずに好きな人の元に走り去っていった婚約者の姿を・・・

せめて少しでも救われたかったという気持ち。
でもそれはあまりにも残酷に打ちのめされていったのです。
教授のシビアな発言でも、現実を見せつけられていきます。
哀しいくらいに・・・

もう、黄泉の国に連れられてもかまわない。
愛と勘違いをしていた情けない自分だから・・・
自分のために泣いてくれたすみれのためならば・・・
すみれの思いに、終わらない、いや終われない愛というものを
少しでも見た気がしたから・・・
それでもなお、愛を求めたい強い心。
これが亘にはあったのです。すみれもそれを感じた。
だから連れてはいけなかった。

「君もそうならついておいで」
はい、ついていきます。
そんな気にさせられてしまいました。
本物って何だろうか、そんなことを思いながら・・・



超常現象と愛=人間離れ?
投稿日 1月28日(金)03時03分 投稿者 taki 削除

正直に感想は難しい。ドラマのあったことの羅列になりそうで。
とりあえず、世紀末の詩って番組の最初は軽く、
ときどき重い展開になりつつも軽いギャグを挟んでいく。
これがまたリアル感やまた重い話に入っていく演出なのでしょうね。
喜怒哀楽を揺さぶって、人の心のより深いところへ語り掛ける。
というか。
コメディアンの方が演技がうまいってのも納得できるんですよ。
喜怒哀楽で笑いが一番難しいんじゃないかな、と思っているので。

で、1話ですが。(笑)
冒頭、2人の自殺のシーンではじまる。これは日常を逸脱して
生活や人間関係のしがらみをいっさい捨てたところで
愛、及び生きることに直面していこうとの流れの始まり。
むかし、BBSで世紀末の詩のテーマは本当に「愛」なのか?
って意見がありましたが、同感なんですよ。
「愛と生」ではなかったかと。
いや、人は愛なくしては生きてゆけない。だから問うのだ。
かもしれません。

すみれが死んでも恋人を待ち続けたように、
生きていくのは愛なんだ。と感じます。
(こう書くとワケわからんな。/笑)
愛のために生きる、だが亘がすみれの為に死を覚悟したのは
愛に傷ついたすみれに必死でなにかをすることで
自らを癒そうとしたことにほかならないだろう。
でも、それは「愛ではない」
その行為は美しくとも。
それに「同情」は最初のレベルで、のち触れに合う時間をかさね、
感情が育つ内に徐々に形を変えてしまうものだと思います。
愛は育むもの。それだけではないが、それは確実に言えることである。

それに亘は優しい男であるが、その行為は、「やさしさ」
だけみて終わらせてはいけない。
そこには求める姿勢があるから。

純粋性の喪失。
すみれが見えないことで、里美はショックを受けた。
「もう自分は純粋ではない」
だが、純粋な心には多く危険性が残っている。
つまり純粋がいい物とは思えない。
概念で言えば基本の形であり特性がない事になるのではないか?
それは「役たたず」だ。(ごーいんか?/笑)
また、危険なものに簡単に染まってしまう可能性がある。

女性の心はより純粋である。それは白いキャンバスや白い服のように。
しかし、少しでも汚れると、ひどく醜く目立つ。
それを拭い取ろうとしていくうちにまた、別のところが汚れていく。
そして、取れなければ隠そうとする。
それを重ねる毎に、どんどん女の心は汚れていく。
簡単なことで、そのうち汚れるものだと思えばたいした汚れじゃなく
終わるのに隠すことで、醜さを増してしまう。
隠された汚れを見た時に、人はさらに汚いと感じてしまうから。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


「第1話「この世の果てで愛を唄う少女」の感想(…長い)
投稿日 1月26日(水)17時53分 投稿者 露乃 削除

家事をしながら、横目で観ていた第1話(笑)ってことで、感想になるかどうか…

今観なおしてみると、状況説明をバックボーンに流しつつ、
これだけのストーリーを作れるというのがすごいなぁと感嘆します。
人物関係が、はっきりと把握できる。
1回ごとの構成が、ここですでに提示されている。
第1話でここまでやってあるからこそ、
このあとのオムニバス形式の無理がない。

亘が、自分だったら「百万回くり返してもたどりつけない」愛を
知っているすみれに殺されてもいいと思った…
(殺される、というのは違うような気がするけれど)
それは、どこか寂しい。

だって、そんな「真実の愛」を知っていてなお、
彼女は寂しかったのだから。
真実の愛は、ただ一人、自分だけが抱いていても、
幸せにはなれないものなのでしょうか?

でも、すみれが、なぜ野亜を連れて行かなかったのか…
私には判るような気がする。

野亜は、すみれの愛をほんものと言ってくれた。
幽霊という…ゲンジツに生きる生身の人間には触れ得ない…
認識し得ない存在が語る「愛」を…

すみれは、愛を唄っていた。
しかしそれは、誰にも聞こえず、届かなかった。
それを野亜は聴き、認めてくれたのだ。

その瞬間、すみれの愛は、実存在になった…
その野亜を連れて行けば、すみれの愛は
再び、認識し得ず、証明し得ないものになる。

すみれは、野亜を遺していくことで、
自分の愛を遺していったのではないだろうか…

…あと、関係ないけど、私がこの回で一番好きなのは、教授の
「先生…人間は、なぜ瞬きをするのか、知っていますか?
時には人の過ちに、目をつぶってやるためです」
というセリフでした(^^;)


1話の感想
投稿日 1月26日(水)15時48分 投稿者 ふみ 削除

基本メンバーの1話の感想、メールで送ってもらってページにUPする予定でしたが、やっぱりBBSに直接投稿してもらうことにしました(^^;
メンバー以外の方も、1話の感想、各メンバーの感想に対する感想・質問など、何でもカキコして下さいー。

で、ふみの感想です。
--------------------
正直なところ、世紀末の詩は2話からハマったので、1話はそんなに好きじゃないんですが(^^;
「寓話」ということでいきなり非現実的な幽霊を出してきたが、それは「死を越えた永遠の愛」というものが存在するのか?という問いかけのためなんだろうと思う。
例え自分が死んでしまっても、愛され続けたい…人はそう願うが、この話では残酷にも相手の男はすみれのことなど忘れてしまっていた。それが現実というものなのかもしれないが…。
そしてまた、愛に否定的な夏夫もすみれを見ることができない。
純粋さを持っていた野亜の、すみれに対する優しさとラストのセリフは心に響きました。
そしてこの厳しい野亜の愛の定義が、世紀末の詩の愛の根底に流れるものかな、と…。


白髪の野亜
投稿日 1月21日(金)01時33分 投稿者 masayoshi 削除

憔悴しきった白髪の野亜が出てきた時、ドキッとして、
これぞ野島ワールドと思いました。
野亜の純粋さが伝わってきて「世紀末」の中でも特に好きなシーンです。


超常の存在
投稿日 1月19日(水)03時34分 投稿者 露乃 削除

下の「幽霊談義」は、私が日々「感じるモノ」から得た知識なので、
普遍でもないですし、体系的な学問でもありません。ごめんね〜
多分、異論・反論はたくさんあるだろうなぁ…
世の中、「ちゃんと」見える人が多そうだし。


幽霊談義
投稿日 1月19日(水)03時33分 投稿者 露乃 削除

ドラマには関係ない部分ですが…(あるかもしれないけど)
「幽霊」だったすみれ。「幽霊」と会話したり「幽霊」を観たり、というのは、
シンクロするか、同じ時系列に存在しないと無理です。
なんとなく、存在は観じる、と言う程度であれば、あり得ますが
(よほど、相手…幽霊の想念が強い場合に限られる)

「幽霊」は、「想念」の強さだけで、存在しています。
だから、ある意味、純粋。
だからこそ、純粋でないと、交流できない…

また、生きているもののための世界に
「幽霊」が「想念」の強さだけで存在するのは、
非常に苦しい。次第に濁っていってしまう。
もし、すみれが野亜を殺していたら、それはもう「悪霊」

ミアを怖がり、苦しむのは、彼女の「生命力」の強さによるもの。
ミアは、かなり純粋だし、余計な縛りがないから、「生きる」強さが違う。

それから…野亜とミアの純粋さは、ちょっと違う。
野亜は、色々生きてきて、色々からみついているのに、魂が純粋。
ミアは、存在そのものが、純粋(1話だけの分析としておいてください(^^;)

なんか、書いてるうちに長くなっちゃったけど、そういうことだと思います。


広末涼子、かわいかった
投稿日 1月17日(月)14時07分 投稿者 ゆき.O 削除

ネタ的にはどうだろう・・・ありがちだと思う人もいるかな?
でも、私はすみれちゃんに同情したし、いっしょにいてあげたいという
野亜がすっごく好きでした。
ミアを恐れるすみれちゃんを見て「ミアってどういう存在なんだろう?」
という不思議さも感じたし・・・。
私は、世紀末の詩の中では1話が一番好きです!
これを見て「よしっ、このドラマは要チェックや!」って思ったもん。
すみれちゃんがいってしまうシーンでは泣いてしまいました(^^;)

それと第一話では、竹野内豊(字、あってる?)の野亜役について、賛否両論でしたね。
わたしは、もともと「たけのうち」って、反町隆ほどかっこいいと思ってなかったので
あまり違和感なかったんですが。
まあ、それは好みの問題かも。

エンディングで流れる、結婚式で花嫁においていかれる野亜の姿も
忘れられません・・・。


「丘の上の少年」
投稿日 1月14日(金)01時08分 投稿者 P00845JP-NEWS 削除

戦火から逃れるようにバクダットから逃げ出した一家がそこに住んでいた。
都市から歩くこと半日、それでも距離にして15キロほどだろうか、夜になれば地対空砲の閃光に、逃げ出したはるか故郷が目の前に感じるほどの錯覚が起こる。
この家族は戦火で5歳の少年を神の御許へ送り出したという。
ボロボロのトタン板と乾燥した流木を器用に組み合わせた「我が家」の軒先で、
父親はポツリとこぼした。
「息子のために小高い丘のあるこの土地は離れない・・・」。

空爆で吹き飛んだ、今は無い「向こう」の丘の面影を残す「この丘」に少年の歓声が今でも聞こえると・・・。


「世紀末の詩」BBS
投稿日 1月8日(土)01時02分 投稿者 ふみ 削除

上に書いてあるように、ここは「世紀末の詩」専用BBSになります。
今月は1話を集中的にやるので、1話の感想や思い出話など書き込みしてもらえると嬉しいです。
1話のあらすじや名セリフ、考察参加者の感想などは下のページを参照して下さい。
また、今月中旬〜下旬に予定している1話の考察チャットの参加者も募集中です(^^)

http://alived.com/lastsong/01.html


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